3話:暗黒街の昼下がり*2
その日の夜。
「……じゃあ、やるけれど。本当にいいのね?」
「ああ」
椅子にどっかりと腰を下ろして腕を組んで、如何にも覚悟を決めました、というような様子のラオクレス。そして、ちょっと及び腰にも見えるクロアさん。
「魅了の魔法にやられるようではトウゴを守れん」
「私はどちらかというとあなた自身の身を守るべきだと思うわ。……まあいいんだけれど」
クロアさんは1つため息を吐くと、ちょっと屈んで、座っているラオクレスと目を合わせる。
「じゃあ、いくわよ」
「来い」
ラオクレスの返事があってすぐ、クロアさんの瞳がきらりと輝く。魔法を使っている時の目だ。あれで見つめられると頭がぼーっとして、ひたすらにクロアさんを描きたくなってしまうんだよ。
……ラオクレスには描きたくなる代わりに別の効果が出るんだろうなあ、と思いつつ、じっと観察していると。
「……う」
ラオクレスは呻くと、歯を食いしばって、何かに耐えるようにじっとしている。それから、留めつけられたように動かさなかった視線を、ぐい、と力任せに振り切るようにして、クロアさんから目を逸らす。
「あら、駄目よ。ちゃんとこっちを見て?」
けれど、ラオクレスの視線の先にクロアさんが回り込んで、がっちりと視線を捕えてしまう。こうなるともうラオクレスは逃げられないらしくて、抵抗している様子ながらも只、クロアさんを凝視してしまっている。
段々、ラオクレスの目が、霞が掛かったようにぼんやりしてきて、体の力が抜けていくのが見ていて分かる。
ラオクレスは次第にぼんやりと、それでいてじっとクロアさんを見つめて、クロアさんに手を伸ばして……。
……そして、ふう、と息を吐いたクロアさんが目を閉じると、金縛りが解けたかのように、ラオクレスは動き出す。激しい運動の後のように呼吸が荒くて、額に汗が滲んでいる。
「どうかしら?途中までは抵抗できていたみたいだけれど」
クロアさんがそう声を掛けると……ラオクレスは肩で息をつきながら、絶望したような顔をしていた。
「……これではトウゴを守れん」
珍しく、ラオクレスは深々とため息を吐くと、頭を抱えるような姿勢で俯いてしまった。ちょっとショックだったみたいだ。ということは、ラオクレスとしては満足のいかない結果だったんだろう。魅了されちゃってた、っていうことなのかな。
「しょうがないよ。クロアさんは凄腕のモデルさんだから……」
「……だとしても、抵抗できなくていい理由にはならん。お前を密偵の巣に放り込むなら、せめてこれくらいはできるべきだろう」
ラオクレスはプロ意識が高い。ものすごく渋い顔をしているのは、多分、彼なりの『悔しい』っていう表情なんだろうな、と思う。
「あのね。トウゴ君より先に自分のこと考えて頂戴。トウゴ君なら大丈夫よ。どうせ魅了されっこないわ」
けれど、クロアさんが呆れたように言うと、ラオクレスは顔を上げた。
「……トウゴは魅了されないのか」
「そりゃあね。精霊様に魔法を掛けられるような腕前の人間がどの程度居ると思うのかしら」
そうなの?という気持ちでクロアさんを見ると、クロアさんはにっこり笑って教えてくれた。
「魔力を多く持つ生き物は、自然と外部からの魔力の動き……つまり、魔法ね。それに強くなるのよ。だから、高位の魔導士とか、高位の魔物とかには魅了の魔法が効き辛いのよね。王城に潜って魔導士を落とす仕事も引き受けたことがあったけれど、あれは中々難しかったわ」
クロアさん、あちこちで色んな仕事をしてきたんだなあ。ちょっと聞いてみたいような、聞きたくないような。
なら試しにやってみましょうか、ということで、クロアさんは僕をじっと見つめた。僕もクロアさんの目をじっと見つめる。
僕が本当に魅了されないのかは気になるところだ。確か、本格的に魅了の魔法を使われたのは、僕が精霊になる前だったから……精霊になってから本気で魔法を掛けられるのは、これが初めてっていうことになる。
クロアさんの瞳は、いつにも増して綺麗な瞳だ。深く鮮やかな翠。森の木の葉が重なり合いながら陽の光に透ける時の色だ。綺麗だなあ。
……そう思っていたら、うずうずしてきた。描きたい、描きたい。
けれど、頭がぼんやりしてくるようなことは無いし、意識はクリアだ。でも描きたい。
「ねえクロアさん。描いてもいい?」
「ええ。どうぞ」
にっこり笑うクロアさんがいつにも増して魅力的に見える。ますますうずうずする。描きたい。描きたい。描きたい。
「……おい。これは魅了されているんじゃあないのか」
「ちょっとは、ね。でも全然よ。本当に魔法が効いたらトウゴ君、立っていられなくなっちゃうところだもの」
2人の会話を聞きつつ、僕はもうスケッチブックを出してクロアさんを描いている。楽しい!幸せ!クロアさん、綺麗だなあ!
「多分これはね。トウゴ君が私に心を開きすぎちゃってるのよ。そうすると魔法に掛かりやすくなるから……うーん、信頼されてるのは嬉しいけれど、ちょっぴり心配ね」
クロアさんはそんなことを言いつつも嬉しそうにくすくす笑って、それから少しの間、僕のモデルをやってくれた。
クロアさんを描いて満足した。その後でクロアさんに『はい、魔法は終わりよ』と言われて、ぺちん、と頬を軽く叩かれたら、なんだか意識がいきなりはっきりしたような感覚があって、うずうずは消えていた。……僕、魅了の魔法には掛からない、っていう話だったと思うんだけれどな。ちょっとは掛かってたような気がする。なんでだろう。クロアさん相手だからかな。そうだと思う。
「まあ、こういうわけで、トウゴ君に私の全力をぶつけてもこの程度なのよ。それで、組織の中では私が一番、魅了の魔法が上手かったから……まあ、私でこの程度なら、他の魅了も大体大丈夫でしょうね」
そっか。少し安心した。僕、クロアさんに魅了されてしまう分にはしょうがないというか納得がいくし、安心でもある。クロアさんは僕を魅了しても酷いことはしないから。
「だから問題はあなたなのよ。トウゴ君が魅了されなくてもあなたはされちゃうんだから」
ラオクレスは苦い表情で、じっと腕組みして考えている。
実際にクロアさんの魅了の魔法と戦ってみて、その恐ろしさを知ったらしい。
……うーん。
「ねえ、クロアさん。魔力が多ければ、魅了の魔法に掛かりにくい、っていうことだったよね」
「ええ、そうね。まあ、全てが魔力の大きさで決まるわけじゃないと思うけれどね。例えば、フェイ君は魅了の魔法の類に抵抗する訓練、相当しているみたいだから、ラオクレスより魔力が少ないのにラオクレスより魅了の魔法に強いと思うわ」
あ、そうなんだ。そっか。訓練すれば、抵抗力はつくのか。……うん。
「でも手っ取り早いのは、魔力を増やす方だと思うんだよ」
僕は早速、2人に提案してみる。
「ここは1つ、ラオクレスの魔力を増やせばいいのでは」
「……トウゴ。何を考えている」
「いや、僕が鳥に食べさせられた果物。あれ、ラオクレスに食べてもらえばいいかな、って思った」
訝し気なラオクレスと面白がっているクロアさんの前で、僕は早速、例の果物を描く。スパイシーな柿みたいなやつだ。僕はこれの味が苦手だし、そもそもこれにはあまりいい思い出が無い。鳥に攫われてこれを無理矢理食べさせられて、体が熱くなって、それで抱卵して卵を孵した、っていうやつだから……。
例の果物は僕が精霊になってから何度か見てる。森としての目で見れば、どこにあの果物があるかもすぐに分かるから。
ということで、僕はさっさと例の果物を描き上げて実体化させた。ふるふる、と絵が震えて、きゅ、と縮まって、ぽん。例の果物が出てきた。
「なんだこれは」
「僕が鳥の卵を温めるにあたって鳥に食べさせられたやつ。これを食べると魔力が増えて知恵熱が出る」
僕が説明すると、ラオクレスは『分からん』みたいな顔で果物を眺めた。
「ということで、食べて。どうぞ」
「……これは、人ならざるものになる果物、ということか?」
「いや、鳥に精霊の卵を孵させられるまでは僕も普通に人間だったから多分大丈夫だよ」
ラオクレスはちょっと躊躇っていた様子だったけれど、やがて意を決したように果物を手に取って、齧り始めた。
……途端。
「……妙な味だな」
「うん。ごめんね。美味しくはないよ」
ちょっと残念そうな顔で、ラオクレスは果物の残りも食べきった。口直しに桃を出して、そっちも食べてもらった。それから水分補給もしてもらって……。
「……体が、妙だ」
「うん。多分、魔力が……ええと、『揺らされる』ってフェイが言ってた気がする。それで増えるんだって」
ラオクレスはちょっとふらふらした様子で少し歩いて……体の力が抜けたみたいにその場に崩れ落ちてしまった。
「な、んだ、これは」
「しばらく発熱すると思う。ええと……とりあえずベッドに行こうか。寝てたらよくなるよ」
そう言うと、ラオクレスはなんとか立ち上がって、体を引きずるような足取りで客間へと入っていった。あとは勝手知ったる僕の家、で、適当に昼寝してくれるだろう。
「……面白いものを見たわ」
「そう?」
そして、一連の流れを見ていたクロアさんは、そんな感想を漏らしていた。まあ、楽しかったなら何よりです。
それから僕はフェイを呼んで、ラオクレスの傍に居てもらうことにした。
魔力が増えて知恵熱が出ている時には、自分より魔力の少ない人に傍に居てもらうと楽になる、って前、フェイが教えてくれたから、それで。
あと、僕の懐から風の精が出てきて、寝ているラオクレスの胸の上に陣取っている。風の精は魔力を吸ってのびのびと嬉しそうだ。よかったね。
「あー、そっか。魔力を増やす果物、なんつうもんがあるんだな?」
「うん。フェイも食べる?」
フェイは魔力が少ないことを気にしているみたいだから、欲しがるかな、と思って聞いてみた。けれど、フェイはちょっと考えて、それから首を横に振る。
「いや、やめとくわ」
「そう?」
少し意外に思いつつも、でもフェイがそう言うならそれでいいな、と思っていると。
「……ほら。なんつーかよ。この森の面子って、大体変な奴らばっかりだろ?魔力も多い奴が多いし。となると、むしろ俺は魔力が少ない奴でいた方がいいのかなあ、って思ったんだよな。魔力を感じ取ったりするには俺、結構便利みてえだしよぉ……」
フェイはそう、話してくれた。
どうやら彼は、自分がどうこうというよりは、僕ら全員のことを考えた上で、魔力が少ない状態で居ようと思ってくれたらしい。
「その方が、こう、お互いの短所と長所を補い合えるわけだからさ。いいだろ?」
「うん」
フェイのこういうところ、格好いいと思うよ。
それから1日。
僕とフェイとクロアさんで交代しつつ、ラオクレスの看病をした。いや、病気じゃないんだから看病っていう言い方は変なのかもしれないけれど。
「……トウゴ。お前は、本当に……精霊になる前、普通の人間だった、んだろう、な……」
「え、うん。勿論」
「でも魔力は多かったぜ。普通の封印具があっという間にぶっ壊れる程度には」
「だろう、な……」
……ラオクレスは、果物1個食べただけで、1日熱が下がらない状態になってしまった。フェイ曰く、彼の中では魔力がゆさゆさ揺さぶられている状態で、それによって魔力は刺激されて増えているんだけれど、その分、体は辛いだろう、ということらしい。
「ごめん。もっと少ない量から試してもらうべきだった」
「いや、構わん。これで、魅了に抵抗できるようになるなら、安いものだ」
ラオクレスはそう言ってくれるけれど、例の果物を食べさせてしまった僕としては只々申し訳ない。僕は1日に3つぐらい食べさせられたりしていたから、そういうものなのかと思って1個丸ごと食べさせてしまったのだけれど……。
せめてお詫びに、と、桃を持ってきて剥いたり、水差しに水を汲んできたり、氷を描いて出して額に乗せたりしていたけれど……こういう時、もどかしい。
そうして、更に1日。
「もう大丈夫みたいだな!」
「ああ。魔力も落ち着いたように思う」
すっかり元気になったラオクレスが、ベッドから出て少し体を動かしていた。ひとまず魔力は落ち着いて、知恵熱も落ち着いたらしい。
ラオクレスは手を握ったり開いたりして、それから……にやり、と笑う。
「クロアに再戦を申し込もう」
おお。やる気だ!ラオクレスがとてもやる気に満ち溢れている!
それからすぐ、クロアさんとラオクレスの再戦が始まった。
「じゃあ、行くわよ」
「来い」
ラオクレスは幾分楽し気に……なんというか、好戦的に口元を緩ませながら、クロアさんをじっと見つめている。
クロアさんはラオクレスをじっと見つめて、翠の瞳を煌めかせて……そして。
「……まあ、抵抗して振り切れるなら大丈夫でしょうね」
結果、ラオクレスの勝利!やったぞラオクレス!すごいぞラオクレス!
「まるで勝った気がしないがな……」
けれど、流石のラオクレスでも、クロアさんの魅了を振り切るのはとても大変らしかった。ぜえぜえと荒い呼吸をしながら、『まるで勝った気がしない』という顔をしている。
「勝った気がしなくても、逃げ切っちゃえばあなたの勝ちよ。いい?魅了には真っ向から相手を叩きのめすような戦い方をしちゃ駄目。さっさと逃げて、後から不意打ちで仕留めに行くのが定石よ?」
そしてクロアさんは、ラオクレスが魅了を振り切ったのをちょっと悔しく思っているらしい。ラオクレスの胸のあたりを小突きつつ、ちょっと唇を尖らせている。
「まあ、丸1日以上苦しんだ甲斐はあった、ということか」
ラオクレスはそこでひとまず納得したらしい。彼としては、魔力が増えることは強くなるっていうことで、それは嬉しいことらしいので。
「あ、じゃあ、もう1つ食べる?」
なので折角なら、と思ってもう1つ勧めてみたところ。
「……二度と食わん」
ものすごく渋い顔で、断られてしまった。
あ、そう?そっか……。
「ええと、じゃあ、お土産。お土産、何か用意しよう」
さて。ラオクレスがクロアさんの太鼓判を貰ったことで、僕ら3人、密偵の住処へ行くための準備を始める。
何よりも大切なのはお土産だと思う。……だって、僕、もうクロアさんを彼らに返すつもりはない。クロアさん自身、森が気に入っているみたいだし、僕だってクロアさんを気に入ってる。だから、クロアさんが森に住む許可をもらうためにも、お土産で心証を良くしたい。
「紅茶の缶の宝石はもう持って行ったんだよね。じゃあ、飴の瓶のやつ、お土産にしようか?」
「流石にそれはあげすぎだと思うわ……」
そうか。……多分、僕にはあまり、お土産のセンスが無い。なのでここは、そういったことが得意そうなクロアさんに、是非ともお任せしたいのだけれど……。
「……そうね」
クロアさんはしげしげと僕を見て、それから、にっこり笑った。
「なら、いい考えがあるわ」
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