9話:甘い罠と罠破り*4
僕が見ている先で、その女性は椅子に座って、水らしいものを貰って飲んでいる。……あの人も体調が悪くなったんだろうか。
幾分疲れて見えるし、座り方も心なしか少しぐったりして見える。でも、それもまた絵になるところがすごい。何だろう、少し気怠げなかんじが決まって見えるというか。少し乱れた髪をそっと掻き上げる様子から目を離せないというか。
その女性は誰よりも輝いて見えるし、特別に見える。
……そうやってその女性をずっと見ていた僕を、フェイが、ちょこん、とつついた。
「……なんかよー、直接話しかけに行くとかは、しねえの?お前」
「うん」
流石にそれは、申し訳ない。もしここが奴隷屋さんだったりしたら、迷わず買って帰ってじっくり見ながら描くところだけれど……彼女は別に、モデルさんというわけじゃない。そういう仕事をしている人じゃないんだから、モデルになってくれとお願いするのは筋違いな気がした。だから、迷惑にならないように、ちょっと見せてもらうだけにしておく。
「それで満足できるのかよ」
「ううん……」
勿論、できればもっとじっくり見て描きたい。1時間なんて言わないから、10分でもいいから、間近に見て描きたい。
……けれど、この場でそれを言うべきじゃないのは、分かってるよ。
ここは社交場で、フェイの戦場だ。僕の我儘でフェイを振り回すべきじゃない。フェイが僕を振り回すならまだしも。
「そっか。なら話は早いな!」
……けれど、フェイはそう言って飲み物のグラスを一気に空にした。それを見て、僕も慌てて、貰った飲み物を飲み干す。飲み物はなんだかとろりとして甘酸っぱくて、微かに苦みがあって、なんというか、大人っぽい味だった。……今のが子供っぽい感想だっていう自覚はあるよ。
「よし、トウゴ。準備はいいか!?」
「え?あ、あの、待って」
僕は、立ち上がって歩き出したフェイの後を追いかける。そうしてフェイが進んでいった先に居たのは、さっきの女性だ。
「失礼、そちらの方。ちょっといいか?」
フェイはそう、女性に声を掛けた。
すると女性は顔を上げて、不思議そうにフェイを見る。
「何かしら?」
そして小首を傾げる様子もまた、素敵だ。首の動きに合わせてさらりと流れる髪だけで、スケッチブックが丸々1冊埋まりそうだ。
「いや、あんまり綺麗な人なもんだから、声を掛けたくなったんだ。……もしよろしければ、少しお話しさせて頂いても?」
フェイはスマートだなあ、と思っていると、ふと、女性が僕を見た。
……その翠の瞳が、また僕を捕らえて離さない。頭の奥がぽーっとするような、そんな感覚だ。もっと描きたくなってしまった。
「ええ、少しだけなら」
そしてその女性は微笑んで、ソファの上で少しだけ、姿勢を正した。
「……だってさ。よかったな、トウゴ!」
そしてフェイは、僕をつついて笑う。それを見てまた、女性は少し不思議そうな顔をしたけれど……。
うん。そろそろ、僕が話すべきだろう。
だって、この人と話したいのは僕だ。いつまでもフェイにお世話になっていたら、その、男が廃る。
「あの、あなたを描いてもいいですか?」
よし、言えた。
「……描く?え?」
聞いてみたら、女性は面食らったような顔をした。すると、整いすぎて美術品にしか見えなかった女性が、1人の人間に見えるようになる。うん、その表情もすごくいい。
「……トウゴぉ、お前、随分、随分と過程をすっ飛ばしていきやがるなあ……」
「結論から言った方がいいと思って」
フェイには少し呆れられてしまったけれど、でも、自分の気持ちはちゃんと伝えるべきだろう。うん。
「ええと、僕、上空桐吾といいます。レッドガルド家にお世話になってる絵師、です」
最初に自己紹介。……ここで早速、レッドガルド家のお抱え絵師になった恩恵がある。
『趣味で絵を描いている者です』よりも『貴族のお家でお世話になっている絵描きです』の方が、信用できる。やっぱりお抱え絵師になってよかった!
「絵描きさんだったのね。随分と若いように見えるけれど……」
「ああ、齢は齢ですが、腕は確かですよ。いい絵を描く奴です」
少し不思議そうに、それでいて少し興味を持ったように僕を見る女性に、フェイがフォローを入れてくれた。ありがとう。フォロー抜きにしても、言われて嬉しい。
「それで、さっき会場で飲み物を貰っているあなたを見て、その、すごく綺麗な人だと思って」
「あら、ありがとう」
これだけ綺麗な人だから、きっと褒められ慣れているんだろう。女性は慣れた様子でくすくす笑ってそう言った。
「さっきからあなたのことが頭から離れないんです。あなただけが特別輝いて見えるし、あなたのその目を向けられてる今、すごく心臓がうるさい」
きっと相手は慣れているだろうから、言葉の選び方が稚拙なのは許してもらって……正直に自分の頭の中を話させてもらおう。
「僕、あなただけでスケッチブック何冊分でもいっぱいにできる。あなたの瞳を描くのにぴったりの絵の具を見つけるために1日中森の中を探していられる。……あなた自身が芸術品みたいなものなのにそれを描きたいだなんて、傲慢かもしれない。でも、どうしてもあなたを描きたくて……」
翠の瞳をじっと見つめて、世界にそれだけしかなくなってしまったように思いながら、僕は、伝えた。
「……その、僕、あなたに一目惚れしてしまったみたいなんです」
女性は何度か目を瞬かせる。それから、少しだけ震える息を吐き出して……それから思い出したように、くすくす笑い始めた。
「それは……随分と熱烈な告白ね。あなたみたいな人は初めてだわ」
くすくす笑いながら、少しだけ頬が赤い。うわあ、この表情も素敵だ……。
女性は少しの間笑って、それから……そっと、僕の手を握った。
「でもごめんなさいね。私の一存では何とも言えないの」
それは……ええと?
「それは申し訳ない。もしかしてあなたはどなたかの奥方でしたか?」
「ふふ、人妻に見えたかしら」
「そんなお歳には見えませんよ。けれど、まあ、あなたほどの魅力的な方なら、もう特定のお相手が居てもおかしくはないかと」
フェイと女性の会話を聞いて、僕はちょっと、頭がこんがらがる。
ええと、この女性は誰かの許可が無いとモデルになれなくて、それで、誰かの奥さんというわけではない……?
「……もしかして、誰かの専属モデルさんでしたか?」
だとしたらまずいな、と思って聞いてみると、女性はころころと、鈴を転がすみたいに笑いだした。
「ふふ、そうじゃないわ!私を描きたいだなんて言ってきたのはあなたが初めて!私はね……」
そして、一頻り笑った後、その女性は……ドアの方を見た。
ドアを開けて丁度入ってきたのは、1人の男性だ。
「私、クロア・シェーレ。……シェーレ家の娘、ということになるわね」
ドアから入ってきた男性は、僕らとクロアさんの方を見て、小さく会釈した。
「紹介しますわ。こちら、トリフェン・シェーレ。王城に勤める文官であり、私の養父です」
ようふ。……つまり、実の父娘じゃない、っていうことなんだろう。うん。納得がいく。だって、トリフェン・シェーレさんとクロアさんはあまりにも似てない。
「どうも。シェーレです。文官として勤めておりまして、儀礼や儀式の管理を担当しております」
文官シェーレさんはそう言って、僕とフェイの手を握った。愛想のいい笑顔を浮かべて、それからクロアさんの方を向いた。
「具合が悪くなったと聞いて驚いたよ。大丈夫かな?」
「ええ、お父様。もうすっかり良くなりましたわ」
そういえば、さっきまでクロアさんは疲れた様子だったけれど……大丈夫だろうか。僕らが話しかけてしまったせいで、あんまり休めてないかもしれない。
「この方とお話ししていたら、疲れなんて吹き飛んでしまったの」
……けれど、クロアさんが僕を見てくすくす笑うものだから、うん、なんというか……本当に素敵な人だなあ、と思うことしかできない。
「成程。それはどうもありがとう。ところで、お名前を伺っても……?」
「フェイ・ブラード・レッドガルドです。それでこちらが……うちのお抱え絵師の、トウゴ・ウエソラです」
フェイに紹介されて、僕はぺこ、と頭を下げる。すると文官シェーレさんは、きらり、と目を輝かせた。
「ほう。レッドガルド家というと、お話はあちこちから聞いていますよ。どうやら、レッドドラゴンを召喚したとか?」
「ははは、いや、召喚したわけじゃないんですけれどね。ただ偶々、行き会ったレッドドラゴンと気が合っただけで」
フェイはそう言いつつ、ちょっと困った顔をした。うん。レッドドラゴンの話はあまりしたくないだろうから。
……ここでも僕が体調不良になるわけにはいかないので、せめて何か話題を変えようか、と思った、その時。
「お父様。こちらのトウゴ・ウエソラ様が、私の絵を描きたいと仰っておいでなの」
クロアさんが、そう切り出してくれた。
「あの、トリフェン・シェーレさん。娘さんを僕に描かせてください」
僕も慌てて、お願いする。
クロアさんの『私の一存では決められない』と言っていたのは、つまり、養父であるシェーレさんの許可が無いと駄目だ、ということだろう。
そうでなくても、まあ、お父さんだっていうなら、お願いはすべきだと思う。
「ほう。クロアの絵を?」
「はい。是非」
僕がそう言うと、シェーレさんはまじまじと僕を見つめて……。
「お父様。私からもお願いします。この方の熱意ったら、すごいんですもの。是非、私にできることなら叶えて差し上げたいわ」
「うむ、そうか。そういうことなら分かった」
クロアさんの援護もあって、シェーレさんは頷いてくれた。
「是非、クロアを描いてほしい。彼女もそう望んでいるようですからね」
やった!
描ける!この、生きた芸術品みたいな、神話の世界に出てきそうな、美しい人を描ける!
とても嬉しい。すごく嬉しい!夢みたいだ!
「ありがとうございます!」
お礼を言うと、シェーレさんはにこにこと愛想のよい笑顔を浮かべて……言った。
「しかし、そうですなあ……もし、私の依頼を受けて1枚描いて頂けるなら、2月ほどクロアをお貸ししますが、そういうことで如何ですか?」
……えっ。
依頼、を受けると、2か月間、クロアさんを貸してもらえる。
……2か月。
「その間は描き放題ですか!?」
「はっはっは。面白いお方だ。ええ。好きなように描いてやってください」
それは……それは嬉しい!
2か月描き放題!この、芸術品みたいな人を、2か月描き放題!すごい!そんなことがあっていいんだろうか!?
……いや。でも、喜んじゃいけない。浮かれちゃいけない。
まだその、『依頼』の内容を聞いてない。
……とても魅力的な申し出ではあるのだけれど、対価となる依頼が『レッドドラゴンを出せ』とかだったら、僕はこの話を断らなきゃいけないから。
「それで……その依頼っていうのは?」
どうか、どうかレッドドラゴンに関係ない話でありますように。
そう祈るような気持で、僕は、そう聞いて……。
「ええ。裸婦画を1枚」
そう言われて。
「ちょっと考えてもいいですか」
すごく、困った。