15話:甘い罠と罠破り*10
……それから2週間。僕はクロアさんを相変わらず描き続けていて、ついでにクロアさんを『餌付け』した。
森で遊んだり、木の実を採集したり。巨大な鳥が水浴びしに来たのを見て驚いたり。……クロアさんはこの森にすっかり馴染んできていた。
それから……不用心な気もしたけれど、管狐、出してしまった。彼女は柔らかい生き物が好きらしくて、だから、尻尾がふさふさしている管狐のことはすごく気に入るだろうと思って。
ただこれが面白くて、管狐は……気を利かせて、宝石から出てきてくれた。それも、『大きく化けた』姿で。
びっくりした。最初に出てきた時、『何か間違えたものを出したかな』と焦った。……でもどうやら、座った状態で僕の腰くらいまである大きな狐は、管狐が化けた姿らしい。
うん、よく考えてみたら、管狐は明らかに自分より小さい竹筒にも入るんだし、体の大きさを自由に変えられても不思議ではなかった。
……いや、そう考えると宝石から召喚獣が出てくるんだから、本当に不思議なことは何もない。
元の世界の神話の中には物の角から出てくる犬とかも居るって先生が言っていたし。ティンダロスの犬っていうらしい。どこかの国の神話の生き物らしくて……まあ、そういうのも居るんだから、宝石に出入りする生き物も、竹筒に入る生き物も、体の大きさが変わる管狐も、何も不思議じゃないと思う。神話が現実になってしまっているのは今更だし。
……そしてその大きくなった管狐は、すっかりクロアさんのお気に入りになったらしい。クロアさんは時々、ブラシで管狐の尻尾を梳いている。管狐はそうされるといい気持ちらしくて、『こん』と嬉しそうに鳴いていた。
その鳴き声を聞いたクロアさんは「随分不思議な鳴き声の狐ね……」と言っていたけれど。……え?狐って『こん』って鳴くものじゃなかったんだろうか?
……そうして過ごした後。期限まで2週間、という日。
僕はいよいよ、依頼の絵を描くことにした。
「ええと、じゃあ描きます」
「ええ。……もう恥ずかしがらないの?」
「……正直に言うと、ちょっと、恥ずかしい」
クロアさんは僕の返事にくすくす笑う。笑いながら泉の中、楽しそうに一角獣を撫でていた。
……今回の構図は、裸婦画、と言うには相応しくないものかもしれない。
今回の絵は、泉の中に腰まで浸かったクロアさんが一角獣に寄り添って馬の首筋を撫でつつ、こちらを見て笑っている構図だ。
つまり、画面に下半身はほとんど描かない。脚もお尻も水の中だ。
そして、体は斜め後ろぐらいに傾けてもらっているから、僕が描くのはクロアさんの顔と腕、背中と脇ぐらいだ。これなら、描いていてそんなに不健全じゃない、と思う。
……勿論、画面構成がそうだったとしても、僕が背中と脇くらいしか見ないかっていうと、そうでもなくて……。
「あっ、駄目よ、じっとしていなきゃ」
馬は賢いけれど、じっとしていてくれるわけじゃない。時々、クロアさんの周りを一周し始めたり、クロアさんを鼻面でふにふにとつつき始めたりしてしまう。
そうするとクロアさんも動いてしまうから、その、ええと、見える。
……集中してしまえば恥ずかしくもならないんだろうけれど、馬が動き始めてクロアさんも動いてしまうと僕の集中も途切れてしまうので……うん、ちょっと恥ずかしい。
クロアさんを長時間水に浸けておくわけにはいかないから、手早く下描きを終えた。
後は記憶を頼りに調整して、線を整えて……画用紙を板に水張りする。
……裸婦画って、何となく油彩のイメージが強い。けれど今回もやっぱり、水彩でやることにした。
依頼の期限に間に合うように、っていうのもあるけれど、何より、油彩の重厚感が無くなる代わりに、軽くて透明で、さわやかな印象にできると思ったからだ。
……今回、僕は、いやらしくない裸婦画に挑戦している。
木漏れ日を描きたかったから、光のコントラストをはっきりと取る。直に日差しが当たる部分は真っ白に紙の色を残して、葉に透けて弱く光る部分には薄く色を置いて、そして、影を濃く、鮮やかに塗る。
水面は特に、光を強く反射する部分と陰になる部分の差が大きい。……ただ、そうやって水面ばかりをハイコントラストに仕上げてしまうとクロアさんに目が行かなくなってしまうので……水面の影は薄めにした。
多分、水面の光を弱く描く方法もあると思う。けれど、この画面だと、馬の面積がそれなりにある。しかも、クロアさんの近くだ。そして馬は元々が白い。
……だから、クロアさんの色を濃く鮮やかにすることで、一番見せたいものをはっきりさせることにした。
特に色鮮やかなのは、クロアさんの前髪と睫毛とで濃く影が落ちた、その翠の瞳。そうすることでクロアさんの体よりも顔やその表情に目が行くようにしたかった。
「……私、森っぽくなった?」
「うん」
僕が着彩している間、休憩中のクロアさんが画用紙を覗き込んでくすくすと笑った。
そしてクロアさんは唐突に、言った。
「そう。なら私、あなたに雇われることにするわ」
「えっ」
突然の決定に、僕は驚いた。思わず筆を落としそうになって、慌てて握り直す。
「……本当に?」
「ええ。本当に」
「いいんですか?」
「そうね。まあ、いいことにしたわ」
「元の仕事は?嫌な仕事じゃなかったんですよね?」
「まあ……嫌ではなかった、というか、嫌に思わないように変わってしまった、というかんじかしら。それに、嫌でなくとも、特段好きでもなかったし」
そ、そっか。そういうものなのか。だとしたら……クロアさん、今まで随分と辛かっただろうな、と思う。
「それに、どうせあと10年もすれば、私はこの仕事を今のやり方ではやっていけなくなるもの」
「えっ、なんで?」
「若くなくなるからよ。若くて美しい女だからこそ魅了の魔法が使えるの。齢をとったら、その時点でこの仕事はもう終わりね」
……厳しい世界だ。こんなに綺麗な人なんだから、きっと齢をとっても綺麗だと思うんだけれど、やっぱりそうはいかないのかな。
「だから……まあ、どのみち、どこかでは生き方を変えなきゃいけなかったのよね。今更、真っ当な仕事に就けるとも思ってないし、だから……まあ、どこかで野垂れ死ぬか、誰かに刺されて死ぬかのどちらかだと思っていたのだけれど」
「えっ」
死なないでほしい!勿体ない!
「……まあ、『死ぬ気だったわよ』って言ったらそんな顔しちゃう坊やだもの。あなたのところで過ごすのも、悪くないかもしれないわ」
クロアさんは僕の顔を見て笑う。
その笑顔は、大分、森っぽかった。
「でも、とびきりの贅沢、させて頂戴ね?私は高くつくわよ」
クロアさんは森っぽい笑顔から一転、夜のパーティで使うような魅惑の笑顔でそう言って、僕の頬をつついた。
「勿論!とびきりいい家を建てるし、あなたのために家具も作ります!買いに行ってもいい。服だって、沢山選んで……衣裳部屋を1つ作ってもいいかもしれない。それから、あなたを飾るための宝石だって、沢山用意する」
「あらあら。素敵」
そうだ。この機会に家のデザインもやってみよう。家具も作っても楽しいかもしれない。服は自信がないけれどやってみたい。あと、宝石のデザインも、この機会にやってみようかな。
どうしよう。考えるとわくわくしてくる。わくわくしてくるけれど……。
「あと……馬が沢山いますよ。木も沢山。竹も生えてます。鳥も来るし、管狐はあなたのこと、気に入ってるみたいだし……」
「……どうしましょう。さっきのよりもこっちの方が魅力的に聞こえてしまうのは、もう手遅れってことよね」
……くすくす笑うクロアさんを見ていると、まずは、服よりも宝石よりもまず、心の餌を沢山食べてもらいたいと思う。
それからゆっくり時間をかけて、依頼の裸婦画を完成させた。
「どうだろうか」
一応、モデルさん本人に出来栄えを見てもらおうと思って、完成した絵をクロアさんに見せる。するとクロアさんは自分の絵を見て、ぱっと顔を明るくした。
「……すごい。私、王都で何枚も裸婦画と言われるものは見てきたけれど、でも、こういうのは初めてだわ」
そっか。それは……それはいいんだろうか?依頼の意図から大分ずれた?でも依頼では『絵の大きさも画材も構図も何もかもお任せ』だったんだからこれでいいよね。いいことにさせてもらおう。
「いいわね、これ……。これ、本当にシェーレ家にやってしまうの?勿体ないわ」
「まあ、そういう依頼だったから……」
けれど、クロアさんはこの絵をシェーレ家の人に渡したくないらしい。それだけ絵を気に入ってもらえたんだから、嬉しくもあるんだけれど……。
「……決めたわ。私、新しい私の家にはこの絵を飾る」
「えっ」
クロアさんの言葉に僕が困っていると、クロアさんはにっこりと、魅惑の笑みを浮かべて言った。
「シェーレ家からこの絵、貰うわ。退職金代わりにね」
そうして約束の2か月が終わった。
なんというか……あっという間の2か月だったような気がする。
そして、2か月の最後は……シェーレ家でのやりとりだ。
「やあ、お久しぶりですね!」
招かれた先で、僕らは歓迎を受けた。シェーレさんは相変わらずの様子で、にこにこと愛想のいい笑顔を浮かべている。
「どうでしたかな、うちのクロアは」
「ええ。すごく素敵な人でした。彼女だけでスケッチブックが4冊いっぱいになりましたよ」
いっぱいにしたスケッチブックはそれほど紙の枚数が多くないやつだったけれど、それにしても、随分描いた。うん。
「お気に召したならそれは何よりです。さあ、クロア。お前もトウゴ・ウエソラ殿にお礼を」
「ええ。どうもありがとう。とても魅力的に描いて貰えて、とても嬉しいわ」
クロアさんがにっこり僕に笑うその笑顔は完璧に整ったそれではなくて、森っぽいやつだ。それが嬉しくて、僕も思わず笑顔になってしまう。
「それで、その、依頼の絵なんですが……」
「おお!楽しみにしておりましたよ。どのようなものになりましたか?」
僕は、額に入れた画用紙を運んでくれていたラオクレスにお願いして、額縁に被せてあった布を取り払ってもらった。……この演出はちょっと格好をつけすぎただろうか。
「おお……?」
……そして、額縁の中の水彩画を見て、シェーレさんは少し驚いたような顔をした。
「これは……中々珍しい画風ですな。構図も中々見ないものだが……?」
「はい。僕が思う最高の裸婦画です」
森の中の泉で水浴びしている一角獣と綺麗な女性。強い日差しは木漏れ日になって、水面もクロアさんの肌も、きらきら照らしている。……我ながら上手くいった。満足してる。
ただ、シェーレさんはもっと違うものを想像していたんだろう。ちょっと首を傾げている。……まあ、いいんだ。多分この人は、絵はどうでもよかったんだと思うから。クロアさんを僕のところに送り込むのが目的だったはずだから、絵に文句は言わないはずだ。
「ふむ、素晴らしい。いや、中々爽やかでよい絵ですね。ところでここに描かれているのはユニコーンですか?」
「はい。近所にこういう馬が沢山いるので」
クロアさんと一緒に水浴びしながらもまるで騎士のように寄り添っている馬の姿は、中々凛々しくてこれも気に入っている。シェーレさんはこの馬が珍しい馬だから気になっているんだろうけれど、まあ、それはどうでもいい。
「では、これで依頼は完了ということで」
「ええ。どうもありがとうございました」
僕が頭を下げると、シェーレさんも礼儀正しくぺこりとお辞儀をして、それから僕らに泊まっていくよう勧めてくれたけれど、僕らはそれを辞してシェーレ家を出ることにした。シェーレさんとしても、フェイが一緒に居たら何が何でも引き留めていたんだろうけれど、僕とラオクレスだけだったからか、あっさり見逃してくれた。よかった。
「じゃあ、トウゴ君。またね」
「はい」
僕は帰り際、見送ってくれるクロアさんに手を振って……そして、ラオクレスと一緒にシェーレ家を出た。
……その後の僕らの行動は、もう決まっている。
「まずは宿か」
「うん。一番北の部屋。1階の。そこが空いてなかったらその隣……をフェイがとってくれてるはず」
僕らは、クロアさんに指示された通り、宿へ向かう。
王都は広くて、宿屋さんもたくさんある。そして立派な建物が多い。けれど、クロアさんが指定してくれたその一軒は、こじんまりとしていて、落ち着きのある建物だった。
僕らはその宿に入って、クロアさんに指定された部屋へ向かう。
「お。そっち終わったか」
「うん」
すると、部屋ではフェイが待っていたので、僕らはここで合流。
……そして僕が部屋に入ったら、クロアさんが言っていた通り、窓の外に木があったので、その枝に緑色の布を引っ掛けておく。これで準備完了。
あとは、クロアさんがここに来るのを待つだけだ。
「クロアさん、大丈夫かな」
「心配は要らないだろうな。密偵として生きてきたというのなら、問題なくこなすはずだ」
ラオクレスはそう言ってくれるけれど、やっぱり心配は尽きない。
もし、シェーレ家の密偵を円満に退職できなかったら?クロアさんが裏切ったって思われたら?クロアさんが捕まってしまって、情報を漏らさないように、どこかに閉じ込められてしまったら?……色々なことが心配だ。
「……まあ、待っていてやれ。待っていられないなら寝ていろ。最近も徹夜続きだっただろう」
「到底眠れないよ、この気分じゃ」
「眠れなくてもベッドに入って休んでおけ。王都からレッドガルド領までは遠い。アリコーンは空を飛ぶが、それでも乗っているのにはそれなりに体力を使うだろう」
うん。分かってる。分かってるよ。ここで僕が心配していても、クロアさんの状況が好転するわけじゃない。
……僕はラオクレスに投げられない内に、自分からベッドに入っておく。戦略的撤退。
そうして僕は、ベッドに入ったまま鳳凰と管狐に囲まれてぼんやりしていた。フェイは隣のベッドでしっかり寝ていたし、ラオクレスも椅子に座ってゆったり待っていた。
……時間が過ぎて、そして、夕方になった頃。
カタカタ、と、窓が鳴る。
僕は慌ててベッドから跳ね起きて、鳳凰も管狐も、すぐに出発できるように宝石と竹筒の中にしまった。……そしてその数秒後。
「こんばんは。来たわよ」
クロアさんが、窓にやってきた!
「大丈夫だった?」
僕は慌ててクロアさんに駆け寄って、手を引いて窓から部屋の中に引き込む。
クロアさんは案外身軽で、別に僕の手助けなんて必要なかったようだったけれど……でも、僕の手を取って嬉しそうに笑いながら、部屋の中に入ってきた。
「ええ。無事、退職してきたわ」
クロアさんはそう言って、それはそれはいい笑顔で笑った。
「それから、こっちも貰ってきちゃった」
……そしてクロアさんが手にしていた包みの中に、細長い筒がある。その筒の蓋を開けて覗き込んでみると、それは僕が描いた水彩画だった。どうやら、画用紙を額縁から抜き出して、それをくるくる丸めて筒に入れて持ってきたらしい。
「よかった。無事にこっちに来れて」
「ええ。シェーレの屋敷を抜け出してくるくらいは訳ないわ」
とりあえず、クロアさんが無事でよかった。絵も持ってきてくれて、正直、嬉しい。……やっぱり、自分で描いて満足のいっているものだから、大切にしてくれる人の手元に置いておいてほしい気持ちはある。
そうして僕らはクロアさんの脱出と到着を喜んでいたのだけれど……そうのんびりもしていられないらしい。
「……さて、悪いけれど急いでもらっていいかしら?私、退職はしたけれど、完全な円満退職とはいかなかったのよね」
あ、やっぱり?