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復元師エーヴィヒは明日を語らない  作者: 音郷
ひび割れたカップ
1/12

01 

初めまして、音郷です。

作品の至らぬ点、誤字脱字等ございましたら、遠慮なく指摘して頂けますと幸いです。

よろしくお願い致します。

 


 ――もしあの時にこうしていたら。

 ――もしあの時に謝れていたら。

 ――もしあの時に戻れるならば。


 誰しもが一度は考えたことのある、そんな存在しない酔狂な過去を捏造しては頭の中で繰り返す。


「はぁ…」


 今年還暦を迎えたラッセルは、普段から厳しい印象を与えるその顔を更に険しくさせながら、本日何度目かわからない長いため息を吐く。


「ラッセル先生、何かあったんですか?」

「ん…ああいや、すまない。大したことではない」


 普段とは様子の違う彼を見兼ねてか、助手であるレインがため息の原因を探る。


「大したことなかったら、そんなにため息なんて吐きませんよ」


 ラッセルは他人に指摘されるほどため息を吐いていたことを反省する。

 嫌なことがあれど、悩み事があれど、他人のため息を横で聞かされるのはあまり良い気分ではないだろう。


「先生の悩み事を解決できるか分かりませんが、人に話したら少しは楽になるかもしれませんよ?」


 レインは優しい。確かに彼女に話せば少しは楽になるかもしれない。場合によっては解決策も見出せるだろう。ただ、ラッセルには懸念材料が一つだけあった。


 それは彼女の歳だ。


 ラッセルの悩みとレインの年齢について深い繋がりがあるわけではないが、まったく関係がないかと言えばそれは違う。

 自分の悩みを彼女に打ち明かした時、果たして彼女はどんな返答をするのか、それを想像したら相談なんて出来るわけがなかった。


「いや、仕事とは関係ないことで君の手を煩わせるわけにはいかない。午後からは気の散る言動を控えるように気を付ける。すまなかったな」

「いえ、辛かったらいつでも仰ってくださいね」

「ああ、ありがとう」


 ラッセルは思う。どうして他人にはこうも簡単に謝罪や感謝の言葉が述べられるのに、あいつには一言もそれらを伝えられないのか。

 たった一言、”すまなかった”と口に出すだけで良いはずなのに……それができない。


 ラッセルは自分の性格をよく知っている。

 頑固で意固地で融通が利かない。自分にも他人にも厳しく、曲がったことが嫌いな偏屈な人間。

 そんな面倒な性格を何十年も背負って歩いてきたせいか、変なプライドが身に付き、本当に大切なモノを疎かにして生きてきてしまった。


 しかし、これまでの人生の選択に於いて、後悔があるかと問われればそれは難しい。

 何故なら大切なモノを疎かにしたからこそ得られたモノもあり、どっちを疎かにしても後悔していたに違いないからだ。


 ――否、それはただの言い訳に過ぎない。


 結局のところ、自分の選択が間違っていなかったと、正当化できる理由を探しているだけなのだ。

 どちらも優先させられるほど器用な性格をしていたなら、どんなに良かったか。今はそんな妄想でしかない理想の自分に近づくため、少しでも努力するほかないのだ。


「ありがとうございます、先生」

「ああ…お大事に」

「……え?」

「何か?」

「あ…い、いえ何でもないです! あ、ありがとうございます!」


 ラッセルは今まで診て来た患者に対して、相手の体調を気遣う言葉なんて一切かけて来なかった。

 腕は確かで、病気を診る目も類い稀な才があるが、如何せん気遣いできる性格でないために、これまで患者や同僚とも何度も衝突をしてきた。その度にラッセルは「感情で病を治せるならば我々の存在する意味はない」と言い放ってきた。

 しかし、今ではこう思うのだ。

 医師とは、ただ病を治すだけではダメなのだと。


「ここへ来る前、先生は人の心がないと周りから言われましたが……やっぱり噂は当てになりませんね」

「いや、その噂は当たっている」

「え?」


 レインがラッセルの助手となったのは三年程前のことで、それ以前は噂通り人の心を持たぬ冷酷な医師であった。

 気遣いを見せるのもここ最近の話で、彼をよく知る患者達もその変化に驚くくらいだ。


「それより、次の患者のカルテを」

「あ、はい!」



 ***



 仕事が終わり、いざ家に帰るとなるとやはり憂鬱だとラッセルは思う。

 仕事をしている間は考えたくない問題から目を背けられるが、仕事が終わればそうはいかない。嫌でも問題のある場所へ帰らなければならず、解決策を講じなければいけない。


 仕事場から家までは馬車を使えば15分ほどで着く距離だが、ラッセルは敢えて徒歩で帰宅する。

 問題を先送りにしたいという邪な感情も多少はあるが、それよりも心の整理をつけたいからだ。


「そろそろ正面から向き合わなければな…」


 ラッセルにはどんなに難しい症例のある患者を診察することよりも、向き合うのを緊張する相手がいる。

 それは、自身の子である娘だ。

 今まで仕事一筋で、家庭を疎かにしていたラッセルは、娘との距離が未だに掴めていない。それどころか、恐らく娘であるシュヴィは自分のことを恨んでいるに違いない。


 原因は他でもない自分にある。しかし、自覚しているからこそ今更どの面を下げれば良いのかわからないのだ。

 長年放置してきた問題は、もはや修復できそうにないくらい深い溝になってしまった。


「シュヴィに謝ったところであいつは……ドンナは許してくれるだろうか……」


 ラッセルは今は亡き妻――ドンナを想う。


「いや、許してはくれんだろうな」


 己の過去を振り返り、自嘲する。

 全ての原因はそこにあるからだ。


「――ッ! ……ただいま」


 玄関を開けると、何処かへ遊びに行くのか、化粧をし、お洒落な服を着た娘と鉢合わせる。

 歳を重ねる度にシュヴィは美しくなり、その顔は妻の面影を覗かせる。

 緑色を帯びた淡い藍色の髪は母親譲りであり、腰の辺りまで伸ばしたその髪型も生前の妻と同じだ。

 彼女が何より母親を愛していた証拠でもある。


「……」

「出掛けるのか?」

「…うん」


 ラッセルは思う。なぜ「行ってらっしゃい」の一言が己の口から出ないのか。


「そうか…」


 ラッセルは考える。なぜ「暗いから気をつけなさい」と言えないのか。


「……」


 一瞬の間、「行ってきます」の一言さえ掛けず、シュヴィは足早に玄関から立ち去って行った。

 娘が出て行った玄関をジッと見つめ、ラッセルは再び自分自身に落胆した。なぜ簡単な一言が言えないのか。


「もう、無理なのだろうか」


 一人娘で今では唯一の肉親。

 仲良くしたいわけではない。自分のしてきた行いを顧みれば、それは烏滸がましい。

 ただ、それでも些細な会話程度はさせて欲しい。


「おはよう」「おかえり」「行ってらっしゃい」


 そんな他愛もない挨拶すらできない様な奴が何を言ってるんだと、ラッセルは自分でも思う。

 しかし、ラッセルは本気で悩んでいるのだ。


 どうしたら娘と自然に会話ができるのか。

 どうしたら娘は自分を許してくれるのか。


 毎夜毎夜、娘とどう接するのが正解なのか、ラッセルは布団の中で考える。

 明日こそは「おはよう」と一言挨拶するぞ、と覚悟を決めるも、今日までそれが叶うことはなかった。


 だからこそ――


「明日だ。明日はちゃんと挨拶をしよう」


 そう決意し、ラッセルは1日を終えた。



 ※※※



 日の出前、まだ夜空が浮かぶ時間にラッセルは目を覚ます。考え事や緊張のせいで深い眠りにつけないのだ。

 ぼんやりとした頭を起こさせるために、ラッセルは冷たい水で顔を洗う。そしてタオルで顔を拭き、ふと鏡に映った自分を覗き込んだ。


「酷い顔だな…」


 仕事が忙しいせいもあるが、ここ最近まともに寝付けずにいたためか、目の下のクマが昨日よりも濃くなっている。

 歳も歳だが、今の彼は一層老け込んで見えた。


「お茶でも淹れれば、多少は落ち着くか……」


 ふらついた足を歩かせ、台所の棚からカップを取り出そうとしたとき、「パリンッ」と甲高い音が静寂に包まれた部屋へと響き渡った。


「しまったな…」


 どうやら手前に置いてあったカップに触れてしまい、そのまま割ってしまったらしい。

 ラッセルは一先ず大きめの破片を拾い上げると、残りの細かな破片を箒と塵取りで片付ける。


「朝から縁起が悪いな」


 温かいお茶を淹れソファに座ると、読み掛けの本を熟読し始める。彼が唯一心を安らげる時間だ。

 一度読み始めたら時間など忘れて、ひたすら文字を追い続けてしまう彼だが、生憎と今日も仕事の日だ。時間を気にしなければ遅刻をしてしまう。故に、あまり集中して本を読むことが出来ず、内容も然程頭に入らなかった。


「はぁ…」


 短いため息と共に本を閉じると、ラッセルは朝食を作り始めた。

 彼の妻が亡くなって以降、食卓に並ぶ料理は手薄になり、ただ腹を満たすだけの行為が成されるだけとなった。

 しかし、ラッセルはここ最近料理を学び始め、多少は彩りのある食事が作れるようになった。

 腕の方はいまいち欠けるものがあるが、それでも食べられないほどに不味いわけでもない。


「普通…だな」


 何か味付けに足りないものがある気もするが、それに気付けるほど優れた味覚は備わっていない。

 今にして思えば、ドンナの作ってくれた料理はどれも美味しかったと、ラッセルは過去の味を思い出す。


「最後に作ってくれた料理は何だったか……」


 もう何十年も昔のことで、記憶が曖昧だ。

 家庭のことは全て妻に任せっきりで、仕事が忙しいと家に帰らないこともあった。


「今更だが、酷い父親だな…」


 娘と遊んであげた記憶も、今では薄っすらとしか思い出せない。いや、思い出せないのではなく、思い出せるほど遊んであげてないのだ。


「ふぅ…」


 記憶をこじ開けていくほど、如何に自分が情けない父親だったのだと実感させられる。しかし、いつまでも情けないままではいけない。今日こそはあの子と向き合うのだと、ラッセルは再度決意する。


「――ッ!」


 階段を降りる足音が聞こえ、いよいよだとラッセルは肩の力を抜く。緊張と焦り、激しく脈打つ鼓動を必死に抑える。


「……お、おはよう」

「……うん」


 ラッセルは心の中で安堵した。

 本当に情けない話だが、それでもラッセルにとってこの挨拶はやっと踏み出せた一歩なのだ。


「その……なんだ、朝食は摂るか?」

「…いい」

「そうか…」


 食卓を共にすることは出来なかったが、それでも二度も会話できたことはラッセルにとって大金星だ。


「今日は遅くなる。もし出掛けるなら鍵を頼む」

「…わかった」


 ――上手く話せているだろうか。

 ――硬すぎない表情は作れているだろうか。

 ――厳しい口調になってないだろうか。


 ラッセルは一言一言発する度に不安になる。


「……ねぇ」

「なんだ?」


 そんな彼の心情を無視するかのように、シュヴィはラッセルへと声をかけた。

 娘から話しかけることなんて滅多にないため、それだけでもラッセルは嬉しかった。


「私のカップ知らない?」

「カップ?」


 ラッセルは今朝のことを思い出す。


「ああ、それなら今朝割ってしまってな。今日、新しく新調するつもりだ」

「……」


 一日の始まりとしては最悪の出来事であったが、こうして娘と話せる機会が与えられて、ラッセルは寧ろ割ってよかったと思った。しかし――


「……ぃ」

「どうした?」


 その場で俯いて震える娘を変に思い、ラッセルは話しかけた。


「お父さんなんて大ッ嫌い!!」

「ーーッ!?」

「なんで……なんで……もう、顔も見たくない!!」

「……」


 突然告げられたその言葉に、ラッセルは戸惑いと焦燥から発せられる言葉を失い、激しくドアを閉めて出て行く娘の後姿を見ることしかできなかった。

 わずかに揺れたカップの中の紅茶が波打つ。


 泣いていたのか、怒っていたのか、それすらも分からない。

 いや、正確には怒っていたのは間違いない。ただ、娘が()()()()()怒り、そして涙したのか、それが分からないのだ。

 カップを割ったこと自体に怒ったのか、それとも別の何かが娘の心を傷つけてしまったのか――ただ、それを確認する術はない。


 呼び止める言葉が見つからなかった。

 今更だが、言葉をかければよかった。「待ってくれ」でも、「すまなかった」でも。

 けれど、喉の奥に詰まったそれは、一歩も外へ出てこなかった。


 ラッセルは、自分の不器用さをよく知っていた。

 だからこそ、言えなかった。

 だからこそ、言うべきだった。


 ――お父さんなんて大ッ嫌い!!


 娘の強烈な一言がラッセルの頭の中で反芻する。


「…これで三度目だな」


 ラッセルは、過去に娘から同様の言葉を浴びせられたかことがある。


 一度目は妻、ドンナが亡くなったとき。

 ドンナが亡くなる際、ラッセルは彼女の死に目に間に合わず、シュヴィはそのことで彼を責めた。


 二度目はシュヴィが未成年にも関わらず夜遊びをし、そのことを咎めて口論になったとき。

 そして三度目――、


「また…また言わせてしまった」


 ラッセルは魂が抜けたかのように虚空を眺める。

 そうしている内、家族写真に目が留まった。

 写真の中でさえ彼は仏頂面で、そんな彼の隣では妻が微笑み、暴れる娘を抑えている。

 実に微笑ましい写真だ。


「……」


 ラッセルは無言で立ち上がると、ゴミ袋に捨てた割れたカップを拾う。

 割れたカップには、可愛らしい絵柄の猫が描かれている。しかし、その可愛らしいはずの猫の目は、今は酷く恨み、憎ましいと言わんばかりにこちらを睨みつけているように見えた。


「どうしてこうなる…。いや、これは罰なのかもな」


 家庭を顧みなかった罰。

 娘と向き合ってこなかった罰。

 娘を知ろうとしなかった罰。


 どれも自分のせいであり、今更その過去と向き合おうだなんてあまりにも遅かった。そして、あまつさえ許してもらえると思っていた自分の浅はかさが恥ずかしい。


「私は……あいつが大切にしているものを、何一つ知らない……」


 カップの破片が指に刺さり、小さな痛みが走る。

 そのあとに滲んできた血は、やけに鮮やかで目が離せなかった。

 一滴、二滴。血は、まるでためらうようにして床へと落ちていく。

 ふいに、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。

 自分の不注意、自分の軽さ。それが、娘の大切にしていたものを壊してしまった。


 カップを割ってしまったことだけじゃない。あのとき口にした何気ない一言が、彼女の心にも亀裂を入れてしまっていたのだ。

 床に滲む血の色は、まるでその罰のようだった。拭っても拭っても消えないこの赤は、罪そのものの様であり、娘の悲しげな表情が、頭の中から離れない。――頭から、離れないのだ。



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