丙午の巫女 ‐第壱章‐
これは、遡ること五百年ほど前、世は戦国乱世の幕開けだった頃の話だ。当時の御社には四人の巫女が勤めていた。禰宜に金宮家の紅葉、権禰宜に御子山家の千方子、金宮家の鈴鹿、杜下家のお温羅、という内訳だ。
鈴鹿の姉である紅葉は才色兼備のお淑やかな女性で、隣の村までその名が轟くほど優れた巫女でもあった。彼女はまた政治を理解することにも長けており、政情に合わせた言動がとれ、そのうえ人当たりも良かったために他家の者たちからも慕われ、村の精神的な主柱として三家の勢力均衡の維持にも貢献していた。
権禰宜の三人もまた彼女のことをよく慕っていた。特に数百年に一人の逸材といえるほどの優秀な巫女を姉にもっていた鈴鹿は、幼い時から姉とは寝食を共にし、道を共にし、時には価値観の相違や嫉妬から衝突することもあれど、互いに互いの最大の理解者と言ってよく、一切気の置けない間柄であった。
村全体にとって、巫女仲間にとって、そして何よりも妹にとってかけがえのない存在だった紅葉であったが、不幸にも嫁入り前に病に倒れ、齢二十三にしてこの世を去ってしまう。
紅葉の死後、その後任として禰宜に就いたのは、彼女と同い年であった御子山家の千方子だった。千方子は禰宜就任以来、一つ下の鈴鹿や三つ下のお温羅に対して日頃から厳しい態度をとっていた。特に鈴鹿が失敗を犯した際には毎度の如くこれでもかというほどに叱責しており、当時神主をしていた千方子の父も千方子に対して言い過ぎではないかと指摘するほどだった。
しかし彼女のこの異常なまでの厳格さは、元来のものではなかった。彼女は自分が紅葉の後継であり、紅葉がこなしていた役割を忠実に引き継がなければならないという責任感と重圧に苦しんでいた。鈴鹿もお温羅もそれについてのみならず、千方子の面倒見が良く気配りの効く性格も、彼女が一日の仕事が落ち着いてから見せる優しさもよく知っていたため、一切不満を示すことはなく、むしろ彼女の叱咤を真摯に受け止め、務めに励んでいた。
ところで、実はこの村に鬼が跋扈していた時代、村人の中には望む望まぬに関係なく、鬼と契りを結んだ者たちが幾人もいたという。そうした者たちは鬼共には喰われることなく、自らの身の安全を確保できたらしい。しかし火神による鬼の討伐後、彼らもまた"鬼"として他の村人たちによって厳しく裁かれ、過酷な拷問や懲罰を受けたという。
そして時代が下るにつれ、鬼の妖術や怪力に対する誤った認識が広まり、この村では誰かが病に倒れたり何者かに殺されたりしたとき、鬼と契りを結んだ者の存在が疑われるようになっていった。自分と契りを結んだ鬼の妖術や怪力があれば、憎む相手を自分の手を汚すことなく殺害できるという考え方が村中に浸透したのである。鬼との契りを疑われた者もまた"鬼"とされ、"鬼狩り"が行われ、捕縛された"鬼"は一方的な尋問を受け、自白するまで拷問を受け続け、自白すれば村中の人々の面前で磔刑の上、"御燈火"の分火で焚刑に処されるようになった。鬼という超自然的な存在が前提とされたために、人々の不安や恐怖が一層掻き立てられ、刑罰が通常の場合よりも過激になっていった結果であった。
千方子も禰宜就任から一年後、病にかかり、亡くなってしまった。紅葉の時はともかく、この時は"鬼"の存在が疑われた。病の原因は禰宜という職階に対する重圧による精神的な疲労にあったのではないかと考える者もいたが、村内での勢力拡大著しい新興の杜下家は三家の中でも特に血気盛んなこともあり、真っ先に他家の粗探しをし始めた。そしてそれに乗っかったのが御子山家の当主であった千方子の父親だった。
一年前に年番で神主をしていた彼は、千方子が鈴鹿をひどく叱咤しているところを何度も見ていた。愛娘を失って冷静な判断力を欠いていた彼は、娘を憎んでいた鈴鹿が鬼と契りを結び、鬼に娘を呪殺させたのだと決めつけ、杜下家と結託し、鈴鹿を"鬼"と定めて追及し始めた。しかし鈴鹿の実家である金宮家も大名主。逃げ込んできた鈴鹿を暖かく迎え入れると、御子山の当主一人と杜下ごとき、知らぬ存ぜぬで通せばよいと、当初は強気な姿勢を貫いていた。
ところが暫くして状況が変わる。当主の主張はいくら何でも妄言だとしていた御子山家全体が、杜下家の娘で鈴鹿の同僚でもあるお温羅の偽りの証言により、鈴鹿が黒であると考え始めたのだ。鈴鹿の仲の良い後輩だったお温羅が鈴鹿を裏切った背景には、杜下家からの圧力もあっただろうが、虚言によって大家をまるごと動かしてしまったくらいだ。証言は大層まことしやかだったのだろう。人間とは見たいように見、聞きたいように聞く生き物だ。彼女もまた、人間の悪癖というものに囚われてしまったのかもしれない。
御子山家が"鬼狩り"に参戦し、鈴鹿と金宮家にとって状況は一気に不利なものとなった。村の小名主たちは堰を切ったように一気に御子山家の方に傾き、さらには金宮の分家の中からも鈴鹿が本当に黒だと考え、彼女の引き渡しを本家に要求する家まで出始めたため、いよいよ金宮本家の村内での立場さえ危ぶまれる事態に陥ってしまった。
そしてとうとう、鈴鹿の両親は彼女を勘当した。家を守るためとはいえ、このような非情な決断を迫られた彼らの心中は推し量るまでもない。後に鈴鹿の母親は自決している。
金宮家を追放された鈴鹿は捕縛され、尋問にかけられた。利かん気な性格で忍耐力もあり、嘘の自白など絶対にしないと心に決めていた彼女だったが、待ち受けていたのはまさに想像を絶する仕打ちだった。
なんと尋問では千方子呪殺は既に前提となっており、本題が契りを結んだ相手の鬼についてのことにすり替わっていたのだ。周囲はこの機会に鬼退治をしてしまおうと躍起になっていたのだった。
存在するはずもなく、知りもしないものについて白状することを、彼女は延々と要求された。尋問はすぐに拷問へと変わり、彼女は両脚を紐で縛られた上、四肢に長い鎖付きの桎梏を取り付けられて木と木の間に吊るされ、全身を鞭で打たれた。罵声の飛び交う中、彼女は唇を噛んで血を流し、必死に意識を保とうとした。着物が真っ赤に染まり、身体中が傷と痣だらけになっても、私は"鬼"なんかじゃないと声を上げ続けた。
鞭で叩いても大岩を膝の上に載せても白状しようとせず、どこまでもひたすら"鬼"じゃないと言い張る鈴鹿に対して痺れを切らした村人たちは、彼女の心を折るため、最も残酷な手に打って出る。それは彼女の姉・紅葉の遺品などの破壊を彼女の目の前で行いながらの尋問だった。この件に限ってとはいえ、金宮本家の立場はここまで弱くなっていたのだった。
鈴鹿にとって紅葉という姉は、内心では羨望や嫉妬などよりも憧憬の念の方がずっと強い存在であった。舞台上で神楽を誰よりも優雅に綺羅びやかに舞う、自慢の、誇りの姉であった。暗い道を照らし続け、手をとって導いてくれた大切な恩人であった。自分の生きる意味の半分といっても過言ではない、そんな人だった。あの人のためなら、命など惜しくないと、そう思えた。
姉の輝かしい栄光が、守られるべき名誉が、巫女に対する情熱が、妹との大切な思い出が、鉈で造作も無く砕かれていった。
「私はどうなっても構わない!だから、お願いだから、姉さんを壊さないで…」
彼女は拷問が始まって以来、初めて泣いた。姉が冒涜され、蹂躙され、凌辱されていく…
一つ、また一つと無残に破壊されていく遺品に、彼女は耐えきれず、慟哭した。
そしてとうとう彼女の心を折ったのは、姉の墓の墓石の破壊だった。男たちは嘲笑しながら、鎚と杭を用いて墓石をかち割っていき、割ったそれらを投げ棄てていった。
「私は、鬼にこの身を犯されました。姉さん、私、鬼になってしまいました…ごめんなさい…」
彼女は血の涙を流し、泣き崩れた。
墓石をかち割って投げ棄てるのを見せるという仕打ちは、実は拷問官たちが独自に立案したものであり、この蛮行が千方子の父親や杜下家の幹部らの知るところとなると、彼らも流石にこれは死者への冒涜行為だとし、ある意味興が冷めたのか、鈴鹿が"鬼"であることを一応白状したとして、これ以上の拷問を中止させた。
その夜、白装束に身を包んだ鈴鹿は、村中の人々の視線を一点に集めていた。十字架にかけられ、主に関節部の周りを縄で縛られ、両手両足を杭で打たれていた。そして先ほど腹を槍で突かれ、血を吐いた。今はまさに、彼女とその十字架が、自分たち巫女が毎日油を継ぎ足して灯し続けてきた"御燈火"の分火で焚かれようとしている。
確か今年は、丙午。
火に火の年に、焚刑か…。
村中から目の敵にされ、信頼していたはずの同僚にも裏切られ、両親には勘当された。
身体中傷だらけ。髪もボロボロ。
こんな醜女には相応しい最期かもしれない。
でも一つ未練があるとすれば、それは私の
ために姉さんが巻き込まれ、犯され、壊されたこと。それも村全体での手のひら返し…。
許せない。
こんな腐った村、存在してはならない。
この地獄の業火で村中も燃やしてやる。
子々孫々、祟ってやる。
鈴鹿は猛火の中にあっても、村人たちをじっと睨み続けていたという。
丙午の文明十八年、今日この日、金宮鈴鹿は鬼となった。