11話:絵に描いたような世界を描く*5
……考えて、ちょっと自己嫌悪に陥る。あの世界のことより、先生のことが引っかかってるっていうのは、なんだか自分勝手じゃないだろうか。
何をやったって先生が帰ってきてくれないっていうことに絶望するのは、『絵に描いた餅』を愛する者として、修行が足りない、というか……うーん。
……自分の信念とは反する自分の心に、どうしていいか分からなくなってる。そういうかんじ、なのかもしれない。
「おや、トーゴ君。元気が無いね」
「……そう見えますか?」
「うん。見える見える」
それから少しして、石ノ海さんがやってきた。僕の絵を見に来てくれたらしい。
「……世界の絵が描けたのだけれど、やっぱり、ちょっと空しくて」
描き終わって燃え尽き症候群ってやつなのかもしれない。急に現実が見えてきてしまったというか。そういう気分。
酷く冷たくて寂しい気分だ。あんなに夢中になって、あんなに頑張っていたのに。終わってしまえばこういう気分だなんて。
「大好きなファンタジーの世界を描いてみたって、先生はもう、戻ってきてくれないのに」
現実はやっぱり冷たくて、ぽっかり空いてしまった穴を埋めるには、まだ色々なものが足りない。きっと、一番足りていないものは僕自身の納得で、それを得るためにはきっと、長い時間が必要で……。
「……まあ、そうだね」
僕がそんなことを考えていたら、石ノ海さんは頷いて……言った。
「僕らの心を救ってくれる都合のいい世界があったとして、実際に僕らの状況がよくなる訳じゃあない。ファンタジーは心こそ救ってくれるが、それ以外はあんまり救ってくれないからなあ」
……うん。
だからこそ、ファンタジーを憎む人っていうのも、居るんだと思う。特に、心の救いが必要ない人にとって、ファンタジーはむしろ害悪なのかも。
「……現実ってのは、どうしようもないなあ」
「……はい」
結局、そういうことになってしまう。
現実って、どうしようもない。都合のいいハッピーエンドはこの世界に存在しない。起きてしまった悪いことは全部積み重なっていくだけで、取り返しがつかない。
……だからこそ、ファンタジーがあるんだとは、思うんだけれど。
このどうしようもない世界を生きていくために、僕らには都合のいいハッピーエンドが必要なんだと、思うんだけれど……。
「さて。そんなトーゴ君に贈るならば、こういうやつだろうなあ」
僕が考えに沈んでいたら、石ノ海さんはひょい、とリコーダーを取り出した。僕が知っているリコーダーの二倍ぐらいの大きさのそれは、テナーリコーダーと呼ばれる奴、らしい。ソプラノリコーダーの甲高い音は持っていない代わりに、それより少し低い、落ち着いた音を持っている楽器だ。
……それを構えると、石ノ海さんは音楽を創り始めた。
物悲しい曲だ。
リコーダー1本で奏でられる物悲しくゆったりした旋律は、綺麗で、じんわり沁みとおってくるようなかんじがした。
僕は音楽には詳しくないから、あまり多くのことは分からない。けれど……痛む傷に絆創膏を貼ったみたいな。火傷に氷を当てたみたいな。そういうかんじがする。癒される、っていう感覚、なのかもしれない。
……そうして一曲、そう長くない曲を演奏し終えた石ノ海さんに拍手を送ると、石ノ海さんはひょい、お辞儀する。こういう仕草がちょっと先生っぽい。
「どうだい、トーゴ君。この曲は君の心に寄り添ってくれたかな?」
「はい。なんだか……うーん、なんだろう。今の気分にしっくりくる曲、でした」
多分、曲だけじゃなくて、その演奏の技術も、なんだろうけれど。それらが合わさって、僕の気分にしっくり、だった。
僕がそう答えると、石ノ海さんはにっこり笑って、それから手近な椅子に腰かけた。僕も何となくそれにつられて座る。ええと、近くに椅子が無かったので、段ボールの上でいいや。
「人間というものは不思議なものでね。悲しい時に明るい気分になろうと思って楽しい音楽を聴いても、あんまり効果が無いらしいんだ」
「……そういうもの、なんですか」
「ああ。そういうもの、らしいよ」
なんだかちょっと不思議なかんじがする。そうか、楽しくなりたい時には、楽しい音楽は効かない……。
「それでね、トーゴ君。悲しい時には、悲しい曲がいいらしい」
それから、石ノ海さんはそう言って、リコーダーをちょっと掲げて見せてくれた。
「悲しい時には悲しい曲を聴いた方が、立ち直りが早いんだそうだ。……面白いものだね」
そう言って、石ノ海さんは、ぴろろ、と、リコーダーを吹く。ちょっと暗いかんじのする音の並びだった。短調、っていうやつかもしれない。
「まあ、そうやって人の心に寄り添って人を癒してくれるのが芸術ってもんの1つの面だと、僕は思っているがね。うん。まあ、そういうかんじで……」
石ノ海さんはリコーダーを口から離して、ちょっと笑って、言った。
「今、君が悲しいのならね、トーゴ君。君は、無理に楽しい絵を描かなくてもいいんじゃないかな」
……家への帰り道、僕はぼんやり考える。
『悲しい時には、楽しい絵を描かなくてもいい。』
悲しい時にこそ楽しくなるために絵が必要かな、と僕は思っていたのだけれど……そうばっかりでもない、のかな。
悲しい絵。悲しい絵……。でも、悲しい絵って、どういうやつだろうか。悲しさって、どうやって描いたらいいんだろう。
うーん……『悲しい、悲しい……』とぼやきながら僕はゆっくりしたペースで家まで帰る。
……今日は一晩、悲しい気分でいようかな、と、ぼんやり思いながら。
そうして家に帰って、明日の学校の準備をしてから早めにベッドに入る。
……考え事をするには、ベッドの中がいい。暗い部屋の中、ベッドに横たわって毛布を被っていると、考えたくなくても色々なことを考えてしまうっていうのが僕の性分らしいから。
だから、なんとなく悲しい気分になりたい時にも、ベッドに入るのは有効。僕は早速、考える。
僕が描いたのは、楽しい世界だ。先生が生み出した、あの素晴らしい世界。悲しいことが全く無いわけじゃないけれど、すごく少ない世界。いつだって皆と笑いあっていられるような、そういう。
……だから、僕は今、しっくりこない気持ちなのかな。暗い気持ちを抱えたまま明るい世界を描くっていうのは、無理があったのかもしれない。
でも、だとしたら僕が描くべき絵って、どういう絵なんだろうか。悲しい絵って、どういう絵なんだろう……。
……一応、『悲しい』の材料はあるんだ。今の気持ち。今の状況。その全てがどうしようもなくて、どうしようもなく悲しい。それは間違いない。だから、これを分析していけば、何かいいアイデアが浮かんでくるかもしれない。
そうと決まれば早速、自分の気持ちを分析してみる。
ええと……僕が今悲しいのは、先生が居ないから。それから、どんな絵を描いたところで所詮は絵に描いた餅で、現実が変わらずここにあるから。絵の無力さをちょっと知ってしまったから、かもしれないし……あと、描き終わっちゃったから、かもしれない。
あの世界を完結させたけれど、それも僕にとっては悲しいことだったのかもしれない。
物語はいつかは終わらせなきゃいけないけれど、それはちょっと悲しいことでもある、のかも。まあ、燃え尽き症候群っていう奴かもしれないけれどさ。
……うん。多分、僕の中の『悲しい』は、こんなかんじ。
楽しかった世界が終わってしまって、それでも現実がここに在って、1人取り残されてしまったような、そういう悲しさの中に居る、のかな。そういう気分。
言葉にするのって難しいなあ。先生だったらもっと上手に気分の分析ができるのだろうけれど、残念ながら僕はこれが苦手だ。だからこそ余計に、僕は絵を描かなきゃいけないのだけれど。
僕はベッドを抜け出して、勉強机に向かった。電灯を灯さない部屋の中、机のライトだけが青白く明るい。ひんやりした空気がパジャマの中にじわじわ浸みこんでくる。机の上に置いた手が机に熱を奪われていって、どんどん体が冷えてくる。
……こういう気分だなあ、と、思う。こういう冷たくて寂しいかんじが、今の僕にぴったり。
寒さと薄暗さの中で、僕は紙と鉛筆を用意する。紙越しに机の冷たさと硬さを感じながら、鉛筆を動かす。
……今の僕を描こうと思う。絵を描き終わって、スケッチブックを閉じて、『ああ、終わっちゃったなあ』っていう状態の僕。
描くことで何かが変わるとも思えないけれど、まあ……今の気分、なので。
自分の横に鏡を置いて、それを見ながら描くこと2時間。ざっと絵が描けた。鉛筆と紙の白黒だけでできた絵は、薄暗くて、冷たくて、今の状況そのままだ。
……あの世界の、あの本の、続き。それがあるとしたら、この絵。悲しいけれど。
僕にとっての『物語』は、こうして現実と夢との境目を意識したところで終わり、っていうことになる。それが今の僕の気分で、現実でも、あって……。
「……やっぱり、寂しいなあ」
惨い。今まで描いていた絵は何だったんだっていうくらい惨い絵じゃないだろうか。
現実は現実で、夢は夢。ファンタジーの限界はここにある。僕が何を描いたって、所詮はただの絵で、世界は変わらないし、現実だって変わらないし……。
……それでも。
それでも、この絵を描いた意味は、あったと思うんだ。
悲しみをなぞっていたら輪郭が少しはっきりしてきた、というか。悲しみを食べていたら味の違いが分かるようになってきた、というか。そういう。
……そうだよな。そりゃあそうだよ。だって、僕にとって絵っていうのは、声なんだから。
ライラが言ってた通りだ。僕は絵を描いて、声を出してる。
自分でも分からない自分の心が、絵に描かれることでちょっとずつ分かってくる。
これは、悪くない感覚だった。あまりにも悲しいのだけれど、その悲しみをもっと深く掘り進めていきたい、というか。悲しみの底まで掘り抜いてしまいたい、というか。
自ら傷つきに行くような行為だけれど、確かに、悲しい絵は悲しさに寄り添ってくれるみたいだった。
多分、もっと悲しい絵を描いていくことで、僕の心にはもっと悲しみが寄り添ってくれるんじゃないかな。
じっと、絵を見る。すると、段々、僕の悲しさの底が見えてくる。
これが現実だって、分かってる。分かっているけれど。分かっているからこそ、都合のいい絵空事に浸っていたくなる。それが単なるファンタジーだって分かった上でも。空しいって、知っていても。それでも。
……悲しみの形がはっきりして初めて、僕は、自分が何を望んでいるのか、はっきり見ることができたのかもしれない。
『こうじゃなかったらよかったのに』とか、『こうだったらよかったのに』が、僕の頭の中に、ぴょこん、と芽生え始めた。
ラフ用のコピー用紙を一枚、取り出す。
……ファンタジーは、現実を乗り越えるためにある。都合のいい妄想が、僕らを救ってくれる。どんなに都合がよくったって許される。
だから僕は、先生を描く。
それが、僕の理想の世界。その最後の最後、おまけのおまけ。あの世界には登場しなかった先生をいきなり登場させるなんて、やっぱり都合が良すぎるよなあ、と、思うけれど。でも、僕の『こうだったらよかったのに』を実現するなら、先生には居てもらわなきゃいけないから。
……考え始めたら、少しわくわくしてきた。悲しくて寂しくて、胸を締め付けられるような。そういう、わくわく。このわくわくは、生まれて初めてのわくわくだ。
物語が終わって、あの本は完結して、僕は現実に返って、そして……僕が描くのは、おまけの一枚。本で言うなら、裏表紙。
義務感から解放されて、ただ、自分の大好きなものを都合よく絵の中に実現させて、自分の気持ちに整理をつけるための、そういう自分勝手な一枚だ。だから、ただ、わくわくするだけ。緊張なんてしない。
どうしたら最高に楽しい?どうだったら僕は嬉しい?……そういうことだけ考えて、僕は、ラフを描いていく。
……そうだなあ。最高に都合のいい、そういう『おまけ』をくっつけられるんだったら……もう一度、先生に会いたい。先生がひょっこり顔を出して、『おいおい、トーゴ、どうした?そんな顔をして』とか何とか、言ってくれるんだ。
そうだ。そうだな。先生が出てくるなら、それってきっと、すごく唐突でこじんまりとしていて……先生は、『当たり前』みたいな顔をしてやってくるはずだ。
……だから、僕は、ラフ画を描く。
縦長のかまぼこ型の中は、森。外側は、先生の家の、僕の部屋。
森と先生の家が、新たな『門』の向こう側とこっち側、っていうのは、どうだろう。




