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ソープ嬢の幼馴染

作者: 齊川萌

 我慢をしてきました。

 三ページの日記には、その男の人生における最大の見せ場である一日に至る経緯が惜しみなく詰め込まれている。全体的に右上がりで最後の筆が絶対に止まらないその筆跡から、いつも何かに急いていて、どことなく落ち着きがなく、最後まで物事を完遂できない性質の持ち主であると分かる。しかし字全体を見渡すと、それは一般に美しい筆跡に分類されるとあって、真面目で人当たりが良く完璧な人間であると誤解されがちな人間であると分かる。事実私の知っているその男は、真面目で人当たりが良く完璧な人間であると思われがちであるが、実情はいつも何かに急いていて、落ち着きがなく、目標を最後まで達成したことを見たことがない人間だ。ここで一番重要なのは、彼はまぎれもなく人間であるということだ。

 隠して生きていくことに、疲弊したのです。

 そして同時に、その男は私の恋人だった。しかし、筆跡から感じられるのは、男が私を愛してはいなかったこと、男を追い詰めていたのは私だったということ、完璧な人間を装うことに疲れてしまったということである。私にとってその男はとても良いパートナーであり、親友だったが、その男が大学を辞めてからは、どこかAI染みたやり取りばかりを積み重ねていたように、今となっては思う。思えばその男は私に大学を辞めた理由も、今後どうするつもりなのかも、果てには私のことをどう考え、どう扱うかも、遂に教えてはくれなかった。それは私にとって大変都合のよい事実であったということに、異論はない。

 その男が愛していたのは別の男であり、私が愛していたのは別の女だった。私はとっくの昔に隠すことをやめていた。それをいいことに、その男とも別の女とも関係を持っていた。どちらにもそれぞれの存在を隠すことはしなかった。私が抱いていた女は、男の幼馴染だった。それを打ち明けた日、男は一瞬狼狽し、それから毎日だった私の家への訪問は、週に一回あるかないかになった。

 消えるという道を、選択することにしました。

 男は混沌とした頭だったのだろう。正常な判断が出来なくなり、学業をきちんとこなし、社会生活をまともに送ることがどういうことなのか、頻繁に考えるようになった。考え抜いた挙句、その手順を正常に踏めない自分は、やはりどこか欠陥があるのではないか、と考えるようになった。複数の人間と関係を持つということが、男の世界を壊したのは間違いない。結果、酒に身を堕としながら、自分の持っている貞操観念をじっくりと調べるように、部屋に誘った女を片っ端から抱いた。男にとってセックスとは、自身が正しい存在であることを確かめるための自傷行為のようなものだった。男は大学を去った。

 私は変わらず女を愛し続けていた。男がいなくなったといってパニックに陥らなかったのは、その女の存在によるところが少なからず大きい。その男は私にとって初めての相手であり、夢を現実と認識させてくれた教祖のような存在だった。私は男との初夜を、今でもありありと想起できる。

 男は死んだ。大学を去って誰からも看取られず、ソープ嬢に殺されたところをホテルマンに発見された。男のスマートフォンの緊急連絡先に登録されていた番号にかけると、私が出たというわけだ。私は淡々と電話に応じ、現在、こうして血塗れになった六○三号室に立ち尽くしている。

「ご愁傷様です」

「あ、もう関係ないので」

 私は反射的にトレーナーの裾をきゅっと握った。私の手が握っても良い左手は、もう二度と現れないんだろう。そう思うと、私が感じてきた違和感に、妙に納得がついてしまって、侘しい気分になる。


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