恋は修羅場で終わる(ニコライ)
北の塔にある貴賓牢、普段は使われていない石造りの北の塔にはカビ臭い湿った空気が籠っていた。
「埃っぽいですね」
「侯爵、ここに来るのは初めてなのか?」
大勢を貴賓牢に送っていそうなのに意外だった。
「罪人はまず初めに貴賓扱いする必要がないようにする主義なので」
確かに、爵位をはく奪してしまえば普通の地下牢に収監できる。
「地下牢の数が足りずに増設したけれどな」
「そんなことがありましたね」
やはり大勢を送っていたことに間違いはなかった。
「陛下、女男爵への罰はどうするおつもりですか?」
「城から即刻退去、今後は入城を禁止する」
気持ちを探るような侯爵の目が気まずく感じるのは、ナターシャにかなり温情を与えている自覚があるからだ。
俺とナターシャの間にはミハイルがいて、あの子がいる以上はどうしてもナターシャと無関係になりきれない。
帝都郊外で売りに出されていた屋敷をナターシャ名義で購入し、皇子を生んだ報奨としてナターシャ本人に女男爵の地位も与えた。
住まいに困ることなく男爵に与えられる年俸があれば、働かなくてもナターシャは生活はしていける。金で解決したと言われてしまえばその通りだが、金以外の解決策もない。
貴賓牢につき、扉を開ける前に深呼吸をして気合いを入れ直す。どう考えてもこの先にあるのは修羅場だ。
「開けてくれ」
扉の脇に立っていた騎士が敬礼し、鍵を開けて扉を開ける。貴賓牢の名の通り、中は貴人が普通に生活できるように整えられている。
「陛下!」
駆け寄ってこようとするナターシャを制するように騎士が俺の前に立つ。ナターシャは顔に苛立ちが浮かべ、不貞腐れた様子でソファに座る。
俺は向かいのソファに座り、ナターシャをジッと見る。
「なぜ私を牢などに入れたのですか」
「これ以上君にトラブルを起こされては困るからだ」
「トラブル、ですって? アナスタシアがそう言ったの?」
「彼女は何もしていない。生意気だというために君を呼び出す? そんなことをする理由がないし……彼女は君のことなど気にしてもいない」
ナターシャの目が吊り上がり、表情が怒りに変わる。
ナターシャが彼女に敵意を向ける理由の始まりは知らないが、俺が会ったときには既にナターシャは彼女を敵視していた。
――― アナスタシアのほうがいいのね!
それがナターシャの常套句で、気に入らないことがあれば直ぐにそう言った。誰もナターシャと彼女を比べてなどいない。
そもそもナターシャと彼女では、年齢も家格も違うため比べることなどない。
侯爵令嬢の彼女と子爵令嬢のナターシャでは立場が異なり、二人は違うフィールドに立っている。
ナターシャは彼女が立つフィールドに立ちたくて堪らない一方、彼女はナターシャの立つフィールドになど見向きもしない。
ナターシャは彼女の“敵”にもしてもられなかった。
だからナターシャは俺に固執した。
俺の求愛したとき、彼女は初めてナターシャのフィールドに立ち、ナターシャと向き合った。そして俺の「愛している」はナターシャにとって初めての勝利の証だった。
だから、いつも俺に―――。
「やっぱりアナスタシアのほうがいいのね!」
その言葉を今の俺に聞いてもナターシャは満足できない。まあ、過去の俺の「そんなことはない」でも満足できなかったけれど。
勝ちでも、負けでもない。俺は……。
「ああ、そうだ。昔の俺は君を愛していた。でも現在 の俺は皇后を、アナスタシアを愛している」
俺の言葉にナターシャが大きな悲鳴をあげる。
「ひどいわ! 裏切者!」
「その台詞を、君にだけは言われたくない」
その台詞がなぜ出てくるのかが分からない。
ナターシャとの婚約中、無自覚にアナスタシアに惹かれていたことを精神的な浮気と言われたら仕方がないかもしれない。
でもそれを、例え気持ちの伴わない行為だったとしても、何人もの男たちと関係をもち愛欲に耽っていたナターシャにだけは言われたくない。
「修羅場に失礼いたしますが、陛下、さっさと本題に入ってください。時間の無駄です」
ペトロフ侯爵の言葉に、熱を帯びていた頭が冷える……比喩ではない、実際に氷魔法で頭を冷やされている。頭痛がしてきたから魔法を止めてほしい。
「ヴィクトール、お前すごいな」
「こんな平凡でありきたりな修羅場なんて見ていて楽しくありませんからね」
ありきたりな修羅場……。
「ナターシャ、いや、ポポフ女男爵。君に媚薬の件を教えたのは誰だ?」
「はあ?」
媚薬の件は俺でさえ知らなかったこと。ペトロフ侯爵が動いたことだ、完璧に証拠は消されている。元侍従長は俺の即位と同時に退任し、極秘事項を知る彼はいま城の奥にある屋敷に隠居している。
どう考えても、ナターシャがそれを知ったのは誰かに聞いたからだ。
「君は、いま自分がどれだけ危うい立場にいるのか分かるか?」
「媚薬を盛って関係を持って、それを盾に結婚を迫った卑怯者ってことが知られるだけじゃない」
「ナターシャ、皇后はペトロフだ」
「分かっているわよ、忌々しい。だから何だというの、ペトロフの人間は高潔だから薬なんて卑怯なものは使わないってこと?」
何も分かっていない、ナターシャは。自分がアナスタシアに殺されるところだったことも分かっていない。
どうやってか知らないが、恐らく毒薬劇薬開発が趣味のアレクセイが作った薬を耳飾りに仕込んでいたんだろう。それができて、そんなものを城に持ち込めるほど皇帝はペトロフを信頼している。
ペトロフは絶対にロシャーナを裏切らない、その認識がこの国を支えている。
曾祖母である愛妾マリアの専横の時代、国内の政争をおさめたのはペトロフ侯爵家。ただオロオロするしかできなかった祖父ルビンスキー皇帝を諫めつつも支え、皇帝の座を維持させ国を立て直したのは先代ペトロフ侯爵。
高潔なペトロフが支えているから国民はロシャーナを皇族と認めている。
そのペトロフのアナスタシアが皇帝である俺に薬を盛った。毒薬ではなく媚薬だからいいわけがない、皇帝を裏切ったということが大問題なのだ。
だから媚薬の件を絶対に知られるわけにいかない。
長かったので2つに分けました。