コウノトリとキャベツの里より*3
「ここで面白いのは男はY染色体とX染色体を1つずつ持っていて、女はXが2本というところだね。ちなみにX染色体によって色覚異常が発生することが多いんだが、色覚異常は劣性遺伝だから色覚異常の情報を持っていないX染色体が1本でも入れば色覚異常が発生しない。そういうわけでX染色体を2本持っている女よりもX染色体を1本しか持っていない男の方が色覚異常の発生率が高いのさ」
「ええと……男の子は目が悪くなることが多いっていうことかしら!?」
「いやいや。視力と色覚はまた別の話だ。視力は概ね、目玉のピント調節能力……まあ目玉の筋力によって変わってくるか、或いは眼球の歪みによって網膜に焦点が合わなくなってきて変わってくるか、まあそういうもんなんだが、色覚っていうのは網膜にある色覚細胞が入ってきた光の色を脳に伝えることで得られる感覚でね。ものがよく見えるかどうかっていうのとはまた違うんだよ」
「も、もうまく……?」
「さて、話は戻るが、性染色体の話までしたね。まあ性染色体をはじめとして、人間のあらゆる情報は全て遺伝子によって決定づけられているのだけれどもね。それがそのまま丸ごと受け継がれる増え方が無性生殖、2つの遺伝子が半分ずつ交ざって新しい遺伝子が生まれるのが有性生殖といって、まあ半分ずつ混ぜる都合で生物の染色体は偶数本であるわけだね。……なあトーゴ。人間の染色体って何本だったかなあ」
「46本じゃなかったっけ」
「成程。素晴らしい。……エンドウ豆が14本なのは覚えてたんだがなあ。まあエンドウ豆はさておき……新たな人間が生まれてくるということはね。遺伝子が半分ずつ交ざって新しい遺伝子が出来上がって、その遺伝子通りにたんぱく質だのなんだのが構築されていく、という過程を踏むことなんだよ。たんぱく質を作っているのはさっきも説明したリボソームだ。リボソームはメッセンジャーRNAを読み取ってたんぱく質を作っているわけなのだが……」
……と、いうことで。
「ま、待って!待ってね、その……ちょっとよく分からないわ!」
先生は無事、カーネリアちゃんを煙に巻くことに成功した。
いや、実に正統派の煙だし、間違ってはいないのだけれど。間違っていないのだけれど……ちょっと狡かっただろうか。
「そうか。まあ、難しい話だからね。赤ちゃん……つまり人間がどのようにして生まれてくるのかを理解するのは、色々なことを勉強してからの方がいいだろうね。基礎の知識が無いのに生命の誕生について学ぼうとするのは、土台も無いのに家を建てようとしているようなものさ」
先生はそう言ってにっこり笑いつつ、スケッチブックに描いた細胞の図解(例によってあんまり上手じゃない)をそっと隠して、お茶を飲んで一息ついた。お疲れさまでした。
「それにね、カーネリアちゃん。心配は要らないさ。君の騎士様は彼女なりに上手くやれる。そうじゃあないかい?」
「……そうだわ。インターリアは、私が心配しなくったって大丈夫なの。なのに、私ったら……」
カーネリアちゃんはなんだかしょぼんとして、やっぱりお茶を飲む。……こういう子が座布団の上に正座して湯飲みでお茶を飲んでいるのを見ると、その、なんとなく不思議なかんじがする……。
「そうだなあ……待つっていうのは、難しいね。なあ、カーネリアちゃん」
「そうね……。とっても難しいわ」
しばらく、2人はお互いにお茶を飲んで、ふう、とため息を吐いていた。それに倣って僕もお茶を飲む。……畳と座布団の上で飲むお茶っていうのは、なんだか格別なかんじがするなあ。
そうして僕ら3人、お茶でのんびり落ち着いてきた頃。
「そうね……待つのって難しいけれど、でも、私、これ以上のせんさくはしないわ。インターリアはインターリアの望むようにできるし、私が気にすることじゃないものね。それまではちゃんとお勉強しながら待つことにするの」
カーネリアちゃんは前向きな表情でそう言った。そして……。
「……でもね。もし、インターリアのところに赤ちゃんが来たらね……ちょっとでいいから、抱っこさせてほしいわ!」
もじもじと。そしてにこにこと。そういう風に言ったのだった。……きっと、インターリアさん、抱っこさせてくれると思うよ。きっとね。
「それにしても、ウヌキ先生?先生ってとっても物知りなのね!さっきのお話、すごく難しかったもの!」
「ははは。それはどうも」
「いつかきっと、ちゃんと理解できるようになりたいわ!だから私、お勉強、頑張る!」
カーネリアちゃんは先生に意気込みを語りつつ、『いでんしが半分こずつくっついて人間になるのよね……?』とぶつぶつ呟いている。早速学習の成果が出ている。すごいなあ。
「まあ、僕みたいなのの知識が必要だったらいつでも言ってくれたまえ」
「ええ!そうさせてもらうわ!」
カーネリアちゃんはにこにこと笑って、そして……ふと。閃いたような表情をする。
「ねえ、ウヌキ先生。今のお話、私にはまだちょっと難しかったみたいだけれど、でも、フェイお兄様になら分かるんじゃないかしら!」
「ん?フェイ君かい?……まあ、確かになあ。彼の方が年上だし。彼なら分かるかもしれんなあ」
……フェイならこっちの世界の知識、気になるみたいだしなあ。うん。確かに。フェイは興味を持ちそうな気がする。いや、僕のイメージだと、フェイは生物学よりは工学寄りの知識の方が好きなんじゃないかっていう気はしているけれどね。でも、それは別として……。
「ねえ、ウヌキ先生!あなた、大人向けにも授業をしたらどうかしら!フェイお兄様やルギュロスさんが、きっと喜ぶわ!」
カーネリアちゃんが、目をきらきらさせながらそう、言うので……。
……ということで。
「ではこれより『ドキドキワクワク行き当たりばったり!文系による付け焼刃生物学!』の授業を始める!起立!気を付け!礼ーッ!」
翌日。ラオクレス達がやっている森の学校の校舎を夕方から使って、先生が先生をやる『異世界の授業』が展開された。
まあ、生物学、といっても、高校で習うぐらいまでのものなので、そんなに難しい話じゃない。先生は僕の教科書を読んで一晩で付け焼刃して授業を行っている次第。
けれど、聞いているフェイやローゼスさん、フェイに引っ張ってこられたルギュロスさんや興味があって来たらしいクロアさんなんかには新鮮な授業だったらしい。まあ、異世界の知識だもんね。
人間の細胞はどんなものか。遺伝子ってどんなものか。そういう話をしていくと、フェイ達の顔が輝いていく。ちょっと面白かったのは、ルギュロスさんだ。彼も結構、異世界の知識の興味があるらしくて、珍しく目を輝かせていた。……目が輝いているルギュロスさんって、本当に新鮮……!
「あー!面白かった!本当に面白かったぜ、ウヌキ先生!ありがとうな!」
そうして授業が終わって先生がなんだかちょっとぐったりしている中、フェイはいつもの数倍元気に先生へ寄っていって、先生の両手を握ってぶんぶん握手している。
「いやあ、慣れないことはするもんじゃないなあ……間違ったことを教えているような気がして気が気じゃないんだが」
「あれ?でもウヌキせんせーって教師の資格持ってるんじゃなかったっけ?」
「ああ、持ってるとも。ただし教科は国語だ!なんで僕は生物の授業をやってるんだ!教員免許が泣いてるぜ!」
先生はこの通りのぐったり具合だけれど、でも、ローゼスさんがしきりに『実に興味深い話だったね、ルギュロス君!』ってルギュロスさんに話しているのが面白いし、フェイはこの通りの喜びようだし、クロアさんもにっこり笑いながら『次の授業も期待してるわね』ってやっているので……。
……カーネリアちゃんのお望み通り、先生の授業は今後も展開されていきそうだ。
まあ、先生の授業はさておき。
「トウゴー!聞いてー!」
ある日、カーネリアちゃんが元気に駆けてきた。……そして、言ったんだよ。
「インターリアのところに、赤ちゃんが来たらしいわ!」
……えっ。
びっくりしていると、カーネリアちゃんの後からインターリアさんがマーセンさんと一緒にのんびりやってきた。
「インターリアさん、マーセンさん……もしかして」
僕がびっくりとわくわくが混ざった気持ちで2人に聞くと……2人はなんだか恥ずかしそうに笑いながら、頷いてくれた。
「ふふ。カーネリア様はもう少しお待たせすることになってしまいますが……そうですね、そう遠くなく、私達の子を抱いていただくことになるでしょう。あと8か月くらいだそうです」
「ということで、妻の懐妊の報告に、と参じた次第だ」
わあ……それは、おめでたい!
「おめでとう!おめでとうございます、ええと、お祝い……お祝い、どうしよう。ええと……」
「い、いや!トウゴ君!気持ちは嬉しいんだがあんまり喜ばないでくれ!君の足元、もう花畑になりかけているぞ!」
……いけない、いけない。結婚式の時もそうだったけれど、人の幸せで人より喜んでしまうの、よくないよね……。早速芽吹いて咲いてしまった花をなんだか恥ずかしい気持ちで眺めつつ、まあ、ひとまず……。
「よかったね、カーネリアちゃんも」
僕は、只々にこにこ嬉しそうなカーネリアちゃんと一緒に、この慶事を喜ばせてもらうことにした。
「ええ!本当に!……ああ、インターリア似の赤ちゃんかしら!早く会いたいわ……」
どうやら森に仲間が増えるらしいので。皆で歓迎しよう。ああ、どうか、無事に生まれてきてくれますように!
……ということで。
森の中は、お祝いの空気でいっぱいだ。
森の騎士団はソレイラの人達にも愛されて頼りにされている騎士団なので、そこの騎士夫婦の間に子供が生まれると聞いたら、町の人達も皆、喜んでくれた。
「こんなに祝福されて生まれてくる子もそうはいないでしょうね」
「当然よ!だって、インターリアの子なんだもの!いっぱいいっぱい、お祝いされなきゃ駄目よ!」
インターリアさんはカーネリアちゃんを嬉しそうに見つめて微笑んでいる。その表情がちょっと『お母さん』っていうかんじがして、なんだか見ていて描きたくなってきてしまった。
うーん、幸せだなあ……。人の子が幸せだと、森としても幸せになってきてしまう……。
「……トウゴ。また、森に引きずられていないか」
「ちょっと引きずられてる」
そんな僕の横で、ラオクレスがちょっと呆れたような顔をしている。けれど彼だって、随分と浮かれているのを僕は知っている。マーセンさんから報告を聞いた時、ラオクレス、『何っ!?』って叫んで、それはそれは喜んでいたんだよ。あの表情は中々見られないやつだった……。
「……まあ、祝うのもほどほどにしておけ」
「うん」
とはいえ、僕もラオクレスも、お互いに浮かれすぎない方がいいに決まっているので……気を付けよう。うん。
……そんなある日。
森がお祝いでいっぱいの傍ら、現実の世界の方では今日も侵入美術部員。美術の予備校がある日はそっちに行くし、そうじゃない日はこうやって侵入部員をしている。
他の美術部の人達と一緒に絵を描いて、油絵具の使い方を教えてもらってちょっと興奮しながら楽しく夕方遅くまで活動して……そして、片付けを終えて、完全下校時刻ぎりぎりになんとか学校を飛び出して、駅までのんびり歩き始めた。そんな時。
あれ、と思った。
……ええと、背後で、足音がついてくる。
曲がり角をいくつか曲がって、それでもついてくる。
ちら、と振り返って見たら、人影が見えた。あんまりよくは見なかったけれど、まあ、お化けの類ではなさそうだな、というかんじ。
……いやいや。下手すると、お化けよりも普通の人間の方が嫌だなあ、これ。ちょっと嫌な気分になりつつ、僕は駅に向かって頑張って歩く。
歩調を早めると、後ろの足音もスピードを上げてついてくる。やだなあ、やだなあ、と思いながら僕は足早に、ひたすら駅に向かって……。
駅に着いた頃には、背後の気配も人混みに紛れて消えていた。ちょっと振り返って見たけれど、付いてきていた人が誰だったかはよく分からない。
うーん、もうちょっと、堂々と相手を確認しておいた方がよかったなあ、なんて、今更思ってみたり。
……それにしても、何だったんだろう。
「……ということがあったんだよ」
さて。週末。
僕は『学校から駅まで自分にひたすらついてくる人』について、森の皆に話してみることにした。
最初に出くわした日から既に2回、後をつけられているものだから……ちょっと、あまりにも不思議で。
「ええー……な、なあ、ウヌキせんせー。そういうことってよくあるもんなのか?」
「いやあ……よくある、とは言えないが、まあ、似たような例はある、だろうなあ……ストーカー、と言うんだが」
えっ、そ、そうか。あれってストーカーなのか!成程!そうかぁ、実在するんだね、すとーかー……。
「……なあ、トーゴ。君、この話、誰かに相談したかい?」
「うん。ええと……美術部の先生にはちょっと話した。そうしたら、『警察に行ってもいいかもしれないね』っていうことだったんだけれど……」
「成程なあ」
先生はちょっと浮かない顔で、うーん、と唸る。だよね、警察はちょっと大げさな気がするよね。
「ねえ。トウゴ君をつけ回してる奴って、つまり、トウゴ君を攫っちゃったりするのが目的、ってことなのかしら?」
「分からん。つけ回して怖がるトーゴを眺めて楽しんでいるだけかもしれないし……あわよくば触ってみよう、ぐらいの気持ちはあるのかもしれん」
クロアさんと先生がなんだかちょっと物騒な話をしているのを聞きつつ、どうしようかなあ、と僕はちょっと考える。
「……やっぱり、ついてくる人に話しかけてみようかな。そうしないことには何も解決しなさそうだし……」
そして、そう結論を出した、次の瞬間。
「心配だ」
ラオクレスが、びしり、と、そう言った。叱責のような厳しさの滲む、短くも覚悟と気合の入った声で。
……そして。
「トウゴ。俺をお前の世界へ連れていけ。護衛する」
ラオクレスが、そういうことを、言いだしたんだよ……。




