8話:変な馬達と密猟者*2
僕の生活用水、兼、巨大な鳥の水浴び場と化した例の泉に、馬が来ている。
けれど、その馬がなんだか妙な奴で……背中に、羽のようなものが生えているのだ。
『天馬』という単語が僕の頭の中にちらつく。うん、もしそういうのが実在したらこういう見た目かもしれない。
……ただし、その天馬(仮)は、ちょっぴり様子がおかしい。
家の窓から観察していると、その理由が分かった。
「……怪我してる」
その馬の背中から生えている翼は、片方しかなかったのだ。もう片方は……無残にも、根本から切り取られてしまったような格好になっていた。
逃げられるなら逃げられるでいいかな、と思いつつ、そっと家から出てみると、鳥が僕に気づいた。
鳥は僕に気づきつつ、特に警戒することなく、それでいてちょっとだけ体をずらして下流の方のスペースを空けた。……僕の水浴び場を空けてくれたらしい。ええと……親切だね、と思うことにしよう。
さて、鳥はいいとして、馬。
馬は僕に気づいて、怯えた様子を見せた。
でも、鳥が特に気にしていないのを見たからか、僕が泉に近づいても逃げようとはしなかった。
……近づいてよく見たら、馬の脚の1本に傷があった。もしかしたら、逃げてもあまり速くは走れないのかもしれない。
なんだか可哀相だな、とか、痛そうだな、とか思いつつ、とりあえず僕はいつもの如く水浴びすることにした。折角、鳥が場所を空けてくれたことだし。
僕が水浴びしていると、馬は僕の方を気にする様子を見せながらも、だんだん僕に慣れてきたらしい。水を飲み終わった後も泉の近くで草を食べつつ、特に逃げる様子は見せなかった。
なので僕は、洗濯と水浴びを終わらせた後、そっと画材を取って戻ってきて……そこに、薬を描いてみた。
うん。傷薬。先生の家に常備してあった、いつのだか分からない古い奴。古い奴だけれど擦り傷にも切り傷にも火傷にも効く奴で、僕は割とお世話になった。
……早速そういう塗り薬ができたので、僕は馬のところにそれを持っていく。翼の片方はどうしようもないけれど、脚の傷には効くだろう、と思って。
けれど、馬の方からしてみたら余計なお世話だったのかもしれない。
馬は僕が薬をもって近づくと、ちょっと距離を置いた。また近づくと、またちょっと離れる。
……可哀相だったので、僕は近づくのを諦めた。そうこうしている間に、その馬は森の奥へと帰っていってしまった。
うーん……どうにかしてあげたかったのだけれど、やっぱり余計なお世話だっただろうか。
馬のことが気になったけれど、僕にできることはない。
僕は折角だから薬の類をもう少し描いて実体化させていざという時に備えつつ、最初の頃に描いて実体化させそこなった鉛筆を実体化させて増やしたり、ナイフも1本だと心許ないから包丁を作ったり、そうこうしている間にガラスが描きたくなって、ガラスのランプを描いて実体化させたり、と過ごした。
……そうして絵を描くだけ描いて夜になって、眠ったら朝が来る。
朝になって窓の外を覗いてみたら……いた。昨日の馬だ。
相変わらず、脚の傷も片方だけの翼もそのままだ。痛々しくて、見ていてちょっと苦しい。
それに、あんまりうまく体を動かせないらしくて、屈んで草を食べることができないみたいだ。あれじゃあお腹が空くだろう。
でも、治療をしようにも僕は獣医じゃないし、薬を塗ろうとしたら逃げられるだろうし。
……よし。
僕はその場で、草を描く。あまり屈まなくても食べられるくらいの、丈の高い草。それでいて、馬の消化に良さそうな、柔らかそうな奴を。
……最初に地面の様子をざっと描く。泉の縁やそこにある岩なんかを描いて、それから、そこに草を生やしていく。
草地の描き方って結構難しいね。急ぐとなると草1本1本を描いていく訳にもいかないから、水彩でざくざく描いていくようなかんじになる。
けれど、それでもうまくいった。
絵が完成した途端、絵がふるふる震えて、きゅ、と縮まって……ふわ、と広がっていく。
そして、地面には草が生えていた。
馬は戸惑っていた。急に草が生えたんだから当たり前かもしれない。
けれど、馬は戸惑いながらも、ちょっとずつ、草を齧り始めている。……美味しいといいな。僕は草を食べないから味は分からないけれど。
……ところで。
泉を描いた時にも思ったのだけれど、『元々ある場所に新しいものを描く』っていうのは、『絵が実体化する』のとは少し違う気がする。
今回、草を生やしたのもそうだった。草が画用紙の上に出てくるんじゃなくて、草が地面に生えた。絵が実際の風景に反映された、っていうことになる。
これは……うーん、どういうことなんだろう。1つ確かに分かる事は、これ、絵を実体化させることよりも、絵を実際の風景に反映させることの方が疲れる、ということだけなんだけれど……。
……まあいいか。
ちょっと実験してみよう。
『絵を実体化させる』んじゃなくて、『絵を反映させる』のって、どこまでできるのか、気になってきた。
ここから先は時間との勝負。僕は水彩用紙に急いで、馬をスケッチしていった。
動物を間近で見た経験はあまりないけれど、写真や動画は見ることができたから、あとは観察だけでもなんとかなる。大体の体の構造が分かっているから、後は見ながら細部を詰めていく。
ある程度描けたら、着色に入る。結構手を抜いているけれど、これでも何とかなるんじゃないかな。まあ駄目でも、やってみるだけやってみよう。
白い馬だから、色を塗るのが難しい。白い毛並みに金色の鬣と尻尾。綺麗な馬だなあ、と思いながら、どんどん着色していく。白はそのまま紙の色を残すようにして、影だけ色を乗せていくかんじで。
……そして、その中で僕は、馬の脚に包帯を描き足した。
枯れた泉に水が湧いたんだから、怪我した馬の脚に包帯をくっつけるくらいできるだろう、と思いながら。
そして馬の背中に翼を描き加えて着色した、その時。
絵がふるふる震えて、きゅ、と縮まって……紙の上から飛んでいって、消えた。
あれ、と思って紙から視線を上げてみたら……。
「……やった」
窓の外では、馬が足に巻かれた包帯を見て、戸惑っていた。
そっと家の外に出ると、鳥も馬も僕に気づいた。
いつものように鳥が場所を空けてくれたのでそこに入って洗濯すると、そこに馬が近づいてきた。
……そう。馬が僕に、近づいてきた。
「……ちょっと触ってもいい?」
聞いてみたら、馬は『どうぞ』と言うかのように、僕の前に首を差し出してきた。
僕は怖々、馬の首筋に触って……毛の下に皮があって、皮の下に骨と肉があって、そしてその中に確かな生き物の熱があることを、感じた。
そのまま撫でてみると、馬は大人しく撫でられてくれた。……包帯を巻いたのが僕だって分かったのかな。だとしたら随分と賢い馬だ。
まあ、いいや。
どうやら馬は僕を警戒しないことにしてくれたらしい。僕としても、動物は嫌いじゃないから、これはこれで嬉しい。
それに何より、脚が少しでも良くなってくれたら……本当に嬉しい。
それにしても、今回のはまた1つ発見だった。
どうやら、『絵に描いたものを実体化させる』だけじゃなくて、『実際にあるものに絵を反映させる』こともできるらしい。
これを使えば、既に生えている果樹に果物を実らせ直したり、馬が食べちゃった草を生やし直したりすることもできる。それから、今やったみたいに、馬に触れずに馬に包帯を巻くこともできるみたいだ。
これは便利だ。……ただ、使いすぎると疲れるみたいだけれど。うん。注意しよう。
それから、もう1つ。
……どうやら、結構急いで手を抜きながら描いてしまっても、ある程度は実体化するらしい。なんだろう。今回のは元々のものがあって、そこに包帯だけ実体化させたから、だったのかな。
うーん……ちょっと試してみたいけれど、今日はもういいや。なんだか、馬で頭がいっぱいだ。
なので結局その日は馬を思い出しながら、馬を描くのを練習した。動物を描くのはあまりないことだったから新鮮だ。ずっと静物デッサンばっかりだったから。
生き物って、毛があって、皮があって、肉があって骨があって、温かい。
脈打ってるのが分かった。呼吸してるのも分かった。生きてるんだな、っていう感触だった。
……あの感触は、嫌いじゃなかった。あの感触まで全部、描いてみたいな、と思った。
うん、そのためにも練習しないとな。
練習、しないと……。
「まさか練習台を連れてくるとは思わなかったよ」
その翌日、馬は別の馬を連れてきた。
「え……え?これも馬……?友達なのかな」
僕は困った。本当に困った。
羽が生えた馬にも驚いたけれど、角が生えた馬にも驚くよ。なんでこの馬はおでこに角が生えているんだろうか。
……いや、『生えていた』と言った方がいいけれど。
角は根元近くでぽっきり折れてしまっていて、角の断面が見えている。元は真っ直ぐに角が伸びていたんだと思うんだけれど……。
それから、傷が多かった。角が生えた馬の体には、あちこちに傷があった。どうやら最近できた傷らしくて、血がまだ滲んでいるものもあった。
「……もしかして、この馬も治せってこと?」
羽が生えた馬は、『そうだ』と言わんばかりに、ぶるん、と鳴いた。
それから僕は角が生えた馬を描いて、そこに包帯を巻いていった。
僕が絵を描いている間、角が生えた馬は居心地悪そうにしていたけれど、羽が生えた馬が諫めるように寄り添っていたからか、逃げ出すことはなかった。
角が生えた馬は傷が多くて、その分、包帯が沢山必要だった。画用紙の上の馬が、どんどん包帯だらけになっていく。
……なんだか可哀相で、ちょっと苦しい。
こんなに怪我するって、一体何があったんだろう。崖から落ちたとか?でも、切り傷が多いように見えるし……。
……考えながらも筆を進めて、馬の傷全てに包帯を巻くことができた。でも、もう少しだけ。
僕は馬の角を描いた。
折れてしまった角だけれど、折れたところに包帯を巻いて、その先に角があるように描いた。
義手とか義足とか、そういうやつのつもりで。角に義手ならぬ義角を付けてやったら、少し、この馬の気も晴れるかな、と思って。
……いや、馬の気持ちなんて知らないし、それを量るのは失礼な気もするんだけれど……うん。単に、僕の気が晴れそうだったから。
白い馬の体に、銀色の鬣と尻尾。それに、折れても尚青白く輝く角が綺麗だった。だから。
……そうして僕は、角が生えた馬にも包帯を巻き終えた。
いきなり包帯が巻かれて、しかも義角まで着けられた馬はびっくりした様子だったけれど、暴れたのは少しだけで……すぐ、大人しくなった。
義角で水面をつついてみたり、地面をつついてみたりしながら、その場でくるくる回ったり、困惑した様子ではあったけれど、それは暴れているんじゃなくて、困惑しているだけ。そんなかんじだった。
羽が生えた馬が擦り寄ると、それに合わせて角が生えた馬も擦り寄る。それから羽が生えた馬は、角が生えた馬の角に頭を寄せて……角に擦りついてから、ぶるる、と機嫌良さそうに鳴いた。
それから2頭で仲良く水を飲み始める。どうやら、治療は2頭のお気に召したらしい。
うん、よかった。少しでも痛みが引いていればいいんだけれど。あの傷はとても痛そうだったから。
……さて。僕も水浴びしよう。
僕が水浴びを始めると、角が生えた馬はちょっと嫌そうな顔をした。いや、顔というか、全身で『嫌』を現してきた。
……そういえば『一角獣』って、男が嫌いなんだっけ。うん、それはちょっとごめん。でも僕は水浴びがしたい。
僕が構わず水浴びを進めると、一角獣はやっぱり嫌そうだったけれど、それを途中で天馬に諫められた、ように見えた。天馬の方はなんというか、物分かりがいいなあ。なんとなく性格が見えるようで、ちょっと微笑ましい。
天馬に諫められた一角獣は、ちょっと嫌々に見えたけれど、やがて僕に近づいてきてくれた。
「触ってもいい?」
聞いてみても逃げなかったので撫でさせてもらう。
天馬とはまた少し違う感触だった。少し毛が短いのかな。でも尻尾の感触がすごくいい。天馬はふわふわで、一角獣はするする。そういうかんじがする。
……それから、ちょっと、角が目に付いた。
包帯は全部上手くいったと思うけれど、角はどうだろう。義手ならぬ義角は、迷惑じゃなかったかな。
「ええと……角も、触ってみていい?」
聞いてみたら僕の言葉が分かっているかのように、頭を下げて角を近づけてくれた。
なんだか、綺麗な生き物を前にちょっと恐れ多いような気持ちになりながら、そっと、角に触る。
……触れた角は、温かかった。
思わず手を引っ込めた。
だって、義角……作り物の角が、温かいなんて、思わなかった。
でも、手を引っ込めてすぐ、これはおかしいんじゃないか、と気づく。
触れた角は、まるで……生きている、本物の角のように思えたから。
もう一度、角に触る。
青白い色の、綺麗なそれ。一本真っ直ぐに伸びて、捻じれた形状もまた1つの芸術品みたいに見える、すごく綺麗なそれに、触る。
……やっぱり、温かかった。
「……包帯、外してもいい?」
断りを入れてから、そっと、一角獣の角の根本に巻かれた包帯に手を掛ける。
包帯の下には、きっと継ぎ目があるはずだ。だって、そこで角は折れていた。僕はそこに角を描き足しただけで……。
包帯の下には、角があった。
継ぎ目も無く、折れてなんていない……『本物の』角が一本、確かにそこに生えていた。
それを確認した途端、僕は意識が遠のくのを感じて……多分、そのまま気絶した。