幼馴染から恋人に変わったら
時刻は20時を回った頃。葉月は最近幼馴染から恋人に昇格した優馬の部屋のリビングのソファーに座り、サブスクで映画を見ていた。昨日から優馬の部屋に泊まり、今日一日優馬と過ごす予定だったのだが、急にバイトとサークルの飲み会が入ってしまった。本人は行きたくないと駄々を捏ねていたが葉月が自分の事は良いと、無理矢理送り出したのだ。
本音を言えば行って欲しくはなった。しかし、常に人手が足りないと愚痴っていたバイト先は人間関係だけはマシだと言っていた。この先急にシフトを変わって欲しい時恩を売って置けば後々スムーズに事が運ぶだろうし、優馬はサークル内で人気があると聞く。優馬が来るのと来ないでは先輩(女子)の機嫌の良さが違うとも。円滑な人間関係を築くことはこの先優馬にとってプラスになる。だから自分と過ごすよりそっちを優先してもらったけど。
(…優馬のことだからサークルでもバイト先でもモテてるんだろうな)
優馬は幼い頃から整った顔立ちをしており、周りには女子が常にいた。中学に上がった頃から必要以上に女子を寄せ付け無くなっても、一つ年下で家族ぐるみで仲の良かった葉月は大層羨ましがられたし、そういう仲かと邪推もされた。葉月は優馬を兄と思っていたし、優馬も自分を妹としか見ていないと、そう思っていたのに。
ただの幼馴染の関係から変わったのは数カ月前の春、二十歳の誕生日を迎えた葉月を優馬が居酒屋に連れて行ってくれた時のこと。女性関係でとばっちりを受けたとかで少々荒れていた優馬はハイペースでビールを飲んでいた。酒に強く滅多に酔わないと自己申告していたから心配はしていなかったけど。そうじゃなかったと気づいたのは帰り道。
優馬が何の前触れもなく葉月にキスしてきたのだ。
「葉月、俺と付き合って」
と見たこともない色気を孕んだ表情と声で言われ葉月は混乱した。そして強かに酔っていたこと、優馬の雰囲気に気圧された結果首を縦に振ってしまったのだ。翌日自分の軽率な行動を後悔し、その上優馬が昨夜のことは本気だと言ってきて、いよいよわけが分からなくなった。
その後、周囲に葉月を恋人だと説明し今までの幼馴染の関係からは考えられない程甘い態度を取る優馬に最初は戸惑うしかなかった。けれど、中学の頃に葉月が好きだと自覚して、関係性を壊すのが怖かった、酒の力を借りた結果になったけど葉月と付き合えて嬉しい、と真剣な眼差しで言われ流された自分を恥じた。
自分を大事にしてくれる優馬の気持ちに応えたいと思うようになった時、「妹」としか見れないと昔優馬が言ったことを気にして自分の気持ちに蓋をしたことを思い出す。
兄なんかじゃない、ずっと前から優馬を1人の男性として見ていたと自覚し、自分の気持ちを伝えようと決心した時。優馬を好きだという先輩から「ただの人除け、勘違いするな」と詰め寄られたり、よく話す男子から告白され「優馬と付き合ったら、他の女の影を気にしないといけないし苦労する」と不安を煽られたり。色々あった。こうして今も付き合えているのは一重に優馬のおかげ。優馬のことを信じず他の人の言い分を信じた葉月を真剣に諭し、改めて気持ちを伝えてくれた。その勢いのまま…ちょっと危ないことになったけど寸でのところで踏み留まってくれた、優馬が。
「…勢いでやったら後悔しそうだから」
と見たこともないくらい顔を赤くした優馬は何だか可愛く見えた。その認識が間違っていたと思い知らされたのは一か月後、キスより先に進んだ時の事。
経験が無い者同士どうなるのかと不安もあったが、いざ始まったら余計なことを考える暇がないくらい翻弄された。そう言えば優馬は勉強熱心だったな、とくだらないことを思い出さないと自分が自分でなくなるのではと怖くなった。挙句慣れるのも早い優馬のせいで碌に眠ることも出来ず、怒る葉月を背後から抱き締める。
「ごめんな、無理させて」
「…本当、加減て言葉知らないの?」
腰やら下半身に鈍い痛みが走る。大学は午後からだけど、変な歩き方をする葉月を見た察しのいい友人達には何があったかバレてしまいそうだ。
「本当にごめん、葉月が可愛くて歯止めが効かなかった」
不意打ちにそういうことを言わないで欲しい、耳元で。さっきまで色々あったことを思い出し体温が上がる。
「そういうこと言わないで、恥ずかしい」
「恥ずかしい?何で、事実だろ。いつも可愛いけど、さっきの葉月はいつも以上に」
と赤裸々にいっぱいいっぱいだった自分の恥ずかしい様を語ろうとしたのでその口を塞ぐ。その行為すら優馬の中の何かを刺激したらしく、「…可愛い」とボソッと呟いたと思ったら覆い被さるようにキスされた。あれ、優馬ってもっと落ち着いていた気がする。恋人が出来るとこんな風になるのかと驚いてると優馬の両手が不穏に動き出す。その後どうにか回避するのが本当に大変だった。
(ああいうのをむっつりスケベって言うのかな)
と恥ずかしいことを思い出したせいで顔が熱くなってきた。折角風呂に入ったのに汗を掻いてしまう。あれから一度肌を重ねたことでタガが外れた優馬は、(以前にも増して)葉月への好意を恥ずかしげもなく口にするようになった。が、予想に反しそういうことはしていない。
「また無理させたら嫌だから、暫く自制心を鍛える」
何とも真面目だな、感心しつつも呆れていた。葉月としても2人きりになるたびに体力の心配をするのも大変なので願ったり叶ったりだ。実は昨夜そういう雰囲気に持って行かれそうになったがやんわりと拒否した。あの色気駄々洩れの優馬を直視して平常心で居られる自信がなかったことと、単純に恥ずかしかったからである。優馬が少し寂しそうな顔をしていたのは心苦しかったが、許して欲しい。こっちにも心の準備が必要だ。
願いを退けてしまったので今日は優馬のやりたいことをしようと思っていたのだが。
(素直に行かないでって言えば良かったかな)
元々インドア派で1人で時間を潰すことは得意だけど、今日は何だか寂しい気持ちが拭えなかった。傍らに置いていたスマホを確認するが優馬からのメッセージは届いていない。「さっさと抜け出して帰るから」と1時間前にメッセージが届いてはいたけど、どの飲み会に参加してもギリギリまで引き留められていたし、難しいんだろうなと半ば諦めていた。
(どうしよう、待ってようかな)
まだ20時だし夜はまだまだこれからだ、と意気込んでいたのだが暇なあまり自分しか食べないのに結構な量の夕飯を作って完食した上、普段の倍カクテルを飲んでしまったので妙に瞼が重いのだ。寝落ちないように流し見でお笑い番組をつけているが、あんまり面白くないので効果は薄い。逆に眠気を誘う。
(うわ、本当に眠くなってきた。餃子焼きすぎたなやっぱり)
とうとう睡魔に抗えなくなりソファーに横になる。クッションを枕代わりにしてしまうと起き上がることは難しい。寝るのならせめてテレビを消さないと、と腕を伸ばしテーブルの上のリモコンを手に取りテレビを消す。
(あとリビングの電気…)
数メートルの距離を歩くことすら億劫な葉月はリモコンを手に持ったまま、いつの間にか眠りについていた。完全に瞼を閉じる直前、優馬からメッセージが届いていたが気づくことはなかった。
頬に何か暖かいものが触れている、と気づいたのと薄っすらと目を開けたのは同時だった。
「…ん」
「…起こしたか?悪い」
「…優馬?」
眉を下げ、申し訳無さそうな顔をしている優馬が葉月を覗き込んでいた。かなりの至近距離で。身体を起こし、右頬を何気なく擦り、訊ねる。
「何かした?」
「え?キス」
流石の鋼メンタル。眠っていると思ってた葉月が起きたのだから、恥ずかしいだろうに表情には出ていない。本日も通常運転だ。優馬は今した行為について詳しく言うつもりはないようで、話題を飲み会に移した。
「早めに切り上げるって言ったのに、結局遅くなった。帰ろうとしたらせめて一次会までは居ろってしつこくて…」
苦々しい顔で吐き捨てる。散々引き留められたのだろう。
「けどまだ9時だよ、もしかして無理矢理抜け出して来た?…ごめんね」
優馬は葉月を待たせることを物凄く申し訳なさそうにしていた。メッセージの通り引き留められるのを断って帰って来たとしたら、周囲から付き合いの悪い奴だと思われるかもしれない。それが心配だった。しかし優馬は否定する。
「違う、俺が葉月に早く会いたかっただけ。だから謝るな」
相変わらず優しいな、と胸が温かくなるのを感じながら優馬を見上げていると「ん?」と怪訝な顔をする。
「もしかして酒臭い?」
言われてからスンスン、と優馬の身体に顔を近づけ匂いを嗅ぐと確かに酒の香りがする。
「本当だ、そんなに飲んだ?」
「いや、あまり飲んでないんだけど、今日行った店の酒が濃かったみたいでさ。少し酔っているかも」
酒に強く、滅多に酔わない優馬は例の件以降、あまり飲まないようにしていると言う。なので酔った優馬は今では滅多に見ることが出来ない。レアキャラだ、と優馬を見つめているとふんわりと笑った優馬が葉月の横に座る。どうしたんだ、と思った瞬間ぎゅうと抱き締められた。密着すると、さっきよりも酒の香りを強く感じる。
「…やっぱりお前とくっついてると落ち着く。疲れ吹っ飛ぶわ」
葉月にそんな機能は無いので完全に気のせいである。それでも自分自身が優馬の疲れを癒す一端を担っている事実は素直に嬉しい。葉月も優馬の背中に腕を回すと嬉しそうに息を吐いたのが分かった。
「やっぱ葉月小さい…俺の腕の中にすっぽり収まって…」
呟きながら葉月の肩に頭を擦りつける。158の葉月は180を超える優馬に抱き締められると身体にすっぽり包まれる形となる。優馬は葉月をこうして抱きしめるのが好きだ。特に疲れた時、体力が回復するという名目で良くされる。
「そんなに疲れたの?」
「んー、彼女出来たって言ってるのに色々口出してくる奴が居てな」
葉月はふと、以前自分を鋭い目つきで睨みつけ親切に「忠告」してきた先輩の事を思い出した。彼女のように優馬に好意を抱いていて、幼馴染から彼女という地位に昇格した葉月を快く思っていない人は想像より多いのだろう。「幼馴染」という関係性だからこそ許されていただけであって、葉月と優馬は並ぶと釣り合っているとは言い難い。優馬や仲のいい友人は可愛いと言ってくれるけど、自分の顔立ちが平凡なのは自分が良く分かっている。
(私より自分が、って言うお洒落で自分に自信のある人多いんだろうな)
優馬の横に並んで見劣りしない、のは難しくとも化粧や服に気を遣うことは出来る。大学に入ってから化粧の仕方を勉強したり、流行のファッションを調べたりはしていたけどそれだけでは不十分なのかもしれない、と最近思い始めた。
「…私ももっと頑張らないと」
「?何を?」
「優馬の隣に並んでも足引っ張らないように自分磨き頑張りたいなって」
「…誰かに何か言われた?」
不意に低い声が聞こえ、自分を抱きしめる腕の力が強くなる。
「誰だよ葉月に変なこと言った奴、全員しばいて」
「違う違う、何も言われてないよ。ただ優馬が他の人から色々言われないようにもっとお洒落というか、綺麗になりたいというか」
不穏な気配が優馬から漂い出したので、慌てて説明する。彼は成績は良いのに葉月が絡むと少し思考能力が落ちる。本気で葉月の陰口を言った人間が存在したら、直接乗り込んで行きそうな怖さを孕んでいた。が、優馬の関心は既に存在するか不明な「変なこと言った奴」から移ってた。さっきとは違う不安げな声で囁く。
「…これ以上綺麗になったら今より変な虫が寄って来そうで複雑」
「?」
「松本に告白されたんだよな」
何故それを知っているんだ、と顔を上げそうになったがやや強引に抱き込まれ肩に顔を押し付けられた。松本は葉月に告白し、優馬と付き合う覚悟を問うてきた男子だ。あれ以来ぎこちないながらも今までのように話せるようになってきていた。告白されたことについてもむやみやたらに話すべきではないと優馬にも黙っていたのだが、この反応を見るに選択を間違えたようだ。
「何で知ってるのかって?あいつが直接伝えに来た。振られたけど胡坐掻いてるとかっさらわれますよって…ムカつくけどあそこまで潔いの嫌いじゃない」
はは、と笑うけど絶対目が笑っていないと分かる乾いた笑いだ。背中に変な汗を掻く。
「…黙っていたのは」
「それに関しては怒ってないよ、ただ葉月が自分の魅力に無頓着だから心配なだけ」
「魅力って、そんなモテないよ」
「…まあモテてようが絶対誰にも渡さないけど」
抱擁を解いた優馬が熱っぽい瞳で葉月を見下ろす。ゆっくりと端正な顔が近づいてきて思わず目を瞑る。自分の唇に優馬の唇が合わさるのと再び抱き締められたのは同時だった。ちゅ、と濡れた音を立てて何度も啄むように唇が重ねられ、葉月の体温は上がり頬も上気し始める。優馬の唇は熱く、何度も重ねられるごとに段々と深くなっていく。上手く息を吸うタイミングが分からなくなり、吐息を漏らすと「鼻で息しろ」と余裕のない声で告げられる。おかしい、優馬もこの間までキスもしたことがないはずなのに、何でこんなに上手い。キスされただけでいっぱいいっぱいで他の事を考える余裕のない葉月と対照的に、優馬は比較的余裕なように見える。何か腹が立つ、と思いながらもこの先優馬に勝てることはないということも薄っすら分かっていた。
散々唇を貪られた葉月が真っ赤な顔で見つめると、満足そうな優馬と目が合う。ギラギラと光っていて獰猛な肉食獣を思わせる目に背筋がゾクリとする。余裕そうだ、と悔しくなったがそんなことはないのだと察した。
「…顔真っ赤で可愛いな…」
油断した時に甘い言葉。ノーガードで受け止めると、ただでさえ赤い顔が更に赤くなり照れ隠しで目を逸らした。
「今照れた?…今日の葉月可愛すぎ…」
蕩けた表情のまま耳と目尻にキスされる。葉月は耳が弱いので変な声が出て、肩が大きく震えた。既に瀕死の状態だがどうにか声を絞り出す。
「…優馬って酔うと甘くなる?」
真っ当な疑問に優馬は真剣な顔で応える。
「そうか?酔っててもあんまり変わってないと思うけど」
言われてみれば、キスされてから優馬はずっと甘い気がした。最初は戸惑ったというのに、慣れというものは恐ろしい。と、背中に回されていた優馬の手が背骨をなぞる様に腰まで移動したと思ったら…パジャマの内側に手を入れられた。キスで昂り出した身体が勝手に跳ね、「ちょっと…」と弱々しい声で抗議するも大した意味を為さないと自分でも分かっていた。
「俺は今すぐ葉月が欲しいけど、嫌ならしない、どうする?」
葉月の選択肢を与えている癖に内側に入り込んだ手はゆっくりと肌を這っている。酔うと甘くなるうえにやや強引になるようだ。それでも無理強いはしてこない。熱情を湛えた瞳で射抜かれた葉月の中から「断る」という選択肢が消え失せた。視線が絡み合い、優馬の瞳の中に物欲しげな自分が映し出され恥ずかしくなったが、逸らせない。羞恥心をかなぐり捨ててコクリと頷くと。
「明るいのは嫌…」
恥じらいながらそう主張した葉月をキョトンとした顔で見ると、小さく笑った。そして軽々と葉月を持ち上げる。
「ここで始めたりしないから安心しろ」
運ばれたのはリビングの隣。勉強机とベッド、本棚のあるシンプルな部屋。葉月は何度かこの部屋のベッドで寝ている。そんなベッドに優しく下ろされ、カーテンを閉めた優馬が覆いかぶさる。仄かな緊張感が葉月を包むが、ポツリと無意識に呟いた。
「優馬、好きだよ」
「…え」
虚を突かれたようにポカンとしている。自分でも変なタイミングだとは分かっていたが、今伝えたかった。
「優馬より言葉で伝えてない気がしたから…いつもありがとう。可愛いって言われるの未だに照れるけど凄く嬉しい」
優馬は口元を手で覆う。暗いのに顔が赤くなっているのが分かってしまった。やがて手を離した優馬がゆっくりと、言い聞かせるように呟いた。
「…俺も好きだ。告白より先にキスしたのに受け入れてくれて嬉しかった。絶対大事にする」
2つの影が重なり合う。好き、と言われたことで興奮した優馬に前回以上に翻弄されることになるのをまだ知る由もない。
読んでいただきありがとうございました。