恋心を捨てました
注意)女性を蔑視する表現が出てきます。
「皇后!」
アナスタシアの視界に一杯に映ったのはニコライの顔。ニコライ=ドエフ=ロシャーナ。このロシャーナ帝国の若い皇帝でアナスタシア=ペトロフ=ロシャーナの夫。
(整った顔立ちは焦った表情も絵になるわ)
奇妙な浮遊感を感じながらアナスタシアはぼんやりと思い、ふと気づく。ニコライが傍にいるのに落ち着いている自分。分厚いガラスを通してニコライを見ているような、向き合っているのに第三者の視線でいるような奇妙な気持ちだった。
「痛みはないか? 気分は?」
「どこも痛くはなく、気分も悪くありません。なぜ……」
『そんなことを聞くのか』と続ける前に、アナスタシアはこの状況を理解した。
「私、階段から落ちたのですね」
段数は三段ほどで、落ちたというよりも『踏み外した』のほうが正確である。しかしアナスタシアとしては自分から失態をさらけ出すのを躊躇った。
「君は頭を打って、気を失ったんだ」
(つまり転んで頭を打って気絶した、と……なんという醜態)
そうしてニコライに抱き起されている状況。アナスタシアは穴を掘って埋まりたい気分になった。
「も……」
アナスタシアは迷惑をかけたことを詫びようとしたが、ふと気づいて口を止めた。アナスタシアは詫びる必要がないことを思い出した。
アナスタシアは動揺していた。普段のアナスタシアなら階段を踏み外すような失態は犯さない。つまりそれだけ動揺していたということであり、動揺させられたということになる。
(そして……)
それほど動揺させたのは、いまアナスタシアを抱きおこしているニコライだった。
「痛みは? 目眩はしないか?」
(いつもは私に無関心なくせに……)
ニコライの心配そうな声と表情にアナスタシアは失笑しかけ、ふと気づく。この心配も、抱き起す優しさも、全て後ろめたさからきている行動だと分かっているのにアナスタシアは面白がっていた。面白がれていることにアナスタシアは泣きたくなった。
(……やっと、ね。やっと諦められたのね……)
ニコライを見ればアナスタシアの心は揺れ、例え義務感からでもニコライに触れられればアナスタシアの感情は荒れ狂った。
その心や感情が、理由はどうであれニコライに優しくされているのに揺れることも荒れることもない。凪いだ心にアナスタシアは目を閉じた。
◇
アナスタシアはニコライを愛していたが、それは一方的な愛だった。ニコライはアナスタシアを愛していなかった。ニコライにとってアナスタシアは謀りで后になった卑怯な女だった。
ニコライは婚約者でアナスタシアの従姉妹のナターシャを愛している。
卑怯者の自覚はあった。
だから、陛下の冷たさにも憎しみにも耐えた。
そして、その耐える姿が陛下にとっては私が罪を認めた証になっていらっしゃったのだろう。
でも、違う。
陛下の思っていらっしゃる罪と、私が感じている罪は、招いた結果は同じでも内容が違う。
陛下が思う私の罪は、私が媚薬を使って彼と関係を持ち、皇后の座についたこと。
私はそんなことはしていないが、それを否定しなかったのが私の罪。
「仕方がない」でもいいから、陛下の后になりたかった。
形だけだったが、私に結婚を申し込むときの陛下は悔しそうだった。
陛下は、「君を愛することはない」と仰った。
そう言われるのは当然だと思った。
それでもいい、と。
だって傍にいれば愛される可能性があると思っていた。
……恋愛物語を読み過ぎたのね。
人間の感情は理屈で制御などできない。
卑怯者と誹られる自分が愛されることないと理屈で分かっていても、愛されるかもしれないという期待が痛みと涙をつれてきた。
でも、いま愛されることへの期待がない。
久し振りに心が軽い。
もう苦しみを感じていない。
「侍医はまだか!」
陛下の向こう、青い空に目を細める。
とてもきれいだ。
「空は……こんなに青かったのですね」
「皇后?」
しばらく、空を見ていなかった。
それに気づいた。
結婚してからの2年間、妊娠の兆しがない私に「まだ2年」と「焦る必要はない」と慰めた者たちが、陰で私を石女と嗤っていることは知っている。
陛下に皇妃を娶るよう進言すべきだと遠回しに言う者もいた。
社交場で「自分なら直ぐに」と挑発的に笑う女性たちともやり合った。
どれもこれも疲れたけれど、一番疲れたのは毎回月のものがくるたびに落胆する自分を奮い立たせることだった。
でも最近は、奮い立つことにも疲れて、ずっと俯いていたみたい。
だから、空の青さに気づかなかった。
「もう大丈夫ですわ」
……ずっとあなたが好きでした。
「あとは侍女たちに任せ、陛下は仕事にお戻りください」
さようなら。