月島美音
ボロディンの『弦楽四重奏曲第2番』の冒頭は、チェロによる美しい旋律で幕を開ける。
素朴だけれど気高い、僕はそんなイメージを持っていて、聴く人の心を一瞬で鷲掴みにしてくる、そんな名旋律だ。
たった四小節のフレーズが、今度は第一ヴァイオリンに引き継がれ、もう一度。
皆の意識が月島さんに向く。
それにしても月島さん、楽しそうに弾くなあ。
「この曲が好き」という気持ちがとても音に乗っていて、こっちもテンションが上がる。
ちらりと周りを見ると、坂本さんも吉田さんも、心なしかいつもより表情が柔らかい。
----------------------
1楽章を一時間ほど練習し、いったん休憩。明石さんと吉田さんは部屋を出ていった……明石さんはトイレ、吉田さんはたばこ、かな。
坂本さんは黙々と曲をさらっている。
月島さんは、イヤホンを耳につけて何か聞いている。次にやる2楽章だろうか……にしては、何だか神妙な顔つきだ。と思ったら、急に顔が明るくなった。この子、表情がコロコロ変わるんだな。
あんまり見ていても悪いし、僕は自分の練習に入ることにする。
合奏の時は集中していたけれど、頭も少し疲れてきたのか、余分なことを考えるようになって。何となく、柚季の顔が思い浮かんだ。ああ、せっかく忘れてたのに。
どんより落ち込む気分の中、僕は何とはなしに弓を構える。オリジナルのフレーズ……柚季のために作った、例の曲の冒頭だ。結構いいメロディだと思うんだけどな。
「あーっ!!!!」
「わ、月島さん!?な、何!?」
「それ!その曲!」
ダダッと僕のところに駆け寄ってくる月島さん。
「な、何だよ」
「今、君が弾いたフレーズ、何!?」
「何って……」
彼女はゴソゴソとポケットから何かを取り出した。
「あ、その紙!?」
何かの切れ端のようなそれは、確かに見知ったもので。
二次元コードと、「聞いてほしい曲がある」のメッセージ。
「ここからWeTubeに繋がって曲が聴けるんだけど、今君が弾いてたのと同じ!最初はヴィオラのソロなんだけど、だんだんバンドサウンドになっていって……それ、ファンナイの新曲っぽいの!」
うーん、どう説明したものか……。けれど、
「よし、そろそろ練習再開するぞー!」
明石さんの声に彼女との話は強制的に打ち切られ、僕は内心ほっとするのだった。
「じゃ、2楽章、まずは通しで」
明石さんが促し、今度は第一ヴァイオリン担当の月島さんの合図で曲が始まる。
第2楽章はスケルツォ。1楽章とは打って変わり、速いテンポの細かい動きが多く、まず技術的に結構難しい。
しかし、これは――。
何とか通しを終えるも、皆浮かない表情だ。明石さんも苦笑いしながらコメントを添える。
「こっちは、まだまだ課題が多いな」
「ふひー、明石さん、難しいよう」
吉田さん、何だか息が切れているけど、気持ちは分かっちゃうな。速くて難しくて、忙しいんだよね、この楽章。僕はチラリと月島さんを見る。明石さんも彼女に話しかけた。
「美音、頑張ってるのは分かるが、もっと楽に弾けないか?」
「楽に、ですか?」
「ああ。お前は小さい頃から楽器に触れてる分、テクニックもある。でも今のは、『曲が求める演奏』じゃない」
「ええと、どうすれば……」
明石さんの抽象的な言い回しに、戸惑った様子の彼女。すると明石さんはニヤリと笑って、
「おう、調。ちょっと弾いてみろ。俺のヴァイオリン貸すから」
「な、また無茶ぶりを……」
「できるだろ?」
「まあ、もともとヴァイオリン出身なんで……」
と言うか、『メロ』としては普段からヴァイオリンも弾いてるしなあ。
明石さんからヴァイオリンを受け取り、軽く適当なパッセージを奏でてみる。ついついファンナイの曲から選んじゃうのは、やっぱり弾き慣れているからだ。
うん、さすがプロ。楽器も弓も、僕のとはグレードが違い、とても弾きやすい。
月島さんの方に目をやると、何だか口をパクパクしてる。僕がヴァイオリン弾けるの、そんなに意外かなあ?ヴィオラ弾きって結構、ヴァイオリンから転向したって人も多いと思うんだけど。
「ええと……」
楽譜がないので、立って月島さんの横へ移動する。
ちょっとだけ、左手だけ動かして指回りを確認。
「じゃ、やります……」
確かに速いけど、それに気を取られ過ぎちゃダメなんだ。
「……こんな感じですかね?」
しばらく弾き続け、切りの良いところで演奏を中断する。うん、個人的にはいい感じに弾けたと思う。
パチパチパチ……。
坂本さんと吉田さんが、拍手してくれた。
「おー、さすが」
「……うー、何よそれ、反則じゃない……」
何だかブツブツ言っている月島さん。
「さ、美音。一回やってみようぜ。やらなきゃ何も始まらない」
「はーい……」
何だか納得しきれていないような顔だけど、明石さんの言うことはもっともだ。
「もう一度四人で冒頭から」
明石さんの指示に、改めて皆が冒頭に戻る。
うん、第二ヴァイオリン以下の三人は、前よりいい感じにまとまってきている気がする。
しかし一方、月島さんの方はというと……。
「ああー、すみません!今のは全然ダメでした!もう一回、もう一回お願いします!」
「ははは、ドツボに嵌ってんな。いいぞ、もっと考えろ。今できないのは全然問題ないからな。
じゃ、みんな、ちょっとファーストに付き合ってくれ」
「あいよー」
「いいですよ」
という訳でもう一回。しかし――
「うう……どんどん酷くなってる気がする」
「はっはっは、精進だな」
「明石さーん、ヘルプミー!」
「おう、でももう三時を過ぎたからな。今日の合奏はここまで。皆さん、よろしいですか?」
明石さんの確認に、皆無言で頷く。
「じゃ、今日はここまで。お疲れ様でしたー」
「お疲れ様でした!」
「みんなー、いつも通り、四時まではこの部屋使えるから!」
吉田さんが声掛けしてくれる。
合奏直後に、復習や次回の予習ができるので、その采配はありがたい……でも、
「いつもありがとうございます。でもすみません、今日は予定があって、失礼しますね」
「おう、そうか。お疲れな。次は二週間後、またこの部屋だし」
「了解です!」
事務所に行く約束をしてしまったし、今日は残れないんだよな。
僕が楽器を片付けていると、
「藤奏君!!」
月島さんが話しかけてくる。
「ああ、月島さん、今日はお疲れ。どうしたの?」
「さっきの休憩時間の時の話が終わってない!」
あ、そうだった……あの曲のことか。ええとでも、何も言えないし、こんなときは……。
「え、ええと、ごめん!この後用事があって、急がないといけないんだ!また今度の練習の時でもいい?」
秘技、問題先送りの術!
「それなら、月曜日、学校で!!」
「学校?」
「私、星が丘高校、二年二組!!」
「え、マジで!?」
うわー、まさかの同じ高校って……。とりあえず逃げるように退室するも、問題は先送りできたようでできていないことに気付くのだった。




