清も濁も飲みこむ
「もうお帰りになるのですか、カリーナ様」
「旦那様が待っているから」
カリーナ様はいまの旦那様に下賜されるときにメンデル伯爵位を一代限りで叙爵され、先帝陛下は離宮を1つカリーナ様に与えた。皇帝と皇后が離縁できない制度の影響で国のあちこちに離宮がある。
離宮はカリーナ様と旦那様のお二人がお亡くなりになったあとに国に返却される予定らしいが、カリーナ様のお好みで改装されて威厳の欠片もない可愛らしい宮になっていたとお父様がげんなりとしていたことを思い出した。
「夜会で会うより、こうして二人で会うほうが気楽ね」
「私も夜会はあまり得意ではありません。成人しても最低限しか社交はしていませんでしたから」
「ヴィッキーもアレックも過保護だもの。あなたが産まれたときもね、娘は嫁にやらんってあの無表情で言うのよ、笑っちゃうでしょう」
お兄様はともかく、お父様をヴィッキーなどと呼ぶのはカリーナ様くらいだろう。さすが「あの人は苦手だ」とお父様に怖気づかせるだけはある。
「皇妃になるという令嬢はまだ現れないのですって? ニックさんたら、あまりモテないのね」
……“ニックさん”。
「皇妃というのも考えようによっては悪い立場じゃないのに。皇后と違って子を産む以外の義務はないし、奥宮を出ることになっても身ひとつじゃないわ。私なんて素敵な旦那様と可愛らしい宮殿、そして一生食べるに困らないお金をもらって宮を出たのよ」
好きじゃない男に嫁ぐことも、第二・第三夫人として娶られることも、貴族令嬢にとってはよくあることなのにとカリーナ様は笑う。
カリーナ様を「好き勝手に生きている自由人」という人は多いが、カリーナ様には強い貴族の矜持がある。
お父様でさえも「帝国語をしゃべる不思議な生き物」なんて言いつつ、カリーナ様のしなやかな貴族の女性らしい在り方に敬意を払っている。
「ねえ、シアちゃん。ニックさんのことが許せない?」
「いいえ」
「即答ね」とカリーナ様は笑われるが、カリーナ様がどのことを聞いているのであっても陛下のなさったことで私が許せないことはもうない。
「夫が隠し子を連れてきたことは妻として怒っていいと思うけど?」
「ミハイル殿下のことは私が皇后になる前のことですし、皇太子になれなくても陛下に御子がいるということは大事ですから」
面倒なことができたとは思ったけれど怒りはない。
陛下とナターシャが婚約した経緯を思えば婚約期間も夜を共にしていただろうし、ミハイル殿下がいらっしゃることで殿下の生殖能力には問題がないことは判明した。皇帝の子どもを残せることは国の安寧につながる。
「媚薬の件は? 今回ここに来たのはドミに泣きつかれたからなの、息子が口をきいてくれないってね」
!
「もしかして、陛下は知って……?」
「ええ、やっと長年の謎が解けたわ。ドミと元侍従長、この私にも尻尾を掴ませないなんて相当うまくやったのね」
陛下はお知りになった。
恐らくミハイル殿下のことと皇妃選定の話を聞き、先帝陛下は罪悪感が飲み込めずに陛下に真実を話したのだろう。
先帝陛下にはそういう弱いところがあるし、お父様も最初は止めただろうが先帝陛下にだけは妙に弱いお父様のことだから押し負けたのだろう。
でも、真実を知ったところで何にもならない。
すべて今さらだ。
カリーナ様は気を使って陛下が真相を知ったことを話してくださったようだが、それと同時に“いまさら”も分かってくださっている。
「シアちゃん、国にとって理想の皇后になるつもり?」
「はい」
本当ならば陛下の皇后は私ではなかった。
あのとき陛下は皇后になれる令嬢を新たに探していて、その手伝いを頼まれて私も協力していた。
彼女はどうだろうと無神経に私に聞く陛下に、どうして私ではダメなのか尋ねたいと何度も思った。
だって私はペトロフで、一度は陛下の婚約者になりかけた。
年齢だって当時は24歳と19歳。
見た目も精神的にも大した差ではないはずだった。
せめて陛下のお后探しを断ればよかった。
でも、私は陛下のお傍にいたかった。
その結果がいまの状態。
この状況は国として最良ではないが、悪くもない。
最良になる邪魔をしていた恋心は消えた。
そして私の身に流れるペトロフの血には、この国を最良の形に導くため、きれいごとを並べ立てることも、密やかに政敵を排除する力もある。