森の香り
「あのさあ。前からちょっと気になってたんだけれど、いい?」
ある日。森の整備を終えたところで唐突にそうライラに呼び止められて、ちょっと不思議に思いながら待っていると……。
「あんたって、妙にいい匂いするわよね」
……そんなことを言われてしまった!
「いや、あの、しないと思う」
「するわよ。してるわよ。ほら今も!」
ライラは僕の後ろから回り込んで、すん、とやり始めた!
「わ、わ、あの、嗅がないで!嗅がないで!恥ずかしいから!」
「あら?なんか匂い変わったわね……」
「待って!待って!あの、ライラ!ねえ、ちょっと!」
好奇心と探求心の塊みたいなライラを前に、僕はもう、もう、どうしたらいいのか!とりあえず一生懸命逃げて、ライラから距離を取った。
「駄目?」
「……あの、恥ずかしいから駄目」
「別に、臭い訳でもないんだし、恥ずかしがることないと思うけれど」
ライラは『そんなに嫌なもの?』と首を傾げているけれど、その、嫌っていうか……恥ずかしいんだよ!首元に顔を寄せられて、ふんふんやられるの!
「そう。まあ、あんたが嫌ならやめるわ。残念だけど」
けれど、ライラは良い人だから。僕が『恥ずかしいからやめて』って言ったら、最終的にはちゃんとやめてくれるので、そこは安心。
「……だから、代わりにフェイ様にお願いしてみる!」
えっ。
「えっ、あの、なんでフェイ……?ライラ、フェイの匂い、嗅ぐの……?」
「は?違うわよ。フェイ様にあんたの匂い嗅いでもらうのよ」
あ、そっちか。よかった。ほっ。
……いや、よくない!よく考えたらよくない!やっぱり僕が匂いを嗅がれることになってる!なんてこった!
「あんたの森化が進んでる時って森っぽい匂いが強くなってるような気がするのよね」
僕が混乱していたら、ライラはそう、説明してくれた。
「まあ、まだ仮説だけど。だから逆に、あんたの匂いであんたの状態が分かるんだったら、それはそれで何かの役には立つんじゃないかと思ったのよ」
あ、そういうことだったんだ。そっか……。
確かに僕、お祭りがあった直後とかには、その、森寄りになってしまうことが多い。そうなると人間としての感性がちょっと鈍ってるわけだから、気を付けないと危ないこともあると思う。だから確かに、それが分かるのは有効、なのかも。
「それに何より、面白いし」
「お、面白がらないでよ」
でも人の匂いを面白がらないでほしい!もう!
……ということで。
「よっし!トウゴが人間らしく居るための実験及び研究だもんな!親友として協力するぜ!」
とても元気なフェイがやってきて、実験開始となりました。うう、僕の親友はとても前向き……。
「まずは今の匂いの確認だな。えーと……」
でも僕のためにやってくれてることだっていうのは分かるから、僕も我慢することにする。うう、嫌な匂いじゃなければいいんだけれど。
「えーと、どこ嗅げばいいんだ?」
「首筋が分かりやすいと思うわよ」
「んー、じゃあこのあたりか。ちょいと失礼、っと……」
フェイは早速、ちょっと屈んで、僕の首筋に顔を寄せて、すんすん、とやり始めた。うう、男同士でもちょっと恥ずかしい……。フェイの髪が僕の首のあたりをくすぐって、なんだか落ち着かないし……。
「おー……なんかいい匂いするなあ、お前……」
「フェイまで……」
しかもこういうことを言われてしまうと、その、ちょっと!
「木の匂い、っぽいのかもな。あとは人間の匂いの内だと思うけど……んー?」
すんすんすん、とやられると、その、僕は落ち着かない。落ち着かないんだけれど、でも、僕としても多少、この現象は気になるので我慢。
いや、だって、自分の匂いが人間のそれじゃないって、どう考えてもおかしいよ。確かに中身は精霊だけれど、でも、体は人間のものなんだし……いや、羽生えちゃってるけれど……まあ、だから、その、匂いが変わるっていう妙な現象については、僕も知っておきたい。うん。そう思うことにした!
「こう、兵士詰め所のとはまるっきり別だもんなあ、お前の匂い……」
「ちょっと遺憾の意」
分かるけど。僕、あんまり男臭くない生き物だっていう自覚はあるけれど。でも、ちょっとそれが悔しいといえば悔しいんだよ。
「まあ、とりあえず今は、『ちょっと木っぽい人間の匂い』だな!多分、モミの木とかヒノキとか、そういう木の匂いが混じってる」
「あ、そうなんだ……そっか、モミとかヒノキなんだ……」
すん、と自分で自分の匂いを嗅いでみるけれど、よく分からない。うーん、確かにこれは、客観的な判断が無いと分からないところだよね。
……あ、ちょっと面白くなってきたかもしれない。
ということで、今日はフェイとライラが僕にくっついてくる日らしいので……ええと、じっくり1枚の絵を描くんじゃなくて、あちこちに行ってスケッチする日にすることにした。ライラも一緒にスケッチブックを持って、出発。
「えーとね、最近、小鳥の雛が生まれてるんだよ。可愛いから是非見てほしい」
「へー。折角だし、それスケッチさせてもらおうかしら」
最初に向かうのは、森の一角。最近、小鳥の雛が孵ったあたり。……そこには、巣の中にみっちりと詰まってぴいぴい鳴く小さな雛鳥の姿があった。普通サイズの鳥って、見ていて落ち着くなあ。
「成程ね。確かにこれは可愛いわ」
「くっつきあってて、あったかそーだよなあ」
ライラとフェイにも好評だったようで何より。僕としても、可愛い雛鳥をスケッチ出来て満足。
「あ、ウサギも来たわね」
「うん。……ふふ、今日もふわふわだ」
雛鳥を一通りスケッチしたところで、僕らの足元にふわふわとウサギがやってくる。ウサギの小さな体が滑らかにふくふく動いて、足元をくすぐっていくのがなんともかわいらしい。僕、この森でよかったなあ。こういう小さな生き物が僕の中で幸せそうにしているのを見ると、僕、森で良かったなあ、って思うんだよ。
「……んっ!?お前、今、森っぽくなってないか!?」
「へっ!?」
と、思っていたら、後ろから僕の首筋のあたりをふんふんやっていたフェイが、そんなことを言いだした!うわ、うわうわうわ、確かに僕、ちょっと森っぽくなってたかもしれないけれど!
「木の匂いが強くなった!あと、ちょっと花の匂いがする!あとさっきの木の匂いとか、ハーブの類っぽい匂いも!」
「えっ、えっ、花?木?ハーブ?な、なんで?」
「わかんねえ!」
単に森っぽくなると木の匂いが強くなる、っていう訳じゃないのか。う、うーん、自分のことながら、全然分からない……。
ちょっと森っぽくなっちゃったので、次は人間っぽい所に行く。
向かう先は画廊。最近描いたものを追加して飾っておこうと思って。
「今日も盛況よねえ」
「うん。ありがたいことだ」
画廊には、今日も人が入ってくれている。まあ、ここ、レッドガルドの町の娯楽施設みたいになってる側面もあるから、そういう意味でも人が入ってくれるんだろうけれど……来てくれた人達が僕の絵を見てくれているのが、その、凄く嬉しい。
「わあ、鳥さんの絵!ママ!鳥さん!」
「そうねえ、鳥さんねえ。……大きいわねえ、この鳥さん……」
今も親子連れが鳥の絵を見て、楽しそうに囁き合っている。まあ、うん。あの鳥はでっかいんです。
他にも、絵の勉強をしているらしい人がじっと僕の絵を観察していたり、老夫婦が楽しそうに絵を眺めていたり、色々。……ああ、嬉しいなあ。
「おお、今のお前、花の匂いになってる!」
「えっ」
と思っていたら、フェイがそんなこと言いだした!
「お前、嬉しいと花の匂いになるのかあ」
「え、えええ……」
そ、そっか。僕って、僕って……嬉しいと花を咲かせてしまいがちだし、嬉しいと、花の匂いになってしまう……あれ、やっぱりこれ、僕、人間じゃないのでは……。
「……ん?雨の森の匂いになってきた」
「えっ」
と思っていたらまたフェイがそんなことを言うので、僕はもう混乱しています。
「なんだろうな、これ。ちょっと冷たいかんじの匂いだ。しっとりしてる匂いっつうか……あ、もしかしてちょっと落ち込んだか?」
「あ、うん……そうか、僕、落ち込むと雨の森……じゃあ、花の匂いになっちゃったのはやっぱり、嬉しかったから……?」
……やっぱり僕、人間じゃないんだなあ!もう!
「へー。つまりトウゴ、あんた、気分で匂いが変わっちゃうってことね?」
「ううう、そうみたいです……」
こうして僕の匂いについて仮説が立ってしまった。どうやら僕、気分によって匂いが変わるらしいです。
「……変だよね」
「まあ変よね」
だよね。うう、そう思うよ。僕もそう思う。その時の気分で匂いが変わってしまうなんて、人間として……いや、生き物としてどうなんだろうか!
「でも、誰も困らないし、別にいいんじゃない?」
僕はちょっと落ち込んでいたのだけれど、ライラは首を傾げつつそんなことを言う。
……まあ、そうか。誰も困らない……いや、僕は多少困るような気がするけれど。でも、まあ、別に、悪いことじゃ、ない……かな?
「ほら、それに、あんたあんまり自分の気分とか、言わないじゃない。まあ、結構顔に出るけどさ。でも、悲しいとか辛いとか、そういうのはあんまり分からないし……そういう時にあんたが雨の森の匂いだったら、『ああ、ちょっと落ち込んでるんだな』って分かって丁度いいわ」
ライラがそう言って、にっ、て笑うのを見て、その、少し元気が出る。その、気遣ってもらってるなあ、とか、大事にしてもらってるなあ、とか、そういう感覚。大事にされてるんだから、僕も僕を大事にしなきゃいけないし、ライラのことはもっと大事にしなきゃ、っていう、そういう。
「おっ?お前、ちょっと元気出たか?陽だまりの匂いになってきた」
「えっ、あ、あの、嗅がないで!」
「陽だまりの匂いってどんなのよ」
「嗅がないでったら!」
いや、あのね!ちょっと元気は出たけれど、それはそれとして、フェイとライラがふんふんやってくるのはやっぱりなんだか恥ずかしいんだよ!
「うう……お返し!」
「うおわっ!?」
なのでお返ししてやる!開き直ってやる!ということでフェイの匂い、嗅いでみる!
……うん。なるほど。
「……俺、臭くねえ?」
「フェイの匂いがした。ええと、人の子の匂いだなあ、って。あと、ちょっとスパイスみたいな匂いがする」
フェイは、まあ、その、僕よりはいわゆる『男臭い』っていうやつ、かもしれない。僕としては羨ましい匂いだ……。あ、なんだかこっちが恥ずかしくなってきてしまった。うう、仕返しなのに!仕返しなのに!
「うわー、自分の匂い嗅がれるのって結構恥ずかしいなあ、おい」
「だからそうだってば」
まあ、ひとまずフェイには仕返しできたのでこれでよしとしよう。よし。
……となると。
「な、なによ。私のも嗅ぐ?別にいいけど」
堂々と開き直って仁王立ちしているライラ相手にそういうことをするのは若干気が引けるんだけれど……いや、でも、うん。折角だし。……ということでライラのポニーテールがふわふわ揺れるところにちょっとお邪魔して、すん、ってやってみた。
……わあ。
「な、なによ。臭い?臭かった?ね、ねえ、なんか言ってよ」
「人の子の匂い……」
「いや、あの、人の子の匂いって何よ。あんた森化してない?大丈夫?」
その、その……ライラって、甘いお菓子みたいな匂いがする。美味しそうっていうか、その……うう、落ち着かない匂いだ!
「ん?なんかお前、うまそうな匂いするなあ」
「へっ?」
と思っていたら、フェイが僕をすんすん、とやって首を傾げ始めた!えっ!?美味しそう!?ライラが、じゃなくて、僕が!?
「食べごろの果物の匂いだよな、これ。なんかうまそー」
「わ、わわわわ、フェイ!ね、ねえ!ちょっと!駄目!駄目だよ!食べないで!食べないで!」
「あっ、ほんとだ!トウゴ、あんた美味しそうな匂いになってる!」
「ライラまで!」
な、なんだかそわそわして落ち着かない!恥ずかしい!やめて!やめて!恥ずかしいよ!
……僕が恥ずかしがっている間に、馬がやってきて『なんだかいい匂い』みたいな顔をし始めたり、ウサギの子がやってきたからちょっとウサギの匂いを嗅がせてもらって『あっ、陽だまりの匂いだ……』ってやったり、鳥が僕とフェイとライラをまとめて抱卵し始めたところで『ところで鳥さんってなんかいい匂いするわよね』『森の精霊ってみんなこうなるのか?』『いや、これは多分、月の光の蜜の香り……』っていう話をしたり。
鳥の巣の中には事前に攫われてきていたらしいレネが丸くなってすやすや寝ていたので『やっぱりレネっていい匂いするわよね』『ライラにポプリにされるだけのことはある』ってライラと頷き合ったり。
兵士詰め所に行って『男臭いねえ』『男臭いな!』『ここにクロアさんが居ると匂いが全然違うかんじになっちゃうの、面白いわよね』『わにゃ?』なんて話をしてみたり。
妖精カフェに寄って『ここの匂い、俺、大好きだぜ!』『僕も!』『私も!』『みゅ!』なんて笑い合って、皆で季節のパフェを食べてきたり。
……そして。
「何かしら。ウヌキ先生の家って、落ち着く匂いするのよね……」
「ああ、畳の匂いするよね、先生の家って」
『これはたたみの匂いなんですか?たたみって素敵です!』
「あとお茶の匂いだろ?ウヌキ先生んとこで出てくる茶って、いい匂いだよなあ」
僕ら全員、最終的に先生の家にお邪魔しています。
……ええとね、僕は先生の家の匂いが好きなので……今日の締めくくりには丁度いいかと思って。
「君達、今日は何をしているんだい?」
「トウゴの匂い嗅いでたのよ。こいつ、気分によって匂いが変わるみたいだから」
「何っ!?……それは不思議だなあ、トーゴ」
「そうなんだよ、先生」
先生が持ってきてくれたお茶を早速頂いて、一息つく。今日は本当に変な日だったなあ。急に匂い嗅がれて……あっ、思い出したらまた恥ずかしくなってきた……。
「じゃあ、ちょっと失礼」
思い出し笑いならぬ思いだし恥ずかしをしていたら、先生がそっと僕の近くに来て、ふんふん、とやっていった。なのでついでに先生の匂いも嗅いでみる。
……先生の匂いだなあ。僕が、僕の家よりも落ち着く匂い。僕が『帰ってきた』っていう気分になれる匂いだ。
「ふむ。まあ、トーゴの匂いだなあ」
「先生は先生の匂いだねえ」
まあ、先生自体もいつもの匂い。……それで、多分、先生の傍に居る時の僕も、いつもの匂い、なんだと思うよ。多分。
「え?……あ、ほんとだ。森の匂いじゃなくなってる」
「おっ!人間っぽい匂いがする!トウゴお前、ウヌキ先生の傍にいると森化が減退するみたいだな!」
あ、そうなのか。まあ、そうだよなあ、と何となく納得してしまう。
だって、先生は僕を人間らしく育ててくれた人なので。先生の近くに居ると森じゃなくて人間っぽくなってくるっていうことには大いに納得だ。
「じゃあ、今後トウゴがどうしようもなく森化しちゃったらとりあえずウヌキ先生の家に放り込んどきましょうか」
「おやおや、トーゴ。君、放り込まれちゃうのかい?僕は大歓迎だが……」
「そこまで森化しないように頑張る」
ま、まあ、先生の傍にいると人間っぽくなれるのは納得がいくし、いざとなったら活用させてもらうけれど……森に傾きすぎないように僕が気を付けておくっていうのが一番いい気がするよ。
「まあ、そういうことなら人間の食べ物を食べていくといい。ほら、魔王のお気に入りのおせんべも出してあげよう」
先生はにっこり笑って、醤油せんべいの袋を持ってきた。どうやらこれ、すっかり魔王のお気に入りらしい。
一枚もらって、ぱり、と齧れば、香ばしい醤油とお米の香りがして、ああ、美味しいなあ、っていうかんじ。合わせるお茶も、緑茶の爽やかな香りがとってもいい。
うーん、実に、人間文化の香りだ……。
……ということで、先生の家でお茶をご馳走になった僕らは解散することにしたのだけれど。
「まあ、今日の研究のおかげで、トウゴの機嫌がもっとよく分かりそうだわ」
「逆に、あんまり森化とは関係なさそうだよなあ、お前の匂い……」
「うん……」
結局、今日の意味って……その、僕の機嫌が匂いに出てしまうっていう、そういうことが分かって、あと、先生の傍にいると人間寄りになれるらしい、って分かったくらい、だろうか。
「まあ、トウゴがいざ駄目になってきたらウヌキ先生のところに放り込めばいいって分かったわけだから、その価値はあったわよね」
「だなあ。これでトウゴが完璧に森になっちまうことは減った!」
まあ、本当にどうしようもなくなったら先生の家に駆けこむっていうのは手だなあ。ちょっと考えに入れておこう。
「あらっ、でもよく考えたら、トウゴが巣篭りしてた時とか、ウヌキ先生も巣に入れてご満悦だったけど……」
「……行き過ぎた森化には効果ナシかもなあ」
……ま、まあ、何よりもまず、僕自身が森化に歯止めを掛けられるように気を付けておくのが一番だろうから、まずはその方針で……。
何よりも、ほら、匂いを嗅がれるのって、ちょっと、その、恥ずかしいので……。
……うう、なんだかやたらと恥ずかしい思いをした一日だった!




