世界を越える本*1
「どうぞ。粗茶ですが」
「あ、ありがとうございます……」
僕はちょっとだけ見覚えがある編集さんから名刺を受け取った後、そのまま先生の家に招き入れて、リビングにお通しして、お茶を出している。正に勝手知ったる他人の家、っていうかんじだ。
編集さんはお茶を飲みつつ、落ち着かなげな顔をしているものだから、なんとなく申し訳ない。そうだよなあ、先生の家に見知らぬ子供が居て、そいつにお茶を出されている。彼の心情はいかばかりだろうか。
「……この家は、宇貫先生が御存命だったころのままなんですね。なんというか、もっとがらんとしているのかと思っていたから、安心しました」
そして編集さんは、ちょっと部屋を見回して、そう言った。
寂しげで、色々なものを諦めた上で懐かしんでいるような、そういう顔だった。
「……はい。今は僕が時々生活させてもらっています」
家主が居ないのにどことなく生活感のある家の中は、編集さんにとって奇妙なものに見えるんじゃないかな。……或いは、先生の代わりに僕が住んでいるっていうことに、ちょっと引っかかりを覚えているかもしれない。
「失礼ですが、君は宇貫先生のご親戚ですか?」
「いや、血のつながりは全然無いんです。ただ、すごくお世話になっていて……先生の叔父さんとも、ちょっと親しくさせて頂いています。元々、この家は叔父さんのものだったみたいで、それで、その方から『じゃあこの家は君に任せよう』と……」
僕がここを別荘みたいに使わせてもらっている事情は、ざっと話すとこんなかんじになってしまう。なんというか、恵まれ過ぎた話だと思うし、おかしな話だとも思うのだけれど……。
「そうかあ……それはよかった」
編集さんはそう言って、へにょ、と笑った。
「いや、僕としても、この家が荒れていくのは悲しいと思っていたので……うん。よかったです」
……そっか。
そう思ってもらえるのは……嬉しい。『どうしてお前なんだ』って言わずにそう言ってもらえるっていうのは、すごくありがたいことだ。
「なんだか不思議な気持ちです。宇貫先生がまだいらっしゃるみたいで」
……ただ、そう言われてしまうと……その……『はい。ここじゃない世界で生きてますよ』とも言えないので、その、すごく、すごく気まずい……!
それから僕は、編集さんと少し話した。
どうやら彼は、偶々この近くまで来たので、ついでに先生の家を見て帰ろうと思っていたらしいということ。そこで僕がフキノトウを持ってうろうろしていたので思わず声を掛けてしまったということ。
それから……。
「宇貫先生のご遺稿がもし残っていれば、と思ったんです」
そう、編集さんは言ってくれた。
「それって、つまり、先生が書いたものを出版してもらえる、っていうことですか?」
「はい。もし可能でしたら、ということになりますし、ご遺族のご意向もあるでしょうから、無理にとは言えませんが……」
……僕は、ちょっと考える。色々なことを、一瞬の内に色々考える。考えた。
「……あります。遺稿、あります。結構長い奴も」
「ほ、本当ですか!」
「ええと、ちょっと待っていてください。ええと、でも著作権の類は石ノ海さんに相続したんだっけ……ええと、でも見せるくらいなら大丈夫だと思う……」
遺産相続の時の話を思い出しつつ、先生のお母さんには出版の話、しない方がいいだろうなあ、なんて思いつつ……僕はとりあえず、二階に上がることにした。先生の原稿は先生の部屋に置いてある分がちょっとあるので。
ということで早速、僕は席を立って……。
その時だった。
……まおーん。
そんな……気の抜けた声が、向こうの部屋から、のんびり響いてきた。
編集さんは僕を見る。
僕は編集さんから目を逸らしたい。
そして、そんな僕の気持ちには気づかず、まおーん、まおーん、というのんびりした声は、段々近づいてきて……。
ガチャ。
……リビングのドアを尻尾で開けて、魔王がひょこ、と顔を覗かせた。
魔王を見て固まっている編集さんを見て、魔王は、まおん?と首を傾げている。
……あああああ!
「こ、これは一体……?」
「先生の飼い猫です!」
編集さんが困っている!僕も困っている!魔王はのんびりしている!
魔王はひとまず自分が紹介された、と思ったらしい。まおーん、とのんびり鳴きながら、ぺこん、とお辞儀。編集さんは困惑の果てに、『あ、どうも……』とかなんとか言いながら、ぺこん、とお辞儀し返していた。
……魔王には『僕が居ない時に現実の世界へ行っちゃ駄目だよ』と言ってある。そして実際、魔王はちゃんということを聞いていい子にしているのだけれど……今は、僕がこの家に居るのを察知して、出てきちゃったらしい。
僕は実際、ここに居るんだから、僕の目があるところでしか魔王はこっちの世界に来ていない。魔王は約束を破っていないし、何も悪くない。んだけれど……。
台所の戸棚からおせんべの袋を発掘した魔王は、ばり、と袋を開けて、中からおせんべを取り出すと、ぱりぱり齧り始めた。あああああ。
「この猫さんはせんべいを食べるんですか……?」
「……はい。好物みたいです」
そして僕と編集さんが見つめる中、魔王は僕らの視線に気づいて、まおん!と、おせんべを差し出してくれた。分けてくれるらしい。魔王は本当に心が広くていい子だなあ……!
「……いやあ、驚いたなあ。こんな不思議なことってあるんですね」
「はい……」
編集さんは苦笑しながら、おせんべを齧っている。魔王もおせんべ齧っている。僕もおせんべ齧っている。魔王が僕らにおせんべを配るものだから、僕ら、おせんべ齧りの集団になってしまった……。
「まるでファンタジーだなあ」
「そうなんですよ……」
本当にその通りなんですよ、と説明したい気持ちと、説明するのは難しすぎないだろうか、という気持ちとで揺れ動きながら、僕はとりあえず頷いておく。魔王がすごくファンタジーなのは本当にその通りなので。
「いや、宇貫先生と作品の打ち合わせをしていた時に、『まおーんと鳴く魔王が居たら可愛くないだろうか』っていう話が出たことがあって。それを思い出してしまって……」
編集さんはそんなことを言いながら、ふに、ふに、と魔王をつついている。魔王はまおんまおんと喜んでいる。よかったね、つついてもらえて。
「……なんだか、まだ宇貫先生がいらっしゃるみたいだ。本当に」
本当に居るんですよ、とは言えないし、でも、編集さんが悲しそうなのは、僕としても辛いので……ええと。
「もしかしたら本当に、居るのかも」
つい、言ってしまった。
「ちょっと会えないだけで、その、別の世界で楽しく幸せにやってるのかもしれませんよ」
勿論、こんなことを言って本気にする人なんて居ないだろうし、実際、編集さんも僕の言葉をそういう励ましだと捉えたらしかった。そうですね、なんて言いつつ、ちょっと笑っておせんべを齧る。
……うう、なんというか、嘘を吐いている罪悪感があるなあ。
僕らがそうしてお茶とおせんべでおやつ休憩していると。
魔王がビニール袋をガサゴソやって、まおん、と不思議がっていた。
「ああ、それはフキノトウだよ」
魔王がガサゴソやっているのは、僕がさっき採ったフキノトウの袋だ。僕が教えると、魔王は、まおん?と首を傾げつつ、取り出したフキノトウを眺めている。まあ、見慣れないものだよね。
「食べられるんだ。細かく刻んで味噌で炒めたのが先生の好物で……あっ」
そして説明の途中で、魔王はフキノトウを1つ、ぱくん、と食べてしまって……。
まおーん!と、一際大きく悲鳴らしい声を上げて、魔王はにゅっ、と伸び上がった。それからぱちぱち、と数度瞬きして、しゅるしゅる、と元のサイズに戻る。
まおん……となんだかしょげたような悲しそうな鳴き声を上げて魔王は僕をじっと見つめてくる。苦かったです、という抗議の顔なのかもしれない。……確かにそれ単体で生のまま食べるには苦いよね。うん。それを説明する前に君、食べちゃっただろ。
「……あの、この生き物は結局、何なんですか?」
「猫です」
ほら、編集さんも驚いちゃっただろ。もうちょっと大人しく、普通の猫っぽくいてほしい……うーん、でも、魔王にそれを求めるのも変か。ごめんね。
「ええと……それで、さっきの遺稿の件、なんですが」
魔王を見て不思議がっている編集さんに、さっきの話の続きを持ち掛ける。編集さんは早速、居住まいを正して聞いてくれた。良い人だなあ、この人。
「ちょっと相談してきても、いいですか?その、先生の家の管理を任されているのは僕なんですけれど、それをどうすればいいかを決めるのは僕じゃないし……その、まだ、遺稿、出てくる可能性が高いので」
「ええ。勿論。トーゴ君1人で決められるものでもないでしょうし、どうぞ、ゆっくりご相談なさってください」
「ありがとうございます!」
よし、そうと決まれば早速、相談……。
……あれ?
「あの、僕、名前、言いましたっけ」
ふと気になって聞いてみる。僕、まだ名乗った覚えがない。
すると、編集さんは気まずげな、ちょっと申し訳なさそうな顔をしつつ、教えてくれた。
「いや、宇貫先生からトーゴ君のお話は伺っていたので……」
……うん。そっか。先生が、僕の話……。
「あの、先生が僕のこと、どういう風に話していたか、詳しく聞きたいです」
気づけば、僕は思わず、そう言って身を乗り出していた。