1話:絵に描いた餅の贋作
その日も僕は、先生の家へ行った。受験間近になった最近は、専ら、先生の家で勉強をしている。
両親は僕が図書館で勉強していると思っているらしい。そして、僕が図書館に居なくても、模試の成績が良くなっていくなら特に疑問は抱かないらしい。
だから僕は、先生の家に寄る。いつも通りに。
……ただ、その日はちょっと、変だった。
先生の家の前に、車が停まっていた。中に人が乗っているのは見えたけれど、近所の誰かを待っているのか、車の中で地図でも見ているのか、そういうやつだろうと思って気にせず車の横を通り過ぎる。
そのまま先生の家の門を開けて、玄関前まで進んで、そこで呼び鈴を押す。僕が押すことに躊躇いを覚えなくなってきたそれは、いつも通りの『ぴんぽーん』という音で鳴ったのだけれど、先生の声はいつまでたっても聞こえてこない。
……留守だろうか。でも、先生は大体いつもこの時間は家に居ると思うんだけれど。
不思議に思っていたら……ふと、声を掛けられる。
「ねえ」
僕が振り返ると、さっきの車から降りてくる人が2人いた。その人達は、門を開けて、僕に向かってにこにこと歩いてくる。
1人は女性。もう1人は男性だ。女性の方はスーツを着ていて、男性の方はもう少しラフな格好。……誰だろう。
「宇貫先生の、お子さん?」
……そう、女性の方に声を掛けられて、僕は流石に、緊張する。
「あら、でも宇貫先生、ご結婚はされてないわよね?ということは……ええと、親戚の子かしら?」
「宇貫先生はご在宅なのかな?お会いしたいんだけれど。呼び鈴を押してもお出にならなくてさ。ちょっとそこで待ってたんだけど……もしかして居留守なのかな?」
ちょっと笑いながら口々に色々言われて、更に、半歩、距離を詰められる。咄嗟に僕も後ずさりするけれど、僕の背後にあるのは先生の家の玄関だ。
……呼び鈴を押されても出ないなら、先生は出たくないから出なかったんだろう。つまり、この人達、先生が会いたくない人だ。なら、この人達を通すわけにはいかない。
「……どうして答えなきゃならないんですか。そもそも、あなた達、誰ですか?」
よく分からないけれど、先生が会いたくないのに先生に会おうとしているらしいその人達は、僕にそう聞かれて、少し困ったような顔をした。
「ええと、お仕事の関係者なのだけれど……」
……どうしよう。どこの人か、もっとちゃんと聞いた方がいい?でも、先生は会いたくないんだと思う。じゃあ、どうやって追い払う?
僕のせいで、先生が会いたくない人に会わなきゃいけなくなるのは、嫌だ。迷惑はかけたくない。ただでさえ、家の一部を借りてしまっているのに、これ以上は、流石に。
「おいおい。騒々しいな」
僕が困っていたら、ガチャリ、と玄関が開いた。そして先生は僕が見たことのないような顔で、僕の前に立っていた人達を睨む。
それから、先生は僕の方を見て、苦笑いを浮かべた。
「……ほら。君は入れ。バトンタッチだ」
「でも」
「ついでにお茶、淹れといてくれ。何茶でもいい。というかそもそも、何茶があるのか僕は覚えていない。引き出しの奥にある謎のお茶とかがあるかもしれないからまあ、好きに発掘しておいてくれ」
先生はそう言うと、ドアを開けていた長い腕をひょい、と持ち上げて、その下から僕をさっと玄関の中に入れてしまう。
僕はただ申し訳ない気持ちでいっぱいだったけれど、これ以上僕が外に居ても事態を好転させることはできないだろうから、大人しく、先生の言った通り、お茶の準備をすることにした。
閉まった玄関のドアの向こうでは何か話す声が聞こえていたけれど、僕はそれを背中に、先生の家の台所へ向かった。
「はー、やれやれ。やっと帰った」
それからしばらくして、先生はようやく、家の中に入ってきた。
「あの、ごめんなさい」
少し疲れた顔をした先生に、言ってもしょうがないって思いつつ、謝る。
「僕がここに来なければ、先生はあの人達の相手をせずに済んだはずだ」
「かもな。だが気にしてない。あいつらの相手をしなくて済む代わりに君が来ないってことの方が退屈だぜ」
案の定と言うべきか、先生は気にした様子もなくそう言って苦笑した。……うん。こう言ってくれるって分かっていたから、余計に申し訳ないんだ。
「……全く。君にこんな顔をさせるとは。塩を撒いてやりたい気分だが、生憎、塩は切らしてるんだ。だから撒くなら醤油か……いや、ヒマラヤだかアンデスだかどこだかの土産にもらった謎の塩があったな。無駄に小洒落た岩塩が。こう、第四次世界大戦でエース級の武器になりそうな奴が」
第四次世界大戦……つまり、石みたいな塩。
「しょうがない。ちょっと探して削ってみるか……」
先生は台所の戸棚の中をごそごそとやって、その内、戸棚の中からピンク色をした塊を取り出した。確かに、石っぽい。……ちょっと透き通った箇所があったり、濁ったところがあったり、きらきらして宝石っぽくて、綺麗だ。
それから先生は、塩を削り始めた。付属のヤスリみたいなやつで。
がり、がり、と音がする。その度に塩が細かい粉になるか、はたまた適当なところで割れ砕けて小さな塊になってか、とにかく、下に敷いた皿の上に落ちる。
「やれやれ、結構な労働だぞ、これは。連中のせいで要らない労働をする羽目になるとはな。いよいよあいつらには塩を撒いてやるのが相応しい……」
先生はどこへともなく悪態をつきながら、一生懸命ヤスリを動かして、岩塩の塊と戦っている。
「……あの、さっきの人達、誰だったの?」
そんな先生を見ながら、僕は聞いてみた。
さっきの人達を見る限り、先生の仕事の関係の人なんだろうとは思うんだけれど……どうにも、先生は彼らが嫌いらしい。
僕が尋ねると、先生はちょっと考えるような顔をした。多分、どう言ったら簡潔かつ僕に言っても大丈夫な範囲で説明ができるか、みたいなことを考えているんだろう。
「あー……まあ、仕事の人達だ。非常に熱心でね。ちょいと気に食わない仕事を1つ断ったんだが、それを考え直させるために家に押しかけてきたらしい」
「……宇貫先生のお子さん?って言われた」
「うん、まあ、そうだろうなあ。なんて答えた?」
「なんで答えなきゃならないんですか、って」
流石に、『はい、お子さんです』とは言えない。僕が先生の子供だったとしたら、先生はいくつで結婚したことになるんだよ。
「ははは!素晴らしい!よくやった!そりゃあ相手によく効いただろう!君みたいな奴に不審者を見る目で見られたら、流石に自分の厚かましさに気付くはずだ!道理で、さっきは彼女達らしからぬ押しの弱さだったはずだよ!」
そっか。僕も役に立てたなら、何より。
「まあ、さっきの連中は、熱心なことは確かなんだが、如何せん、言葉の使い方が下手でね」
……唐突に、先生はため息を吐きつつ、手の中のヤスリをフラフラさせてそう話し始めた。多分、ちょっと愚痴りたい気分なんだろうから、僕も聞く。
「彼彼女らの気持ちは一生懸命伝えてくれるんだが、こちらを動かす言葉は何も出てこない。何を言ったら僕が動くか、という考えはあまり無いらしい。僕はその気持ちを浴びせられすぎて、ちょっと食傷気味だ。居留守を使う程度には」
「なるほど」
それには覚えがある。なんとなく、先生が言いたいことは、分かる。
「気持ちを伝える言葉と相手を動かす言葉は必ずしも一致しない。だがそれを理解してくれる人間は中々少ない。……自分の気持ちを伝え続ければ相手が変わると信じている人間が多すぎる。それはお前のエゴだぞと言ってやりたいんだが、そういう奴にそういうことを言っても基本的に通じないからな。実に理不尽だ」
「そうだね」
心の底からそう言って頷くと、先生もそれに大仰に頷き返してくれる。
「……ま、そういうことだ。彼彼女らがどんなに気持ちを伝えてくれたところで、僕は不正をする気にはならないし、正当に評価されない戦いに臨む気にはならないのだ」
「不正」
ちょっとびっくりして僕が聞き返すと、先生は苦い顔で、また塩を削り始めた。
「ま、そうだ。優勝者が決まっているレースに乗れ、っていう話でね。マーケティングと言ってしまえばそれまでだが、不正は不正だな。……僕は自分がちゃんと評価されたいからな。そういう不正をしてやる義理は無いんだ」
僕は、そういうものか、と思った。評価されたい、という感覚は、僕にはよく分からない。
「悪い評価よりはいい評価が多い方がいい。その方が、まあ、気分が良い。そしてもっと言うならば、要らない評価は要らないが、欲しい評価はやっぱり、多い方がいい」
……先生の言葉を聞きながら、僕は、なんだか……すごいな、とか、いいな、とか、そういう思いでいっぱいになって、そしてその直後、『そんなことを思うなんて』と、思考が真っ黒に塗り潰されていく。
「……トーゴ?どうした?」
僕が考え始めたのを見てか、先生がそう、聞いてきてくれる。
……僕がどうしたかなんて、先生には関係ない話だ。けれど先生は、僕の考えを聞くのが好きらしい。変わり者だ。知ってるけれど。
だから、僕は、この機会に聞いてみることにした。
「あの、一等賞とか評価とかをもらうことって、あまり良くないことのような気がするし、欲しがるのは、悪いことのような気がする」
僕が言い始めると、先生は頷きながら興味深そうに僕を見つめる。だから、僕は喋りやすい。
「評価って、欲しがっちゃいけないんじゃないだろうか」
先生は僕の言葉を聞いて、数度、瞬きした。
「どうしてそう思うか、理由を聞いてもいいかい?」
それから僕に、そう尋ねた。
「ええと……意地汚い?浅ましい?なんか、そういうかんじが、するから。なんでそういうかんじがするのかは、上手く説明できないけれど」
僕は説明が下手だ。喋るのは下手だし、そもそも言葉を使うのが下手なんだと思う。けれど先生は僕の考えを聞くのが好きみたいだから、僕は頑張って、言葉を並べた。
「なるほど。中々興味深く、かつ慎ましやかな感性だ」
先生はそう言いつつ、ちょっと考えて……それから、メモ帳に何か描き始めた。
描かれたのは、三角形だ。そして、三角形は5つの段に区切られている。つまり、5段のピラミッドだ。
「よし。トーゴ。マズローの五段階欲求って、聞いたことがあるかい?」
「……何となくは、聞いたこと、あるよ」
僕がそう答えると、先生は満足げに頷いて、それからピラミッドの各層に名前を書き込んでいく。
「マズローの五段階欲求説、自己実現理論というのは、ものすごく簡単に言うと、人間の欲望は5段階に分けられて、下位の欲求が満たされると上位の欲求が生まれる、というやつだな」
先生はそう言いつつ、一番下の段に『食う寝る』と書いた。そしてその上に、『安全』。
「一番下の段は、食欲とか睡眠欲とか。そしてその上にあるのが、安全の欲求。……まあ、現代社会においてこれが満たされないことはまずないだろうが。素晴らしいことに、我々現代人はいきなりマンモスに襲われて死ぬようなことがないし、危険な狩りをせずとも肉が食える。むしろ飽食の時代だ」
「そうだね」
先生がメモ帳の横の方に何かを描いた。多分マンモスなんだけれど、僕には毛深いお饅頭に見える。あ、お饅頭に牙が生えた……。
「ここまでが、人間というよりは生物としての欲求だな」
「うん」
それは分かる。生命維持も、安全の欲求も、ただ死なずにいるためだけのものだから。
「……まあ、僕らは割と、ここら辺の段をぽんぽんと飛ばすことがあるが。主に食事や睡眠という、本来なら生命維持に欠かせない、我々が第一に考えるべきであるはずのものについて……」
「うん」
僕らは人間なので、そこら辺を飛ばすことができる。人間でよかった。食べなきゃ描けないなんて、退屈だ。
「だが、どう足掻いたって、僕らは人間だ。生き物だ。だからやっぱり、下の段からちゃんと積み上げて安定していった方が、自分の性能の下ブレが少なくなってよろしい。僕も寝不足の時には碌なものができない」
「……うん」
それは、ちょっと思う。
どうしても僕らは人間で、生き物だから。だから、寝不足だとどうしても、集中できない。観察眼も鈍る。デッサンするにも、モチーフの形がよく見えなかったりするし、画面構成のセンスも悪くなる気がする。
「まあ、僕らがちょっと生物としてどうかと思う、という点については置いておくとして……ピラミッドの話だな」
先生は自分が寝不足の時にやった何かを思い出していたらしいのだけれど、それにそっと蓋をするように何とも言えない笑顔で続けた。
「僕らがよく飛ばす段の上からが人間としての欲求なわけだが……最初にあるのが、所属の欲求。人間は1人で生きていたくないらしい。だから、社会や集団に所属していたい。そういう欲求がある。愛情の欲求、とも言うな。そしてその次が……」
先生は、ピラミッドの三段目に、文字を書きつつ、言った。
「承認の欲求だ」
「つまり承認ってものは、所属し、愛されている人間ならば誰しも必ず欲するものってことさ」
……承認欲求、というのは、悪いもののような気がしている。どうしてかは上手く説明できないけれど。
当たり前にあるからこそ、悪いものなんじゃないかな。
「僕はな。この4段目を満たす為に、評価ってもんが多く必要なんだと思ってる。そして何故4段目を満たす必要があるかっていうと、ピラミッドのてっぺん、自己実現のためだ」
けれど、先生は堂々とそう言って、ピラミッドの五段目に、自己実現、と書き込んだ。
「人間は、なりたい自分になるために果てなき欲求を追いかけ回す生き物だが、僕らは特に心が大食いなもんだから、追いかけ回すものが多いな。二兎を追うどころか二十兎ぐらい追ってる気がする」
「うん」
色々なことをやってみたい。油絵も彫刻もやってみたい。追いかけ回すものは、多い。兎だらけだ。
「けれど、色々追いかけに冒険へ出るにしろ、家が無いと冒険には行けない。帰る場所があってはじめて、僕らは冒険に出られるんだ。そして、帰る場所の地盤はしっかりしてた方がいい。僕1人で作れる地盤なんて、こう……浮島みたいなもんだろうから」
浮島。うん。確かにそれっぽい。
……先生は浮世離れしている、というか。そういう雰囲気がある。飄々としていてつかみどころがなくて、それでいて芯が無い訳じゃないから安心して一緒に居られる。けれど時々、ふわふわ浮いているようなかんじもする。なんとなく。
「愛されて、評価されて、そうやって自分の居場所がしっかり固まった時に僕らは初めて、自己実現できる。なりたい自分になるための冒険に出て行けるんだ。浮島は別荘にはいいかもしれないが、しっかり生きていくなら、やっぱり地盤はしっかりしていて広い方がいいだろ」
「……僕、浮島、好きだよ」
「そうか。まあ君も大概、浮島か水草みたいな奴だったな。なら仲良く浮島2つ、ぷかぷか浮かんで楽しくやっていこうじゃないか。ただ、それにしたって、浮島が浮くための湖が必要で、湖を作るための大地は必要なんだぜ、トーゴ」
僕はこの浮島をとても気に入っているんだけれど……これだけじゃ、駄目なんだろう。先生は僕の別荘みたいなもので、本当に住む家は別でちゃんとしていなきゃいけない。僕らを支えるものは、ちゃんと必要だ。うん。分かってるよ。
……それから先生は、ふと、ちょっと寂しそうな顔で笑う。
「もし、君も多くの評価が欲しくなる時が来たなら……その時は、喜んでいい。それは君が、十分に所属し、十分に愛されている証拠なのだから」
「……そっか」
「ああ。そうさ」
まだ、評価を得ようとすることには抵抗がある。
……僕が評価を得ようとすることに抵抗があるのは、愛されていないから、なんだろうか?だとしたら、僕は愛が欲しい?それは……ええと、やっぱり、よくないんじゃないだろうか。
けれど……いつか、分かる時が来るのかもしれない。うん。いつか、きっと。
「さて。塩はこんなもんでいいか。というかこれ以上は駄目だ。僕の手が『これ以上やるなら筋肉痛になるぞ』と僕を脅してきている」
やがて、先生の前の皿の上には塩の粉や小さな塊でできた小さな山が生まれていた。
「こうしてみると達成感があるな。頑張った甲斐があった。正に汗と涙の結晶……いや、塩に対してこの表現は駄目だな。洒落た岩塩のはずが、どことなく汚いかんじの塩化ナトリウムになってしまう」
う、うーん。そうか。言葉の使い方って、難しいな。
先生は、汗と涙の結晶改めただの塩の山を見て……ふと、言った。
「そういえば、君にお茶の準備をしてもらっておいて、僕はそのお茶を飲んでいないな。忘れていた。トーゴ。君は?」
「まだ飲んでない。すっかり忘れてた」
そうだった。僕、お茶の準備をしていたんだった。すっかり忘れていたけれど。
「ははは。なら早速、頂こうか。ええと……」
「麦茶ポットに入ってるよ」
「そうか。麦茶か。淹れてから1時間未満の麦茶っていいよな。真っ当な味で……」
先生はそう言いつつ、僕がさっき麦茶パックとお湯を入れてそのまま放っておいた麦茶を、麦茶ポットからコップに注いで……。
「……ちょっと待て、トーゴ。これ、何茶だ?」
妙な顔をした。……あれ。
「ええと、麦茶パックを入れたんだけれど……引き出しの奥にあった奴。あの、それ、麦茶じゃなかった?」
不織布の中にお茶らしいものが入っているような、そういうやつを引き出しの奥から見つけたから、ああ、古くなった麦茶だな、と思って、それでお茶を淹れてみたんだけれど……。
「……トーゴ。ありがとう。君は最高だ」
先生は笑いを堪えている時の笑顔でゆっくり僕を振り返りつつ、コップに注いだお茶を飲んだ。
「ついでにこのお茶も最高だな。芳醇な香り。確かに感じる旨味。非常にいい」
そう言いつつ、先生は麦茶ポットを持って僕の所に来て……ポットの蓋を開けて中を見せてくれた。
「そしてこれは麦茶ではなく、出汁パックというものだ」
「……ごめんなさい。間違えた」
「いやいや!言っただろう、最高だ、って!ははは、いやあ、一気に愉快な気持ちになれた!やっぱり君は最高だ!……あ、さっきの塩、ちょっとここに入れるか。お吸い物になりそうだな。えーと……うん。丁度いい丁度いい。そうか。僕が塩を削ったのはこのためだったか!」
先生はけらけら笑いながら、削りたての塩をコップの中にパラパラと落として、出汁を飲んでいる。
「塩はやっぱり、撒くより食べる方がいいな。これぞ塩の有効活用だ!」
先生がそう言うので、僕も出汁を貰う。ちょっと塩も貰う。……うん。案外美味しい。
「この愉快な気持ちを時々思い出すためにも、麦茶パックの中にこれから1割くらいの割合で出汁パックを混ぜておくか……」
それはやめた方がいいと思う。
……僕はやめた方がいいと思ったのだけれども、それから時々、先生の家で飲む麦茶が出汁になることがあった。
けれど、その度に僕らはそれを楽しむことができたので、あながち悪くはなかったのかもしれない。
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第五章:浮島が浮く湖がある大陸より愛をこめて
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サフィールさんからの手紙を貰って、数日。フェイが色々と調べてきてくれた。
「トウゴー、なんか、嫌なかんじになってるぜ」
そして、嫌なかんじの報告をしてくれた。……そっか、嫌なかんじか。やだなあ。
「とりあえず、俺が調べたかんじだと、『トウゴ・ウエソラ』が今、王都に3人くらいいる」
……僕、増えたなあ。やだなあ。
「トウゴおにいちゃん、いっぱいいるの?」
「うん、そうみたいだね……」
僕らは丁度、おやつの時間だったので、フェイも一緒におやつの席を囲みながら話す。
今日のおやつは妖精のマドレーヌだ。……サフィールさんの家から届いたクッキーで研究を重ねた結果、マドレーヌが生まれたらしい。どうしてだろう。君達、クッキー作ってなかったっけ?いや、一口大のマドレーヌもかわいらしくて美味しくて、好きだけれど。
「そんなにトウゴになってどうするんだよ。そいつら」
リアンもマドレーヌをもそもそ食べながら、呆れたように言った。そうだよね。呆れるよね。うん……僕は呆れるより先に、なんだかもっと、複雑な気持ちだ。なんだろう、これ。
「その内第4第5のトウゴまで現れそうだな」
嫌だなあ。これ以上増えたら流石になんというか……うーん、複雑な気持ちだ。どうして嫌なのかは分からないけれど、嫌だ。
「えーとだな。偽トウゴその1とその2については、『実は俺がトウゴ・ウエソラだ』って言ってるだけだからな。絵を描いている訳でもねえし、単に『トウゴ・ウエソラ』としてちやほやされてえだけだろ」
……駄目だ、早速分からない。絵を描かないのに僕のふりをするって、なんだろう?それ、何か意味があるんだろうか?というか、どうやって僕を名乗ってるんだろうか?
「……で、偽トウゴその3が、ちょっと厄介かもしれねえんだよなあ」
けれども、フェイは深々とため息を吐く。
「そいつ、貴族の庇護に入ってるらしいんだよな」
「貴族の庇護?」
それ、どういうことだろうか。
「つまり、そいつは今話題の絵師トウゴ・ウエソラを名乗って、その実績と名声を踏み台に、有力貴族のお抱え絵師になったってことだ」
……うーん。つまり、経歴詐称で就職した、っていうかんじなんだろうか。それはよくない。僕に対してっていうよりは、就職先に対して。
「ちなみにどこの貴族かしら」
「ブロンパ家。要は、王城で高官やってる家だな。所領はねえけど、金と権力はある家だ」
そういう貴族も居るのか。……クロアさんの雇い主だったシェーレさんの家みたいなかんじだろうか。
「それは厄介ね」
「だろぉ?こりゃ、ちょっと面倒だよなあ……うちよりでけえしさあ……」
うーん……とりあえず、厄介そうだ、ということは僕にも分かる。
下手に訴えに行ったら、強い貴族の後ろ盾がある相手に負けてしまうかもしれないし、そうなった時、レッドガルド家が迷惑するだろうし……。
「……その偽物達にとって、トウゴが描いた絵はどう扱われているんだ」
僕が困っていたら、ラオクレスがものすごく石膏像っぽい顔でそう、フェイに聞いた。
「えーと、偽トウゴその1とその2は、『描いているのは俺だけれど、身分を隠すために一度、森へ絵を送って、それを販売している』みたいなこと言ってるらしいぜ」
フェイが答えると、ラオクレスはますます石膏像っぽい顔になってしまった。うーん、険しい……。
「偽トウゴその3は……まだ分かんねえな。トウゴが描いたものも自分が描いたってことにしてんのか、はたまた、トウゴを偽物扱いしてるのか……」
「……そうか」
うーん……考えれば考える程、彼らの気持ちが分からない。
彼らは一体、何をしたいんだろう?
「……まあ、いいわ。まずは偽トウゴ君その1とその2をどうにかしましょう」
僕が混乱していたら、クロアさんはにっこり笑って、そう言った。
「お。クロアさん、なんとかできるか」
……あ、クロアさん、森っぽくない笑顔だ。これは、シャンデリアの下の笑顔。宝石に飾られた笑顔、というか、街灯に照らされる夜の街の路地裏の顔だ。うん、これはこれで、すごくいい。
「ええ。任せて。そういうことなら私の得意分野だもの」
「頼もしいな」
どうやら、クロアさんは何か思いついたらしい。ちなみに僕は何も思いつけていない。というか、僕を名乗っている人達の気持ちがまるで分からない。
「トウゴ君。あなた、王都に小旅行に行かない?王都の広場で、絵を描きに」