2話:少し寂しい世界*1
夢じゃない。あれ、夢じゃなかった!だって僕、カチカチ放火王のせいで火傷したところがそのままになってる!
「うわ、じゃあ、もしかして……」
もしかしてもしかして、と思いながら背中に意識を集中させてみると……うん。
「……羽はなさそうだ」
ちょっと期待半分恐れ半分だったけれども、羽は無かった。流石に、現実に羽は持ち込めなかったらしい。安心半分、がっかり半分……。
「あと、あの世界から持ち帰ったものがあるとすると……そうだ!」
それから僕は思い立って、慌てて適当な参考書を開く。そこに挟まっていた白紙を見て、これを挟んだ過去の自分に拍手したい気分になりつつ、筆箱から鉛筆と消しゴムも取り出して……。
「描くぞ!」
気合を入れて、一気に描き始める。
描くものは風景画。ヒヨコ色に輝く街並み。僕がこの世界に戻って来て最初に美しいと思えたものを、描いておきたくて。
……自分でもびっくりするほど、鉛筆が滑らかに動いた。どこにどう線を引いて、どう鉛筆を動かして、どう陰影を深めていくか。そういうものが全部、迷いなくできる。
まるで、魔法みたいに。
「……画力が上がってる!」
そうして完成した絵は、自分でも納得のいく出来栄え。暇さえあれば鉛筆デッサンをはじめとして絵ばっかり描いていた異世界での経験が、確かに、僕の中に残ってる!
絵を描いて絵を描いて、ひたすら描きに描いた経験は、ちゃんと、僕の中にあるんだ。描き慣れているから、今、何も見ずに馬を描いたり森を描いたりすることもできる。
……やっぱり、あの世界はただの夢じゃなかった。
ちゃんと、存在してる!
嬉しくなって、僕はその後、何枚も描いた。ひたすら描いた。描いた。描いた。
病室の様子も、ベッドの上で皺になっている毛布の様子も、積み上げられた勉強道具も、やがて運ばれてきた朝食も!
描きたい描きたい。いっぱい描きたい。とにかく描きたい!
……ということでひたすら描いていたら、朝食を運びに来た看護婦さんに「あら、上手ねえ」と褒めてもらえた。嬉しい、嬉しい。
描いて描いて描いて、お医者さんが検診に来てくれたら『モデルになってください!』とお願いして、5分クロッキーのモデルになってもらった。お忙しいところすみません。どうもありがとうございます。
5分クロッキーでも、人の形がちゃんと取れて、細部もそこそこ描き込めて……人の雰囲気をざっと絵にすることができていた。やっぱり、異世界での生活は無駄じゃなかった!
その後も描いて、ひたすら描いて、紙が無くなったら看護婦さんに『紙、もらえませんか?裏紙でもなんでもいいんです』と相談して、そうしたら古くて日焼けしてしまっているコピー用紙の束をプレゼントしてもらえて……また描いた。描いた描いた。ああ楽しい!
……と、いうことで。
僕の病室は、たった1日で絵だらけになってしまった。そして、僕の筆箱に入っていた鉛筆は随分短くなってしまった。まあ、あれだけ描いたのでしょうがない……。
「……鉛筆欲しいなあ」
ボールペンでハッチングしながら窓の外の木のスケッチを描きつつ、さて、どうやって鉛筆を手に入れるかなあ、と考える。
……ふと思い立って、鉛筆の絵を描いてみた。けれど当然、実体化するようなことはなかった。だよね。この世界にはこういう魔法は無いので。
どうしようかなあ。このままだとボールペンのインクも明日中に尽きてしまうだろうし、そうなったら何を画材にすればいいだろうか……。ええと、病院食の、お味噌汁、とかだろうか……。
夕食を食べて、一応思い出して英語の単語帳を捲って英単語を確認したら、すぐ消灯。たくさん描いたら疲れてしまって、すぐに寝付いてしまった。夢も見ずにぐっすり快眠。
そうして起きて、また朝から描いて、その内食事が運ばれてきたので食事を見つめつつ『この味噌汁をインクにして描くにはどうすればいいだろう』と、非常に不毛なことを考えながら完食して、それからまた描いて……。
……そうして夕方になった頃。
「桐吾」
「あ、お母さん」
母親が病室にやってきた。ええと、一昨日ぶり。
「……これは何?」
「僕が描いたもの」
母親は、ベッドの机の上に束ねて乗せられている鉛筆デッサンやボールペンのスケッチを見て、見てはいけないものを見てしまったような顔をした。
「……どうして?ねえ、桐吾。あなた、勉強は?」
「英単語を確認したよ」
「それだけ?」
「それだけ」
正直に答える。すると母親は困惑したような顔で、少しわざとらしくため息を吐いた。
「ねえ、桐吾。何を考えているの?あなたには勉強を休んでいい日なんてないの」
「ごめんなさい。でも、お休みしたかったんだよ。だって僕、もう7年以上、年中無休だ」
小学生の頃からずっと毎日勉強していたものだから、だから、異世界でのバカンスは抜きにしたとして……1日くらいは、勉強がお休みの日があってもいいんじゃないかな、と、思うけれど。
……でも、まあ、母親が気にしているところは勉強を休んだところじゃないんだろうなあ、ということも、分かるよ。
「だとしても……だとしても、こんな、無駄なことに時間を浪費するんじゃなくて。もっと本を読むとか、できることがあったでしょう?」
母親は、僕が絵を描くのが怖い。絵を描いている僕は理解が及ばない生き物なんじゃないかな。或いは、僕が絵を描くことと受験に落ちることがセットになって記憶されてしまっているのかもしれない。僕が中学受験に失敗した理由を、『絵を描いていたから』っていう風に納得して片付けたみたいだから。
……それでも僕は絵を描きたい。元々僕は彼女の理解の及ばない生き物だし、そういう風に生きていきたい生き物でもある。
「これは処分しておくから」
絵の束をざっ、と、ぐしゃぐしゃにするように掴んだ母親の手を、僕は掴んだ。
「やめて。僕が大切にしているものを、もう捨てないでほしい」
それから、ちゃんと母親の目を見て、そう伝えた。
母親はショックを受けたような顔をしていた。なのでその隙に、彼女の手から僕の絵を回収させてもらった。回収した絵の束は、僕のベッドの毛布の中へ。もう、勝手に捨てさせないぞ。
「……ねえ、お母さん」
絵を確保したら、改めて、話す。
「僕、絵を描きたい」
「……絵なんか描いてどうするの?役に立つの?」
皮肉気に詰め寄ってきた母親を見て、あれ、と思う。
あんまり怖くないなあ、というか……なんだろう。こういうのに、慣れた?
ちょっと考えてみて、ああ、もしかしたら、世界が広がったからかもしれない、と、思う。僕の世界は、自分の家だけじゃない。両親が僕について決定することは絶対じゃないんだって、気づけたのかも。
「うーん、役に立つかと言われると、すごく役に立つ。僕は描かないと生きていけない生き物らしいので、描くことは生きることに役立ちます」
「……は?」
「僕、絵を描きたい。絵を描くことを、認めてほしい。絵を描くことしかしたくない、っていう訳じゃないんだけれど……駄目だろうか」
落ち着いて、そう伝えてみる。すると母親は混乱したような、『こんなはずでは』みたいな、そういう顔で座り込んだ。なので僕は、ベッドの反対側にあったスツールを持ってきて、母親の横に置く。どうぞ。
母親はスツールに座ることなくしばらく蹲っていたのだけれど、やがて立ち上がると、ぎっ、と僕を睨みつけた。
「絵を描いたって生きていけないのよ。馬鹿なことを言わないで。そんなことより勉強して、ちゃんといい大学に入るの。そうしないとちゃんとした生活ができないの。分からないの?」
「絵を描いてお金を手に入れるのが難しいことだっていうことは、分かってるよ」
彼女にとって、生きるということは、ご飯を食べるということなんだろう。僕の言う『生きる』とは、多分、違う意味だ。彼女には心の餌は必要ないし、彼女は自分に必要のないものは他人にとっても必要であるべきじゃないって思っている人なので……。
「でも、僕、ご飯を食べられないことよりも、絵を描けない方が辛いみたいなんだ」
体の栄養だけあれば生きていられる母親とは違って、僕は心の栄養が無いと死んでしまう。多少食事を抜いたって、絵を描いていたい。
「……何なの?本当に、どうしちゃったの、急に」
それから母親は、そう言って、床に視線を落とす。頭を抱えている。困っているらしい。まあ、そうだろうなあ。彼女からしてみたら、僕、事件に巻き込まれて急に豹変してしまった、っていう具合なんだろうから。
「ずっと思っていたことでは、あったよ。急に思いついたわけじゃないんだ。ずっと言い出せなかっただけで」
だから、今豹変してしまったわけじゃないんだよ、今はちょっと勇気を出せるようになっただけなんだ、って伝えたくて、そう、言ってみたのだけれど……。
「ねえ桐吾。あなたやっぱり、疲れてるのよ。あんな事件があって、それで、おかしくなっているのよ」
引き攣って乾いて固い笑顔を浮かべて、母親は僕の肩に手を置いた。目が合っているはずなのに、目が合っていない気がする。
「……思っていたことを言えるようになった、っていうのは、おかしいことなのかな」
「あなたはそんなこと思っていないの!」
……遂にはヒステリックな叫び声を上げて、母親が立ち上がる。上から僕を見下ろして、呼吸を荒げて、とてもじゃないけれど僕の話を聞いてくれる状態じゃ、ない。
「……ちょっと、お手洗い行ってくる」
こういう時には時間を置いた方がいいだろうな、と思ったので、僕はもぞもぞやってなんとかベッドから出る。ギプスでしっかり固められた左脚は動かせないけれど、ベッドサイドに置いてあった松葉杖を使えば、ゆっくり動くことができる。
「……お父さんにも話すからね」
トイレに向かおうとした僕に、低く、母親の声が届く。
「うん。いいよ。それで、できればちゃんと、僕からも話したい。どこかで時間、ください」
ちゃんと振り返ってそう伝えたら、母親はじろりと僕を睨んだ。
「まだふざけたことを言うようなら、お母さんもお父さんも、怒るからね」
「うん。それで、いつもみたいに殴ってくれてもいいよ」
彼女の脅し文句にちゃんと立ち向かう。ちゃんと、話がしたいから。
「それでも僕、気持ちは変えられないと思うし……その、僕、あなた達が理想とするような生き物じゃないみたいなんだ。だから、それは、ごめんなさい」
母親は、未知のミュータントでも見るような目で、僕を見ていた。
……それで、それがなんだか、すがすがしかった。




