本番当日① ゲネプロ、そして本番開始
十二月某日、土曜日。朝八時を少し過ぎた頃。
僕は市民会館を訪れていた。
ここは小さいながらもオーケストラの演奏ができる大ホールと、少人数の室内楽コンサート中心の小ホール、二つの会場を兼ね備えている。
まずは正面の会場入口へ。とは言えこの時間、まだホール自体は開場していない。
見に来たのは、入口手前、『本日の公演予定』の掲示板。
その小ホールの枠に貼ってある『四季色カルテット』のポスターを確認すると、僕は改めて気を引き締めた。
そう、今日はいよいよ本番。
ここ四か月練習してきた『ボロディン弦楽四重奏第二番』を、お客さんの前で披露する日だ。
少しの間佇んでいると、後ろから話しかけてくる声が。
「おはよ、調」
「あ、美音。おはよう」
「……いよいよ、だね」
「うん」
本番前特有の、ふわふわした高揚感と、ひんやりした緊張感。もちろん、不安もある。
でも僕は全部ひっくるめて、この感じが好きだ。
隣の美音も同じようで、彼女の表情は、いつも以上に凛々しいものに見えた。
僕らは徒歩で裏へと回り、楽屋口を目指す。そのうちに、吉田さんと坂本さんも到着。
ホールスタッフの方が少し早めに開けてくれ、八時五十分、僕らは会場へと入った。
小さな楽屋は、当然男女で分かれている。二人ずつだから、一番狭い所で十分だ。
楽屋から本番会場のホールへ。いよいよ本番前の最後のリハーサル、いわゆるゲネプロが始まった。
今回、いつもとの最大の違いは、プロである明石さんがいないこと。
演奏中でも、練習の方向性という意味でも、最後にはこの人に着いていけばいいという安心感があった。先週の最後の練習にまで明石さんは付き合ってくれたけれど、いざ本番当日、絶対的支柱のない僕らが、いつも通りの演奏をできるだろうか。
リハ開始後三十分。
特に第二ヴァイオリンの坂本さんと、チェロの吉田さん。年長二人の演奏が、いつもより固く感じる。いったん練習を止めるべきだろうか……。
僕が考えあぐねていると、突然、第一ヴァイオリンのメロディが高らかに鳴り響いた。
美音、そこまでやらなくてもいいんじゃない?
しかし彼女の勢いは収まらず、楽器を鳴らしまくって、明るいメロディを縦横無尽に紡いでいく……うん、いいよ。付き合ってみようじゃないか。
僕は美音のノリに合わせるべく、伴奏のテンションのギアを一段階上げることにした。
すると今度は、吉田さんも乗ってきてくれる。うん、いつもの音が戻ってきたぞ。
そして坂本さんには……何だか苦笑されている気がするけど、彼女も弓を大きく動かして、伴奏のテンションを合わせてくれた。
勢いでこの曲を通し切ると、美音が思わずといった具合に叫んだ。
「やー、楽しい!!」
「ってか美音、やりすぎ」
「えー、調だって、途中で乗ってきてくれたじゃん」
「まあ、つい……。でも、本番はもう少し緻密に行こうな」
「はーい。
坂本さんも吉田さんも、もし私が暴走しかけたら、よろしくお願いしますね!」
「いやー、おじさんはついてっちゃうよ~」
「吉田さん、チェロは土台なんですから、どっしり構えてくれなきゃ困りますよ。
でも美音ちゃん、ありがとね。調君も。せっかくの本番なんだし、やっぱり楽しまなきゃね」
「そうですよ、坂本さん!吉田さん、本番は録音するんですよね?」
「うん、もちろん」
「じゃあ、その録音を聴かせて、明石さんをギャフンと言わせてやりましょう!打倒、明石さんです!!」
「おー!」とばかりに腕を振り上げる美音。
「ははは、いいね、それ」
「確かに、そのくらいの気持ちでないとダメね」
「でも美音、今のは確実に明石さんに突っ込まれるからな。皆さん、練習番号Eあたりから、もう一度やりましょう――」
美音のおかげで、僕たちは最終的に、最高の雰囲気でゲネプロを終わることができたんだ。
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ゲネプロを終え、昼食休憩の時間。
男子楽屋で楽譜の確認などをしていると、コンコンとノックの音が。
「はーい」
「調ー、ご飯、一緒に食べようよ」
美音だ。
「いいよ」
僕は持参してあった弁当箱を手に取った。
「吉田さんもどうですか?」
「いや~、僕はいいよ。若い二人で楽しんできな」
手をヒラヒラと振る吉田さん。無理に誘うこともないかと思い、そのまま楽屋を後にする。
ここはあくまで市民会館だから、ホール以外にも、会議室や子供向けイベントスペース、図書室などが併設されており、利用者も多い。
僕らは多目的スペースの一画に腰を下ろした。
僕は持ってきた弁当を広げる。美音はパンのようだ。
「お、お弁当。いいね」
「うん、お母さんに持たされたよ」
「いいじゃん」
「美音はパン派?」
「うん、本番の日はね。食べやすいし。そういえば、今日は家族も呼んでるの?」
「うん。みんな来てくれるって」
「へえ、いいなあ。うちは仕事が忙しいみたいで……」
そう呟く美音は、どことなく寂しそうだ。
「そういえば、美音は知り合い、結構呼んでるの?」
「うん。学校の子、四十人くらいかな?あと、前の学校の子とか、中学時代の友達とか。
百枚くらいはチケット配ったと思う」
「百枚はすごいな。僕は二十行かないくらいかな」
「もっと配らないとダメだよー。まあ、全員来てくれるわけじゃないと思うけどね」
とは言え、誘わないことには来てくれるはずもなく、アマチュアの演奏会での事前チケット配りは大切なのだ。
「でも、吉田さんとか顔が広いから、いっぱい配ってそう」
「うん。普段から吉田さんの知り合いらしき人は多いよ。あと明石さんの関係の方。それから源田先生の教え子さんも」
「そうなんだ」
「やっぱり恵まれてるよね、こんな高校生の素人の演奏でも、みんな聴きに来てくれるんだから」
「だね。
……よし、気合入ってきた!!調、行くよ!!」
勢いよく立ち上がる美音。おいおい、ペットボトル忘れてるよ!!
楽屋に戻ると、吉田さんがチェロを弾いていた。仕事のある社会人は忙しいから、練習の時間を確保するのも大変だろう。入念に最終確認をしている姿を邪魔するのは悪いと、声はかけずに、僕も自分の準備をすることにする。そろそろ衣装へと着替えなければ。
男性の衣装は、黒スーツに白シャツ、蝶ネクタイだ。クラシックコンサートでは定番の格好。
いかにも正装といった格好に身をつけると、否が応でも気が引き締まる。
姿見で全身をチェック、うん、問題なし。
「吉田さん、先に行きますね」
「了解、あとちょっとさらったら僕も行くよ」
楽器ケースと楽譜を持ち、舞台袖へと向かう。どうやら僕が一番乗りのようだ――女性は準備に時間がかかるからね。
それでもしばらくすると、
「おー、お客さん、結構入ってるね」
美音が小声で話しかけてくる。本番二十分前、彼女も準備が終わったようだ。
「うん、よかったよ」
お客さんに届かないよう、僕も小声で返した。
「おお……」
改めて彼女の立ち姿を眺め、僕は思わず息を呑んでしまう。
ブルーのドレスに身を包んだ美音の姿。普段は下ろしている茶色い髪も、今回はアップにセットされている。ほんのり化粧も施したのだろう、元々整った顔立ちは、更に美しさが強調されていた。
「へへ、惚れたかい?」
少しにやけながら、そんな冗談を飛ばしてくる彼女。
「うん、すごくきれいだ」
……思わず本音がこぼれてしまった。
「ちょ、そんな本気な感じで言われると、さすがに照れるって言うか……」
向こうも何だか照れ臭そうだ。
しかしそんな空気を壊すように、吉田さんが現れた。
「おうおう、いいねえ、若いって」
坂本さんも一緒だ。
本番十五分前。この段階ではさすがに、私語を交わすことはない。
ビーーーーーーーッ――
『演奏開始、十分前です。ロビーにいらっしゃるお客様は、客席へとお戻りください』
ブザーと共に、会館スタッフによるアナウンスが流れた。
吉田さんが言う。
「いつもはここで明石君が締めてくれるけど、今回は不在なので、年長の僕が。
今回は明石君がいないけれど、代わりに美音ちゃんが入ってくれました。美音ちゃん、本当にありがとう」
「ありがとうね」
「ありがとう」
「い、いえいえ、私こそ、こんな経験させてもらって、ありがとうございます」
「このメンバーで演奏できる機会が次いつ来るか分からないけれど、悔いの残らないよう、今までの練習の全部を出し切って、思いっきり楽しみましょう!」
「「「はい!」」」
もちろん小声だけど、力強く、皆で気合を入れ直した。
……そうか。
この本番が終わったら、次回はまた明石さんが戻ってきてくれる。
そしたら、美音と音楽できる機会が無くなっちゃうんだ。
今まで全然、そのことに気付けていなかった。そうか、今日が最後……。
しかしそんな感傷に浸る間もなく、会場全体の照明が落とされ、程なくして、ステージを照らすライトがオンになる。
それを合図に、吉田さん、僕、坂本さん、美音の順で、僕たちはステージ中央へと歩いていった。
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本番は滞りなく進む。
小品数曲の後、メインとなるボロディン弦楽四重奏第二番。
もう二楽章が終わってしまった。
一楽章ももちろん好きだし、二楽章も思い出深い。
けれど、僕と美音の心に深く根付いたのは、次の三楽章だろう。
「ノットルノ」と題されたこの楽章は、日本語で「夜想曲」。英語で言う「ノクターン」という言葉は、聞いたことがある人も多いのではないだろうか。
夜の風情を、最高にロマンティックに表現した、甘い楽章。
この楽章ではどうしても、あの夜のことを思い出す――。




