結婚を甘くみました
会議場を出て執務室にいくと、オリガが女官たちといつも通りの笑顔で出迎えてくれた。
休憩用のお茶の準備をしてくれたところでオリガ以外は人払いした。
「陛下は皇妃を3人以上娶ることに決まったわ。子は授かりものだというし、2年以上妊娠に兆しがなかった私が言っていいことではないけれど、第二皇子の問題は一旦脇に置くわ」
「時間による解決を待つしかありませんわ」
「そうね。オリガ、思いきり甘い紅茶をちょうだい」
オリガだけの空間、ようやく肩から力が抜ける。
オリガは元はペトロフ侯爵家の侍女で、親戚筋にあたる伯爵家の三女であるオリガはお兄様の内緒の婚約者。お兄様の女性を見る目には感服する。
侍女をしながら次期公爵夫人の学びもしている超人で、二人は私の心配がなくなったら婚約を発表すると仰っている。心配をかけて申しわけない。
オリガの生家である伯爵家は武の名門、短剣勝負ならお兄様も勝てない。護衛もできるオリガとならば二人きりになれて私は気を抜ける。
「疲れたわ」
信じている未来の義姉に甘えた気持ちが浮上し、本音がこぼれ出た私の前に置かれた紅茶。好みよりも甘い紅茶に、もう少し頑張る必要があることを察する。
「陛下の使いが来ているのね?」
オリガは困った顔で肯定する。
「入れて頂戴」
入ってきたのは意外な人物だった。
「帝国の月、皇后陛下にご挨拶申し上げます」
「久しぶりね、ノクト。いつ戻ってきたの? 小母様の御加減は?」
陛下の専属侍従のノクトが、眼鏡と少し長い前髪で見えづらいが、その目を嬉しそうに細めた。ノクトは小母の看病があるからと暫く休みをとっていた。
確か、半年くらい?
いや、もう少しかな。
ノクトは子爵家の三男で、陛下のクラスメイトだった縁で陛下の専属侍従をしている。
後継ぎ問題に関係ない気楽な身分だと聞いていたが、身内のために長い休みを取るとはなかなか情が厚い。
「一昨日戻りました」
困ったようなノクトの表情。
知っていますというような顔に私も苦笑してしまう。
「戻って早々、この騒ぎだもの。驚いたでしょう?」
ノクトは私の言葉に曖昧に笑った。
「ここは政治の中心。陛下の周りはいつも騒がしいので慣れております」
その騒がしさが嬉しいとノクトが言っていたのはいつだった?
確か、ケガから回復した陛下が執務を再開した頃だったか。
ノクトは寝たきりの陛下の傍にいた忠臣で、あのとき私が喝を入れた人たちの内の1人。
その縁がいまでも続いていて、陛下と不仲の私は陛下の側近によく思われていないが、ノクトだけは私と普通に接してくれていた。
「皇后陛下、少し雰囲気が変わられましたね」
「雰囲気が変わったのは貴方もではなくて?」
色々あったからと答えれば、“いろいろ”の話題になる。それは面倒だからと笑って往なした。
「何かいいことがあったのかしら?」
「はい」
正直を言えば適当な受け答えだったが、楽しそうに笑うノクトの珍しい姿に虚を突かれた。
思わずまじまじとノクトの顔を見てしまい、ノクトと視線が絡み、ゾワッとする不快感に扇子を広げてオリガに合図を送った。
……何かしら。
「失礼いたします、ノクト殿からこちらを頂きました」
これは何かと問う視線をノクトに向ける。
「大したものではありませんが、お土産です」
「まあ。オリガ、開けて頂戴」
オリガがリボンを解くと羊を模したぬいぐるみが出てきた。
「とても可愛らしいわ」
「小母が療養していた屋敷が魔羊の放牧が盛んな地域にありまして、魔羊の毛皮で作られています。頑丈なのでサンドバッグにしても大丈夫ですよ」
……可愛らしいと評したぬいぐるみを殴るほどストレスが溜まっているように見えるのだろうか。
「申し訳ありません、このくらいしかできなくて。でも、羊は悪夢から守ってくれるそうですので」
悪夢から守るとは、少しだけ引っかかりを感じる。
夫以外の男性から贈られたものを夫婦の寝室に置くことは悪い噂のもとになりかねない。それをノクトが考えていないとは思えない。
オリガを見ると目だけで頷かれる、一応線引きをしておいたほうがいいということだ。
「ノクト……「も、申し訳ありません」……え?」
ノクトが困ったように笑う。
「姪っ子にそう言って渡したので、陛下にも同じように、つい……本当に申し訳ありません」
気にし過ぎ……?
私は、自分が思う以上にピリピリしているみたい。
「この部屋に飾らせていただくわ。しばらく忙しいだろうから癒しが欲しいの。ごめんなさい、仕事をしないと。陛下にはいつでもいいと伝えて」
***
ノクトが退室し、大きな溜め息と同時に肩の力が抜け、自分が強張っていたことに気づく。
どうやらノクト相手に緊張していたらしい。
なぜ?
「オリガ、ノクトの雰囲気が変わったと思わない?」
「そうですね。どこか浮ついたような雰囲気でしたから、恋をしているのかもしれませんね」
オリガの言葉に「あのノクトが?」と思いつつも、ノクトのことをそこまで知っているわけではないので否定も肯定も避けた。
ノクトは陛下が信頼している侍従で、動けなくなった陛下のお傍にいられたということは先帝陛下も信頼しているということ。
先帝陛下の信頼。
私があのとき陛下のお傍にいられたのは、ペトロフであることが大きいだろうが、先帝陛下は私の欲に気づいておられたのだろう。
あのときの私は陛下を治したいという純粋な思いのほかに、陛下のお傍にいればいつか自分を見てくれるかもしれないという醜い欲があった。
いつか必ず陛下は自分の足で歩ける。
そのとき隣に立っていたい。
私の独りよがり、実に滑稽だが、ペトロフの名前がその“いつか”を私に夢みさせた。
陛下がまた歩けるようにと尽力したのは、皇后になりたいという欲だろうか。
違うと思うが、陛下以外がこの国の皇帝になる未来を描けなかったのは事実であり、それゆえに私の行動には皇后になりたいという欲もあったのかもしれない。
その辺りは皇后になった今となってはよく分からない。
皇太子の宮である東宮に貴族令嬢の私が一人で入っていくことはできず、そんな私のエスコート役を務めてくれたのがノクトだ。
そのため陛下の側にいる者たちの中で、兄を除いて最も話をした者ともいえる。
最初は私に委縮していたノクト。お互いに会話は不得手で話題に乏しく、結果的に私たちの会話は陛下のことばかり。
寡黙で生真面目なノクトは、「健康のためには早寝早起きがいい」と言えば朝7時に陛下を起こし、夜9時には消灯した。
「報連相がきちんとできれば少人数でも陛下にご不便はかけない」と言えば陛下のお部屋で全員を揃えてその日の業務の確認をし、まるで騎士団だとときどき参加していたお兄様は笑っていた。
それにしても、ノクト以外のエスコート役がいなかったなんて、当時の私も煙たがられていたのかもしれない。
無理をしないでくださいなんて優しい言葉ひとつかけず「これをやりなさい」とばかり言う。陛下が食事を多くのこされたり薬を飲まなかった場合はこんこんとお説教。
本当に可愛くもなんともないが、その甲斐もあって陛下は歩けるようになったと思えば後悔はない。
東宮に通い始めて約3ヵ月、久しぶりの陛下の笑い声には東宮はお祭り騒ぎになった。
「感謝する、アナスタシア嬢」
久しぶりに聞いた陛下の御声にかつての明るさはなかったが、とても穏やかなものだった。
あのとき手を引いていればよかったと、いまとなっては意味のない、そんな後悔をしている私がいる。
結婚してしまえばこっちのものだと思っていた。
なぜならこの国では皇帝は皇后と離縁できない。それはこの国を守護する神ロシャーナとの誓い。
この誓いがあるため、この国の皇后は早くに亡くなる者が多い。死別なら離縁ではない、だから皇后の死の裏には皇帝がいる。
でも私はペトロフだ。
この身はその名が守ってくれる。
私が不自然な死を迎えれば、どんなに先帝陛下がとりなそうともお父様は決して陛下をお許しにならない。
国を大事に思う陛下が私情で内戦を起こす真似などしない。そんな狡い考えを抱いて成就させた恋。そんなものは呪いでしかない。
一方的に陛下に想いを押し付けていることを自覚していたくせに、想いが報われないと嘆いた。報われたいと願うこと自体が間違いだった。
愛しているが終わると、自分の間違いがよく見える。
次は皇帝のニコライ視点になります。