6話:少し寂しい世界*5
「これはいいなあ。姉には絶対に解けないパスワードだ」
『moti』で開いてしまったホーム画面を眺めて、石ノ海さんはそれはそれは愉快そうに笑った。
「あの人は護が餅も素麺も嫌いだなんて思わずに送っていたからな……」
「……道理で毎年来ると思った」
「そうそう。君が護の嫌いな食べ物を手伝って消費してくれていたっていうことも聞いているよ。おかげで『トーゴの担当』というところが分かったが」
やっぱりこのパスワード、ちょっと嬉しい気もする。だって、先生のことをよく知る人しか先生の嫌いな食べ物が分からないわけだし、僕のことを知らない人もやっぱり『トーゴの担当』のところが分からないわけで……ちゃんと解こうと思ったら、先生と僕の両方を知っている人にしか解けないようになってるんだ。
「だが4文字はなあ」
「うん」
でもパスワード4文字っていうのは駄目だと思うよ!
まあ、パスワードの是非はさて置き。
これで僕らは先生のパソコンを覗き見ることができるようになった、のだけれど。
「えっちな画像とかないだろうか!なあ、トーゴ君!」
「そういうのはあんまり探しちゃいけないと思う……」
石ノ海さんは嬉々としてピクチャフォルダ内を見ている。あの、それでもし本当にえっちなのが出てきてしまったらものすごく困ると思うのでその辺りにしておいて頂けると……。
「まあ、冗談はさて置き」
石ノ海さんはちょっと残念そうな顔でピクチャフォルダのエクスプローラを閉じて、代わりにデスクトップ上にあった『石ノ海秀太殿へ』という名前のフォルダを開いた。
「多分、僕らはこっちから先に見るべきだろうね。えっちな画像探しはその後にしよう」
まだ諦めてないのか単なる冗談なのか、石ノ海さんはそんなことを言うと、フォルダの中、『僕に何かあったらこれを開いてほしい』という名前のファイルを開いて……そこで、パスワードを要求されて、困惑する。
「おや、またか」
どうやら、このファイル、鍵が掛かっている、らしい。
「また餅か」
石ノ海さんは呆れた顔で『moti』と入力してみて、『パスワードが違います』と弾かれる。あれ、どうやら違うみたいだ。
「厳重なことだが……うむ」
それから、同じフォルダ内に入っていた『パスワードについて』と書かれたテキストファイルを見る。すると、中身はこうだった。
『叔父上がこれを見ているということは、僕はもう死んでいるだろう。このフォルダ内の覚え書きは、僕の死後に僕の後始末をする羽目になった叔父上に宛てたものである。いやー、ごめんな叔父さん。よろしく叔父さん。いつもありがとう叔父さん。パスワードはいつものアレだ。』
「……いつものアレ、って、何ですか?」
ちょっと難しい顔をしている石ノ海さんに聞いてみたら、石ノ海さんは首を傾げながら……『itumonoare』と入力した。
……うん。
「流石に駄目かあ」
「うん」
パスワードは『いつものアレ』って言ったって、本当にそれがそのままパスワードってことはないと思うよ。これ、石ノ海さんだけが開けるように作っているのだろうし……。
「いつものアレ、いつものアレ……とは言っても、僕らが会うことはそんなに無かったしなあ。いつも、と言っても、行事行事の度に顔を合わせる程度で……あ」
石ノ海さんはちょっと思い出したような顔をして……そして、幾つか、表記違いでパスワードを試して……。
最終的に、『turbanYUKICHI』と入力した。
……うん。
「開けてしまった!」
「こういう奴なんだなあ、護はぁ……」
え、ええと、『ターバンゆきち』……?それで開けたって、一体どういうことだろうか……?
「あの、解説をお願いします」
「いや、何、簡単なことだよ。20を過ぎたあたりから護も素直にお年玉を貰ってくれなくなったもんだから、1万円札を折って、頭にターバンを巻いた福沢諭吉にして渡したんだよ。吹き出し型の付箋をくっつけて『ナマステ』と言わせつつ」
……先生は先生だけど、石ノ海さんも流石、先生の叔父さんなだけのことはある。変な人だ。この人、変な人だ!
「まあ、それが護に受けたもんだからね。僕は毎年、何なら会う度にターバン諭吉を贈ることになったんだよ。いくつになっても可愛い甥っ子だからね。まあ、それでいつものアレ、というわけさ」
成程。変な人同士の交流とはかくも興味深い……。
ファイルの中身は、まあ、有体に言ってしまえば遺書だった。
先生が死んでしまったらどうしてほしいか、そういうことをざっと書いてある。
「葬式の前に読んでいたらなあ……ちゃんと坊さんの横にフラワーロックンロールを飾ってやったんだが……すまない護。四十九日の法要の時にフラワーロックンロール飾ってやるから許せ」
「えええ……」
お葬式はもう終わってしまったわけなのだけれど、お葬式についての要望も書いてあったらしい。ただ、まあ、先生が書いたものなのでそういうことが書いてあるらしい。まあ、先生らしいと言えば先生らしい。多分、お葬式の準備をする石ノ海さんを笑わせようと思って書いたんだろうなあ。きっと。
「葬式後については……よし。やったぞ、トーゴ君。僕らは今のところ、実に護の望み通りやっているらしい!」
それから、お仕事の片づけについても書いてあった。連絡を入れなきゃいけない人の一覧がざっと書いてあって、それから、仕事で進行中だった原稿はひとまず全部それぞれの人に渡してもらえるように、っていうことで書いてある。よしよし。今のところ僕らはその通りにやってます。
それから、家の中のどこに何があるかをざっと書いたものや、遺産のあれこれについて書いたところがあって……そして。
「ふむ。どうやら君についての項目もあるらしい」
……そうして最後に、『トーゴについて』という項目があった。
ちょっと緊張しながら、石ノ海さんと一緒に読む。すると、冒頭からこう書いてあった。
『願わくば、叔父上にはこれをトーゴと一緒に読んでいてほしいんだが、まあ、そんなことはあり得まい』
「有り得るんだぞ、護!見通しが甘かったな!」
そう。あり得ないと先生ですら思っていたことらしいけれど、僕ら、もう出会ってしまいました。そして、お互いにもう、大事なものになりかかっているところだよ。
『が、万一、これをトーゴが一緒に見ているとしたら、ちょっとトーゴにはご遠慮いただきたい。ここからはちょっと恥ずかしい話なもんだから……』
……が、文章はそう続いた。
「先生の恥ずかしい話……」
「読んだ後で教えてあげよう。一応、今は護の言う通りにしてやろうか」
まあ、僕にご遠慮いただきたい、って先生が書いているのだから、僕は読まない方がいいだろう。その次に書いてあった『トーゴにはトーゴ用に文章を用意してあるから、そっちで頼むぜ』という一文にちょっと胸を躍らせつつ、僕は石ノ海さんの向かい側の席へ移動した。つまり、ノートPCのディスプレイが見えない位置。
「ふむ……ほう」
それから僕は、石ノ海さんの表情を見ていた。他に見るもの、あんまり無いし。
……先生、僕について何を書いているんだろうなあ。ちょっと気になる。この『気になる』の主成分は多分、不安だけれど。
ちょっと真剣な顔でディスプレイの文字を追う石ノ海さんを眺めて、僕はぼんやり、色々なことを考えて……。
「よし。僕の番はこれで終わり、ということだな。じゃあ次はトーゴ君の番だ」
そうこうしている内に、石ノ海さんは先生からの置手紙(っていう言い方は変だろうか?でも、置手紙みたいなものだよね)を読み終わったらしい。僕は手招きされて、また石ノ海さんの隣に戻って、そこで……さて。
僕は早速、『パスワードについて』の文章を読むことになった。どうやら僕宛ての置手紙にも、パスワードが掛かっているらしいから。
『さて、トーゴ。君がこれを読んでいるということは、きっと僕はもう死んでいるということだろう。君はきっと寂しがってくれているだろうが、まあ、どうか元気にやっていってほしい。』
「中々無茶を言うなあ」
読んで最初の一文でこれだよ。結構無茶を言っているよ、先生。僕、もう二度と楽しい気分になれないんじゃないだろうかとも思ったくらいだったのに。
『ついでにカフェのマスターによろしく言っておいてくれ。そして一杯ぐらいココアか何か、奢ってもらうといい。宇貫のツケってことで。』
「また中々無茶を言うなあ!」
次の一文もこんなのだよ。いや、あそこのマスターなら、先生のツケっていうことにして僕にココアをご馳走してくれそうな気もするけれどさ。
『それから、もし僕が死んでしまっているのだとしたら、君には是非、僕の叔父上と連絡を取り合ってほしい。叔父上の連絡先を下記に記す。彼は海外に住んでいるが、電話を掛ければ繋がるだろう。そして彼は君のことを知っている。名乗ればきっと通じるはずだ。』
……それから、そんな文章と一緒に、石ノ海さんの連絡先が書かれていた。電話番号だ。先生、本当にちゃんと準備してたんだなあ……。
『君への手紙にはパスワードが掛かっている。そのパスワードだが、僕らが揃って普段から沢山食べているもの、ということでどうだい。』
「あっ、これなら分かる!」
僕は文章を読み終えて、早速、パスワードを入力。『muda』。
……これが駄目なら次は『kokoronoesa』にしようと思っていたけれど、1回目で開いてしまった。あの、だから、文字数……まあいいか。
『トーゴへ』と書かれた文章ファイルを開いて、僕はそれを読む。心臓が高鳴るのは、緊張と高揚と、半々だ。
『トーゴへ。無事に開けたようで安心しているよ。今日も君は絵を描いているかい?』
「うん」
先生の文章を読んで、頷く。僕は今日も絵を描いています。……そう答えられることが、嬉しくて、誇らしい。
『君のことだから、僕がどうにかなっていたら非常に落ち込んでしまうんじゃないかと思うんだが、もしかしてやっぱりそうかい?』
「その通りです」
そうだよ。その通りだよ。だから『元気にやっていってほしい』なんてね、ちょっと無責任というか、無茶だと思うんだよ。
『もし元気が出ないとしたら、君が元気を出すのに必要なものを、この家から好きに持って行きなさい。或いは、叔父上が許可してくれるなら、ずっと僕の家に居てもいい。僕の持ち物はみんな、君にあげよう。(まあ法定相続ってもんがある以上、みんな、とは言えんが。)それでどうか、元気になってほしい。』
また先生が無茶を言う。一番欲しいものは、もうこの世界のどこを探したってないっていうのに。
ちょっと寂しくなりながら、続きを読んでいく。
家のどこにアレがあるぞ、とか、これはきっとトーゴが気に入ると思うぜ、とか。そういう。ファンタジー生物図鑑とか、黒檀の柄のナイフとか、そういうものがいくつか挙げられていたから……その、もし石ノ海さんが許してくれるなら、それら、貰いたいなあ、と、思う。
それから原稿の話がいくらか書いてあって、『もし僕が書いたものを読みたいならこれから読んでくれ!そして願わくばこれは最後の方に回してくれ!何なら読まないでくれ!恥ずかしい!いやん!』という具合に、先生の著書のリストがあった。……最後の方のやつって、どんなのだろうか。えっちなんだろうか。うーん……気になるような、恥ずかしいような。
……そうして。
スクロールバーが最後まで進んだところで、最後の段落があって……先生からの、最後の言葉が綴ってあった。
僕はそれを黙って読む。文字を追うのはゆっくり。瞬きもゆっくり。ちょっとでも長く、先生の言葉を読んでいたくて。
『この文書のパスワードもそうだが、僕らは無駄を食って生きている。そして君も僕も、無駄を食って、そして無駄を生産する生き物だ。僕らは作り物の、絵空事の世界を愛しているね。だから、そのために全ての経験を筆の餌にできるし、そうすることで救われることができる。これが僕らの生命活動なんだろう。』
思い出す。そうだね。大丈夫だ。僕は、全ての経験を筆の餌に、できる。全ての事象は、絵のためにある。
そして僕は、絵を描くことで、生きていることができる。無駄を食って生きている僕は、ありとあらゆる全ての無駄を必要にできて……だから、大丈夫。そう、思い出す。
『僕らが生み出し、僕らを生かしてくれるものについては、絵に描いた餅、という言葉があるが、正にそれだな。実に、絵に描いた餅だ。美しい絵空事、温かなファンタジーには実用性なんぞ無い。だがそれでも、絵に描いた餅は美味いのだ。絵に描いた餅を作り続けて、かき続けて、食べ続けることには意味があると僕は信じてる。』
そうだ。だから、止められたって、怒られたって、道具全部捨てられたって……何の役にも立たなくたって、それでも僕は描いている。
『どうしようもない現実を生きていくために、僕らには美しい絵空事が必要なんだ。現実離れしたファンタジーってもんは、現実を生きるためにあるものだと思っているよ。どうしようもないことを消化して昇華して飲み込んで栄養にしてしまうために、僕らには芸術やファンタジーが必要なんだろう。』
……知ってる。
僕は、知ってる。温かなファンタジーに抱きとめられて、芸術を自分の声にすることを覚えて、そして、自分の経験を……経験した全ての困難を、絵に描いた餅に変えてしまえるようになったから。
『だからどうか、君がそうやってこれからの困難を乗り越えていってくれますように。君の人生に美しく楽しく美味い『絵に描いた餅』が共に在りますように!』
先生の言葉の最後の最後、本当にこれで終わりの一文を読んで、僕は……そっと、ウィンドウを閉じた。
これで終わり。
そして……困難を乗り越えた僕が創る、新しい世界の、始まり。
おやすみ、で、おはよう、だよ、先生。
よし。描くぞ。




