08
「そうだ、エーヴィヒ殿」
ラッセルは復元師の元を去る前に、聞いておきたいことがあった。
「なんだ」
「フレユール大森林の開拓について伺いたい。森の一部を利用し、資源を採ることは……許されるだろうか?」
しばらくの沈黙ののち、エーヴィヒは静かに答えた。
「……大森林の資源を漁ること、それ自体を禁じるつもりはない」
「では、北側諸国への交易ルートとして、丘を通る陸路を敷くのは――」
「却下だ」
その瞬間、エーヴィヒの目がわずかに細まった。
その視線は、どこかを見透かしているようでもあり、同時に釘を刺すようでもあった。
「無論、それはオレの願望であり、我儘だがな……」
ラッセルは知る由もないが、エーヴィヒは変化を嫌う。
とりわけ、自身の身の回りにあるもの――空気の流れ、暮らしの音、目に映る景色、それらが変わっていくことに抵抗があるのだ。
「……もう一つ、いいだろうか」
ラッセルがためらいがちに口を開く。
「なんだ、まだ何かあるのか」
エーヴィヒは軽く眉を上げたが、拒む様子はない。
「『花咲き病』について、何か知っていることはないだろうか」
花咲き病の第一人者である彼は、どうしてもそれが気がかりであった。
どれだけ研究しても、彼に分かったのは“治療法”だけ。なぜ花が咲くのか、誰がその種を植えたのか――そこだけが、最後まで掴めなかった。
目の前の彼女、復元師エーヴィヒならば、記憶の深層に踏み込む術を持つ彼女ならば、何か知っているのではないか。
そう思って、ラッセルは立ち止まった。
「ああ、お前か。あの花狂いの後始末をしているのは」
「花狂い……?」
「そうだ。花咲き病の原因である――和禍花。あれは自然界から生まれたものじゃない。人工的に造られたものだ」
俄かには信じがたいそれは、ラッセルの耳を通り過ぎてから、数秒遅れて心の奥に沈みこんだ。
「人工的に……?。誰がそんなものを……」
ラッセルの声色には、否定も肯定もなく、ただ戸惑いだけがあった。
自身もまた第一人者として、花咲き病について長年研究を重ねてきた。
だがその前提が、自然由来であるという思い込みからか、原因が人だなんてとても信じられない。
「癒しを求めるのは、いつだって人の世の常だ。忘れたい、楽になりたい、痛みから逃れたい……あの花が齎した悲劇は、その願いに応えた結果にすぎない」
ラッセルの目が細められる。
エーヴィヒはわずかに口元をゆるめ、ぽつりと続けた。
「だから、あえて言うなら造ったのは人の願いそのものだ」
癒しのために造られた花、だが――
「結果、人を殺した」
「そう。だから“和禍”と呼ばれるようになった。和すれば、禍を生む。逆もまた然り。皮肉なものだろう?」
「幻覚」と「幻聴」も単なる症状ではなく、『癒し』という治療の一環であると彼女は言う。
癒しのため、癒しのつもりで――誰かがその花を咲かせたのだと。
「和禍花を、根絶することは可能なのか」
どのような経緯で生まれようとも、ラッセルにとって和禍花はただ優しいふりをした刃であり、触れた者は必ず死ぬ猛毒の花でしかない。
「無理だな」
エーヴィヒのその言葉に、ラッセルは言葉を失う。
「魔力を糧に咲くあの花は、魔力さえなければ咲かない。だが、この世から魔力を消し去る術はない。まあ、造った張本人なら知っているかもしれないがな」
ラッセルは、和禍花の花弁が人々を覆い尽くす光景を思い出していた。すべてを飲み込んでなお、あの花は美しく咲き誇る。
誰かの叫びが、誰かの絶望が、誰かの命が。それらが鮮明に思い起こされる。
「聞きたいことはそれだけか」
「ああ……」
その問いに、ラッセルはうなずいた。けれど本当は――まだ、もう一つだけ訊きたいことがあった。
――復元師は、死者さえも蘇らせることができる。
そんな噂を彼は何度か耳にした。信じたくはなかったが、心のどこかでもしもそれが本当ならと願ってしまっている自分がいた。
だが、ラッセルはその言葉を飲み込んだ。仮に「できる」と言われたら、自分が自分でいられなくなる気がしたからだ。それは、人として越えてはならない領域なのだと、自分に言い聞かせた。
それを今の自分が聞けば、恐らくはすがりついてしまう。そして踏み越えてしまう。
だから、彼は聞かなかった。
「今回は世話になった。本当にありがとう。君たちのおかげで、私はやっと前に進むことができる」
そう言ってラッセルは、両手でそっと受け取ったカップを見つめた。
「……前に、ね」
彼が頭を下げたその瞬間、復元師の唇が微かに動いた。小さく掠れたような声だったが、たしかに何かを呟いた気がした。
ラッセルはは聴き取れなかったが、その声にはひどく儚いものが宿っていた様に思う。
顔を上げたが、彼女はすでに背を向けていた。
「じゃあな。精々、頑張れ」
その一言を残して、彼女は二階へと上がって行く。
ラッセルは静かにその背中を見送った。
小屋の扉を開けると、外はすでに深い霧に包まれていた。
足元も数歩先さえ霞んでいる。ラッセルは肩をすくめて、ふと足を止めた。
「さて、どうやって戻るか……」
カップのことで頭がいっぱいで、ここまで同行してくれた騎士たちの存在すら、今の今まで忘れていた。
そんな立ち尽くす彼の横で、ふわりと霧を裂いて、黒い影が音もなく現れた。
「小僧、俺が送ってやるよ」
低く、どこか気だるげな声。ラッセルが振り向くと、そこには黒猫――リースリングがいた。
琥珀色の目が、霧の中でも鋭く光っている。
「エーヴィヒのやつ、相変わらず猫使いが荒いな。お前もそう思わないか」
リースリングは大きくあくびをし、尻尾をゆらりと揺らしながらそう言う。
「ついてこい小僧。立ち止まったら霧に喰われるぞ」
その足取りに迷いはなく、霧の中でも確かに道を知っているようだった。
ほどなく歩くと、霧がゆるやかに晴れはじめた。
足元の土が乾きはじめ、霞んでいた木々の輪郭が徐々にくっきりと浮かび上がってくる。
やがて視界が開けると、上空に騎士たちの赤竜が見えた。
「見つけた……」
ラッセルが振り返ると、リースリングは立ち止まっていた。
「じゃあな、小僧。あとは自分で頑張れ」
それだけ言うと、黒猫は踵を返し、霧の中へと歩き出す。再び霧が濃くなったわけでもないのに、その小さな背中はあっという間に見えなくなった。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
「……ありがとう」
ラッセルは小さく呟いた。
返事はなかったが、風がひとつ吹いて彼の足元の草を揺らした。
※※※
霧が完全に晴れるころ、ラッセルは赤竜に乗る二人の騎士と再会した。
「ラッセル殿!! ご無事で何よりです」
赤竜から飛ぶように降り立ち、フィルマとカールが安堵の表情を浮かべて彼に駆け寄ってくる。
「すまない。私の落ち度だ。安易に霧の中に入るべきでなかった」
普段は凛々しく、そして堂々としているフィルマが――そのときは、珍しく情けないような声で言った。
その視線は前を向いているが、ラッセルの顔を見ようとはしない。
「フィルマ殿のせいではない。行くと決めたのは私だ」
「それでも、騎士として……護衛の任を果たせなかった」
そう呟く声には、悔しさと申し訳なさが滲んでいた。
カールも口を結び、沈黙のまま肩を落としている。
だが、ラッセルはふっと口元を緩めると、ゆっくりと首を横に振った。
「護衛? 今回の遠征……私は救護班として同行しているはずだ」
ラッセルは静かに、けれど確かな口調でそう言った。フィルマが自分に負い目を感じる必要はないと、そう告げるように。
「だから、そう気を落とさないでくれ。それに――」
ラッセルはゆっくりと包みを開き、手の中から小さな陶器のカップを取り出した。
「こうしてカップも無事に復元できた」
今度は落とさないように、零れ落ちない様に――その両手でしっかりと掴んで大切に持つ。
「ありがとう。君たちが居なければ、ここまで辿り着くことはできなかった。――心から、感謝を」
ラッセルは丁寧に、そして深くお辞儀した。
※※※
グレーステでも随一の商家――シャフト家の屋敷。
フレユール大森林より帰還したラッセルは、家に帰らず、直接そこへ訪れていた。
道に面した正門には、控えめながら精緻な装飾が施されており、鉄製の門扉には家紋ではなく、古くから使われている商標が刻まれている。
シャフト家の屋敷は、貴族の豪奢な邸宅とは少し違う。もちろん立派で、多くの下級貴族の邸宅を凌ぐほどの屋敷だが、金で買えるものと、金では手に入らない信用――その両方を積み上げてきた者だけが持つ重みがあった。
「ラッセル・ホーウェン様ですね?」
当たり前のように門兵がおり、普通の家とは明らかに違う。威圧されている訳ではないが、確かに場を引き締める存在感がそこにある。
「あ、ああ…。そうだが」
「貴方が訪ねて来たら通すように、アルト様から聞き及んでおります。どうぞ中へお入り下さい」
門兵の言葉に一礼し、促されるまま屋敷の敷地へと足を踏み入れる。
敷地内に足を踏み入れると、きれいに掃き清められた砂利道の両側に季節の咲いていた。華美ではないが、隅々にまで目利きの家の矜持が行き届いている様に感じる。
屋敷の中、玄関ホールには金銀ではなく、異国の絨毯と代々受け継いで来たであろう交易品――品のある陶磁器や古書が飾られていた。恐らくは、どれも実際に商いに使われた歴史があるものなのだろう。
この屋敷は、貴族の館にあるような「選ばれた者だけの世界」ではない。けれど、誰もが簡単に足を踏み入れられるわけでもない。――選ばれるのではなく、自らが選び、築いてきた者たちの家。その空気が、そこにはあった。
本来であれば、飾られている品々をじっくりと鑑賞したい所であるが、今日はそう軽い気持ちで来られるような用事ではない。
娘が何よりも大切にしていたカップ――それをうっかり自分が割ってしまったことを謝らなければならない。
会ってくれるかは分からない。ただそれでも、どうしても謝りたかった。
カップを修復して持ってきたところで、赦されるとは思っていない。ただ――それでも一言。そう、一言でいいのだ。たった一言だけ残せれば、それでいい。
それがどれほど意味を持つかはわからない。けれど、言わなければならないのだ。
「お待ちしておりました。アルト様より、『貴方様がいらした際には、速やかにお通しするように』とのご指示を賜っております。どうぞ、こちらへ」
待合室で待機していると、すぐに執事服を着た老齢の男がこちらに歩み寄ってきた。
無駄のない所作、そしてその眼差しには長年の勤めを物語る静けさと威厳がある。
執事に案内された先、廊下の端に娘の婚約者であるアルトの姿が見えた。
まっすぐにラッセルへと歩み寄るその姿は、若さの中にも確かな落ち着きを纏っていた。
「……」
彼はただ静かにうなずいた。すべてを理解しているかのように――。
執事が一歩、立ち止まる。
「お嬢様は、奥の間にてお待ちです。」
扉の向こうに娘がいる。その事実だけで、心臓を打つ鼓動がひとつ強くなる。
そして、扉が静かに開かれた――。
ラッセルを見た彼女の目は、一瞬驚いたように見開き、そして直ぐに細められた。
――無言の威圧。「今更何の用だ」と言わんばかりの冷たい瞳。
扉が開かれてからの数秒は、まるで時間そのものが凍りついてしまったかのように思えた。
ラッセルはゆっくりと一歩、また一歩と足を進める。
「……」
いざ対面すると、言葉が中々出て来ず、無言の沈黙が暫く続く。ラッセルが目を合わせようとしても、娘との視線が交わることはない。
「シュヴィ……」
散々、頭の中で一言目を考えて、脳みそが擦り切れそうになるまで考えて――やっと出てきた言葉は、娘の名前だった。
その声は掠れていて、震えていた。
「カップの件だが……」
その一言でシュヴィの眉が微かに動いた。ほんの一瞬のことだったかが、それでも娘の感情の波が揺れたことをラッセルは見逃さなかった。
「本当にすまなかった……」
ラッセルは捧げるようにカップの入った小包を震えた両手で差し出す。
「……」
シュヴィの視線がわずかに小包みに落ちる。しかし、手を伸ばすことはなかった。
「今更謝りに来て、カップ一つで何か変わると思ってるの?」
低く、鋭く、突き放すような冷たい声。
「そうだな……。ただ……それでも言いたかった。大切にしていたものを壊してしまって、本当にすまなかった」
「……そこに置いて帰って」
「――ッ! ああ……分かった……」
ラッセルは小さく息を呑み、ゆっくりと頷いた。カップを机の上にそっと置き、項垂れながら彼女に背を向ける。
その後ろ姿は小さく、そして寂しさが漂っていた。
言いたかったことは言えた。それ以上は望まない。
赦されるだなんて思っていなかった。少しでも溝が埋まってくれればいいと、わずかな期待はあった。
だが、娘がそれを望まないのであれば、それは仕方のない事なのだ。そう、仕方のないこと――
「なんで……なんでそこで帰れるの!?」
扉の取っ手に手を付けた途端、娘の声が背中に突き刺さった。怒鳴るような、泣き叫ぶようなその声に、ラッセルは歩みを止めて娘の方を振り返る。
シュヴィは息を荒げ、拳をぎゅっと握りしめたまま、父親であるラッセルを睨みつけている。
ただ、その瞳は確かに怒りに満ちていたが、それと同時に、どこか縋るような、迷うような揺らぎがあった。――まるで、幼子が「待って」と言っているかのように。