5話:少し寂しい世界*4
「ごめんなさい。取り乱して」
「いやあ、取り乱した、なんて思わないさ。君のは随分と静かな取り乱し方だからね。……その点、護なんかはな、こう、取り乱すとあいつは奇声を発しながら飛び回るから……」
しばらくして落ち着いた僕に箱のティッシュを差し出してくれていた石ノ海さんは、そんなことを言いつつ何か思い出したらしくてくつくつ笑う。
……そういえばあったなあ。先生がふとソファから立ち上がって、垂直にぴょこん、と跳ねて、しばらくじっと天井を見つめてからソファに帰ってきたこと。うん、そうだ。先生の『取り乱す』は、割と体に出やすかったように思う……。
「まあ、そういうことで、だ。確認だが、姉が何を言おうが、この家はまだ僕のものだからな。この家の使い方の決定権はぼくにある。まあ、そういうわけで、もし君が望むならこの家の君の部屋は今後も自由に使ってくれていいよ」
「……はい。ありがとうございます」
堂々と胸を張って、ちょっと冗談めかして言う石ノ海さんにしっかり頭を下げてお礼を言う。先生が大事にしていたのであろう人だ。僕も大事にしたい。石ノ海さんが僕を大事にしてくれるのと同じように。
「そういう訳で、君の部屋はそのままでいいさ。問題はどちらかというと、護のお金の方だな。通帳だの、仕事関係の契約書だの、そういうのはある程度どうにかしておかないと、姉がな……」
石ノ海さんは頭の痛そうな顔をしつつ、そう言ってリビングを見回した。
……いつか見た時のままのリビングだ。本当に、いつも通り。ただ、少し時が経過してしまったのが分かる。麦茶のパックが入りっぱなしのポットが淀んで、少し嫌な匂いを発している。これはもう飲めないだろう。
他にも、軽く口を縛っただけで置いてあった食パンの包みの中でカビが発生していたり、窓辺の植物が萎れていたり。僕はあわてて、台所の流しから水を汲んできて、観葉植物に水をあげた。森だった記憶があるからか分からないけれど、なんとなくやっぱり、植物がしょんぼりしているのは見ていて悲しい。
元気になってね、と思いながら植物に水をやって、その間に石ノ海さんはカビた食パンや淀んだ麦茶を処分して……さて。
「じゃあ、まずは先生のお仕事の関係から」
「ああ。是非よろしく頼むよ」
僕は早速、働き始める。
……ちょっとだけ、誇らしかった。御親族よりもずっと最新の先生を知っていて、それを、きっと先生が望んでくれるように役立たせることができるっていうことが。
それと同時にやっぱり、寂しくもあったし、悲しくもあったけれど。でも、そういうものって、体を動かしている内に薄れていくものだから。
「ええと……今進行しているお仕事は3つだって言っていたから、多分、これで全部です。あと、一番仲が良かったみたいだった編集さんにも連絡が取れたし、多分、ひとまずはこれで大丈夫かと」
「いやあ、本当にありがとう、トーゴ君。君が居たからなんとかなった……」
そうして小一時間後、僕らはひとまず、先生のお仕事の後始末を一段落させた。
……僕が、出版社の人達の名刺を見つけてきて、そこに石ノ海さんが電話を掛けて、先生が死んでしまったことを、お伝えして、お金の関係でごたごたすることをお伝えして、石ノ海さんが窓口になることで話を通して……それから、もし原稿が残っていたら、それは出版社にお渡ししよう、なんて話になって……。
「いやはや、甥が確かにこうして働いていたんだなあ、本当にあいつは小説家だったんだなあ、と妙に実感しているよ」
石ノ海さんはちょっと笑ってそう言った。……先生って、僕の前では常に小説家だった。いや、まあ、小説家で、思想家で、変な人、っていうかんじの人だったけれど。
けれど石ノ海さんから見たらきっと、また違う先生の姿だったんだろうな。どういうかんじだったんだろう。ちょっと気になる。
「さて……それにしてもあいつは、アナログな原稿は残していないんだな?」
「はい。先生はいつも、このノートPCか、普段から持ち歩いているタブレットかで仕事してました」
「外付けHDDとかがあるでもないな……ノートPC1台でそんなに仕事ができるものか?小説を何本も書いていたら、データがいっぱいいっぱいになりそうな気がするがなあ……」
うーん、と石ノ海さんは唸って……そして、ぬん、と、天井を仰いだ。
「あいつの原稿があったら編集さんに送ってやるべきだろうと思ったんだが、どうしたものかなあ」
……そう。
僕ら、先生の原稿を探している。
先生のお仕事の後片付け、っていうことでもそうだし……何より。
僕には、どうしても探さなきゃいけない、未完の原稿があるから。
「となると、本当にこのノートPCの中に全部あるのか。困ったなあ」
石ノ海さんは、閉じたままのノートPCを眺めて頭を掻いている。まあ、そうだよね。パソコンって普通、パスワードが掛かっているものだし。
「結構いいパソコンなんだなあ。いつの間に買ったのやら」
「ええと、去年です。今まで使っていた奴が遂に駄目になりそうだ、っていうことで、慌てて買ってきていたから……」
思い出す。先生が『トーゴ!見ろ!この角度にしておくと画面が点くが、もうちょっと倒すと画面が消える!多分これはもう寿命だぜ!』と言いつつ、古い方のパソコンを見せてくれたことを。……あの時の『やけっぱちになってこの状況を楽しんでやる』っていう具合の先生も。
「そうだ。先生、確かUSBメモリを使ってたと思うから、探してきますか?あ、でも、パソコンが無いから中身を確認はできないか……」
「あ、いやいや。それなら大丈夫。僕は丁度1台、パソコンを持っているからね。ほら」
やけっぱちの先生はさておき、パソコンが見られないならUSBを見てみよう、と思い出して右往左往している僕に、石ノ海さんは鞄から取り出した小さな……電子辞書みたいなサイズのパソコンを見せてくれた。
うん。本当に、小さなパソコン。キー配列がとんでもなくぐちゃぐちゃだ。使いやすそうかって言ったらちょっと使いづらそう。でも、小さくてなんだかちょっと可愛い。
「……かわいいですね」
「うん。そうだろう。かわいいだろう。いやあ、僕はどうも、こういうUMPCの類が好きでねえ……」
石ノ海さんはにこにこしながら小さな小さなパソコンを撫でている。これだけ可愛がられていたらパソコンも幸せだろうな。多分。
パソコンの幸せについて考えつつちょっと探したら、すぐに先生のUSBメモリが見つかった。先生、こういうのは全部、居間の引き出しにしまってたからすぐ分かった。
「よし。どれどれ……えっちな画像とか保存してあったらごめんな、護……」
「ええええ……」
何とも言えないことを言って、なむなむ、と拝むようなポーズをとってから、石ノ海さんはうきうきとUSBメモリを小さな小さなパソコンに接続して……。
「……全部拡張子が『.txt』だなあ!なんとまあ、ストイックなことだ……えっちな画像が無い……」
ちょっとズレた感嘆の声を上げつつ、いくつかのデータを開いて、確認して、さっき編集者さん達と電話で話した時にとっていたらしいメモと見比べて、ふんふん、と頷いている。
「ふむ。まあ、更新日時が結構マチマチだが、ひとまずここに幾らかは入っていそうだね。一番新しいのは先週が更新日時だから、まあ、そこそこ期待できるのではないかな」
「僕も見ていいですか?」
「まあいいんじゃないかな。これだけ我々は働かされているのだし、ちょっと読ませてもらうくらいは駄賃としてもらっておこうじゃないか、トーゴ君」
横から覗き込んだら石ノ海さんは小さなパソコンを僕にそのまま預けてくれた。お礼を言って、画面を見る。
……小さな小さなパソコンの小さな小さな画面には、小さな文字が並んでいる。僕はそれを目で追って……探す。僕が居た世界が、この中に紛れていないかな、と。
「うーん……無いなあ」
5分くらい見て、僕はそういう結論に達した。USBメモリの中には、僕が居た世界の物語が入っていなかった。困ったなあ。
「おや、何か探し物だったかな?」
石ノ海さんは僕の顔を覗き込んで、ちょっと不思議そうな顔をする。それはそうだろう。何か目的があって先生の原稿を探す理由は、僕には無いはずなんだから。
それでも僕は、お願いしなきゃいけない。荒唐無稽な、それでいてどこまでも優しくて暖かくて美しい絵空事の世界を、護るために。
「あの……すごく、変なお願い、なんですけれど」
僕が切り出すと、石ノ海さんは、うん、と頷きつつ身を屈めた。視線がちゃんと合う。目が合って、気持ちもちゃんと向かい合わせになるかんじ。
「……先生が書いた未完のファンタジー小説の中に素敵な異世界の話があったら、その小説を、読ませてほしくて……それから、その小説の続きを描くことを、許してほしいんです」
僕がそう言うと、石ノ海さんはきょとん、として、それからちょっと考えて……先生によく似た笑顔を浮かべた。
「勿論、構わないよ。僕もそれには興味があるなあ。大の大人がファンタジーなんて、と言われるかもしれないが、まあ、ファンタジー小説って、いいよね。是非読んでみたい。それに、君の絵にも興味があるし……」
にこにことそう言って、それから石ノ海さんははたと気づいたように両手をぱたぱたさせた。
「……あ、でも、もしそれを出版しよう、とかそういう話になるとだな、ちょっと面倒なことになりそうだが……」
「あの、出版はしなくてもいいんです。ただ、続きを……続きになりそうな絵を、描かせてもらえれば、それで……」
僕も慌てて、なんとなくつられて両手をぱたぱたさせながらそう答えると、石ノ海さんは、『そうかい?』と首を傾げて、ぴた、と手を止める。なので僕も、つられて手を止める。
「となると、何のために、そういうことをしようとしているんだい?ああ、勿論、理由なんて無くてもいいんだが……」
「……僕の、気持ちの整理のため、なのかもしれません」
それから尋ねてきた石ノ海さんにそう答えつつ、これも本当のことなんだよな、と、思う。
あの世界が何もかも幻で、何もかも夢で、僕が見ていた幻覚に過ぎないんだとしても。
それでも、僕の中でちゃんと、あの世界を終わらせなきゃいけない。
終わるっていうことは、ぶつり、とそこで途切れてしまうことじゃなくて……その先もずっと続いていく、っていう、永遠を生み出す、っていうこと、に近い、気がする。
……幸せな世界にしたい。そういう世界がどこかにあるって、信じていたい。そういう風に自分を納得させるためにも、僕には、先生が生み出した世界の完結が必要で……。
「……本当は?」
そんなことを考えていたら、石ノ海さんにそう聞かれて、びっくりしてしまった。
びっくりしている僕を、石ノ海さんは……なんだかきらきらした目で、じっと見ていた。
先生も時々、こういう顔、してた。世界の秘密をそっと明かす時みたいな。美しく貴重なものの一欠片をそっと見つめる時みたいな。そういう表情。
ファンタジーを楽しんでいる表情だ。
「……大好きな世界を、燃やしてしまう訳にはいかないから」
だから僕は、そう、白状することにした。
「あの、すごく変な話で……作り話、っていう体で、聞いてほしいんですけれど……僕、先生が書いた物語の中に、居たんです」
それから僕は、石ノ海さんにあの世界のことを話した。
描いたら出てくる不思議な魔法。住んでいる素敵な人達。豊かな自然。美しい景色。美味しいご飯。図々しい鳥。可愛い生き物。愛すべき世界。
学んだことも、感じたことも、全部全部が宝物で、だから、それを喪うわけにはいかない、っていうことを、話した。
あの世界をどれだけ愛していたか、あの世界がどれだけ僕を愛してくれたか、その全てを話すことはできないし、何ならできるだけ自分の感情については触れないように、概要だけ、っていうことになったけれど。
けれど、僕は、あの世界について話した。確かめるために。或いは、誰かに確かめてもらいたくて。
……そうして僕が話す間、石ノ海さんは、目をきらきらさせて聞いてくれて……そして、僕が話し終わった時。
「素敵だ!」
そう、満面の笑みで、言ってくれた。
「うん、実に、実に素敵じゃないか、トーゴ君!」
「あの、信じてくれるんですか?」
なんだかにこにこしている石ノ海さんに、本当に良いんだろうか、と思いつつ聞いてみると……。
「まあ、全部君が見ていた夢、という風に結論付けることもできるっちゃできるね。君が異世界に居たことを証明できるものは無いっちゃ無い。画力が上がったのは睡眠学習の成果なのかもしれないし、そもそも君は元々それくらい絵が上手かったのかもしれない。手の平の火傷についても、人間はどうやら、思い込みだけで火傷ができてしまうらしいと聞いたことがあるから……まあ、幻覚の範囲内に収まる、とも、言えるかな」
そ、そうか。確かに先生から聞いたことがある。『目隠しした人の手首をちょっと切って、そこをぬるま湯で濡らしつつ失血しているように実況してやると、思い込みだけで失血死しちゃうらしいぞ』とか……。そうか、それで人間は火傷までできちゃうのか……。
ちょっと落ち込みつつ、僕は手のひらを見つめる。今はもう、ほとんど何も感じない。火傷が治ってしまったことは、あんまり嬉しいことじゃなかった。あの世界との繋がりを失ってしまったようで、寂しかった。
……けれど。
「だが、そんなのはこじつけだ。僕は信じようじゃないか。そういう素敵な世界があるって、信じていたい!」
石ノ海さんは、元気よくそう言った。堂々と立ってにこやかに。……その姿が、ちょっと眩しい。
「もう、気休めでも作り話でもなんでもいいさ!それが楽しく我々を救ってくれるなら、それに越したことはない!」
そう言って、石ノ海さんは……ダイニングテーブルの上に置きっぱなしになっている、先生のノートPCの前に座って……。
「よし。ならば僕らがやるべきことはただ1つだね。……このノートPCの攻略だ!」
勢いよく、ノートPCを開いた。
スリープモードになっていただけだったらしいそれはすぐに立ち上がって……ロック画面を、表示する。
エンターキーを押したら、パスワード入力画面だ。ユーザー名はそのまま、『宇貫護』。ここまではいい。でも、ここから先に進むには、パスワードを入力する必要がある。
「ちょっとワクワクするよな。ハッキング、っていうのか?クラッキング、が正しいんだろうか。まあいいが……ちょっとワクワクするよなあ」
「はい。ちょっとワクワクします……」
「だが、まあ、何回も頑張っていればもしかしたら開くかもしれないからな。まあ、物は試し、っていう奴だ。駄目だったらまた考えるとして……」
石ノ海さんの横に座りつつ、僕はなんだかわくわくした気持ちで画面を見つめる。
現実逃避、なのかもしれないけれど。でも、こういう風にちょっとでもわくわくするっていうことが、今の僕達にはきっと、必要なので。
だから……きっと、先生も笑って許してくれるだろうな、って、思う。思わせて。ね、先生。
さて。
そうして石ノ海さんは、「まあ最初はこれか」とか言いつつ、『password』と入力した。まあ、駄目だった。
続いて、『あああああ』も入力してみた。駄目だった。「トーゴ君、何か思いつかないか?」と聞かれたので『ウキウキ宇貫』を入力してみたけれど駄目だった。まあ、うん。
「おや。気の利いたやつが出て来たぞ」
けれど、間違え続けていたら、パスワード入力欄の下に『パスワードのヒント』なる文字列が出てきた。石ノ海さんはそれを見て、嬉々としてそこをクリックする。
……すると。
『コーヒーと素麺以外。トーゴの担当。』
そういう文章が、出てきた……。
コーヒーも素麺も、先生が嫌いな食べ物だ。
となったら……それ以外、と言ったら……更に、僕が担当、っていうことは……。
『moti』。
そう入力して、エンター。すると画面にはあっさりと『ようこそ』の文字が表示される。
……ああ、なんてこった、先生!
パスワード4文字はあまりにも脆弱すぎるよ、先生!




