11話:甘い罠と罠破り*6
それから、クロアさんとの生活が始まった。
クロアさんは森に戸惑っていたけれど、とりあえず僕らの指示に従ってくれた。
……馬達はクロアさんに興味津々らしい。天馬達は懐っこく寄ってきたし、一角獣は……まあ、ちょっと警戒しているのか角を構えている奴らも居たけれど、最初からクロアさんにぐいぐい近づいていく奴もいた。そして10日くらい経ったら、もうほとんどの一角獣がなんとなく、クロアさんがそこに居ることを許容するようになった。寄り付かないやつは寄り付かないままだけれど……一部の一角獣は、すっかりクロアさんがお気に入りらしい。
とりあえず、クロアさんには僕の家の客間を使ってもらうことにした。そして……クロアさんは最初に森に来た時、すぐラオクレスの家に案内して、そこでフェイとラオクレスと一緒にお茶を飲んでもらっておいて、その間に『ちょっと家を片付けてくるから』という名目で僕だけ家に戻って……僕の家に客間をもう1つ、増設した。
……何故って、ラオクレスも同じ家の中に居た方がいいからだ。
クロアさんを警戒するなら、ラオクレスにはずっと一緒に居てもらった方がいいし、クロアさんもずっと一緒に居た方がいい。そういうわけでの増設だ。
これで安心だ、と思って、それからはひたすら、クロアさんを描き続けた。
まだ、ヌードデッサンをさせてもらうのは緊張してしまうので……服を着た状態で。
ただ、同じ服だけだとクロアさんが困るから、それは、フェイが町で女性の服を買い込んできてくれた。クロアさんの生活用品は、主にフェイやフェイの家のメイドさん達が用意してくれている。助かる。
……そうしてクロアさんは森に馴染んで、2週間もした今は、それなりに慣れた様子で生活し始めている。
「ええと、じゃあ今日もお願いします」
そして今日、僕は初めて、クロアさんを屋外で描く。
……当然、裸婦画じゃなくて、その、普通のやつ。透明水彩で画用紙に描く、いつもの。
ただ、今までは屋内で描くだけだった。ソファに座ってもらったり、ベッドに寝そべってもらったり、クロアさんに楽な姿勢で描きたかったからだ。
でも今日は屋外。背景は森!クロアさんの瞳の鮮やかな翠が良く映えて、すごく綺麗だ。
「これでいいかしら?」
「はい。少し、そのまま……」
今日描くクロアさんは、森の中で座っているところだ。柔らかい下草が生えているところに一枚布を敷いて、その上にクロアさんを乗せる。そうしておくだけで一部の一角獣が寄ってきてクロアさんの隣に座り始めるし、天馬が興味深そうに翼をぱたぱたさせながらやってくるから、それも画面に入れてしまう。
「じゃあ今から20分、動かないようにお願いします」
「ええ。分かったわ」
それからクロアさんは20分、動かないで居てくれる。
……モデルさんとして鍛えているわけでも、ラオクレスみたいに筋肉と体力を鍛えているわけでもない人にとっては、20分間動かずにいることがすごく難しいはずだ。
クロアさんも最初の何回かは、5分くらいで辛そうにしていたから、僕もそれを見て切り上げたりしていた。
けれど、1週間も描き続けていれば、クロアさんも慣れてきてくれたらしい。今は20分くらいなら平気なようで、お陰で僕は、20分でざっと下描きをして、クロアさんの休憩中に下描きを整えて、それからもう一度同じポーズをしてもらって下描きを直して……ということができるようになっている。
「お疲れ様でした。休憩してください」
粗方下描きを終えてそう言えば、クロアさんは途端、姿勢を崩して深く呼吸をした。
「はあ……少し慣れてきたと思ったけれど、やっぱり動かずにいるのは難しいわね」
クロアさんが少し疲れた様子でいるところに、馬がすりすりと寄っていく。多分、お疲れ様、の意味なんだと思う。
「ごめんなさい、辛いことをさせて」
「いいえ。構わないわ」
クロアさんはにっこり笑って、それから立ち上がって、僕のところまでやってきた。そしてそのまま、僕が描いていた画用紙を覗き込む。
「完成が楽しみね」
うん。僕も楽しみだ。クロアさんはくすくす笑って……それからふと、言った。
「……それにしても、よく飽きないわね」
「あなたを見ていて飽きることなんて無いですよ」
「それは嬉しいけれど、あなた、あまり寝ていないんじゃないかしら。昨日も、描きかけだったはずの絵が仕上がっていたし……」
うん。それは、まあ。
少し仕上げれば完成しそうだった絵があったから、寝ないで描いていた。気づいたら朝になっていた。でもまあ、そんなものだと思う。
「……この2週間であなた、何枚描いたかしら」
「ええと、水彩は1枚だけ。鉛筆は3枚くらい。あとはクロッキーを……ええと」
ぱらぱら、とスケッチブックを捲ってみると、1冊のほとんどのページが埋まっていた。うん。いっぱい描いた。
「もう一度聞くけれど、あなた、飽きないの?」
「うん」
少し不思議そうなクロアさんに、しっかり頷く。彼女を描いていて飽きるっていうことは、無い。それは断言できる。
「勉強になるばっかりで……その、曲線のかんじとか。筋肉がラオクレスより少ない分、色々と分かりやすくて楽しい」
「ふふ、それはそうかもね」
ラオクレスは……骨と筋肉の塊だから、脂肪のかんじとかは分かりにくい。筋肉の盛り上がりで隠れてしまう陰影とかもあるから、その分クロアさんを描くとそういうのがよく分かる。
なんというか……クロアさんを描いていて初めて、『そういえば人間の瞼って球体を覆っているんだな』とか、『二の腕から脇にかけての皮膚の引っ張られ方ってこうなんだな』とか、『ラオクレスの手ってすごく筋肉ついてるんだな』とか、気づくことができた。……比較対象って、大事だ。
そうして僕はクロアさんを描いて、下描きを完成させた。
「お疲れ様でした。今日はこれで終わりです。ラオクレスがお風呂、用意してくれてると思うから、先に入ってください」
「分かったわ。……じゃあ、お言葉に甘えて」
クロアさんは綺麗な人だから、ちゃんと毎日お風呂を沸かすことにしている。僕とラオクレスだけの時は、お互いに面倒がって水浴びで済ませてしまったりもしていたのだけれど……ええと、女性が居るところで、屋外での水浴びは、うん、ええと、囲いの壁があるにしても、ちょっと。
クロアさんが家へ帰っていったのを見届けてから、背景の森を描く。
クロアさん自体は描けているから、あとは背景だけだ。背景は背景だから、それほど細かく描き込む必要はない。特に水彩の下描きだったら、余計に。
……ただ。
「……うーん?」
ちょっと、違和感がある。
……何だろう。この違和感。
クロアさんはちゃんと描けたし、森も、まあ、何度も描いてるからちゃんと描けてる。
けれど……どうしてか、なんとなく、変に見える。具体的には、人物と背景がちぐはぐに見える。
「なんでだろうね」
僕は、近くに寄ってきた馬を撫でながら呟いてみるけれど、違和感の正体は分からない。
ええと……どうして人物と背景がちぐはぐに見えるんだろうか。パースがおかしい?デッサンが狂ってる?やっぱり、人物を描いた後、その人物の居ない背景を見て描いてしまっているから?
……あれこれ考えながら見てみたけれど答えは見つからないままだ。つまり、多分、デッサンは狂ってない。
ということは、人物の描き込みに対して背景があまりにもざっくりしているからだろうか。それで、うまく調和して見えない、のかな。
うーん……どうしよう。これ、下塗りしてみたら、違和感は消えるだろうか?
その日の内に下塗りしてしまいたかったけれど、ラオクレスが部屋にずかずか入ってきて僕をベッドに投げ込んだので、僕は諦めて寝ることにした。
そういえば昨日は寝てないから、確かにそろそろ寝ないといけない。
……もしかすると、絵に感じる違和感は、睡眠不足によるものかもしれない。
だとしたらいけない。早く寝なくては。
良く寝て、朝になった。ぐっすり眠れたらしくて、体が少し軽く感じるくらいだ。気持ちのいい朝だった。
……けれど。
「……うーん?」
絵は、やっぱり、なんとなく違和感があるままだった。
「……上手くいっていないの?」
「うん……」
その日、またクロアさんに外に出てもらって、そこで下塗りを始めた。下塗りをしたら少し違和感が薄まったようなかんじがして、安心して陰影を深くしたり、水彩特有の滲みを作ったりして色を濃くしていったのだけれど……。
……描き進めれば進めるほど、違和感が強まる。
「体調が悪いんじゃない?あなた、しばらく休んでいないじゃない」
「それは違うんだけれど……」
クロアさんは心配してくれるけれど、僕の体調はすこぶる良い。
だから、この絵の問題は、この絵にあるっていうこと、なんだろうけれど……。
うーん。
「えええ!?トウゴが!?絵を描いて悩み始めた!?」
「うん」
その日、荷物を持ってきてくれたフェイに悩みを打ち明けたら、フェイはびっくりした。……そんなにびっくりしなくても。
「ええ……絵さえ描いてられれば悩み無し!みたいなトウゴでも、悩むんだなあ……」
「絵についての悩みだから……ほら」
「そ、そっかぁ。うん。そうだなあ、トウゴも、絵について悩んだっていいよな……。いや、びっくりしたけどよ。うん、どれどれ……」
僕が絵を指し示すと、フェイはその描き途中の絵を見て……それから、首を傾げた。
「上手いじゃん」
「ううん、なんか変だよ」
「変かぁ?」
……フェイには違和感が伝わらなかった。
「どこら辺が?上手いじゃねえか」
「ええと……人物と背景が浮いてるかんじがする。でもデッサンは多分、狂ってなくて……狂ってるのかな」
「ええ?分かんねえけどさあ……」
フェイに悩みを伝えたら、フェイは唸りながら絵を見つめた。
……そして、数分後。
「うん。分かんねえ」
伝わらなかった!
「ま、いいや。じっくり悩めよ。まだ時間は沢山あるんだしさ」
「うん……」
そうは言っても、今週で2週間目だ。クロアさんの貸出期間はあと1か月半と少し。気持ちは焦る。
「とりあえず荷物、見てくれよ。頼まれてたの持ってきたからさ」
フェイはそう言って、持ってきた荷物を広げ始める。
……フェイが持ってきてくれたのは、食料品や、クロアさんの生活用品だ。食料は、ほら、クロアさんの前で描いて出すのはちょっと駄目な気がしたから止めている。
「とりあえず、トウゴ用のハムとチーズとパンな」
「うん」
「……また頼んだのか」
「うん。これ、好きなんだ」
ラオクレスがパンの間にハムとチーズを挟んだやつを用意してくれて以来、僕はこれが気に入ってる。
「それから、クロアさん用に色々。塩漬け肉に野菜、ベーコン、バター、干した豆……と。うん。こんなもんでまた数日はもつだろ」
うん。もつと思う。他にも、多少の野菜ならこの森にも畑があるし。……採れるものは大体、枝豆。あと、たけのこ。
「で。クロアさんの服な!」
食料を確認したら、いよいよクロアさん用の服だ。
「そんなに沢山用意して頂かなくても……」
「いや!折角の機会だ!色々着せられてくれ!で、トウゴに描かれてくれ!」
クロアさんの服は、また色々だ。
ドレスもあるし、シンプルなワンピースもある。少し畏まったブラウスにスカート、っていうのもいい。
それから、装飾品もいくらか持ってきてもらった。……お金は僕が出してるよ。一応。宝石っていう形で、だけれど。
フェイは宝石店で宝石を売って、そのお金で装飾品を買ってきてくれたらしい。あまり魔力の無い宝石しか使われていないけれど、すごく綺麗なのがいくつも並んでいる。
「……あれ?」
その中に、少し場違いなかんじのする装飾品があった。
「ん?あ、それか。いいだろ」
……それは、リボンだ。シンプルで、いっそ質素にも見えるような、そういう。
きらきらした装飾品ばかりの中で、そのリボンは1つだけ、どうにも浮いて見えた。
「ほら、折角の森の中だろ?だったら舞踏会に行くような恰好じゃなくて、こういうのもいいんじゃねえかと思ってさ」
フェイはそういいながら、木綿でできているらしい柔らかそうなワンピースと、さっきのリボンを重ねて見せてくれた。
「こういう服に合わせるんだったら、金と宝石じゃなくて、こういうリボンだろ」
……合わせるなら。
うん。そうか。
シンプルなワンピースに、きらきらした宝石は似合わない。木綿のレースが綺麗な服には、リボンの方がいい。
木綿のレースのワンピースに、パーティ用の宝石じゃ、合わない。逆に、パーティ用のドレスにこのリボンじゃ、やっぱり合わない!
分かった!
「クロアさんが、森っぽくないんだ!」
「……え?」
「クロアさんって、森の中じゃなくて、お城の中やパーティ会場に居る時にしっくりくる人なんだと思う」
完璧に整った、芸術品みたいな微笑み。人間の手で作られた最高傑作みたいな、そういう女性は……人間の手の入っていない森の中だと、浮いて見えるんだ。
「そ、そう……そうかもしれないわね」
クロアさんは少し困惑した様子だったけれど、ちょっと苦笑して言った。
「私、毎日パーティと鏡台の前と寝室とを行ったり来たりしているばかりなんだもの。そちらの方が馴染みがあるわね」
……そうか。クロアさんはそういう人なんだ。
パーティの中で誰より輝いて見えるような、そういう人。森の中に居るにしては、あまりにも整いすぎた人なんだ。
「ごめんなさいね。こんな女で」
クロアさんはそう言って……一瞬、寂しそうな顔をした、気がした。
「私のことは、どこか室内で描いて頂戴。森は……似合わないわ。憧れはするけれど」
……彼女の瞳が、森の中にぴったりなのは、知っている。一角獣達が戯れに来た時のクロアさんを見ていたら、ああ、この人を森の中で描きたい、と強く思った。細められた目が、すごく、森っぽかった。木漏れ日が落ちた肌が眩しくて、すごく綺麗だった。
ああいう彼女を描きたい。すごく描きたい。
けれど、彼女は画用紙越しに見られると多分、お屋敷での気持ちになってしまうんじゃないだろうか。きっと、今までに何枚も絵は描かれているのだろうし。
つまり、彼女は……森が似合わないんじゃなくて、きっと、森に馴染んでないだけ、なんだと思う。
だから、決まりだ。
「じゃあ、森っぽいことしよう」
「えっ?」
「それで、森っぽくなってほしい」
僕はこれからクロアさんを、森っぽくする。