26話:ヒヨコ色の希望*1
ということで、頑張る。
今までよく分からないまま蓋をしておいた自分の気持ちを分析しよう。
そしてそれを言葉にする。それが今日の目標だ。
……苦手だ。これ。すごく。
けれど……苦手だって言っていられないので、頑張るしかない。フェイのためだけじゃなくて、単に、僕のためにも。
……ということで、すっかり僕の部屋みたいになっている客室のベッドに腰かけて、僕はじっと考え込んでいた。
考えるのは……ジオレン家でも少し、考えた事だ。
『絵を描くこと』と、『絵を描くことを仕事にすること』は別だっていう、そういう話。
けれど、考えなきゃいけないのはそれだけじゃなくて、どうにも、あちこちに思考がいってしまって、考えがまとまらない。……考えたくないだけなのかもしれない。
「おい」
そんな僕に、ラオクレスが声を掛けてきた。
「何を悩んでいる」
「絵を描くことを仕事にすることについて」
僕が答えると、『まあそうだろうな』みたいな顔で頷かれた。
「……考えは纏まりそうか」
「うーん……」
正直、纏まりそうにない。けれど纏めなきゃいけない。弱音なんて吐いていられないから……。
「なら話してみろ。俺に助言ができるとは思えんが、誰かに話すことで整理できるものもあるだろう」
……でも、ラオクレスはそう言って、僕の向かいに椅子を持ってやってきて、そこに座った。
話すことで整理できる、か。
「……先生も同じ事言ってたなあ」
うん。先生も同じような事、言ってた気がする。『世のプログラマー諸兄は虚空およびおもちゃのアヒルに向かってプログラムの説明を行うことで自分のミスに気付いたり、問題の解決策を思いついたりしているらしい。僕はプログラマーじゃあないが、やってみると案外効く。ただし壁に向かってやってみたら正気を失いそうになったのでトーゴにはお勧めしない……』とか、なんとか。
それからついでに、『壁ではなくトーゴに話している分には精神に支障をきたさない気がする。ということでトーゴ。悪いがちょっと話しかけられる役になってくれ。聞いてなくていいから。君は絵を描いていてくれていいから!』と言いながら、絵を描く僕の横で延々と話していたこともあった。
「先生?……ふ、そうか。お前の師にそう言われたか。俺もお館様から教わった」
「うん。じゃあ一緒だ」
どうやら、ラオクレスも同じように、これを自分の尊敬する人に教えてもらった、っていうことなんだろうな。うん。ちょっと親近感が増した。
「……ということで、どうだ。俺では不足かもしれないが」
「ううん。そんなことはない」
ラオクレスの申し出はとてもありがたい。うん。そうだ。言葉にするには、出してみた方がいい。きっとそういうこともある。
「……じゃあ、申し訳ないけれど、ちょっと聞いてくれる、かな」
「ああ」
そうして僕は、ラオクレスを相手に自分の頭の中のあれこれを出してみることにした。
「僕は、絵を描くことを仕事にできるんだろうか。仕事にしても、いいんだろうか」
最初にそう口に出してみたら、それだけでも少し、頭の中がすっきりした。すごい。
「……仕事にする話だったんじゃないのか」
「いや、そうなんだけれど……そもそも僕は、絵を描くだけなら、仕事にしなくても描いていられるんだなって、思って」
ふむ、とラオクレスが頷いた。
「だろうな」
「うん」
うん。
……これで終わるなら何も問題は無いのだけれど。
「僕は、絵を描いていたい。それだけだから、僕がレッドガルド家のお抱え絵師になりたい理由が、安定するから、とか、安全だから、とか、或いは……その、フェイやレッドガルド家の人達への義理とかなら、止めるべきだなって思った。でも、その辺りを全部差し引いても、なんだか、迷ってしまって」
何か、引っかかる。それが一体何なのか分からないけれど、確かに何かが引っかかって、僕は迷っている。
「なら、レッドガルド家と契約することに魅力を感じてもいるということだろう」
「うーん……うん。多分」
よく分からない。そこはやっぱり、まだ、よく分からない。
名声とか、なのかな。お抱え絵師になって、僕はそういうものが欲しいんだろうか。だとしたらそれは……みっともない?浅ましい?意地汚い?なんだろう。でも、罪悪感があるのは確かだ。名声は、求めちゃいけない気がしている。そこには、蓋をしておかなきゃいけない。
じゃあ、僕が惹かれているものはお金、だろうか?いや、でも、お金には困らない、と思う。宝石を描いて出したらそれだけで暮らしていけそうな気がする。
けれど、それでも、なんとなく……『絵を描くことを職業にする』ことに、何か、惹かれるものがあることも確かだ。
手を伸ばしちゃ駄目だって思う自分もいるのに、手を伸ばそうとしている自分も居る。
いけないことだって分かっているのに。これは駄目なことなのに。
「……駄目だっていう気持ちがちゃんとあるのに、それでも、やっぱり気になる」
どうしてだろう。自分で自分の気持ちがよく分からない。
……僕が少し混乱していたら、唐突に、ラオクレスが言った。
「憧れ、か?」
「あこが、れ」
「ああ。違うか?」
あこがれ。あこがれ……。
口の中で呟いてみたら『憧れ』という言葉は、すとん、と、僕の中で落ち着いた。
まるで、ずっとここに居ましたよ、とでもいうように。或いは、本当に、ずっとそこに居たように。
……そうか。どうやら僕は、『絵を描くことを仕事にすること』に、憧れていた、らしい。
憧れ。うん。そうか。僕は絵を描くことを仕事にすることに憧れていた。……憧れている。そういうことか。
すごいな。ラオクレスと話していると、どんどん自分の中で考えが言葉になってくれる。
考えが言葉になると、自分の気持ちに気付けるようになる。今もちょっと、自分で自分の気持ちにびっくりしてる。
「憧れなら、仕事にすればいい。十分、憧れに手が届く。お前が選びさえすれば。何を迷うことがある?」
それから、ラオクレスはまた、問答を再開してくれた。うん。ありがたい。
「不安なのは何だ。自分の実力が相手の期待に届かないことか?生計の心配はしなくてもいいな。まさか絵を描くこと自体に抵抗があるわけではないだろう」
「分からない。全部かも」
そこで僕がそう答えると、ラオクレスは驚いたような顔をする。
「……生計も、か?絵を描くことに抵抗があるとは思えないが」
「うーん……『絵で生計を立てること』かもしれない。絵を描くこと、については……うーん」
僕はそう言いながら、自分の中でずっともやもやしているものの正体を探す。これは一体、何だろう。
……考えてみても考えは纏まらない。だから、その考えの断片だけ、とりあえず、口から出すだけ出してみる。
「……絵を売ることに抵抗がある」
「そうか」
「好きな絵を、好きじゃないことにも使わなきゃいけなくなるのは何だか、嫌で」
「そうか」
「あと、描くことと売ることが同じになってしまうのが嫌だ」
「ああ、成程な」
「それから、絵を描きながら絵じゃないものを売ることになるのは、もっと嫌な気がしてる」
「……だろうな」
「……そうやっている内に、絵が嫌いになりそうなのが嫌だ」
僕がそう言うと、ラオクレスは納得したように頷いた。
うん。……やっぱり、職業として絵を描くことを選ぶっていうのは、ただ絵を描くことと違うと思う。
絵を描くことが義務になる。自分の気持ちより仕事を優先しなきゃいけなくなる。そうしている内に自分の気持ちの在処が分からなくなりそうだ。
ましてや僕の場合、『絵を描くこと』と『絵を実体化させること』が紙一重だ。僕は、絵を描くのか、何かを出すのか、その境目が分からなくなってしまいそうな気がしている。
「絵が嫌いになったら、多分、僕は……別人みたいになってるんじゃないかな」
「……ああ」
何より、絵を描くことは、僕という人間を支えている柱みたいなものだ。絵が嫌いになったら、多分、僕はもう僕ではいられない。
それは嫌だし……それから。
それから。
「何よりも、怖いのは、その後、で……」
その先。
『絵を仕事にする』ということに対して、自分の中で片付けなければならない問題を全て、自分を曲げずに解決しようとするならば……その先で僕が超えなきゃいけない壁は、とてつもなく高いものになる。
「そういう我儘を全部押し通して絵を描くなら、多くの人に認められるくらいの実力がないといけないし、そもそも……」
一度、呼吸をする。
呼吸が早い。心臓が早い。いってはいけない。
でも、言葉にしなきゃいけない。
「絵を描くことを仕事にするには、人に認められなきゃいけないっていうことで……多分、僕はそれが、怖い」
僕は、人に認められなきゃいけないのが怖い。
しばらく、静かだった。
僕は頭の中でずっと学校や家での出来事が渦巻いていた。それらは全部、怖い記憶か嫌な記憶か、或いはそのどっちもが合わさったもので、その時の光景も、向けられた声も、視線も、全部が溢れて僕を押し潰していく。
図画工作展で貰った金賞。家の部屋の中に飾られた絵。提出した『将来の夢』の作文。困ったような顔をした両親。番号が無い紙。絵が剥がされた部屋の壁。
ゴミ袋の中に見えた、金紙。
美術の教科書。水彩絵の具とアクリル絵の具。貰っていたお小遣いで買ったスケッチブック。
進路希望調査に書いた『法学部』の文字。両親の笑顔。正しい行いへの賛美。
……それらの間に怖くない思い出も、楽しかったことも、嬉しかったこともあるはずなのに、そういうのは1つも出てこないまま、怖くて嫌だったものばかりが溢れてくる。
「おい」
ラオクレスが手を伸ばしてきたのに体を竦めて、ぎゅっと縮こまる。
寒い。手に感覚が無い。怖い。体が動かない。呼吸が詰まる。何も考えられない。
……けれど、なんとか、頭の中を占領するそれらをなんとか押しやって、蓋をして、片付ける。
大丈夫だ。今までだって何度もやってる。こういうのは思い出さないのが一番いいって分かってる。
何度か意識して深呼吸したら、もう大丈夫だ。
少し嫌な汗を掻いてしまったけれど、額を拭って顔を上げる。
……すると、そこでラオクレスと目が合った。
どうやら、じっと見つめられていたらしい。多分、僕が片付けている間も、ずっと。
……ラオクレスは、細く、長く、息を吐いた。それはため息のようでもあったけれど、ため息らしくはなかった。『これはため息じゃない。だから失望や失意を表すものじゃない』って最大限気を遣ったようにも思えた。それから……ラオクレス自身を落ち着かせるためのものにも、見えた。
「トウゴ」
「うん」
名前を呼ばれて、僕も少し落ち着いた。それから、そういえばラオクレスに名前を呼ばれたのは初めてだったんじゃないかな、ということを思い出す。
「……俺が、言うべきではない気も、するが」
「……うん」
そしてラオクレスは、迷って、迷って……慎重に、言った。
「なら、それがお前の憧れでは、ないのか」
「他人に、絵を描くことを認められるということに、憧れていて、だからこそ、それが怖かったんじゃ、ないか?」
しばらく、言葉が頭に入ってこなかった。
けれど、何度か頭の中で繰り返して、ゆっくり、ゆっくり噛み砕いていったら……落ち着いてきた。
それから少しずつ自分の中の言葉を出して、自分の中身を確かめていく。
「……僕には、認めてもらう度胸が無かった。人に認めさせる気概も無かった」
できるだけ思い出さないように気を付けながら、話す。
けれど、言葉に出してみるとまるで他人事みたいで、頭の中はそんなには酷いことにならなかった。
「認めてもらえるとも、思えなかった」
「……そうか」
ここで一度、言葉を区切る。息を吸って、吐く。
……うん、大丈夫だ。
案外、大丈夫なものなんだな。もしかしたら、言葉にするっていうことは凄く健全なことなのかもしれない。少なくとも、自分の中でずっと抱え込んでいるよりは。
現に今、僕は、思っていたよりもずっと楽に怖いものと向き合えていた。
「だから法学部って書いた」
「ホーガクブ?」
うん。法学部。
差し障りがない、如何にも『上空桐吾らしい回答』だと思う。
……『トーゴ』を認めさせるよりも、『上空桐吾』を見てもらう方が楽だった。
怖かったから『上空桐吾』の殻を被った。そうすれば『トーゴ』は助かった。
馬鹿だったかもしれない。固くて狭い殻の中に閉じこもったって、どうせ息が詰まって死んでしまうのに。
でもそうするしかなかった。多分、そうするしかなかったんだと思う。
それでも僕は生きていた。先生が時々、僕が被った殻の端っこをちょっと持ち上げては、「トーゴ、君は本当に絵を描くのが好きだな」って、言ってくれたから。
だから僕は生きている。そして、この世界に来て……生きていたいと、思ってしまった。
この『生きていたい』は、心臓を動かして息をしていたい、という意味じゃなくて……もっとずっと自分勝手な意味の『生きていたい』だ。
僕は生きていてもいいんだろうか。この世界ならそれが許されるだなんて、そんなことがあってもいいんだろうか。
「……期待してしまう気持ちも、期待外れを怖がる気持ちも、あるんだ」
言葉に出すと、怖さの方が勝つような気がした。けれどラオクレスが目の前で静かに聞いているから、言わなきゃいけない。
「けれど多分、やっぱり、それでも迷ってしまうのは……憧れているから、なんだと思う」
「人に認められることに。僕がこういう人間なんだって、認めてもらうことに」
……多分、この世界も元の世界とそんなに変わらないんだと思う。今回の件で、ちょっと思った。
僕は絵を描くことよりも、絵を実体化させることに価値を見出されるだろう。
僕の絵よりも、僕自身に価値を見出されるのだろう。
……そして、その価値はきっと、僕を埋め立てていく。僕は絵とは無関係に『成功』へと導かれて、そして、きっと……死んでいく。
ここでの『死んでいく』は、やっぱり、心臓が止まって呼吸も止まる、っていう奴じゃなくて、体じゃない部分の『死』。
どの世界でも同じだ。
結局、僕は……生きていくためには、諦めてもらわなきゃいけない。
「僕、絵を描くのが好きだ。絵を描いていられないなら死んでるのとあまり変わらないんだ。だから、絵を描いていたら成功する人生が送れないって分かっていても、絵を描いていたい。失敗した人生でもいいから絵を描いていたい」
「そうだろうな。お前はそういう生き物に見える」
ラオクレスは少しほっとしたような顔で頷いた。それが嬉しくて、頼もしい。
けれど僕は、目を閉じる。
これはラオクレスではなくて、僕でもなくて……僕がこれを一番言いたい相手と、一番言わなきゃいけない人達に言わなきゃいけない。
「僕は、僕が失敗する道を選ぶことを、許してほしい。応援してくれなくても、いいから」
「……って、ずっと、言いたかった」
やっと言えた。
口に出してみたら、すごく怖かった。
けれど、ようやく、息ができるようになったような、そんな気がした。生まれてきたばかりの赤ちゃんは、初めて自力で呼吸をした時、こんな感覚なのかもしれない。
……先生はこれを聞いたら、単純な言葉だなって笑うだろうか。君らしくていいねって笑うだろうか。……まあ、何にせよ、喜んでくれるだろう。
僕が先生の下手糞な落書きを案外好きだったように、先生も、僕の言葉を気に入ってくれていたらしいから。
それから……もし、僕の両親がこれを聞いたら、なんて言っただろうか。
怒られたかな。黙って勘当されたかな。それとも、精神病院とかに入れられてたかな。
……何も言われずに、次の日に何もなかったことになっていたかな。うん。そんな気がする。多分『トーゴ』は存在しなかったことにされるんだろう。だから僕は、『上空桐吾』で居続ける。そういう、かんじで……そしてきっと僕は、『成功』していたんだろう。望んだわけでもなく。望まれたままに。『トーゴ』を居ないことにしたまま。
「すっきりしたか」
「うん。大分」
これが言いたかったことなんだな、と自覚できたら、色々と落ち着いてきた。
僕が絵を描くことを仕事にしたいと憧れているのは、絵を描く仕事ができるということが、僕にとっては『絵を描くことを認められた』ということだから、だ。
「僕は『成功』なんていらない。勿論、それじゃ生きていけないって分かってる。そんな生き方は望まれてないってことも」
君ならもっと上を目指せる、とも言われてきた。あなたには幸せになってもらいたいの、とも言われてきた。多くの人間はお前が手に入れられるものを手に入れたくても手が届かないんだぞ、とも言われてきた。
『成功』を望まれていることは分かってる。僕がその気になればそれが手に入ることも。
けれど僕には、それが只々、厭だった。
「だから僕は、死んでもいい。分かってる。僕に死んでほしくない人が居るっていうのも、分かるんだ。分かるけれど……多分それじゃ、僕は、生きていけないから」
生きていてほしい。幸せになってほしい。そう言われるほど、息苦しかった。だって、そう言われて連れていかれる先にあるのは僕にとっての死だったから。
「……諦めてほしかった。僕は、望まれたようには生きていけない生き物だ」
只々、息苦しくて、色々なものが怖くて、そして、只々、申し訳なかった。
『真っ当に』育てられて、『成功』する人生に手が届く。なのにそれを望むことができない。
おかしいのは僕の方なんだろう。
役に立たないものを好きになって、それが無いと生きていけない心に育ってしまった。
おかしいって分かってはいる。いけないことだとも。申し訳ないとも。だから……諦めてほしかった。僕はあなた達が思っているような優秀な生き物じゃないんだって、失望してほしかった。けれど同時に、失望されるのが怖かった。
矛盾だらけだ。
だからずっと、僕はこれを言葉にできなかった。
……でも、言葉にできたし、もうはっきりしたから。だからもう、大丈夫だ。




