09
シュヴィ・ホーウェンは、朗らかでいつも優しい母親と、不器用で神経質でいつも仏頂面な父親が、好きだった。
父は仕事で忙しくあまり家にいる時間はなかったが、休みの日になれば、母が焼く甘いお菓子を黙って手伝っていた。
不器用な手でぎこちなくリンゴの皮をむく父に、「へたくそ」と笑いながら言うと、父は困ったように口を歪めて、それでも黙って皮を剥き続けるのだ。
そして二人のそんなやり取りを見て、隣で微笑む母親。
シュヴィは、その何でもない日常がそこにあるだけで、自然と心が満たされた。
父は優しい言葉をかけるのが苦手で、笑うことも少なかった。
仏頂面で、いつも険しい顔つきをしており、遊んでくれることも数えるほどしかない。
だからこそ、誕生日プレゼントで猫のカップを父から貰ったときは嬉しかった。
ちゃんと自分の生まれた日を覚えていてくれたこと、そして自分が猫が好きであることを知っていたこと――プレゼントなんかよりそのことがずっと嬉しかった。
母のように言葉で愛を伝えることはできなくても、父なりに自分を見てくれていたのだと、あのとき子どもながらに感じていた。
母の体調が崩れ始めたのは、その少し後のことだった。
心配でたまらなかったが、それでも医者である父がいるのだから大丈夫だと思っていた。
――「……大丈夫だ。必ず、治る。俺が、治す」
ドア越しに聞いたその言葉を、幼いシュヴィは信じていた。
何冊もの分厚い専門書を部屋にこもって夜通し読み、隈を作りながらも何かを必死に調べている父の姿を何度も見た。
だから、シュヴィも母親の病が治るためなら、何だって我慢しようと思った。
寂しくても、遊んでもらえなくても、家が静かになっても、平気だと自分に言い聞かせた。
全部、母が元気になるまでのことだと、そう思っていたから。
結局、母は──帰ってこなかった。
それでも、父を責めてはいけないと、頭ではわかっていた。
父がどれほど母の病と向き合っていたか。
夜を徹して本を読み漁り、実験を繰り返し、失敗と挫折を何度も味わい心は疲弊しきっていた。
あれ以上、何をしていればよかったのか。
父がしてきたことは、娘の目にも十分すぎるほどだった。
──なのに、赦せなかった。
幼い心は、ただ現実を受け入れられなかった。
「ぃよ…。遅いよ!!!!!! なんでっ、なんで今日だったの!? なんで今日まで帰ってこなかったの!!」
「お父さん、仕事ばっかりしてた!
お母さん、ずっと寂しそうだった!
わたしも、寂しかったけど我慢してた……してたのに!!」
「――お父さんなんて大ッ嫌い!!!!」
心にもない言葉だった。しかし、あのとき口にした言葉はもう取り消せない。
父の顔が一瞬、ひどく歪んだのを今でも覚えている。
それなのに、未だにあの時のことを謝れないでいる。
本当は寄り添はなければいけなかった。母を亡くして悲しいのは自分だけでないのに、責めてはいけないと分かっていたのに。
時間はそれから、ずっと止まったまま。
父との距離は、あの日の言葉を境に決定的に変わってしまった。
お互いに、何を話せばいいのかわからなくなって、まともに会話することすらなくなった。
目を合わせるたびに、あのときの記憶がちらついて、何も言えなくなって。
温かかったはずの家は、今やただ静かで寒いだけの、ひび割れた空間になっていた。
父がカップを割ったとき、この冷え切ってしまった関係でも、わずかに温かみが残っているのではないかと思った。
でも、その期待は裏切られた。
――「今日新しく新調するつもりだ」
その言葉は耐えられなかった。
大切なカップを割ったことじゃない。割れたその瞬間に、「思い出」が「ただのモノ」に変わってしまったような、その感覚が――許せなかった。
かつてのぬくもりを探そうとしたけど、もうそこには何も感じられず、ただ喪失感と怒りがだけがこみ上げた。
どうして、こんなにも上手くいかないのだろうか。
どうして、こんなにもすれ違ってしまうのだろうか。
せめて、嘗てのような“普通の家族”に、近づきたかった。
心のどこかでまだ、あの猫のカップのようなぬくもりを、期待してしまっている自分がいるのだ。
だから、だから、
※※※
「なんで……なんでそこで帰れるの!?」
娘のその悲痛な叫びは、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。
「『すまなかった』って、それだけ言って終わり? それで自分の気持ちは済んだからもう帰るの!?」
怒っているわけではない、責めているわけではない。その声には――「まだ終わりにしないで」という願いが滲んでいた。
「どうして……どうして……ちゃんと向き合ってくれないの……?」
震える声は、怒鳴るでも泣き叫ぶでもなく、ただただ必死だった。
まるで幼子のように、ただ父親に向かって手を伸ばすような、そんな声だった。
「違う……違うんだシュヴィ……」
ラッセルの声は真剣で、しかしながらどこか痛々しさを抱えていた。
「私はただ怖かったんだ……。お前に恨まれていると思っていた。お前と向き合うのが、ずっと怖かった……」
ラッセルは堰を切ったように、本音を吐露する。
「カップを割ったことだけじゃない。ドンナを救えなかったことも、死に目に間に合わなかったことも、ドンナがいなくなってから、お前とちゃんと向き合えなかったことも……全部、全部――本当は謝りたかった……」
決して向き合うのを諦めたわけじゃ無い。ただ、ラッセルにはその勇気がなかったのだ。
――もしかしたら、シュヴィはとっくに自分の事を見限っているかもしれない。
――もしかしたら、自分と言葉すら交わしたく無いのかもしれない。
――もしかしたら、娘はもう自分を父親とすら思っていないかもしれない。
それが、堪らなく怖かった。
「……謝る資格なんてないと思っていた。謝ったところで、それは自分が楽になりたいだけだと、そう思われることが……怖かった」
それを聞いて、シュヴィはわずかに目を見開いた。
「どんな顔で会えばいいのかも、どんな言葉を選べばいいのかも、分からなかった……。お前は、もう私の事を父として認めていないと、そう思っていた…」
情けなさも、後悔も、全てその声に滲んでいた。
「勝手に……勝手に決めつけないでよ! 私が何を思ってたかなんて、お父さんに分かるわけない! 恨んでるとか、許さないとか、そんな単純なことじゃないのに!」
涙が頬を伝っていた。自分でも抑えきれないほどの感情が、言葉になって溢れ出す。
ラッセルは何も言えなかった。ただ娘の言葉を受け止めることしかできず、唇を結び、俯いたまま動けずにいた。
頬を伝う涙が一筋、床に落ちたとき――ノックの音が響いた。
「……失礼します」
扉の向こうから現れたのはアルトだった。彼は相変わらず柔和な微笑みを浮かべたまま、部屋の空気を壊さぬよう静かに足を踏み入れる。
「お互いに本音を伝えられたところで……少し落ち着きましょう」
その声は温かく、部屋全体を包み込むようだった。
続いて、老執事が一歩遅れて入室した。
「失礼いたします。お話の途中、誠に恐れ入ります……」
彼は室内の空気に干渉しすぎぬよう、軽く一礼してから、足音を殺すようにしてテーブルへと歩み寄る。
「お嬢様、ラッセル様。ささやかではございますが、紅茶をお淹れいたしました。お気持ちを和らげる助けとなれば幸いでございます」
老執事は一礼したのち、手元にある銀のトレイを静かにテーブルへ置いた。
その所作は滑らかで、慣れた手つきには一切の迷いも無駄もない。
左手でカップの位置をそっと整え、右手に持ったポットを傾ける。カップの内側に、澄んだ琥珀色の紅茶が静かに注がれていく。音もほとんど立てず、液面がゆっくりと上昇し、縁の少し手前でぴたりと止まる。
紅茶の香りがふわりと広がると、部屋の空気がわずかに緩む。重苦しかった沈黙の中に、柔らかな温もりが差し込んだ。
一つ目のカップに紅茶を注ぎ終えると、老執事はポットを静かにトレイに戻し、背筋を正した。
老執事は、わずかに間を置いてからシュヴィの前へと歩み寄る。
彼はまっすぐにシュヴィを見やり、しかし決して出しゃばることなく静かに言葉を添えた。
「お嬢様……よろしければ、ラッセル様がご用意されたこちらのカップを、お借りしてもよろしいでしょうか」
その声音には、執事としての立場を超えない慎みと、それでも何かを汲み取ってほしいという静かな祈りが滲んでいた。
シュヴィはラッセルが持ってきた小包を見つめたまま、小さく頷く。
「それでは……失礼いたします」
老執事がその紐を丁寧に解き、包みの中から姿を見せた猫のカップ。
「これッ……」
シュヴィは目を見開いたままカップを見つめる。
指先が、思わず伸びる。
「……復元師に頼んで、直してもらった」
沈黙を破るように、ラッセルが低く、しかしはっきりと呟いた。
「お前に……返したかった。これは……私がお前に贈ったものだから」
「……」
父が買ってくれた、たったひとつのプレゼント。
割れたとき、シュヴィはもう戻らないと思っていた。
カップだけじゃない。あの日々も、あの想いも、全部――全部割れて粉々になってしまって、もう戻らないと。
シュヴィの心の揺れにそっと寄り添うように、老執事は静かに一礼した。
そして、紅茶の入った銀のポットをゆるやかに傾ける。
カップの縁に、湯気がふわりと立ち昇る。
琥珀色の液体が、継がれた縁をなぞるようにして静かに満たされていく。
音はほとんど立たない――ただ、柔らかな香りだけがふわりと空気に溶けていった。
紅茶を注ぎ終えると、老執事はポットを元の位置に戻し、一歩下がって再び静かに頭を下げた。
「……お口に合えば幸いでございます」
老執事の言葉が、湯気とともに静かに空間に溶けていく。
そしてその静けさを壊さぬよう、アルトがゆっくりと歩み寄る。
「シュヴィ、ラッセルさん。――どうぞ、ごゆっくりと」
それだけを穏やかに告げると、彼は老執事に目配せをし、共に静かに部屋の扉へ向かう。
老執事も一礼し、足音を立てぬようその後に続いた。
扉がそっと閉まり、部屋にはラッセルとシュヴィ、そして――二つの湯気と不器用な静寂だけが残されていた。
※※※
互いに紅茶を一口飲み、しばしの静寂が部屋に広がる。
ほっとしたような、そしてどこか切ないようなその静寂を、シュヴィが静かに破った。
「……覚えてたんだ」
その声色には、どこかに不安と期待を混ぜたような響きがあった。
シュヴィの瞳は、ラッセルの目をじっと見つめていた。
「ああ……いや、正確には思い出したんだ」
そう言って、ラッセルは少し沈黙した。
紅茶のカップを両手で包むように持ち上げ、口に運ぶ。そして、ラッセルは苦しげに息を吐いた。
「カップを修復する過程で、復元師が過去を見せてくれた……。本当に情けない話だが、プレゼントとして贈ったことさえ私は忘れていた」
ラッセルは目を伏せ、ほんの少しだけ肩を震わせた。
「だが、復元師が思い出させてくれた。お前がこのカップを喜んでくれたこと……そして、私がその時どんな気持ちでお前に贈ったのかも……」
シュヴィは黙ってその言葉を受け止める。
ラッセルは、まっすぐにシュヴィの顔を見た。
「だから、改めて言わせてくれ……。カップを割ってしまったこと……本当にすまなかった。それから、カップを大切にしてくれてありがとう……」
「……」
ラッセルのその言葉に、シュヴィはしばらく何も言わなかった。
ただ、指先でそっとカップの縁をなぞり、静かに息を吐く。そして――
「……私の方こそ、ごめんなさい」
その言葉は、紅茶の湯気よりもずっと柔らかく、しかし重みを持って静かに空気に溶けていった。
「本当は、もっと早く謝りたかった。お母さんが死んだとき、お父さんを責めたこと……。大嫌いだなんて、心にも無いこと言って……本当にごめんなさい」
ラッセルは一瞬だけ目を閉じ、手元のカップを見つめた。
不器用な父と娘。
長い時間をかけてこじれてしまった関係が、今、ようやく静かにほどけていく。
「あの時のこと……まだ怒ってる?」
シュヴィは不安げな顔でラッセルを見つめた。
「怒ってなどいるものか」
その声は穏やかで、けれど芯のある確かな響きを持っていた。
「お前がドンナのことで私をどれだけ責めようとも、そのことで私が怒ることはない」
シュヴィが目を見開く。
ラッセルは、ゆっくりと言葉を継いだ。
「お前たちの痛みを、私は遠くで見て見ぬふりをしてきた。研究に勤しんで、病気を治すことに必死になって……だが、本当は日に日に細くなっていくドンナを見るのが怖かった……。ドンナの死に目に間に合わず、自分の悲しみに溺れて……父親であるべき時に、父親であれなかった。それが全てだ。だから、お前が私を恨んでいたとしても、私はそれをすべて受け入れる」
しばし沈黙が落ちる。
その静けさの中で、ラッセルは深く息を吐いた。
「ただそれでも……それでも、もしお前が許してくれるなら――私を、お前の父でいさせてほしい」
シュヴィはラッセルの言葉に、しばらく何も言えなかった。
何かを言おうと口を開くものの、言葉にならず、すぐに閉じてしまう。
彼女は紅茶のカップを見つめたまま、指先でふちをなぞる。
まるでそこに答えがあるかのように。
「うまく言えないけど……」
か細い声で、ぽつりと漏れた。
「たぶん、私……お父さんに似たんだと思う。ちゃんと向き合うのが怖くて……謝るのも、素直になるのも下手で……」
言いながら、自嘲気味に小さく笑った。
「でも、それでも今は……もう一度、『お父さん』って、呼びたい」
「――ッ!」
シュヴィは紅茶にもう一度口をつけ、そして小さく微笑んだ。
「許して……くれるのか? こんな愚かな父を……それでも――」
「許すも何も、お母さんのことでお父さんを恨んだことなんてないよ。ただ……あの時私はどうしようもなく幼くて……心にもない言葉がでちゃっただけ。カップの件は……確かに悲しかったし、酷いと思った。でも、お父さんはちゃんと私のことを知ろうとしてくれた。それだけでいいの」
「……」
ラッセルは何か言おうとして、けれど言葉が出てこなかった。
彼はそっと手元のカップを見つめると、それを静かに口へと運ぶ。
紅茶はもう冷めかけていた。けれどその味は、なぜだか心にじんわりと染みわたっていった。
「……ありがとう、シュヴィ」
果たして、何に対しての「ありがとう」なのか、自分でもよく分からない。ただその一言は、ようやく娘の名を穏やかに呼べた――父親としての、最初の一歩だった。
「うんうん、私の方こそありがとう。カップもだけど、それより――繋ぎ直そうとしてくれてありがとう」
たったそれだけの言葉なのに、ラッセルの胸には温かく響いた。
ラッセルは娘の言葉に、静かに頷く。
二人はしばらく言葉を交わさず、ただ同じ時間を共有していた。
カップに入った紅茶は、二つとも完全に冷めている。
しかし、なぜだかそのカップには、確かに温もりを感じた。
それは、壊れてしまったものを繋ぎ直した、ふたりの小さな奇跡だった。