18話:泥棒に花束を*10
「その手を放せ!」
ラオクレスがすぐに僕へ向かってきて、剣を振りかざす。けれど、魔導士の幽霊は僕を盾にするようにして、ラオクレスの剣を怯ませた。
ひゅっ、と、ラオクレスの剣が僕らの横を通り過ぎていく。……もっとギリギリを狙うことだってできたはずだけれど、ラオクレスはそれをしなかった。……多分、できなかったんだと思う。だって彼は、かつて、剣がぶれたせいで人を一人殺してしまったことをずっと悔いている人だ。
それでも続けて、魔物達が飛びかかってきた。40体余りの魔物達を見て、幽霊はぎょっとしたような顔をしたけれど……すぐ、対処を始めた。
幽霊は魔物達へ、魔法を使って応戦し始めた。僕とフェイの首を掴んだまま、ルスターさんがやっていたような魔法を使う。
ルスターさんがやっていたよりはずっと威力が控えめだけれど、狙いが正確だ。ルスターさんの魔法みたいに、明後日の方へ魔法が飛ぶようなことが無い。
骨の騎士達は腕の尺骨を折られて、ハルピュイアは片羽を折られて、三つ首の犬は胴体に強い一撃を受けて臥せってしまい、二足歩行の牛は頭を揺らされて気絶してしまった。
……そして、僕とフェイの召喚獣は、何故か、出そうと思っても出てこない。
この感覚には、覚えがある。
……夜の国の、牢屋の中。あそこで絵が実体化しなかった時と一緒だ。つまり、僕らは……幽霊に、魔力を封じられてしまっている!
『動くな』
更に、僕の後ろから冷たい声が響く。
声というのか、波というのか。なんだか不思議なかんじだ。これが幽霊の声か、とぼんやり思っていたら、僕の首がまた、ギリギリと絞められ始めた。さっきよりは弱い力だけれど、首を絞められると同時、どんどん体が冷えていく。
手で首を絞められているというよりは、魔法で首を絞められているんだろうな、と、思う。手でそういう魔法を使っているからこういう状態になっているのだろうけれど、それが分かったところでどうしようもない。
『こいつらに死なれたくなかったら、全員、武器を捨てろ』
……更に、幽霊がそう言うと、ラオクレスが黙って剣を地面に置いた。クロアさんも、手に持っていたナイフを放り捨てる。起きている魔物達もそれぞれに、剣を置いたり、爪を隠して丸まったり……。
『それでいい』
幽霊は満足げに声を発すると、僕の首にかけた手を緩めた。その途端、急に空気が喉に入ってきて、咳き込む。体温は奪われたままみたいで、体は冷えたきりだったけれど。
「なんだよ。邪魔するんじゃねえよ。そういう契約だろ、魔導士サマよお」
ルスターさんが剣呑な声を上げると、僕らの背後で幽霊がため息を吐く。
『……それならば貴様も契約したのだ。死なないこと。意識を失わないこと。それを対価に我が魔力を貸してやっているのだぞ。……こいつは今、貴様に何かをしようとしていたようだが?』
幽霊の言葉に、ルスターさんはちら、と僕を見て、すぐ興味を失ったようにまた幽霊へ視線を戻した。
「だが、俺がいねえとあんたは何もできねえんだろ?肉体がねえもんな?」
『……選ぶ余地があったなら貴様など選ばなかったとも』
「だとしてもあんたは俺を選んで契約した。忘れんなよ?あんたは最優先で俺を守らなきゃならねえ。大事な大事なあんたの魔力と、こんな契約してまで欲しかった体とを人質にとられてるようなもんなんだからな!」
『貴様とてその魂を縛られていると忘れてはいないだろうな?』
幽霊とルスターさんは仲が悪いのか、お互いに嫌味を言い合っている。
……けれど、協力関係にあることは間違いなさそうだ。多分、幽霊が魔力を貸し出す代わりに、ルスターさんは……ええと、体、を対価にしている、んだと思う。肉体が無い幽霊は、ルスターさんの肉体が欲しいのかもしれない。よく分からないけれど……。
「だからしばらくは俺の好きにやらせてもらう。お前は手ェ出すんじゃねえ。いいな?そういう契約だもんな?」
ルスターさんの言葉に、幽霊は忌々しそうに舌打ちした。この2人は本当に仲が悪そうだ……。
「……っけほ、おい、誰だ、てめえ」
僕と同じようにさっきまで首を絞められていたフェイがそう聞くと、幽霊が僕の背中で笑ったような気配があった。
『グリンガルの魔導士、と言えば分かるか?』
成程。やっぱりこの幽霊、グリンガルの魔導士の人、なのか。それで、この人がルスターさんに魔力を貸している、っていうこと、なんだろうか?
「目的は何だ」
続いてラオクレスが尋ねると……幽霊は高らかに、宣言する。
『我が肉体を取り戻すこと。そして……魔王様の復活と、この世界の滅亡だ!』
……まずいなあ、と、思う。
どうやらこの事件、ルスターさんと魔導士の幽霊だけじゃなくて、カチカチ放火王まで絡んでいるらしい。
『私はこの世界を見限った!下らない世界など、滅べばよいのだ!そして選ばれし者だけが、外なる世界へと旅立つ……』
どこかうっとりとした様子で、幽霊が話す。
『私は魔王様の忠実なる下僕として生まれ変わり、この仮初の姿を与えられた。そして、ここでの働きの褒賞に、私も外なる世界へと旅立つ者の中へ迎え入れられるのだ!』
狂ったように笑う幽霊の声を聞いて、なんとなく……この人も、妖精の国の水の女の子と同じように、カチカチ放火王に何か唆されたのかな、というような気がした。
それで心変わりしてカチカチ放火王の味方に付いて、グリンガルの精霊様を封印してしまった、ということなら、筋は通る気がする。
ルスターさんは……その過程で必要になった、っていうことかな。本人達も、『肉体』の話を少ししている。幽霊ともなると、やっぱり体が欲しくなるものなのかもしれないし、それが何かに必要なのかもしれないし……。
「最初に見た時から、気にくわなかったんだよ」
一方、ルスターさんはそんなことを言いつつ、ラオクレスの前へやってきた。ラオクレスが黙ってルスターさんを見下ろすと、少し怯んだような顔を見せたものの……すぐ、ラオクレスに向かって拳を振った。
ルスターさんのへろっとした動作からはまるで説得力の無い威力で、拳がラオクレスに命中する。また彼の鎧が小さく凹んで、ラオクレスがほんの少し、表情を歪めるのが見えた。多分、ルスターさんは魔法で強化した攻撃をしているのだろうと思うのだけれど……。
更に数発、拳が振り抜かれる。その度にまちまちな威力、時には見当違いの方向へ効果を発揮する魔法を見て……只々、僕は焦る。
僕らがこうして捕まっているせいで、皆、動けない。なら、僕が何とかしなきゃいけない。じゃなきゃ、ラオクレスが、ラオクレスが……このままじゃ、危ない。
……僕が何とかするには、絵を描くしかない。何かを実体化させて、それで、状況をひっくり返したい。
けれど、足りないものが3つある。
1つは魔力だ。魔力を封じられてしまっているらしい僕とフェイは、お互いに召喚獣も出せない状態にある。この状態だと、絵を描いても実体化できない気がする。
2つ目には、絵の具。それが無いとまず描くことすらできない。
そして3つ目に、キャンバスになるもの。絵の具だけでは絵は描けない。
魔法絵の具を操る分には筆は必要ないし、手を動かす必要もないから……だから、魔力と、絵の具と、キャンバス。この3つさえあれば、なんとかなるんだけれど……。
周囲に視線を走らせる。……すると、フェイの足元に、僕のパレットが転がっているのを見つけた。
パレットは水彩用のパレットに似た、二つ折りの形状をしている。けれどこれ、水彩絵の具じゃなくて、魔法絵の具のパレットなんだ。素早くものを描くにはやっぱり魔法画が便利だから、僕は最近、魔法絵の具のパレットをこうして持ち歩くことが多い。
魔法絵の具は筆が無くても、ある程度動かせる。僕の魔力が絵筆になるわけで、つまり、首を掴まれていても、手を動かせなくても、僕は魔法絵の具を使えば絵が描ける。
けれど残念なことに、パレットはパタンと閉じてしまっていた。せめて、絵の具が外に出ている状態じゃないと、絵は描けない。
だから、パレットが開いてくれさえすれば、絵を描くことができる。何を描けばいいかはさて置き、状況を打破する方法は見つかるんだ。
だから……。
僕は必死に、フェイに目だけで訴えかける。
その足元のパレット、蹴って、蓋を開けてくれませんか、と。
幽霊の意識は僕よりルスターさんへ行っていたみたいで、僕とフェイの首を絞める力はそれほど強くなかった。だからその間に、僕はフェイに何とか伝える。足元のパレット、開けて、と。
フェイは僕の意図を正確に理解してくれて、幽霊の意識がルスターさんに行っている間に、上手くやってパレットを足で軽く蹴り飛ばして開けてくれた。
当然、幽霊はそれに気づかない訳が無いのだけれど、フェイは『今パレットを蹴り飛ばしたのは反動をつけるためでした』とでもいわんばかりに、幽霊に向かって踵を蹴り出す。
当然、幽霊の体はするりとすり抜けて、フェイの蹴りはまるで効かなかったらしい。けれど、フェイは果敢に、次の攻撃を仕掛ける。
「けっ、やっぱすり抜けやがるのかよ。流石幽霊だよなあ……なあ、幽霊野郎。さっきの話、意味分かんねーけどよ、とりあえず、てめーの趣味が悪いっつうことだけは分かったぜ。なんだよ、『外なる世界へ旅立つ』って。頭おかしいんじゃねえの?」
フェイが次々に挑発するような言葉を発すると、魔導士の幽霊は明らかに気分を害した気配があった。
『……碌な魔力も持たぬ無能には分かるまい。魔王様の崇高なる理念など』
「へっ。分かってたまるかよ。なあ、お前こそ分かってんのか?あいつは魔王なんかじゃねえ。カチカチ放火王っつうんだ。ついでにあいつは俺に2度も踏み潰されてる!」
フェイが更にそう言った途端……ガン、と殴られたように、フェイの頭が揺れた。
『魔王様を侮辱するな!』
何か、幽霊が魔法を使ったらしい。フェイは頭をふらつかせて呻いて、鼻血を出しながら、でも、幽霊を振り返って挑発的に笑う。
「だーから、魔王じゃねえって。……それとも、カチカチ放火王が嫌なら、ふわふわタンポポ王にしとくか?」
『どうやら貴様……真っ先に殺されたいようだな』
幽霊は不機嫌そうに目を細めると……今度こそ強く、フェイの首を絞め始める。
……けれど僕は、フェイを助けることより、絵を描くことを優先する。
今、僕がやるべきことは、フェイを心配することよりも何よりも、この状況をひっくり返すことだ。僕がすべきことはそれなんだ。
絵の具はなんとかなった。だから後は、魔力と、キャンバス。
……ふと、僕の脚に、ぴとり、と何かが触れる。なんだろう、と思ってみたら……足元で、ぐったりとして見えたグリンガルの精霊様が、こっそり尻尾を巻きつけてきていた。
どうやら、幽霊は精霊様に気づいていないらしい。今はフェイで手一杯、というかんじがする。足元にまで目が届かないみたいだ。ぐったりしている精霊様は脅威じゃないと判断したのかも。
……そんなぐったりした様子の精霊様は、僕の脚から、そっと、魔力を分けてくれている、らしかった。ぐったりは演技らしい。大した役者さんだ。
これで、魔力は確保できた。少なくとも、そんなに大きくないものを実体化させられるくらいの魔力はある。
だから……絵の具をいつでも操れるように準備しつつ、キャンバスを、探す。
そう。残る問題はキャンバスだった。
僕が使っていたスケッチブックは僕の後方にいってしまったらしい。見えない位置にあるとなると、絵を描くのは難しい。
絵を描く以上、僕の目に入る位置に、ある程度平らで滑らかな面が欲しい。ここが室内だったら床でも壁でも天井でも、絵を描くキャンバスにできただろうけれど……生憎ここは森の中。絵を描けそうな平らで滑らかな面なんて、存在していない。
……キャンバスさえ、手に入れば。
「ルスター」
そこで、クロアさんが声を発した。すると、ルスターさんはラオクレスへ拳を振るのを止める。
「やめなさい。それから、トウゴ君とフェイ君を解放して」
ルスターさんはクロアさんの声を聞いても少しぼーっとしていたけれど、もう一度クロアさんが彼の名を呼んだところで、はっとしたようにクロアさんを見た。
「……なんでそんなことを聞いてやらなきゃならねえんだよ、おい、カレン」
そう言いつつ、ルスターさんは何か、幽霊の方に合図した。すると幽霊は、少々迷うように、フェイの首に掛けた力を緩める。フェイは今のうちに、とばかりに息を吸い込んだ。
「そうねえ……あなた、取引、ってさっき、言っていたけれど。そういうのが好きなら、私も乗ってあげたっていいのよ?」
クロアさんはちら、と僕らを見て、森っぽくない笑顔を浮かべて唇を弧の形にして、そしてまた、ルスターさんの方を見た。
「さあ、言ってみて?あなた、私に何をしたいの?」
じっと、クロアさんがルスターさんを見ている。
その目は……ぎらり、と、光って獲物を狙う……魔法を使うクロアさんの目だ。
「……はっ。誰が引っかかるか。お前の常套手段だろ、魅了の魔法は」
ルスターさんはそう言ったけれど、クロアさんから目を逸らしているその表情は、必死だ。
「そうかもね。でも、こっちを見て?……ほら」
続いて、クロアさんは……クロアさんは、なんと、自分の上着のボタンに手をかけ始めた!
それにつられて、ちら、と、ルスターさんの目が動く。……けれど。
『おい、何をしている』
幽霊の声がすると、ルスターさんははっとしたようにまた、クロアさんから視線を逸らした。
「ねえ、ルスター?」
けれど、クロアさんの声が甘やかにルスターさんを誘惑する。
上着から袖を抜いて、するり、と地面に落とす。ほとんど音の無いような、だからこそ耳が拾ってしまう衣擦れの音が、森の空気に溶けていく。
クロアさんが上着の下に着ていたのは、上品なワンピースドレス。前にボタンが付いている、シャツみたいなタイプのワンピースのボタンに、クロアさんの白く長い指が伸びていく。
……そうして、1つ1つボタンが外れていく間、ルスターさんは必死に抵抗して、時々幽霊に怒られて、何とかギリギリ、魅了されずに持ち堪えているらしい。けれど逃げ切ることはできないらしくて、必死に理性を立て直そうとしている様子が分かる。
『おい!魅了の魔法に抵抗しろ!聞いているのか!』
幽霊は焦ったように声を上げるけれど、ルスターさんを助けに行くことはできないらしかった。
確かに、僕とフェイを離したら、すぐ目の前に迫っているラオクレスが襲い掛かってくるだろうし……ラオクレスから逃げたとしても、僕らを囲む魔物達が居る。けれどそれって、幽霊がすぐさま僕とフェイを人質に、クロアさんを止めさせればいいだけで、或いは、僕とフェイを今すぐにでも殺してしまえばいい話だ。
それを幽霊がしないのは……きっと、できないから、なんだろう。
ルスターさんは、言っていた。『邪魔するなっていう契約だろ』と。
……この幽霊、ルスターさんの邪魔ができないんだ。その上、最優先でルスターさんを守らなきゃいけないから……ルスターさんがクロアさんの魅了に抵抗する手伝いしか、できない!
クロアさんは、ちら、とラオクレスを見た。ラオクレスはさっきまでルスターさんに攻撃されていたわけだけれど、そんなことを感じさせないほどしっかりした様子で、小さく頷いた。
続いて、クロアさんは僕の方を見て小さく微笑むと……自分の服に手をかけ始めた。
するり、と、ワンピースドレスが地面に落ちて、クロアさんの滑らかな肩が、背中が、太陽の光の下に晒される。
いよいよ、それにルスターさんが誘惑されていく。
……その眩しいくらいの肌。ルスターさんだけじゃない、誰の目だって釘付けにしてしまうような、大理石の彫刻みたいに滑らかな曲線美。それでいて、クロアさんの背中は彫刻みたいな硬さを感じさせない。しなやかで柔らかで肉感的で……。
均一に白くて、滑らかな、面だ。
……うん。
均一で、滑らかな、面。
……あっ!これ、いける!
「クロアさん!ちょっと動かないで!」
「え?……ひゃんっ!?」
クロアさんには申し訳ないのだけれど、彼女の背中に絵の具を乗せさせてもらう!
魔力の筆で、瞬時に絵を描いていく。クロアさんの背中は水彩絵の具じゃあ弾いてしまうのだろうけれど、そこは魔法絵の具だ。どちらかというと油彩に近い質感に練り上げた絵の具は、クロアさんの背中をキャンバスに、僕の思った通りに絵を作り上げていく。
『何をしている!』
僕が何をしようとしているのか分かったのか、魔導士の幽霊が、僕の首を絞める。
ぎゅ、と、息が詰まる。血管が血を堰き止められて、熱く膨れ上がるようだ。
……けれどそれでも、僕は描く。
複雑なものは描けない。眠るルスターさんを描こうと思ったけれど、そんな余裕はない。だから、今まで何度か描いて、練習してきた、小さなものしか描けない。
なら、これしかない。そう思って、僕は描く。クロアさんの背中をキャンバスに……たんぽぽの姿を!
そして。
……ぽん。
ちょっと間抜けな音がして、たんぽぽが咲いた。
「……は?」
ルスターさんが困惑の声を上げる中、彼の頭に……ふらふらと、たんぽぽの花が揺れた。
……よし!




