第5章39【記録なき少女】
「動かないな……」
ラゼルが警戒しながら、少女に近づいた。だが、彼女はまったく反応を示さない。ただ、虚ろな瞳で空を見つめていた。
「クロエ……なのか?」
かおるがそっと問いかける。しかし、少女の目には光も焦点も宿っていない。
「これは……記憶がないんじゃなくて、“書き込まれてない”のかも」
アリシアの呟きに、ラゼルが目を丸くする。
「書き込まれてないって……そんな人間、いるわけが……」
「違う。人間じゃない。これは……“記録から再構築された存在”だ」
かおるの言葉に、沈黙が落ちた。
それはつまり、誰かが“クロエの記録”を元に、何かを作った。
けれど、それは“クロエ本人”ではなく、“クロエに似た何か”。
「ねぇ……この子、助けられるかな……」
アリシアの声は、かすかに震えていた。
その瞬間――少女の口が、わずかに動いた。
「……た……す……け……」
それは、かすれたような、途切れそうな声だった。
しかし、それだけで十分だった。かおるは思わず、少女の手を握った。
「大丈夫だ。必ず、助ける」
その時だった。
少女の背後に、闇が“割れた”。
空間が避け、中から黒いローブをまとった何者かが現れる。
顔は見えない。ただ、その存在から伝わる“違法の気配”が、全員の背筋を凍らせた。
「記録を戻すな。彼女は既に“失格者”だ」
低く、濁った声。
そいつは、かおるの方を向いた。
「次はお前の番だ、転生違法者《田中 かおる》」
警告とも、宣告とも取れるその言葉が響いた瞬間、周囲の空間が一斉に歪み始めた。
「まずい……! 逃げるぞ!」
かおるがアリシアとラゼルを抱きかかえ、少女を連れて跳び出したその瞬間、彼らの立っていた大地が崩れ落ちた。
その夜、記録塔跡地は完全に沈黙した。