試すみたいな吸いさしだった
喫煙描写があります。煙草は二十歳以上でも控えめに。
腕時計の短針はてっぺんを回っている。午前一時の終電には乗れそうだ。さっさと退社すればいいのに、残業のストレスが私を喫煙室に向かわせる。
分煙が進み、各階の自動販売機コーナーにあった喫煙スペースは、三年前に撤去され、喫煙者は七階の角部屋に追いやられた。うちの部署からは遠く、往復に五分はかかる。荷物はデスクに置いてきたので、あまりのんきにしていると終電を逃しかねない。煙草のカートンを片手にエレベーターに乗り込み、電光板でのろのろと上昇する階数を睨む。
ガラス張りの喫煙室に人影が見え、少し歩調を落とす。遠目でも、佇まいから誰かはわかった。同期入社のしゅっとした男だ。騒がしいタイプではないのに、遊び慣れた気配のする色男。女性人気は高いが、個人的には苦手で避けている。初配属から別部署で、その後も配属先が重ならず、今、どの部署にいるのかも定かではない。
それほど親しくない人間と一対一になることに抵抗はあったが、目が合ってしまったので今さら回れ右もできない。
「お疲れさまです」
引き戸を引いて声をかけると、同期はスタンド灰皿の正面から体を半分ずらした。
「お疲れ」
隣を空けるような動きにいざなわれ、なんとなく横に並び、壁に背をあずけた。咄嗟に敬語が出たが、相手に合わせてやんわりと口調を変える。
「煙草、吸うんだね」
いかにも美味そうに煙草を喫み、細目でほうっと煙を吐く同期の横顔に、素直な驚きが口をついて出た。
「吸うよ。かなり」
瞼でうなずくように目を伏せつつ、ふたたび煙草を咥えた同期は、こともなげに認めた。
「ここにいるの、初めて見た」
「いつもは外回り中に吸ってるから」
「今、営業にいるんだっけ」
「そう。知らなかった?」
小首をかしげる仕草で、同期がこちらを向いた。からかい混じりの薄い笑みと咎める目つきに、顔を覗き込まれる。改めて見てみると、目鼻立ちの整っているのがよく分かった。私は、喫煙室に入る前に身構えていたので、努めて冷静に、まじまじと見つめ返す。
「ごめん。知らなかった」
「そっか」
同期は煙草に口を付けて、壁に寄りかかる元の姿勢に戻った。私も煙草に火をつけたが、数十秒で沈黙に耐えられなくなり、目についた話題を振る。
「珍しい煙草吸ってるね。美味しいの?」
黒い煙草だった。まれに街中の喫煙所で見かけるが、知人が吸っているのを見るのは初めてだった。
「吸ってみる?」
ごく自然な素振りで、口もとに手のひらが差し出される。人差し指と中指が挟み持つ煙草は、当然ながら吸いさしだ。
「吸わないならもう消すけど」
口を塞ぐ寸前の距離にある手のひらは、私の顔を覆いそうなほど大きい。少し怯んだが、動揺を見せることはためらわれた。横目で見た同期は真顔で、じっとこちらを見つめている。
私は意を決し、首を伸ばして吸いさしに口を付けた。フィルターが甘い。深く煙を吸い込むと、節くれだった指がかすかに鼻先に触れた。再び同期を横目で確認すると、ずっとこちらを注視していたのか、すぐに目が合った。思いのほか真剣な表情をしている。
ひと吸いして口を離すと、同期の手はそのまま灰皿へと伸び、煙草の火を押し消した。間違っても指が触れてしまわないように、その手が退いた後で私も手を伸ばし、自分の手の内にある煙草の灰を落とす。まだ吸える長さのそれを惜しむ気持ちはあったが、一寸悩んだあとで火を消した。喫煙室に漂う妙な雰囲気に居たたまれなくなり、逃げ出したかったからだ。
「帰るの?」
帰る以外の選択肢などあるだろうか。ちらっと目線で困惑を返すと、
「ホテル行かない?」
と率直に訊かれた。
聞き間違いかと耳を疑う。体を引きつつ、
「なんで?」
と確かめるが、
「抱けると思ったから」
と同期は悪びれない。
「今、初めてまともに喋ったのに?」
「こういうのって直感だろ」
「あり得ない」
私は、嫌な顔を隠さず、早足で喫煙室から抜け出す。ゆっくり閉まるガラス戸を手で引き、ぴしゃりと閉め切る寸前、低い囁き声が追い討ちした。
「できると思った癖に」
ガラス越しに、図星を見透かすような真っ直ぐな目と視線が絡む。同期は私と目を離さず、ジャケットの内ポケットから煙草を取り出した。箱を振り、封緘紙の横からせり出した黒い煙草を咥え、引きずり出す。挑発的な仕草だった。
私は顔を背けて、エレベーターに逃げ込む。同期が差し出す黒い煙草に口を付けたとき、いつかこの人と付き合う気がする、と思ったことは事実で、心臓が早鐘を打っていた。
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