9話:絵に描いたような世界を描く*3
翌日から僕は通学を再開した。
学校に着いたら僕はちょっとした時の人で、大変だった。ニュースになった事件に巻き込まれた奴として、あちこちから話しかけられることになったものだから、あまり話したことがない人とまで話すことになって、まあ、その、ちょっと疲れてしまった。
でも、そういう彼らの受け答えをしつつ、そのついでに休んでいた時の分のノートを見せてもらう約束を取り付けたり、美術部の子に部活の見学に行く約束を取り付けたり、ちょっと前の自分からは考えられないくらい上手くやれていた。
授業の内容なんてすっかり忘れてるよ、と思っていたのだけれど、実際に授業を受け始めたら案外覚えているもので、すぐに体は勉強に馴染んだ。
……いや、馴染んだ、というか、受け入れようと積極的になっている、というか。
そう。僕には今、目標がある。美大に行きたい。絵に関わる仕事をしたい。絵を描きたい。ひたすら描きたい。いっぱい描きたい!……そういう目標が胸の中にあるから、色々なことを頑張る気力が湧いてきた、というか。
何事にも全力で取り組んでいた方が賢いっていうことは分かっているし、どんな努力を積んででも目指したいものが目指せるところにまで来たわけだから、まあ、そりゃあ、色々なことに全力で取り組める。
……不思議なものだなあ。勉強とは真逆の方へ進もうとしているはずなのだけれど。でも、このやる気、もう誰にも止められない、止まらない。
結局僕は、その日の授業を全てしっかり受けて、昼休みにはノートを写させてもらったり、親から現金ではなくパンの状態で渡されてしまった昼食を仕方なく食べたり、放課後は美術部を見学させてもらって、ついでにそこで石膏像デッサンに混ぜてもらったりして楽しく過ごした。実際の石膏像はやっぱりラオクレスとはちょっと違った。まあ、当然だけれどさ。
……美術の先生は僕が美術部に紛れ込んでいるのを見て大層驚いていた。何せ僕、美術の授業は選択しなかったので、完全に『見知らぬ奴』だったと思うんだよ。
けれど、見知らぬ生徒が嬉々として石膏像を描いているのを見て、何か思うところがあったらしい。過去の卒業生が持ち帰るのを面倒くさがって置いていったという、使いかけのクロッキー帳をくれた。嬉しい、嬉しい。
ついでに美大に行きたい旨を相談してみたり、僕の石膏像デッサンを見てもらったり、アドバイスを貰って『ああ、ライラに絵を見てもらった時もこういうかんじだったよなあ』とか思い出したりしつつ、僕は楽しく学校で過ごして……。
……そして、金曜日。
「こんにちは!」
「おお、トーゴ君。いらっしゃい!」
僕は、石ノ海さんの家に来た。
「ちょっと見ない内になんだか随分元気になったねえ」
「はい。両親にやっと、自分の希望する進路の話ができたんです。それで、本当に美大を目指そうと決心したら、なんだか元気になってしまって」
「ははは、そうかあ。それは何よりだ。人間誰しも、目標があると頑張れるものだからね」
石ノ海さんは僕の話を聞いて、じんわり嬉しそうな顔をしてくれる。それが僕にとっても嬉しい。
「こちらの様子はどうですか?」
「うん。姉としては、遺留分以上の額を請求したいみたいだけれどね。この家は元々僕のものだし、護の財産はそう多くないからね。書籍類は額にしてもそう大金にはならないだろうし、物品は基本的に全て僕が貰い受けるってことで合意できたよ」
そっか。それはよかった。
……先生が大切にしていた本や文房具やその他諸々が無感動に売られてしまったらすごく悲しいな、とは、思ってたんだ。だから、石ノ海さんの手に渡ってよかった。
「それで、君のことだが……まあ、姉からしてみたら受け入れがたいみたいだね。当然だが」
「はい」
「だが、法的に姉が請求できる額は遺留分までだからなあ。持ち物を全部含めたって、護の全財産は600万円にはならない。その中で300万貰えるんだったら、それ以上の文句は言えない。訴えたければ訴えればいいが、負けるのは姉だ。はっはっは」
遺産相続の話については、まあ……石ノ海さんが上手くやってくれている、っていうこと、らしい。本当にありがたいことだし、申し訳なくもある。僕ばっかりいい目を見ているというか、面倒なところを全部任せてしまっているというか……。
「それで、トーゴ君。今日は描きに来たのかな?」
「はい!」
……けれども、申し訳なく思うのは後。全部はまだ始まったばかりで、そして何より、今の僕にはやらなきゃいけないことがある。これが終わらなきゃ、僕は何時まで経ってもこの先へ進めない気がする。
だから今の僕にできることは、只々、描くことだ。描いて……あの世界と、ちゃんとお別れしよう。
「なんというか、護が君を家に上げていた理由が分かる気がするなあ」
僕が絵を描いていると、石ノ海さんはそう言ってにこにこした。
「自分が好きなものに一生懸命打ち込んでいる若者の姿というものは、気分を明るくしてくれるものだね」
「そうですか?」
「ああ。家の中にぽかぽかのおひさまがやってきたみたいだよ」
……ぽかぽかのおひさま、っていうのはちょっとどうかと思うけれど。でも、まあ、ありがたいことに、石ノ海さんがそう思ってくれているというのなら、僕がここに居ていい理由の1つになるのかな、と、ちょっと自分の中で言い訳してみる。
そうして僕が絵を描き進めていく横で、石ノ海さんは石ノ海さんの趣味をやっていた。……隣の部屋から笛の音が聞こえる。ええと、リコーダーの。
テナーリコーダーっていうらしいそれは、僕が小学校で吹いていたやつより落ち着いた音色で、それでゆったり奏でられる音楽は気分を落ち着かせてくれた。これが石ノ海さんの趣味、なんだそうだ。クラリネットとリコーダーが趣味、って聞いてる。ジャンルはジャズからクラシックまで幅広く、だってさ。
物悲しいような優しいような、そういう音楽を聴きながら、僕は筆を動かして絵を描いていく。
……前回描いていた絵は、3枚。
1枚目は、カチカチ放火王の絵。2枚目は、カチカチ放火王に燃やされた森と、ページが途中から無くなってしまっている本の絵。それで、3枚目は……本の燃えてしまったページの跡に紙を継ぎ足して、そこに絵を描く僕。
今描いているのは、4枚目。本のページに森を描いて、森を再生させるページだ。
本に描いた絵が本当の木になって、それが森の焼け跡を緑に染めていって、森がすっかり元通り、っていうところ。……一応、鳥目線で、ということは意識してる。なので、どのページにも何となく鳥がまぎれている仕様。こういうの、あいつっぽいよね。
森が本から生えてきた4枚目の次は、人が集まってくる5枚目。森のみんなが本の周りに集まっていって、こういう話にしてやろう、ああいう話がいいんじゃないの、って、楽しみながら口を出しているところ。
その5枚目の下描きと下塗りを終えたところで、タイムアップ。5拍子の曲を軽やかに吹いていた石ノ海さんに挨拶してから、僕は家に帰る。
家に帰って、母親は腫れ物に触るみたいな接し方をしてきた。いや、腫れ物扱いだし、目の上のたんこぶ扱い……どちらにせよ腫れ物ってことでいいだろうか。
晩御飯は一応出た。まあ、いつも通りの、実に、健康的な……逆に不健康そうな、そういう食事だった。まあ、うん。
「お母さん。今日は学校で先生に褒められてきたよ。漢文の小テスト、満点だったんだ」
そんな夕食を食べつつ、僕は母親に話しかける。
「それから、数学の補講、出ることにした。昼休みにやってるやつ。結構楽しいよ」
「そう」
母親からの反応はそっけない。……けれどこれって、すごく珍しいことで、普段だったら『そんなこと話している暇があったら勉強しなさい』っていう小言が飛んできてるところだから……母親はちょっと、僕に歩み寄ってくれている、のかな、と思う。いや、単に接し方に困っているだけかもしれないけれど。
……何にせよ、いきなり考え方や生き方を変えるのって、難しいことだから。変化があるにせよ、徐々に、かな、と思う。まあ、のんびりやっていこう。
「ところでお母さん。僕、シチューが好きなんだけれど、明日のご飯、シチューになったりしないだろうか」
「……そんなの初めて聞いたけれど」
「うん。初めて言いました」
ちょっと自己主張するようにしてみたところ、やっぱり母親は大いに困惑している様子だった。今まで僕、こういうの言ったことなかったからなあ。
ちょっと申し訳ないなあ、と思いつつ、でも、多分、こういう会話ができた方が健全なんじゃないかな、とも思うので……。
「明日はお鍋だから。白菜の」
「……白菜のシチューも美味しいと思うよ」
「つべこべ言わないで」
ちょっと申し訳ない気持ちはあるけれど、食事中に会話があるっていう珍しい状態をもうちょっと楽しんでいたいので……僕はもうちょっと、シチューのリクエストで粘ってみることにした。
翌日、土曜日。僕はまた朝から『お散歩』。
……ただ、朝、起きたらもう、珍しく父親が起きていたので、おはようの挨拶から。……まあ、いつもの如く挨拶は特に返ってこないのだけれど。
それから、勝手に台所のパンをトースターで焼いたり、ティーバッグでミルクティーを淹れたりしている僕を、父親は珍獣でもみるような目で見ていた。『食べる?』と聞いてみたら、『いや……』みたいな、曖昧な返事だけが返ってきた。なんとなく、この人とは言葉のキャッチボールが一方通行なんだよな。いつも。
でもまあ、折角だから、と思って、『ミルクティーいる?』と聞いてみたら、それには、『ああ、うん』みたいな返事が来た。一歩前進だなあ、と思いながら、僕は父親のカップを戸棚から出して、それと自分のカップとにミルクティーを注ぐ。
ソファに座ってぽかんとしている父親に、『取りに来てー!』と助けを求めたら、どうしていいものやら、みたいな顔の父親がやってきたので、どうぞ、とミルクティーのカップを渡す。そして僕は僕で、台所で朝食。……いや、片足を骨折している身からすると、飲み物が入ったカップを運ぶのって、結構勇気が要るんだよ。だからこの場で朝食。
台所のカウンター越しに父親に観察されつつ、僕はトーストにジャムを塗って、さくさく食べて、無糖のミルクティーで体を温めて……ほ、と息を吐いたら、もう元気いっぱいだ。
てきぱき食器を片付けて、ついでに父親のカップも洗って片付けて、そうしたら一度自分の部屋へ戻って、着替えて、鞄を持って……準備完了。
「僕、出かけてくるね」
けんけんの要領で移動しつつ、玄関に置いてある松葉杖まで向かう。
「何処へ」
「宇貫護さんの家までお散歩に行ってくる。お昼には戻ってこないから、僕の分のご飯はお気になさらず」
いってきまーす、と挨拶して、相変わらず珍獣を見るような目の父親に手を振って、僕は玄関のドアを開けた。
先生の家には、石ノ海さん。まあ、来週いっぱいはこの家に滞在しているらしいので、当然なんだけれど。
「おはようございます!絵を描きに来ました!」
「おはよう、トーゴ君。元気だねえ。ささ、上がって上がって。ああ、ちゃんと部屋のエアコン、付けるんだよ?暖房をケチってもいいことはないからね」
「はい!」
なんだか先生ともこういうやりとりしたなあ、と思いつつ、僕は『僕の部屋』へ。
……そこで早速、続きを描いていく。
まずは描きかけの5枚目の続きから。
森のみんなが集まって、絵について色々口出ししているところだ。皆の表情は楽しそうで、うきうき、っていうかんじ。
人物が多い分、着彩がちょっと大変だった。けれど、楽しくもあった。……懐かしくも、ある。
そうして5枚目の着彩を完全に終えたらもうお昼だった。ただ森を描くよりもずっと時間がかかるなあ。
……でも、もう、終わりが見えてきている。
お昼ご飯は家から持ってきた食パン。それに加えて『トーゴ君!僕はこれ食べないんだが、君は食べるかな!?』と石ノ海さんから貰った、冷凍枝豆の剥き身。レンジであっためて解凍して、ちょっと醤油を垂らすと美味しいよ。
……何故か石ノ海さんは枝豆が嫌いらしいので、僕が食べることになる。この家での僕の役回り、全然変わらないなあ。
お昼ご飯が終わったら6枚目。
6枚目は……本が出来上がっていくシーン。
色んな景色が生まれていくんだ。グリンガルの森も、琥珀の池も、ゴルダの鉱山も。本から、世界が広がっていく。
それに着彩が終わったら、いよいよ、最後だ。
……最後の絵は、もう、構図を決めてある。
皆で、本の最後のページを覗き込んでいるところだ。
最後のページの絵、僕の作中作は……『こうして皆、幸せに暮らしました。めでたしめでたし。』っていうかんじだ。
7枚目の下描きを終えた時点で、夕方になったから家へ帰る。
……明日は日曜日だ。明日で、あの世界を完成させよう。
そうしたら……そうしたら、僕は、救われる、だろうか。
そうして。
僕は帰宅して、ただいまの挨拶を投げかけて、何も返ってこないのがちょっと寂しいな、と思いつつ、『晩御飯にするから急いで』と言われて、慌てて部屋に荷物を置いて、居間へ向かって……。
「急いで支度して」
母親にそう言われて、それで……目が、点になっている。
「……白菜のミルクスープ?」
台所の鍋の中で煮えていたのは、ふんわり柔らかい白をしたスープだった。
「あなたがシチューがいいって言うから」
成程。お鍋とシチューの折衷案で、白菜のミルクスープ。成程ね。成程……。こういうやり方もありか。
それから支度を終えて食べてみたら、案の定、味が薄めだった。実に健康的。まあ、うちのご飯なので……。
……でも、ミルクのコクがあって、ほっこり温かくて、それから……何か、何だか、嬉しい。
ちょっと幸せになれるご飯だった。