01
境界の丘に、ひっそりと佇む復元師の根城。
外壁は苔むし、窓枠は幾度も修繕された跡が残る。だが、そこに流れる空気は静かで、奇妙な整然さがあった。
エーヴィヒは、布団の中でしばらくうつ伏せのまま、枕に顔をうずめていた。
両腕でしっかりと抱きしめるようにして、それを離そうとしない。
だが、やがて息苦しさを覚えたのか、ごろりと横へ転がる。
それからようやく、深く息を吐き、重たげに身体を起こした。
身にまとう白い衣の裾を軽く払う。
その衣は膝丈ほどの長さで、やや大きすぎるのか、袖口が手首を何度も越え、裾は時折足元に引っかかりそうになる。
まるで、誰かの服をそのまま借りてきたかのように不格好で、動くたびに少しずつずれ落ちては肩を引っ張り、胸元が無防備に開いていた。
寝巻きというには上等で、衣服というには怠惰すぎるその姿は、彼女の生活そのもののようでもあった。
目を擦りながら、積み上げられた本の木を倒さぬよう、慎重に身をよじらせ――しかし、どこかふらふらとした足取りで部屋を出る。
一階に下りると、黒猫――リースリングが暖炉の前で丸くなっていた。
煤けた石床の上、灰の匂いと静けさのなかで、リースリングは気持ちよさそうに眠っている。
しかし、エーヴィヒの足音に気づいたのか、リースリングはぴくりと耳を動かした。
そして、しばらく眠気と格闘するようにもぞもぞと体を揺らし、ようやく片目を開けると、あくび混じりに前足をぐいと伸ばし、背中を丸めて軽く伸びをする。
「……やっと起きてきたか。相変わらず朝は弱いな、エーヴィヒ」
「黙れ。オレは寝起きが悪いんだ。起きて早々、お前と会話する気にはならん」
「――ケッ。口の悪い奴だ」
リースリングは尻尾をゆらりと振り、また暖炉の前に身を沈める。
エーヴィヒは台所の方へとふらふら歩き出し、カップにお気に入りの紅茶を復元させる。
一口飲むと、温かさに安堵したのか、ほっと息を吐きながらソファーへとぐったりと座り込む。
そんなエーヴィヒの寛いだ様子を見てか、リースリングが再び近寄ってきた。
「俺にもミルクを寄越せ」
嫌そうな顔をしながらも、エーヴィヒは台所へと向かう。
リースリングはその後ろを付いていき、足元で期待に満ちた目で見上げている。
ミルクを前に差し出すと、リースリングは嬉しそうにカップを見つめ、前足をちょいと出してそっとカップに顔を近づける。
「お前、どんどん猫みたいになってるな」
「うるへぇ……」
ぺろぺろと美味しそうにミルクを舐めながらも、リースリングは器用に口を動かし、「少しぬるい」だの「今度はハチミツを足してくれ」だのと文句を垂れる。
それを聞きながら、エーヴィヒは紅茶の湯気越しにリースリングを見つめていた。
その目には、不思議と慈愛のようなものが宿っている――しかし、その視線の先にあるのは、目の前でしきりに舌を動かすリースリングではなく、暖炉の前にいる、ただの一匹の黒猫であるかのようにも見えた。
ミルクを飲み終えたリースリングは、「けぷっ」と小さく声を上げ、満足げに細い舌で前足を舐め、しぺしぺと顔を洗い始めた。
「そういや、カップの復元を依頼してきたあの小僧は、上手くいったのか?」
「知らん」
「冷たい奴だな。少しは依頼者のその後くらい気にしたらどうだ?」
リースリングは顔を洗うのをやめ、目を細めてエーヴィヒを見上げる。
だが、エーヴィヒはその視線を受け流すように、紅茶をひとくち啜る。
「依頼は果たした。後はそれをどう使おうが、オレの知ったことじゃない」
言葉は冷たいが、その声色に鋭さはない。
「ただ、あの男は不器用で馬鹿だが、愚かじゃない」
その言葉に、リースリングは尻尾をゆるりと揺らし、再びしぺしぺと顔を洗い始める。
「まあ、何にせよ――あの小僧の記憶は俺のものになる」
ぺろりと舌なめずりしながら、リースリングは愉快そうに笑った。
「……あれは絶品だぜ? 食べるのが楽しみだ」
「悪食が」
エーヴィヒは半眼で言い捨て、紅茶をひと口啜る。
「ああ? 俺は美食家だぜ?」
リースリングは得意げに尻尾をぴんと立て、しれっとした顔でそう言い放つ。
「人の記憶を喰らうやつが、美食家なわけないだろ」
エーヴィヒは呆れたように言い返すが、その声に怒気はない。
紅茶のカップをくるりと回し、浮かぶ茶葉の影をただ静かに眺めていた。
リースリングは、くつくつと喉の奥で笑う。
「なら、その悪食に縋るお前は何だ?」
問いかけは、冗談のようでいて鋭かった。
エーヴィヒの手が、ほんのわずかに止まる。
「……さあな。生ける亡霊だろ」
紅茶の表面に揺れる影が、かすかに波立つ。
リースリングは、それ以上何も言わなかった。
ただ、再び暖炉の前に身を沈め、静かに瞳を閉じる。
※※※
エーヴィヒが本を開き、静かな時間に身を委ねてから数時間が過ぎた。
昼間の柔らかな光が、薄く降り注ぐ窓辺で彼女の影を引き延ばす。
ページをめくる音だけが部屋の中に響き、その静けさが少しずつ心地よい安堵に変わっていった。だが、ふとした瞬間、玄関の扉が軋む音がした。
その音にエーヴィヒは本から視線を離しもせず、軽く息をつく。
リースリングが耳をぴんと立ててその音に反応するものの、何も言わずに再び身を丸めた。
やがて扉の向こう側から、「復元師はいるか」と低い声が響いた。
その言葉に、エーヴィヒはまぶたを一度だけゆっくりと閉じる。
彼女は膝の上で本を閉じると、無言のまま立ち上がり、扉の方へと歩みを進める。
「客か?」
リースリングは暖炉の前で、半ば眠たげな声で言った。琥珀色の瞳がエーヴィヒの背中を追うように細められる。
エーヴィヒはリースリングの問いに答えず、そのまま扉の前で立ち止まった。
一瞬だけ、彼女の目が鋭く細められる。まるで、外の気配を測るかのように。
指先がひやりとした扉に触れ、エーヴィヒは扉を開ける。
吹き込む風が足元を撫で、室内の空気がわずかに揺らいだ。
「お前が復元師……か?」
そこに立っていたのは、長い旅路を思わせる外套に身を包んだ人物だった。
「どう見ても――」
エーヴィヒのその幼い見た目からか、男は一瞬、言葉を途切れさせた。
「ククク……。エーヴィヒ、お前ガキ扱いされてるぞ?」
エーヴィヒの背後からするりと現れたリースリングが、彼女を小馬鹿にしたようにくつくつと笑う。
「おわ!? 猫が喋っとる……」
突如現れた喋る猫に、男は目を開いてのけぞる。
「黙れ、リースリング。おい、お前」
エーヴィヒは声に冷たさを込めて、男を見上げる。
「オレはこう見えてお前よりも歳上だ。言葉には気をつけろ」
「あ、ああ……悪い」
「それより、その後ろの子供は何だ?」
男の視線がエーヴィヒの後方へ向く。
「ん? ああ、依頼の一つだ」
男の背後に、影のように身を隠していたのは、一人の少女だった。
雪のように白い髪が肩先で静かに揺れ、顔立ちは幼く――瞳は何も映していないかのように虚ろだった。
エーヴィヒよりもさらに小柄なその少女は、彼らのやりとりを、まるで他人事のように無感情なまなざしで見つめている。
エーヴィヒの視線が、少女の瞳にゆっくりと合わせる。
虚ろで、色彩の乏しいその瞳は、まるで今を生きていないようだった。
リースリングがそっとエーヴィヒの足元に身を寄せる。
「なあ……こいつ、ちょっと焦げ臭くないか?」
リースリングのその呟きに、場の温度がふいに下がったように感じられた。
「まあ、その辺りの話は中でさせてくれ」
少女を連れてきた無精ひげを生やした男が、気怠げな口調で割って入る。だがその声には、どこか切迫したものが混じっていた。
彼は少女の肩にそっと軽く手を添える。だが、少女はそれにも反応を見せない。ただ、風に吹かれる草のように、静かに立っているだけだった。
エーヴィヒは一瞬、男と少女の間にある妙な距離に目を細めたが、やがて無言のまま彼を自身の住処に招き入れた。
リースリングもわずかに鼻を鳴らしながら、二人のあとをついていく。
エーヴィヒは無言で二人分の紅茶を用意し、湯気が立ち上るカップを、彼らの前に差し出した。
「それで、依頼内容は?」
その問いに、男は少しだけ沈黙をおいた後、ゆっくりと口を開いた。
「焼け焦げた館の復元と、この子を元に戻すことだ」
「……」
男はそう言い、少女に一度だけ視線を送った。
だがその視線には、何か後ろめたさが混じっているように見える。
エーヴィヒはふと、ソファの上で静かに座る少女の姿に、再び違和感を覚えた。
その虚ろな瞳が、何もない空間を見つめているように感じられたからだ。
「おい、お前」
エーヴィヒは虚ろな少女に話しかける。
少女の瞳は微動だにせず、まるでそこにいない誰かを見ているようだった。
「名前、憶えてるか?」
「……」
反応の乏しい体、焦点の合わない視線。まるで、魂の一部が抜け落ちているかのようだ。
エーヴィヒは、わずかに眉をひそめる。
「無駄だぜ、そいつに話しかけても」
いつの間にか、リースリングが机に飛び乗っていた。
尻尾を揺らしながら、つまらなそうに少女を見下ろしている。
「外側は生きちゃいるが、中身はほとんど灰になっちまってる」
その声には、からかいとも哀れみともつかぬ響きがあった。
「おい無精ひげ、こいつに何をしたんだ? ここまで壊すなんて、ただの事故じゃねえ」
机の上から、リースリングが鋭く睨む。
黒曜石のような黒瞳が、男の顔をじっと見据えていた。
男は紅茶に手を伸ばしかけ、指を止めた。
一拍の沈黙のあと、彼は低く、湿った声で答える。
「……だから、頼みに来たんだ。俺にも、もうどうにもできなかった」
「まあいい、一先ずこいつの記憶を探る」
エーヴィヒは少女の額に手を当てる。
しかし、やはりと言うべきか、少女はまるで反応を示さなかった。