03
互いにコーヒーを飲み干し、二度目の注文をしたところで2人は再び話し始める。
「ところで、移動手段とはどんなものを想定しているのだろうか」
「僕の知り合いに、飛竜隊に所属している人がいます」
「まさかとは思うが…」
「はい、そのまさかです」
アルトが言う移動手段とは、飛竜に乗ってフレユール大森林を渡るというものだった。
確かに飛竜での移動が可能であれば、広大な森でも難なく横断することができるだろう。
「だが、公務以外で飛竜を飛ばすのは規律違反ではなかったか」
飛竜と言えば赤竜を用いることが一般的だ。元々この種は気性が荒く、野生で人に懐く個体など滅多に存在しない。しかし、幼体の頃から育てたものであれば比較的穏和な性格になり、人の言うことも多少は聞いてくれる。
ただ、前述した通り赤竜は気性が荒い。いつ本能的に暴れ出すかもわからない。そのため、公務や特別な許可を得た場合を除き、私用目的で飛竜に乗ることも育てることも固く禁じられている。もし違反すれば厳重に罰せられ、場合によっては死罪も免れない。
「ええ。ですから私用目的で無くせばいいんです」
あくまで公務の一環に私用の目的を挟む。
アルトの考えは理に適ってはいるが、危ない橋であることに違いはない。
「飛竜隊に所属するフィルマという人物に、僕が直接依頼を出します」
アルトはフレユール大森林の資源活用を目的に、森の調査と観測を依頼し、それを利用しようと言うのだ。
あの広大な森にはまだ眠っている資源が多く、それらを活用できればこの都市は更に発展する。しかしながら、森に住む魔獣のせいで安全が担保されず、誰もそこに手が行き届かない。だからこそ、ここで森を徹底的に調査することで資源の採掘、そしてあわよくば北側諸国への交易ルートとして、安全な陸路を敷けるかもしれない。
アルトにはそんな狙いもあった。
「騎士団としても魔物の生態調査もしたいでしょうし、互いに大義名分がある以上、これは立派な公務となり得ます」
「それは…確かにそうだな。だが、私がそこに付いていくのはおかしくないだろうか」
「いえ、ラッセルさんには救護班という名目で同行してもらえば問題ないでしょう」
「救護班か…」
まさかここで医師という肩書きが生きるとはラッセルも思わなかった。
「確かに、それなら不自然ではないか」
「はい。それに飛竜隊ならば移動手段だけじゃなく、魔獣対策としても申し分ありません」
移動手段に魔獣の対策、両方とも解決できるこの案に乗らない手はない。ラッセルだけではこの策に行き着いたとしても、人望が絶望的に欠けているため実行に移すことは出来なかっただろう。
しかし、
「流石はシャフト家の人間だな。抜け目がない」
目の前で優しい顔をしているアルトだが、その強かさは狡猾な商人のそれだ。
もし初対面での出会いが商人としての彼であったなら、ラッセルはこの優しい娘の婚約者に探偵を尾けて調査させたに違いない。
「ありがとうございます。僕にとってそれは最上の褒め言葉です」
「アルト君…」
ラッセルはゆっくりと姿勢を正すと、右手を前に出した。
「ありがとう。未熟な父親だが、これからもどうかよろしく頼む」
義父とはいえ、これからは家族としての繋がりができる。ラッセルはその縁を大切にしたいと思った。
「はい、こちらこそお願いします」
アルトの言葉が、まっすぐにラッセルの胸に響く。誠実なその目を見つめ、ラッセルは心の中でしっかりと応える。
2人は固い握手を交わすと店を後にした。いつのまにか霙は止んだのか、雲の隙間から陽が差し込んでいる。気まぐれに変わりゆくその天気が、自身の心境と酷似しており、ラッセルはその様が可笑しかったのかクスリと笑った。
「時間を取らせてしまったな。仕事の方は大丈夫だろうか」
「ええ、大丈夫です。相手を待たせるのも仕事の内ですから」
駆け引きはもう始まっているのだと言わんばかりに、挑戦的な笑みをアルトは浮かべる。
「では、正式に依頼が通ったらまたご連絡させていただきます。おそらく三日程で通せますので」
「何から何まで頼ってしまってすまない」
娘のこと、そして今回の件、アルトには多大な迷惑をかけてしまったとラッセルは反省する。
「いえ、僕にはこれぐらいしかできませんから…。後はお義父さん次第です」
「……」
解決の糸口は見えてきたが、ラッセルはまだ娘と面と向かって話せる勇気がなかった。
娘は自分と会ってくれるのか、会ったとして第一声はなんと言えばいいのか。
「大丈夫ですよ、きっと」
そんなラッセルの心情を悟ったのか、別れ際にアルトは優しく微笑みながら後押しする。
「そうだな…今から弱気ではいかんな。ありがとう」
これ以上アルトを足止めさせるのも悪いと思い、ラッセルは最後に軽い会釈をして帰路についた。
そんなラッセルの後ろ姿を見送るアルトは1人呟く。
「……すみませんお義父さん」
アルトはあのカップがシュヴィにとってどれほど大切な物なのか知っていた。知っていたが、それをラッセルに話すことをシュヴィに止められていたのだ。
実際のところ、アルトはその話をラッセルにしようか迷った。アルトにとっても、あの二人の親子のすれ違いは悲しい。だが、シュヴィを何よりも一番に大切にしたいアルトは、彼女との約束を守ることにしたのだ。
だからこそ、
「上手くいくことを祈っています」
それが本心であるのは間違いない。けれど、胸の奥で小さく疼く後ろめたさに、アルトはそっと目を伏せた。
※※※
計画を立ててから三日が経ち、ラッセルの手元にはその内容が記された手紙が届いていた。
依頼が通った旨、そして実行日は二日後の早朝であるとのこと。
どうやらアルトは同行できないらしく、申し訳ないと手紙に書いてあったが、ラッセルからすれば十分に働いてくれたアルトにこれ以上働かれては困る。
なぜなら不器用な自分では、彼にどうお礼すればいいのか分からないのだから。
「二日後か……」
呟いた言葉が、妙に現実味を帯びて胸に残る。
ラッセルは窓辺に視線を移し、これから始まる旅路の光景をぼんやりと想像した。
1日でも早く復元師に会いたいが、ラッセルはそんな逸る気持ちを抑える。それに、ラッセルにはやらなければいけない事があるため、寧ろ計画の実行までに空き時間ができたのは良かった。
「先ずは休職する事を伝えなければな」
フレユール大森林の横断に掛かる時間がどれ程になるのか分からない以上、仕事を休職しなければいけない。繁忙期に穴を開け、1人だけ休みを頂くというのは心苦しいがやむを得ない。
ラッセルは自身が犯した過ちのせいで、あちこちに迷惑をかけている事を反省する。
「さて…」
診療所へ行く準備をし、ラッセルは玄関へと足を運ばせる。
扉を開けると、昨日の夜から雪が降っていたためか、地面は真っ白に染まり、白銀の世界がラッセルを包み込む。
いつもなら乗合馬車を利用して出勤するが、ラッセルは徒歩で診療所まで赴くことにした。考えを整理したいとき、彼はこうして歩くことが多いのだ。
一歩踏み込む度に、独特な雪の感触が足へと伝う。辺りを見渡せば、子供達がはしゃぎながら雪玉を作っては投げて遊んでいる。
「子供は元気だな……」
この歳になると、雪が降っても心は踊らない。
元々勉強ばかりの幼少期を過ごしてきたラッセルは、雪で遊ぶなんてことはしてこなかった。彼にとって雪は冷たく、積もれば厄介な物でしかない。
ただ、楽しげに遊ぶ子供達を見ると、どうしてか自身が過ごしてきた幼少期は、どうしようもなく寂しいものに思えてきた。
「……」
そんな子供達を横目で見ていると、ラッセルは娘のことを思い出した。
まだシュヴィが5歳の頃、あの子供達と同じ様に雪が降ると彼女もはしゃいだ。
シュヴィがラッセルに雪玉を投げると、ラッセルもシュヴィに雪玉を投げ返して…。2人が雪だらけで帰ると、ドンナは呆れた様子で微笑むのだ。
「フッ…」
数少ない遊んであげた記憶を思い出し、ラッセルは思わず口元が綻んだ。そして同時に、目元からは雫がこぼれ落ちて頬を伝う。
「いかんな……歳を取ると涙脆くなる」
ラッセルはもっと家族との時間を大事にすれば良かったと、過ぎ去ってしまった過去を憂う。
もう取り返しのつかないそれは、どれだけ足掻いても変えられない。だが、未来は違う。過去にはもう戻れないが、これからの未来は自身の手で変えられる。
大切なものに気付くのがあまりにも遅すぎたが、それでもまだ間に合う。間に合ってほしいと、ラッセルは願う。
診療所へ着くと、職員達がバタバタと慌ただしく業務を行っている。だというのに、これから自分は休職願いをしなければいけない。
ラッセルは尚更申し訳ない気持ちで一杯になった。
朝の朝礼の前、ラッセルは所長室へと足を運ばせる。
ノックを3回すると、「どうぞ」としわがれた声で入室することを許可された。
「失礼する」
眼鏡をかけ、書類と睨めっこしている老年の女性――アィン・ゼーエン。彼女がこの診療所の所長であり、ラッセルの恩人でもある。
「何か用か」
アィンはラッセルが入ってきたにも関わらず、彼の方を見向きもせず相変わらず書類を読み進めている。
「休職するため、その申請と許可を貰いに……」
ラッセルがそう言うと、アィンは眼鏡を外して書類を机に置いた。
「……休職?」
額に手を当て、アィンは何かを考え始めたのか、そのまま数十秒の間黙り込む。そんな彼女の様子を見て、断られると思ったラッセルは頭を下げた。
「忙しい時期に申し訳ないが……頼む!」
「いや何、別に申請を拒否するつもりで黙ったわけではない」
ラッセルに頭を上げさせ、勘違いを正す。
「ただ、驚いた」
ラッセルは仕事を休まないことで有名であり、そんな彼が自身の口から「仕事を休みたい」と言ったことがアィンは信じられない。
「君がこの診療所に勤めてから…いや、それ以前でも君が自ら休みたいと口にしたところは見たことがない」
ラッセルが今の診療所に来る前、2人は数年間同じ病院に勤めていた。アィンはその時のラッセルの上司であり、彼女は彼の事をよく知っている。
頑固で意固地で堅物な男。その上不器用で、同僚や患者と喧嘩しているのもよく目にしてきた。
「最近の君は、少し変わったように見える。部下を労ったり、患者を気遣ったり…昔の君はそんな事して来なかっただろう」
「……」
「君を拾ってから5年が経つ……何か、心境の変化があったみたいだな」
前の勤め先を追い出されたラッセルは、アィンに拾われてこの診療所で働いている。
ラッセルは優秀であったが、その性格から他人と反りが合わない。上司に歯向かい、同僚と喧嘩し、患者の気持ちは蔑ろにする。それ故、どれだけ医療に貢献しようが、彼を称賛する声は少なかった。
「休職の件は把握した。それで、期間は?」
「2日後から一週間ほど…」
想定外の事が起きることも考えて、もう少し休職の期間を設けたいが、この忙しい時期に自分の我儘だけを通すわけにはいかない。だからこそ、ラッセルは診療所の運営に支障を来たさないぎりぎりの期間を設定した。
「随分と急だな」
「皆にはすまないと思っている」
「ふふっ…」
ラッセルが謝ると、アィンは思わずくすりと笑ってしまった。
「君が他者を思い遣っている姿は慣れんな」
昔のラッセルを知っているアィンだからこそ、今の彼の変わりぶりが可笑しくもあり、嬉しくもあった。
「そういえば、君の娘は今度結婚するんだったな」
「…ああ」
「君のことだ、どうせ祝福の言葉ひとつ送れてないんだろう」
「……」
図星を突かれ、ラッセルは一言も発せない。
「一月やる。偶には家族との時間も大切にしろ」
アィンの言葉は、ラッセルにとって予想外だった。ラッセルは、感謝と申し訳なさが入り混じった気持ちで、思わず視線を落とす。
「……いいのか?」
「構わん。空いた穴はこっちで調整する。今日は通常通りの勤務をして、明日から休職するといい」
「すまない…。ありがとう」
口調こそきついが、ラッセルは彼女が慈愛に満ちた人であると知っている。でなければ、自分の様な厄介者を拾ったりしない。
全てが解決したら、この診療所に勤める者達にも礼をしなければとラッセルは思った。
休職の許可を得たラッセルは所長室を後にし、いつも通りの業務をこなしていく。
本日も体調を崩して診療所に足を運ぶ患者が多く、気付けばあっという間に時間は過ぎ去って行った。
重症患者は居ないものの、やはり多くの人を診るというのは疲れる。
「お疲れ様です、ラッセル先生」
「ああ、ありがとう」
最後の患者を診察し終えると、レインが労いの言葉とお茶を淹れてくれる。
「先生の体調が良くなったみたいで安心しました」
「迷惑かけてすまなかったな」
「いえいえ。それより、先生は明日から休職されるんですよね。やっぱりどこか悪いんですか?」
「いや、そういう訳ではない。ただーー」
ただーーその後の言葉が続かない。
娘を怒らせて仲直りするため、と言ったらレインは何と言うだろうか。
娘の大事な物を壊してしまったなどと言ったら、レインは自分を軽蔑するだろうか。
「ただ、何ですか?」
「ああいや…」
自身の犯した過ちを他者に話すのは苦しいが、それでも娘と歳の近いレインの意見を聞きたい気持ちもラッセルにはあった。
「レイン君、もし…もし大切にしている物ーーそれが自分にとって何にも変え難いものだとして、それを他人に壊されたら君はどう思う」
「えっと…怒ると思います。壊してしまった経緯にもよりますけど、当分は口も聞かないし、場合によってはその人と疎遠になるかもしれません」
いきなりのラッセルの質問に戸惑うも、レインは真剣に答える。
「その他人というのが……自身の父親だとしたらどうする」
「そうですね…」
レインは深く考えると、やがて口を開いた。
「誰が壊したというのは問題ではなく、普通に怒ると思います。近しい間柄であっても、全くの他人であっても、大切な物を壊されたという事実は変わりませんから」
「……」
「ただ…自分にとって近しい人に大切な物を壊される方がより辛いです。だってそれは私が大切にしている物を知らないって事ですから。知らないってことは、私に興味ないのかなって…そう思ってしまいます」
レインの言葉が、まるでナイフのようにラッセルの心へと突き刺さる。
娘が大切にしていた物を壊したとき、ラッセルはそれがどれほど重要なのかを理解していなかった。そして、それがどれほど娘の心に深い傷を与えたのか、今になってやっと痛いほどに分かってきた。
「もしかして、娘さんと喧嘩を?」
「いや……喧嘩ではない。悪いのは一方的に私だからな」
「……そうでしたか」
重い沈黙が流れる。
「娘は、私を許してくれるだろうか」
こんなこと他人に聞くべきことでないと理解しているが、ラッセルはどうしても問いかけたかった。
「どうでしょう…。私は先生の娘さんではないので…」
当たり前だ。こんな質問に答えられるわけがない。
娘の気持ちを他人に代弁させようとするなんて、自分は何を考えているのだろうなとラッセルは思った。
「ただ…本当の意味で嫌いになることはないと思います」
「どうしてだ?」
「人を嫌い続けること、人を憎み続けることは決して楽ではありませんから。それに…わざとではないのでしょう?」
「ああ…」
壊したくて壊したわけではない。嫌いだから壊したわけではない。ただ知らなかったのだ。知らずに、知ろうともせずに壊してしまったのだ。
ラッセルの罪があるとしたら、それだろう。
「だったら尚更です。きっと娘さんだって、本気で先生と仲違いしたいわけではありませんよ」
「……そうだろうか」
「大丈夫です! いざという時は私を頼ってください。問題の解決はできないかもしれませんが、仲裁に入ることぐらいはできますから」
「ありがとう…その時は頼む」
「はい!」
レインに元気づけられたラッセルは、診療所を後にし、花屋へと足を運ぶ。
そこで一輪の花を購入したラッセルは、家へと帰る前にお墓へと立ち寄った。
ラッセルの妻が埋葬されている場所は公園墓地ということもあり、この霊園には花壇や並木道といった緑が多く見られる。しかし、普段は散歩や自然を求めて多くの人が訪れる場であるが、今は季節柄、日中であっても人気は少ない。
夕暮れ時というのもあってか、墓参りしている者もラッセルだけしかいない。
閑散した霊園は、並木道に立ち並ぶ裸木と、冬の寒さとが相まって酷く寂しいものに見える。
遠くに見える街灯と、薄暗い場所に在るお墓。
ラッセルにはそれが生と死の境界線のように思えた。
「久しぶりだな」
ドンナの眠る墓標にラッセルは一言そう告げると、生前彼女が好きだった月下草を供える。
月下草は月の様に白く美しい花だが、地面に広がる雪のせいで色が同化してしまい、飾りとしてはあまり役立たなかった。
だが、適当に選んだ花よりよっぽど良いとラッセルは思う。
「シュヴィも大きくなって、いよいよ結婚するらしい……」
近況の報告と、娘が結婚することを報せる。
「相手はシャフト家の跡取り息子でな……。家柄も良く、何よりとても優しい子だ」
アルトなら自分と違ってあの娘を幸せにできると、ラッセルはドンナに話す。
「まだ若い2人だが、きっと大丈夫だ。お前は心配するかもしれないが……アルト君なら安心して任せられる。それから――それから、私はまた娘を怒らせてしまった……」
ラッセルはそっと目を伏せ、墓標に向かって言葉を重ねていく。
娘の大切なカップを割ってしまったこと。謝ろうと思いながら、結局一言も言えずにいること。そして、自分が如何に情けない父親だということ。
まるで教会の神父に懺悔するかの様に、ラッセルはぽつぽつと自身の心に積もった過ちを語り続けた。
「久々に来て、暗い話ばかりですまない…。本当は、明るい話だけを持って来たかったんだが……」
もしもドンナが生きていたなら、彼女は今の彼を見てどう思うだろうか。
軽蔑か、あるいは叱咤か……どちらにせよ、情けない奴だと落胆されるに違いないと、ラッセルは自嘲する。
「今度は吉報だけを持ち帰る……。それから、必ず2人で墓参りに来ると約束しよう。だから……どうか見守っていて欲しい」
風が一筋、並木道をすり抜けて、月下草の花びらを揺らした。
何も物言わぬ墓標だが、それでもラッセルは少しだけ、気持ちが楽になった。