07
――この光景を、私は見ていない。
「シュヴィ、誕生日おめでとう」
ドンナが祝福の言葉と共に、プレゼントを渡す。
包み紙をほどいた瞬間、娘の指先が止まった。
白地に可愛らしいネコが描かれたカップ。少し不細工なそのネコは、かえって温かみを感じさせる。
「……わぁ!!」
「可愛いでしょ。大切に使うのよ?」
「うん!!」
シュヴィは、まるで壊れものに触れるように、両手でそっと持ち上げた。
光が差し込む窓辺で、陶器の表面がやわらかく光る。
「それ、パパが選んだのよ? あの人ったら、何をあげれば喜ぶのか何時間も迷っちゃって。だから、大切に使ってあげてね」
シュヴィはしばらくの間、ただそのカップを見つめていた。
目をぱちぱちと瞬かせ、口元が少しだけにやけている。
「そっか…パパが。じゃあ、もっとだいじにするね!!」
そう言って、娘はカップを胸に抱きしめた。
まるで、命のように。
妻を通して届いたこの猫は、何よりもまっすぐで、まるで「誕生日おめでとう」と父が言ってくれているみたいだった。
――記憶の奔流がまた別の情景を映し出す。
「うーむ…」
商店街の雑貨屋を、一軒、また一軒と渡り歩き、辿り着いた店。
ガラス越しに並んだマグカップの列を、彼は何度も何度も見直す。「たかがカップだろ」と思いながらも、胸の奥で何かがざわつく。
「これで、喜ぶだろうか」
そんな問いが、何度も頭をよぎる。
彼は娘の好きなものを、正確には知らない。ただ、娘の部屋の棚に、小さな猫のぬいぐるみがいくつも置いてあるのは見ていた。
だから、「猫」は間違っていないはず。
「――ふふ。そんなに頭を悩ませなくても、貴方の選んだ物ならシュヴィは喜ぶわよ」
今は亡き妻の声。それは鮮明でありながら、掴めば崩れてしまいそうな儚さを持っていた。まるで、薄氷の上に立っているかの様に。
「いいじゃない、そういうの。あの子、絶対好きよ」
指先から伝わる陶器の温度が、じわじわと心の奥に沈んでいった。
もう何年も思い出していなかった光景が、まぶたの裏に広がっていく。
記憶は洪水のように押し寄せ、彼の身体を通り抜けていく。
「あなたが一生懸命選んだってだけで、あの子は嬉しいの。わかってないんだから」
あきれたような笑い声が弾ける。
目の前のカップが、ただの陶器ではなくなる。
すると、不意に鼻の奥がつんと痛んだ。それは過去の自分が照れたからなのか、それとも今の自分が過去を懐かしんでいるからなのか。
彼はごまかすように咳払いをして、カップを手に取る。
「……これで、いいか」
それが彼なりの精一杯の贈り物だった。
妻の記憶と、娘との未来をつなぐ、小さな架け橋。
――風のような記憶の気配が、再び情景を変える。
何でもないただの朝。
食卓の上、白い湯気がスープから立ちのぼる。
猫のカップに指を通しながら、幸せそうにしている娘と、その隣で小さく笑っている妻。
そして、その向かい。資料を広げ、黙ったまま湯を啜る自分の姿がある。
誰も話していない。けれど、確かに“言葉のいらない会話”があった。
手の届く距離に、誰かがいるというだけで、心はこんなにも満たされるものだったのだ。
誰も、その時が“幸せの中心”だとは思っていない。しかし、間違いなくそれは幸せそのものだった。
本当に何でもない朝。
だが、その“何でもなさ”に、どれだけの気持ちが積み重ねられていたのか、そのときの自分はまだ知らなかった。
――そしてまた、光景が崩れ、記憶が波紋のように広がっていく。
寒気がする――妻がそう呟いたとき、彼には不安の波が押し寄せた。
少し前に流行り始めたあの病――もしかしたら、彼女もそれにかかってしまったのだろうかと。
自分は医師だ。何百という患者を診てきた。流行中のこの不可解な病についても、日々文献を読み、症例を追い、自ら研究を進めている。
だからこそ、見逃さない。
妻の呟き、表情、わずかな体力と体温の低下――そのすべてが、彼の中で警鐘を鳴らしていた。
彼の背中を冷たい汗が伝う。患者たちの中にも、妻と同じような症状を口にした者がいたのを思い出す。
「検査を受けた方がいい。念のためだ」
そう言うと、妻はゆっくりと首を横に振った。
「意味ないわ。わたし、もう知ってるの。これが“始まり”だって」
「――ッ!! いや、検査を受けるまでは分からない」
自分で言っておきながら、頭の中では“あの病”が勝手に思い浮かんでしまう。
「……大丈夫だ。必ず治る。俺が……治す」
遂げられなかった約束。
虚脱感だけが彼を襲う。彼は言葉を失い、ただ記憶の中の妻の瞳を見つめ続けた。
――カップに宿る記憶と想いが、濁流のように流れ込む。
部屋の外、廊下の角。
娘は、毛布を抱えたまま寝室を抜け出し、こっそり足を運んでいた。水が飲みたくて、ただそれだけのことだった。
リビングから漏れてくる自分の低い声は、かろうじて聞き取れるほどで、どこか怒っているようにも聞こえた。でも、それは怒りじゃないと、娘は知っている。
「……大丈夫だ。必ず治る。俺が……治す」
聞こえてきた両親の声に、自然と足が止まってしまう。
――もしかして、お母さんどこか悪いのかな?
漠然とした不安がシュヴィを襲う。
父の言葉は力強かったけれど、それはまるで自分に言い聞かせるようでもあった。リビングの扉の隙間から漏れる光が、薄暗い廊下をやわらかく照らしている。その光の中で、シュヴィは立ち尽くしたまま、毛布をぎゅっと抱きしめた。
――「治す」って、何を……?
胸の奥がちくりと痛む。でも、怖くてこれ以上近づくことができなかった。ほんの少しでも音を立てたら、何かが壊れてしまうような気がして。
冷たい廊下の床が、裸足にじんわりと冷たさを伝えてくる。
シュヴィはそっと踵を返し、寝室に戻る。
――「……大丈夫だ。必ず、治る。俺が、治す」
父のその言葉は、不思議なほどまっすぐに、胸の奥に入ってきた。
“必ず”という言葉が、大きく響いて耳の中に残った。
娘は、そっとその場にしゃがみこんだ。
手に持った毛布をぎゅっと握りしめながら、心の中で何度も繰り返す。
「必ず治すって、お父さんが言った。じゃあ、きっと本当に大丈夫なんだ」
しかし同時に、どうしても不安が消えなかった。
もしお父さんが、それでも困った顔をしたら?
もしお母さんが、どんどん弱っていったら?
小さな胸の中で、言葉にできない感情が渦を巻く。
だから、娘はそのとき心の中で“約束”をした。
「私も……絶対に守る。お母さんが元気になるまで、泣かない。わがまま言わない。ちゃんと、大人みたいに頑張る」
それは、誰にも聞こえない子どもだけの誓いだった。
でもその誓いは、カップの中に残る紅茶のように、確かに温かくて消えなかった。
目を閉じたとき、思い浮かべたのはお母さんの笑顔と、猫のカップに浮かぶミルクの輪だった。
――過去が再現される。まるで水脈が開き、堰を切ったように。
風が冷たい。だが、足取りは軽い。
紙袋を抱えて男は走っていた。
病院の階段を降りるとき、転びかけた足元にさえ笑いかけるほどだった。
「……やった、やっと……」
やっと希望が見えたのだ。
ラッセルは何度も袋の中をのぞき込む。治験段階ではあるが、病気の進行を止める可能性がある治療薬を。
妻にはもう時間がなかった。
2日前に会ったとき、既に花咲き病特有のあまい匂いが出始めており、体の方も衰弱しきっていた。
「間に合う。きっと間に合う」
玄関のドアを開けたとき、空気の質が違った。
あまりにも静かすぎた。
「ドンナ、シュヴィ!! 聞いてくれ! 治療薬になりそうなものが見つかった!! まだまだ改良しなければならないが、希望は見えた!!」
声が部屋に吸い込まれていくが返事はない。
脱ぎかけのスリッパが片方だけ転がっていた。
リビングの猫のカップには、ぬるくなった紅茶が残っていた。
自分の不器用な笑顔が、少しずつ歪んでいく。
嫌な予感、焦燥感が彼の鼓動を早まらせる。
胸の奥が、痛いほどざわついていた。
――薄暗い寝室。
ベッドの上には、まるで眠っているかのような静かな妻の横顔。
「……」
紙袋が手から落ち、中身が床に転がる。
「ち、違う。今……今、持ってきたんだ。間に合ったんだ……!」
ラッセルの声が震える。
手は妻の肩に触れ、何度も何度も揺する。
けれど、温度は戻らない。
丸くなった背中。ぬいぐるみを抱いた小さな体。
声も出さず、娘はただじっとベッドの方を見つめていた。
しばらくして、静かに娘が言った。
「……お母さん、もう起きないよ」
その声は震えていた。けれど、目に涙はなかった。
ラッセルは何も言えず、ただ娘のそばに膝をついた。
何か言葉を探そうと口を開いた瞬間――
「ぃよ…。遅いよ!!!!!! なんでっ、なんで今日だったの!? なんで今日まで帰ってこなかったの!!」
小さな拳が、父の胸を叩いた。
何度も、何度も。
「お父さん、仕事ばっかりしてた!
お母さん、ずっと寂しそうだった!
わたしも、寂しかったけど我慢してた……してたのに!!」
その言葉は刃のように彼の胸を裂いた。
娘は、父の胸の前でとうとう泣き出した。
顔をぐしゃぐしゃにして、声を上げて泣いた。
「――お父さんなんて大ッ嫌い!!!!」
怒りと寂しさと悲しみと、どうしていいか分からない気持ちが、全部まざってぐちゃぐちゃになって、
気づけば出ていた言葉だった。
――でも、まだ幼い彼女には、その“気持ちの整理”なんてできなかった。できて、いなかったのだ。
断片的で、無秩序で、それでも確かに“そこにあった”時間たち。
笑い声、泣き声、そして――沈黙。
ラッセルの頭の奥へ、それらが怒涛のように押し寄せてくる。
まるで長い夢を見ていたかのような、記憶の奔流。
その最後の記憶がラッセルの頭に流れ込む。
――ぱりんっ。
静寂を破る乾いた音。床に落ちる音が小さく鈍く、そしてやけに静かだった。破片は思いのほか細かく、ネコの顔は真っ二つに割れていた。
うっかり滑らせてしまったのだ。決してわざとではない。
彼はしばらく動けなかった。拾い上げることもできず、ただ床にしゃがみ込んで、その場に座り込んでいた。それが——娘の大切なカップだと知らずに。
――「お父さんなんて大ッ嫌い!!!!」
娘の叫びが、怒りが、悲しみが、今なら分かる。
あの猫のカップは自分が娘に贈ったもので――それを忘れて、ずっと大事にしてくれていたことすら知らないで……。
「本当に……本当に馬鹿だな、私は……」
モノは覚えている。
壊れた瞬間だけでなく、それまでに積み重ねられた小さな想い――そして壊した者の“後悔”までも。
その“他人の痛み”が、体温のように残った。
※※※
気づけば頬をひとすじ、涙が伝っていた。
「本当に……本当に馬鹿だな、私は……」
指先に感じるかすかな温もり。
カップは既に元の形を取り戻していた。
でも、それはただの陶器じゃない。
彼にはそれがどんなものなのか、わかった。
娘が毎日手のひらで大切に包んでいた理由。母と父と過ごした最後の時間を繋ぎとめる、たったひとつの欠片。
それが、この猫のカップだった。
何気なく割ってしまった自分の手を思い出し、喉の奥がひどく苦しくなる。
無知だったわけじゃない。
ただ、見ようとしなかっただけだ。
聞こうとしなかった。
向き合う勇気がなかった。
他の誰でもない、自分自身がすべてを遠ざけていた。
「どうだ――自分と、そして娘の記憶を追体験した気分は」
空気が静まっていた。
さっきまで胸を締めつけていた記憶の奔流は、まるで引き潮のように遠ざかっている。
けれど、残された感覚はあまりにも鮮烈で、彼はしばらくただ黙ってカップを見つめていた。
手の中にあるそれは、確かに「元に戻った」ものだった。
目元にはまだ涙の痕が残っている。
でもその表情には、これまでにはなかった確かな何かが宿っていた。
「ああ……。つくづく、私は大馬鹿者だ」
ひび割れてしまったものは、もう元には戻らないと諦めかけていた。でも――、
「父親失格だな……私は……」
全部が壊れてしまったわけじゃないのかもしれない。
陶器の中には、冷え切った記憶以外にも、わずかな温もりが残っていた。
思い出すのは小さな手でそれを掲げ、笑っていた娘の顔と、その横で微笑む妻。
初めて紅茶を淹れた日。口をつけて「ちょっと苦い」と顔をしかめた声。
あの日々は戻らない。
それでも、この器のように、もう一度形を整えることはできるのかもしれない。
「――ふっ。オレが修復したのはカップだけだ」
「ああ、わかっている」
ラッセルはそっと猫のカップを撫でる。
「ありがとう……本当にありがとう」
※※※
ラッセルはカップを静かに箱に収め、しばらく手を置いたまま動かなかった。
エーヴィヒはそのまま、何も言わずに彼を見続ける。
やがて、ラッセルが口を開いた。
「それで……代償は……?」
復元師は軽く息をつき、ゆっくりと視線を上げた。
その視線は、まるで見透かすようにラッセルを捉えたが、深くは語らない。
彼女の目の前に座る猫は、黒い毛並みをゆっくりと舐めながら、微動だにしない。
「代償はお前の記憶だ」
エーヴィヒが静かに言った。その声はどことなく、遠くを見つめるような陰りがあった。
ラッセルは思わず眉をひそめる。
「記憶……?」
「そうだ。お前が歩んできた人生――その全てを、そこのリースリングに喰わせる」
エーヴィヒのその言葉に、黒猫の目が妖しく光る。
ラッセルはその目を見て、心の奥で何かが冷たく絡みつくような感覚を覚えた。
「お前が命を落とすその寸前、お前は記憶を失い、すべてを忘れる」
ラッセルは言葉を飲み込む。
記憶を失う……それが、どれほど重いものであるかは、今更説明する必要はない。
ただ、その記憶が失われるということは――彼にとって何よりも恐ろしいことだった。
「お前がどの様な人生をこれから歩もうとも、そのすべてを忘れる。幸せな記憶も、苦い記憶も……」
「……」
「誰に看取られようと、お前は誰も思い出せず、走馬灯すらも見ることはできない」
静寂が部屋を包む。
ラッセルは再度、目の前にいる黒猫を見た。
金色の瞳に、確かに自分の中の何かが吸い込まれていくのを感じた。
――忘れる。人生のすべてを。
それは死よりも恐ろしいことで、とても虚しいことだ。
記憶とは人そのもので、魂といっても差し支えない。記憶が人を作るのなら、それを失ったとき、果たして自分が生きてきた意味とは何になるのか。
「代償は記憶か……」
「払えないのであれば、カップは再び割れた状態に戻る」
「払う。私の記憶ひとつで償いの機会ができるならば……それでいい」
人生の最期、愛した妻と娘を忘れてしまうのは悲しいことだが、それでいいのだ。
「…そうか。おい、リースリング。契約しろ」
「はいはい。おい小僧」
黒猫――リースリングはラッセルの方に向き直ると、その金の瞳を一層妖しく光らせる。
「汝が欲するは復元、我が求むるは記憶。物の形は戻れど、心の欠片は戻らず。それでもなお、契りを交わすか」
「ああ、頼む」
「然らば、汝の血をもって記憶を刻め」
ラッセルが静かに手を差し出すと、リースリングは鋭い牙をその指先に立てた。
滲んだ血を一滴、また一滴と美味しそうに舐め取る。
「汝の血、受け取った。今より記憶ひとつ、代価として貰い受ける。この契約は不可逆。忘れようとも戻らぬことを、汝の血に刻め」
「ああ……。ありがとう」
彼はお礼を言う。静かに、しかし確かな声で。
「……終わったな」
「ああ。やっぱりこいつは上客だったぜ」
契りが交わされ、リースリングは満足げに顔を洗う。
その舌が、まるで儀式の最後の封印を整えるかのように、念入りに毛並みを整えていた。
「エーヴィヒ殿。娘は私を許してくれると思うか」
その問いは、愚問だ。
許されることを望むのは己のため。
許すか否かを決めるのは他者の心。
エーヴィヒはその問いに、ただ静かに答えた。
「さあな。オレが視れるのは過去だけだ。未来のことは知らん」
乾いた声。ただ、そこには真実だけがあった。
許しを求めることがどれほど勝手なことか――ラッセルはそれを分かっている。
けれど、それでも、と彼は思う。
自分が壊したものをもう一度、両手で支えてみたいのだ。
「だが、過去の過ちは、必ずしも未来に影を落とす訳じゃない。それはもう、理解しているはずだ」
無論、彼がもっと早く過ちに気付いていれば、こんな事にはならなかっただろう。
迷いは、まだある。
けれど足元には、一歩進めるだけの影が落ちていた。
「ーーふっ。そうだな」
ラッセルは微かに笑った。
それは嘲笑でも自嘲でもない。
失ったものと、まだ残っているものの両方に、そっと触れた者の笑みだった。