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復元師エーヴィヒは明日を語らない  作者: 音郷
ひび割れたカップ
6/12

06

 


 夜が明け、雲の向こうで朝日が静かに昇る。

 空は鈍色に沈み、地上に光が差すことはない。それでも、確かに新しい一日が始まろうとしていた。

 多くの者にとっては何でも無い1日が始まろうとしている中、ラッセルにとっては重要な分岐点になるこの日──彼は欠伸ひとつせず起き上がる。


「準備はいいか?」

「ああ、頼む」


 今日の天気は生憎の曇りであるが、赤竜(フラン)はそれでも彼等を目的の地へ運ぶために飛翔の準備を整える。

 重々しい翼を広げるたびに、湿った空気が一気に払われ、周囲の空気が一瞬だけ引き締まるようだった。

 この甲斐甲斐しい赤竜にも礼をしたいと考えるラッセルだが、どう感謝を伝えれば良いのか頭を悩ませる。


「すまないな。今日もよろしく頼む」


 ラッセルは赤竜(フランの)冷たく硬い頬を優しく撫でながらお礼を口にする。

 人の言葉が伝わっているのか分からないが、それでも感謝を伝えないよりはずっとましだ。


「グルル…」


 赤竜(フラン)が低く喉を鳴らすが、それがどの様な意味を持つのか分からない。

 怒っているわけではなさそうだが、かといって明るく鳴いたわけでもない。曖昧なその赤竜の声に、ラッセルは少しだけ眉をひそめる。


「ラッセル殿の気持ちはちゃんと伝わってますよ。赤竜が喉を鳴らすのは、友好の証ですから」

「そうなのか…」


 竜医であるカールがそう言うのであれば、そうなのだろう。

 心を通わせられたとまでは言えないが、それでも感謝が伝わったのであればそれでいいと、ラッセルは思った。

 その巨体の奥に宿る確かな温もり。伝わらない言葉も、届かない想いも、きっとない。

 ならば娘にだってきっと──彼は、静かにそう信じた。


 雲の彼方にある朝日が、地上にその姿を見せることはない。

 けれど、それでも太陽は昇るのだ。

 どこかで、誰かの今日を照らすために。

 そして今、ラッセルの中でも、確かに何かが昇ろうとしていた。


 フレユールを飛び立ち、長らく飛行を続けると、視界に目的の地である丘が入り込む。

 大森林を隔てる様にして(そび)え立つその丘は、『境界の丘』と呼ばれるだけあって、小さな山脈のようにも見える。


「あそこが復元師の住処か…」


 ラッセルは丘と呼ばれるくらいなのだからもう少し控えめで、小ぢんまりした物だと思っていた。しかし、想像した以上に『境界の丘』は大きく、まるで大地そのものが目覚めたかのように重厚で無言の威厳を放っていた。


「……それにしても、濃い霧だな」


 丘の上空まで高度を上げ、真上から丘を見下ろすと、空間を包み込むようにして霧が立ち込めている。

『境界の丘』を包み込む濃い霧は、来訪者を拒んでいるのか、丘の全域にとめどなく広がっていた。

 冷たい空気が肌を撫でる中、丘の上に降り立つと、視界は一瞬にして白く閉ざされた。その霧はただの水蒸気ではなく、まるで何かの存在のように感じられる。近づいても遠ざかっても、視界は広がらず、すべてがぼやけていく。


「この霧……ただの気象現象ではないな。ラッセル殿、絶対に私から離れないでくれ」

「―――」

「ラッセル殿?」


 ラッセルからの返答が無いのを不審に思い、フィルマは再度彼の名を呼ぶが、やはり返事は帰ってこない。


「ラッセル殿!! ――ッ!? カール、赤竜に乗って上空まで退くぞ!!」

「了解です!!」


 即座に赤竜(フラン)が翼を広げ、二人を乗せて霧の帳を突き抜けるように舞い上がった。


「くそッ! 直ぐに気付くべきであった。この霧…間違いなく自然発生したものではない」


 雲の上に抜け出た瞬間、辺り一帯の風景が不気味なまでに静まり返っていることに、フィルマはさらに確信を深める。


「カール、信号弾を放て」

「――ハッ!」


 フィルマの命令に従い、カールは赤い閃光が迸る魔法弾を上空へと放つ。

 空で弾けた魔法弾は、遠征に臨んでいる他の二部隊にも緊急の報せとして届き、直ちに合流することだろう。


「この霧……恐らくは魔法で構築されたものだな」

「隊長の魔法でどうにか出来ますか?」

「これだけの規模の霧を吹き飛ばすとなると、中に取り残されたラッセル殿は無事では居られないだろうな」

「ですが、この濃霧の中で捜索するのは――」

「分かっている! だが……現状そうする他ない」


 フィルマは歯を噛み締めるようにして言った。

 仲間が合流するまで待ち続けるしかなく、押し寄せてくる焦燥感の波を何とか抑えるのでやっとであった。



 ※※※



 足を踏みしめると、ひんやりとした感触が伝わる。霧の中を歩く度に、周囲の音は少しずつ消えていき、ただ自分の呼吸の音だけが響くようになった。

 フィルマの声が霧の中で響いた――様な気がする。ラッセルの耳に届くまで、ほんの一瞬の遅れがあり、彼が声のする方を振り向いた時には既にすべてが霧に包まれていた。

 フィルマと逸れてしまったラッセルは、元来た道を戻ろうとしたが、この濃い霧のせいで前後左右、自分が今どこに居るのかさえ分からなかった。


「フィルマ殿、カール殿!! 私はここだ!! ――ゴホッ」


 普段出さない大声を咽せ返りながら叫ぶが、返答はない。


「どうしたものか…」


 繰り返し二人の名前を叫んでみたが、やはり返事はない。

 ラッセルは仕方なく真っすぐに直進してみることにした。

 遠くの景色は一切見えず、まるで夢の中にいるような感覚に囚われる。目を凝らしても何もはっきりとは見えない。それでも、足を踏み出せば、その先に何かが待っている気がして、次第に霧の中に引き寄せられていく。

 一歩、また一歩と足を踏み入れる。

 そうして暫く霧の中を彷徨っていると、ラッセルの視界に小屋のような物が映り込んだ。


「あれは…」


 遠くに見えるその小屋は、霧の中でぼんやりと蜃気楼のように浮かび上がっている。夢の中の風景のように、不確かな輪郭を持ち、現実と幻想の境界線があいまいに感じられる。否――これは現実だ。現実でなければならない。現実であって欲しいのだ。


「あそこに――」


 そう、あの小さな小屋に復元師エーヴィヒが居るはずなのだ。

 小屋の近くまでやって来ると、不思議とその小屋の周りだけ霧が晴れた。

 丘の上にひっそりと佇む小屋は、周りの自然と同化するかのようにぽつんと静かに建っている。風が吹くたびに木の扉が軋み、屋根の上に積もった雪が少しずつ滑り落ちる。小屋の外壁は所々剥がれ、建てられた当初の面影はほとんど感じられないが、それでもどこか温もりを感じさせる。

 外の世界から切り離されたその場所は、時が止まったような不思議な静けさに包まれていた。


「ここが…ここに復元師が…」


 小屋の周りには紅い花々が植えられており、どこか激しく、そして美しい。

 その花が咲いた場所は、静けさの中にひときわ異彩を放っていた。鮮やかな紅色の花は、まるで世界の中でただひとつだけ存在しているかのように強烈な美しさを持っている。

 風にも負けず、花は揺れることなく、静かにその存在感を放ち続ける。


「永華の花…。確か冬には咲かないはずだが」


 季節離れしたその花を奇妙に思いつつも、ラッセルは小屋の入り口まで足を運ばせた。

 扉を三回叩き、「誰かいるのか」と問いかける。


「……」


 ラッセルの問いかけには誰も答えず、ただ風の音だけが彼の鼓膜を揺らした。


「失礼する――」


 勝手に入るのは申し訳ないと思いながら、彼は鍵のかかっていない扉を開けた。

 中に足を踏み入れると、薄暗い空間に木の香りが漂い、長年誰かが住んでいた痕跡が確かに残っている。

 床の上には無造作に置かれた絨毯があり、その上に古びたソファが一つ、ぽつんと置かれている。年月を重ねて色が少し褪せ、ところどころに擦り傷が見られるが、それが逆にこの場所で歩んできた歴史を感じさせる。


 一階の隅には、古い暖炉がしっかりと設置されており、その上には数本の乾燥した木の枝が積まれている。ほんのりと残る木の香りが、どこか落ち着いた気持ちにさせてくれた。

 暖炉の横には小さな本棚があり、所狭しと並べられた本たちが窮屈そうにしている。


「誰もいない…」


 やはり復元師など居らず、ただの作り話だったのだと、そう落胆しかけたその時――、


「お前が新しい客か?」

「――ッ!?」


 二階へと続く階段から声がした。

 階段の方へと顔を向けるが、そこに居たのは金色の瞳を怪しく光らせた一匹の黒猫。


「……」


 猫が喋るわけがない。それは誰しもがそう思うことだろう。ラッセルも例に漏れず、その誰しもの内の1人であり、目の前の黒猫が人語を操るなどあり得ないと考える。だがしかし、


「少し待ってろ。今エーヴィヒを起こして来てやる」


 間違いなく声の発生源は黒猫からであり、これが夢なのか現実なのか、それすらもラッセルには分からない。だが、事実として目の前で確かに喋る猫がいる。明確に、人の言葉で話す猫が。


「喋る猫…」


 ただただ、目の前で起きたその謎な現象に、ラッセルは戸惑うしかない。


「おい、早く降りてこいよ。久しぶりの上客みたいだぜ?」

「黙れ、リースリング。オレは寝起きで気分が悪いんだ。お前の声は鬱陶しい」


 二階から機敏な動きで素早く下りてきた喋る黒猫に対し、エーヴィヒと呼ばれた少女は気怠そうに階段を下る。足元はどこか頼りなく、夢の中にいるかのように、ふらふらとした歩き方をしていた。

 やっとのことで降り立ってきた少女は、本当に何百年も生きている魔女なのか、どうも疑わしい。


 深海のように濃い藍色をした少女の髪は、背中の辺りまで伸びており、まるで夜の帳がゆっくりと広がるように長く、そしてしなやかに揺れる。

 歩くたびにその藍色の髪は波のように流れ、彼女の動きに合わせて軽やかに舞うようだった。

 日差しが髪を照らすと、藍色の中に隠れたわずかな青や紫の反射が見る者の目を引きつける。その髪は、彼女の一部であるかのように自然に肩を流れ、背中に広がっていった。

 彼女がふと立ち止まると、その髪もぴたりと静まり返り、静寂の中でひときわ深い美しさを放つ。


「――ふっ。確かに上客だ」


 寝起きだからか少し低い声と、長い白いワンピースのような寝巻きを身に纏い、柔らかなリネンの生地が彼女の白い肌を優しく包んでいる。

 彼女の瞳は、無限に広がる夜空のように深く、青く澄んでいた。視線を交わすたびに、その青さに引き込まれそうになる。瞳の中には、何千年もの歴史が眠っているかのようで、見る者は思わずその奥底を覗き込みたくなる。


「君が復元師……なのか?」

「そうだ」


 見るからに幼く、子供にしか見えない背丈だが、どうやら彼女が探し求めていた人物であるらしい。

 こんな辺境の地に住んでいる上に――喋る猫。そして目の前の少女が、自分こそが復元師であると認めている以上、ラッセルは信じる他ない。


「飲み物を持ってくる。そこのソファーにでも座っていてくれ」

「あ、ああ……」

「エーヴィヒ、俺にはあったかいミルクを頼む!」

「自分で用意しろ」

「ああ!?」


 言葉では辛辣に黒猫を扱うエーヴィヒだが、しっかりと温かいミルクを用意してやり、その頭を優しく撫でる。

 彼女は静かに膝を抱えると、目の前にいる猫の毛を撫で始めた。その手のひらは優しく、大切なものを扱うかのように、ゆっくりと猫の背を撫でていく。

 ラッセルには、猫の顔を見つめる彼女の瞳には、どこか遠くを見つめるような切なさが浮かんでいる気がした。彼女の瞳の中には、無言の約束のようなものが感じられ、まるで言葉では表せない感情が溢れ出すようだった。

 撫でる手が次第に止まると、彼女は深く息をついて、ソファーへと座り込んだ。


「夢幻草に、六種類の薬草と香草を煎じて淹れたお茶だ。心身が和らぐだろう」

「……ありがとう」


 黒猫に用意したミルクもそうだが、このお茶も、彼女はただカップを棚から下ろしただけのように見えた。何かを注いでいるような素振りも音もなく、一体どうやってこれらを用意したのか、ラッセルには皆目見当もつかない。


「どうした、飲まないのか?」

「いや…頂こう」


 魔女とも呼ばれる彼女が淹れたお茶。果たして飲んでしまっても大丈夫なのかとても不安である。

 しかし、出された物を頂かないのも失礼と思い、ラッセルはそのお茶を勇気を出して一口喉に通した。


「美味しい――」


 芳醇な茶葉の香りが鼻に広がり、夢幻草の薬効が不安定な精神を落ち着かせる。程よく温かいお茶は緊張を解きほぐし、疲弊した心身に良く沁み渡った。


「そうだろう。さて――改めて、オレが復元師エーヴィヒだ。それで、オレに何を復元して欲しい」

「ラッセル・ホーウェンという。直して欲しいのはこのカップだ」


 ラッセルは鞄から個装されたカップの破片を大切そうに取り出す。


「こりゃまた派手に破壊したな」

「……」


 ミルクを飲み終えたのか、黒猫――リースリングが机の上に飛び乗り、しぺしぺと顔を洗いながらラッセルの傷口を軽く抉る。


「わざと壊したわけではないんだ…」

「そんなのはお前の顔を見ればわかる。まあ、これくらいなら容易く復元できるから安心しろ」

「本当か!」


 復元が可能であると知ったラッセルは、心の底から安堵する。しかし、


「ああ、ただ…。オレには、お前はカップを壊したことよりも、別の場所に罪の意識を持っているように見えるが」

「――ッ!。……その通りだ」


 彼女のその言葉に、背筋がひやりとした。

 そう、壊したのはカップだけじゃない。

 カップはただの引き金にすぎない。割れたのは、もっと深いところにあるものだった。


「愚かにも、私は娘のことを何一つ知らない。いや、知ろうともしてこなかった」


 割れたのは陶器のカップじゃなく、娘の中にあった「信じる」という、見えないガラスだったのかもしれない。たかがカップ、それでもシュヴィはそれを“世界のすべて”みたいに大切にしていた。


「私は、それを不注意で壊してしまった……」


 拾い集めた破片より、自分の心の中に残ったざらつきのほうが、ずっと痛かった。


「――ふっ。あまり自分を卑下するな。真に愚かなら、この地に辿り着けはしない」

「……」

「お前、娘のことを何一つ知らないと言ったな」

「…ああ」

「なら、今知れ」


 エーヴィヒは徐にラッセルの額を鷲掴みする。


「何を――」


 そして彼女の指先に割れたカップの破片が触れた瞬間、静かな波紋が彼の頭の中に広がった。

 水面に映るように、断片的な情景が揺らめき、色と音と匂いが混じり合う。


 誰かがこのカップを手に取った重み。

 言葉にされなかった想い。

 滴る涙、交わされなかった言葉の数々。


 それらが、まるで自分自身の記憶のように、静かに心の奥へ染み込んでいく。

 けれど確かに、自分のものではない記憶――。


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