19話:夢見るだけならタダなので*5
その日、僕は先生と一緒に歩いていた。図書館から、駅前の本屋さんまで。何故かって言うと、先生の本の発売日だったから。先生は発売日になると自分の本が本屋さんに並んでいるのを眺めるための散歩をするのが恒例なんだ。
そして僕はそんな先生と図書館で行き会って散歩にご一緒することにしたところで、まあ、いつも通りなんてことはない会話をしながらのんびり歩いていた。
……そうして本屋さんが見えてきた頃。僕らはその近くの駅前交差点で信号待ちをして、そこでも変わらず会話していて……。
ちょっと、ざわめきが聞こえた。それから、車のエンジン音も。
何だろう、と思ってそちらを見たら……車線を越えて、車が走ってくるところだった。
咄嗟に何ができたか、覚えてない。多分、僕は何もできなかった。
けれど、先生はそうじゃなかった。先生は……普段からは考えられないような強い力で、僕を引っ張った。多分、僕を車の動線上から外すために。
……その後、駅前のタイル敷きの道の上に倒れて、多くの人が大騒ぎしているのを遠く聞きながら動かない体をもたもた動かして、先生を目で探して……それで。さっきまで隣で普通に話していた先生が。のんびりふらふら散歩するのが似合う先生が。……血塗れになって、僕から離れたところに倒れているのを、見た。
近づくこともできなかった。
現実味が無くて、何もかもが分からなくて、体の強い痛みに意識は朦朧としてきて、それから、僕自身も出血していることに気づいた。
救急車のサイレン音が遠くから聞こえてきて、その内、僕は救急車の中に運び込まれて、でも、先生はどうなったか、分からなくて……。
……そこで僕は意識を失って、それきり。
それきり、その後のことは何も知らなかった。
けれど……先生が、無事じゃないだろうな、っていうことは、多分、ぼんやり分かっていた、と思う。
だからこそ僕は、その辺りを全てすっぽり忘れてしまったんだろうから。
きゅ、と手が握られて、我に返る。
僕の手より大きくて少し硬いフェイの手が、僕の手をぎゅっと握っていた。
それから、反対側の手がライラに握られる。僕の手より小さくて柔らかいライラの手がもう片方伸びてきて、両手で僕の手を包んでくれる。
その手の温度がありがたかった。無性に温かさが嬉しい。誰かの存在がすぐ隣にあるっていうことが、嬉しくて、そして、もう先生が隣に居てくれないっていうことが、悲しい。
「……トウゴぉ」
そっと、フェイが僕の名前を呼んだ。どうしていいのか分からなくて、でも何かしたい、みたいな。そういう声で。
「……大丈夫だよ。大丈夫。ちゃんと、冷静でいられてる、と思う」
それに応えたくて、僕はフェイの顔を見上げた。緋色の瞳が僕より悲しそうに見えて、ああ、やっぱり僕は幸せ者だよなあ、と思う。僕と同じかそれ以上に悲しんでくれる人が居るっていうのは、すごく、すごく幸せなことなんだよ。
「大丈夫。全部、ちゃんと思い出して、でも、大丈夫だから」
……僕がそう言った途端、フェイが僕をぎゅうぎゅうやりはじめた。更に、ライラも反対側からぎゅうぎゅう。
他人の体温と気配と圧迫感が、ぼんやり嬉しい。2人にくっつかれて、あったかくて狭くてちょっと苦しくて……少しだけ、悲しいのを忘れられるような気がして、でも、やっぱりこれは忘れちゃいけない気がして……どうしたらいいんだろうなあ、と、ぼんやり途方に暮れる。
……やっぱり、今だけは。もうちょっとだけは、少しだけ悲しいのとか苦しいのとかを忘れていてもいいかな、と、諦めることにした。先生には、申し訳ないけれど。
「あったかいなあ……」
いつのまにか座り込んでいた僕らは、一塊になってぎゅうぎゅうやって、ぬくぬくしている。その感覚に身を任せて、ぼんやり波間を揺蕩うように、僕は目を閉じた。
そのまま少し休んで、大分落ち着いてきたところで、フェイとライラは僕から離れた。特にフェイが離れたがらなかったのだけれど、『トウゴ君がお話しできないでしょ!』とクロアさんに叱られつつ、つままれて剥がされていた。ちょっと面白い。
「ええと……ご心配を、おかけしました。もう大丈夫。本当に」
「……もっと心配も迷惑も、かけてもらった方が安心できるのだがな」
ラオクレスが腕組みしながら渋い顔をしているのがちょっと微笑ましい、というか……要は、彼も僕を心配して気遣ってくれている、っていうことなので。
「はい、トウゴ君。お茶よ。あったまるといいわ」
「既に結構あっためられてるんだけどね……」
クロアさんからは温かいお茶のカップを貰って、中身を飲む。お茶は少し甘くしてあるミルクティーだった。甘さと温かさが嬉しい。そして、温かいお茶を飲んで初めて、僕は自分の体が案外冷えていたっていうことに気づいた。
「鳥さん、呼ぶ?あっためてもらえるわよ」
「いや、流石に鳥はいいよ。呼んだら本当に来ちゃ……ああ、もう来てしまった……」
そしてライラの気づかいによって鳥が呼ばれてしまった。いや、ライラが呼んでいなくても来ていたかもしれない。あの鳥のことだから。
鳥は早速ここぞとばかりに僕を羽毛に埋めて、満足気にキョキョンと鳴いた。僕は脱出を早々に諦めて、鳥の羽毛に埋もれたまま、ミルクティーを飲んでいる。
「……で。結局、現実へ帰る手がかりは得られたのか?」
そんな僕を呆れたように見ながら、ルギュロスさんもミルクティーを飲みつつそう聞いてきた。
「うーん……もうちょっとよく調べてみる。多分、手掛かりはあるんじゃないかな、って思う」
答えつつ、ああ、僕、本当に皆に迷惑をかけているなあ、と思う。この世界だって崩壊の危機だっていうのに、僕1人、こういう風に動揺していて……いや、でも、僕が多少こうなる方がラオクレスは安心できるとのことなので……甘えさせてもらおう。よし。
「これ、飲み終わったらもう少し探してみる。棺の中に何かあるかもしれないし、新聞もまだそんなによく見てないから」
「おいおいおい、大丈夫かよぉ、そんな、無理しなくても……」
「大丈夫。やれる時に全部、やっちゃいたい」
今すぐに全てを呑み込んで落ち着けることはできないけれど、でも、大分落ち着いてきたし、大丈夫。フェイにそう返して、カップの中身をまた飲んでいく。……鳥がカップにくちばしを突っ込もうとしてきた。いや、君はこのマグカップで飲むの、無理があるから。人のミルクティー、盗ろうとしないで。
そうして僕は鳥からカップを守りつつ中身を飲んで、いよいよ……新聞と棺を、調べる。
まずは、新聞から。……まだ、先生を直視できる程には、落ち着いてない。
「何が書いてある?」
「ええと……僕と先生が巻き込まれた事件についての報道が、書いてあるんだ」
横からそっと覗き込んでくるラオクレスに、ざっと説明する。『馬無しで走る馬車みたいなやつで人を轢き殺そうとした人が居たんだよ』みたいな、そういう説明になるけれど。
僕が説明すると、ラオクレスはものすごく渋い顔をして……それから、黙って僕の頭の上に手を乗せた。あの、撫でないで、撫でないで。これ以上僕に撫でられ癖をつけないで!
「なんだってそんなことする奴、居るんだよぉ……」
「うーん……人生がつまらないから人を殺したくなった、って書いてある。あとは、好きな小説の中に出てくる殺人犯を真似てやったみたいだよ」
どこか他人事みたいに新聞を読みながら、なんだかふわふわ現実味が無いまま話す。僕はふわふわしているのだけれど、フェイやラオクレスはそうじゃなかったみたいで、『許せん』みたいな、そういう顔になってしまった。まあ、うん、許せない、けどさ。うーん……やっぱり僕、まだ現実味が戻り切ってないみたいだ。
「……小説に憧れた馬鹿が小説家を殺してしまったというのなら、皮肉なことね」
「うん」
更に横から、ちょっと皮肉気にそう言うクロアさんが顔を覗かせる。ちょっと傷つきそうな言葉ですらあったけれど、でも、今の現実味の無い僕にはこれくらいの鋭い言葉の方が丁度いいかんじだ。
……そう。皮肉なことだなあ、と、思うよ。
それからも新聞を調べてみたけれど、特に何もなかった。……何と言ってもこの新聞、問題の事件の部分だけが切り抜かれたもので、その上、裏側には何も書いてないんだよ。普通の新聞じゃないから、まあ、なんというか……ここが異世界なんだなあ、っていうかんじ。やっぱり現実味が無いというか。
「じゃあ、いよいよ……こっちか」
そうしていよいよ、僕らは棺にまた向かい合うことになる。
先生は、別に血塗れじゃなかった。ぐしゃぐしゃに潰れているわけでもないし、まあ……そういう点は、よかったと、思う。
でも、先生が先生じゃないみたいだった。表情が無くて、じっと動かなくて、冷たくて、硬くて、人じゃなくて物みたいで……。
……でも、棺の中を、探る。手がかりを得なきゃいけない。何か。何か無きゃいけないんだ。
最初に、先生が入っている棺と先生との間に手を突っ込んで、何か無いか調べてみた。……まあ、何も無い。
それから、棺自体を見てみる。……何も無い。ただ、普通の石でできているだけ。模様も何も無い。
「何も無いなあ……」
何も無い。何も無い。どうしよう。只々焦るばかりなのだけれど、でも、やっぱり棺にも何も無い。
……先生が居ないのに、この世界まで失ってしまうっていうのか。そんなの、あんまりじゃないだろうか。
漫然と不安になって、けれどやっぱり何も無くて、棺の中の先生の服のポケットまで探したけれど、やっぱり何も無くて……。
……キョキョン。
鳥が鳴いた。そして、棺の横にずらしてそのまま伏せて置いてある棺の蓋に、くちばしを近づけて……。
キュン!
そう、勢いよく鳴いたと思ったら……くちばしを引っ掛けて、重い重い石の蓋を、ひっくり返してしまった!
ごん、と、大きな重い音がした。重い石の棺の蓋が勢いよくひっくり返ったんだから、これくらいの音はするよ。
棺の蓋、無事だよなあ、と心配になったけれど、どうやら割れたり欠けたりはしていないようだった。ああ、よかった……。
それにしても一体何なんだこの鳥、と思いつつ、鳥がひっくり返した蓋をよくよく見る。
……すると。
「君、やっぱりこういう奴なんだなあ……」
鳥がひっくり返した、棺の蓋。
その蓋の内側に……文字が書いてあった。
『もし元の世界に戻るつもりなら棺に入るといい。(死ぬ必要は無いぞ!)そうじゃないなら入っちゃいかん』
……ブルーブラックのボールペンのインクで、そう、走り書きしてあった。