1話:とろけても餅は美味い
「なあ、トーゴ。君、恋をしたことはあるか?」
「え」
冬ももうすぐ終わる。そんな季節に、先生は突然、そんなことを聞いてきた。
僕が勉強を終えてマグカップの中身をマドラーでかき混ぜつつホットチョコレートを飲んでいたら、タイミングを見計らっていたらしい先生がいそいそとやってきた。
「トーゴ。ちょっといいかい」
先生は先生でホットチョコレートのマグカップを片手に持っていて、もう片方の手には分厚い本のようなものを3冊、抱えている。
3冊とも、微妙に大きさが違ったり、装丁が違ったりする。けれど共通していることは、それぞれの本に書いてある『卒業アルバム』の文字だ。
「……これ、先生の?」
「ああ。そうだとも。小中高、3冊分だ。この間実家に行った時に取ってきた」
先生はそう言って深々とため息を吐いた。
「ちょっとばかりな、少年時代から思春期あたりまでの人間の感覚を取り戻したくて持って来たんだが。残念ながら思い出せない部分があるというか、思い出せるものは現在の僕の感覚というフィルターを通してしまっているものなのでイマイチそれらしくないというか」
そう言いつつ先生は、ちょこっとだけ卒業アルバムの表紙を持ち上げて、横からチラッ、とそれを覗いて、またパタンと閉じた。
「ということで、トーゴ。君の協力を仰ぎたい。僕よりずっと少年時代に近く、思春期真っ盛りであるはずの君の、産地直送採れたて新鮮な感覚を、ちょっとばかり教えてもらいたいのだ!」
「いいよ。勿論。協力したい」
先生にとって、他人の考えや感覚を聞くことは役に立つことらしくて、僕らは時々これをやる。僕は先生の役に立てるのが嬉しいし、それに……僕自身、何かを話そうとすることで見つかるものがあったりするので結構面白い。あと単純に、僕は先生と話すのが好きだ。自分が話すよりは先生の話を聞く方が得意だけれど。
「その意気やよし。では遠慮なく」
先生は、ずず、とホットチョコレートを飲みつつ……早速、質問してきた。
「……君、小さい頃の将来の夢って何だった?」
「うーん……幼稚園を卒園する時には、警察官、って言ってた気がする。交通安全教室で園に来てくれた人が、すごく格好良く見えて、それで」
「成程なあ。小学生の時は?」
「……小学4年生の時には確か、画家、って言ってた。それで、小学校を卒業する時には……『明確な職業は決まっていませんが誰かの役に立つ人になりたいです』って、文集に書いた。よく覚えてる」
僕が答えると、先生は、ああ、そうだったな、と言ってちょっと寂しそうな顔でホットチョコレートを飲んで、それからにこにこ笑う。
「まあ……そういうことなら君は今、小学校卒業時の将来の夢は叶えていることになるな。存分に、僕の役に立ってくれていることだし」
「それは何よりです」
望んでいることとは違うことを書いた卒業文集ではあったけれど、人の役に立てるのは嬉しい。それが先生なら猶更嬉しい。僕はホットチョコレートのマグカップを両手で包みながら、じんわり温まる手のひらみたいな気分になった。
「ちなみに、先生は?」
ちょっと照れてしまって、ちょっと緩む口元をマグカップで隠しながら、ついでに聞いてみる。先生が小さい頃、どんなことを考えていたのか、というのは中々に興味深い。
……すると。
「……見たまえ」
先生は妙に神妙な顔をすると、先生の小学校の卒業アルバムらしいものを開いて見せてくれた。
『宇貫護』と書いてある写真は、先生の面影のある僕より小さな子供だ。……なんだか変なかんじ。
ただ、その写真の下の『将来の夢』は『畳の上でぽっくり死ぬことです!』だった。やっぱり先生は小さな頃から先生だったらしい。
「先生らしいね」
「まあな。三つ子の魂なんとやら、と言うが、この頃から僕は大体こんな具合であったらしいぞ」
うん。なんというか……ちょっと安心した。
「じゃあ話が変わるが、次の質問だ。君、理想の親ってどんなんだと思う?」
次の質問に、僕はまた気持ちを切り替えて臨む。
……のだけれど、ちょっとこれ、僕には難しい質問かもしれない。僕が言い淀んでいると、先生はそれを察して、先に話してくれた。
「そうだなあ、僕はこれを考えるには齢をとりすぎたもんだから、子供から考えた理想の親ってもんがまるで分からん。それでも無理矢理考えてみたら、『人の職をこき下ろさない、それが微妙に売れてきたからといって手のひら返して金の無心をしない、人の資産を勝手に使わない、他人の遺言に文句をつけない、そして何より、関わってこない』みたいになってきて……」
先生は欝々とした表情でそういって、ずずず、とホットチョコレートを啜った。
「要は、家族としての期待というよりは、一応人間として生きている何かへの期待、ぐらいになってしまって駄目だった。僕自身、独り立ちしてしまったからな。親っていうものが、自分を扶養する存在ではなくなってしまったから駄目なのかもしれん。……だから大変申し訳ないが、ちょっと君にこれを考えてもらいたいな、と思ったんだが……難しかったか」
「いや、平気。……ちょっとだけ、待って」
先生がどんよりしているのを励ましたかったので、ちょっと時間を貰って考えてみる。
僕は、自分の親が理想的だとは思っていない。確かにそれなりに裕福な方らしいし、他所の人から見れば『美男美女の夫婦でお似合いね』っていうことになるらしいし、小学生の頃のクラスメイトに羨ましがられたこともあったけれど。でも、理想的だとは、思っていない。
じゃあ、どこが不満なのか、と言われると……難しい。元々僕は、考えを言葉にするのがあまり得意じゃないんだよ。
なので、考える。考えて……ああ、そうだ、と、1つ思いつく。
「話をしてくれて、話を聞いてくれる人が、いい、のかもしれない。ええと、すごくどうでもいい話。成績のこととか進路のこととか学校行事のこととかじゃなくて、もっと、本当に他愛もない話ができる人がいいと、思う」
僕が思いついた言葉は、早速、先生の手元のメモに書き留められた。それから、僕が出した結論に納得がいっている。すっきりしたかんじだ。
……そうして先生がメモを取りつつ、成程なあ、確かになあ、と呟くのを眺めていたら、ふと、更に思った。
「先生みたいな人がいいのかもしれない」
思ったのでそう口に出してみたら、先生はすごい勢いで顔を上げた。
「僕?僕か?親に、ってことか?そいつはどうかと思うぞ?」
「うん。いいと思う」
先生はびっくりしていたけれど、僕は自信を持って頷く。
「……僕は親になるには少々そそっかしく、多大に大人げない生き物だと、自分では思っているんだがなあ」
先生はそんなことを言いつつ、何とも言えない顔をした。
そうだね。僕もそう思うよ。だからきっと、先生に育てられた子は、先生の分だけちょっとしっかり者に育つんじゃないだろうか。それで多分、一緒に大人げなく育つんだ。
……そう考えたら、ちょっとだけその子が羨ましい。
それで、まあ、そんな質問のやりとりをして、また色々話して、先生は何かメモを続けて……それで、恋。
『トーゴ。君、恋をしたことはあるか』。この質問が来た、ということになる。
……こういう質問が来るとは思っていなかったから、僕は結構びっくりしている。
「これは是非、聞いておきたいと思ってね。……まあ、君の話が気になる、というのはそうなんだが。それ以上に、その、僕はだな、そういうもんをどうも、一般的な視点で見ていないような気がしてなあ……。というか、考えれば考える程訳分からんようになってきてしまった。なら、とりあえず母数を増やして平均化を試みようと思った次第だ」
「母数1が2になったところであんまり意味が無いと思うけれど」
「まあな」
先生はため息を吐きつつ頷いた。……珍しくも先生はちょっと参っているようだ。
けれど、とても申し訳ないことに、これについて僕は先生の力になれそうにない。
「ごめん。僕、そういうのがあんまりよく分かってない」
……なので、そう、正直に言ってみたところ。
「そんな気はしていたとも。だが、トーゴ。だとしたら、だな……」
先生は重々しく、そう言って……目の高さにマグカップを掲げた。
「こうしてチョコレートが集まる意味が分からんぞ」
……まあ。
今日は、2月14日で、そういう日、らしいので……僕も、学校でチョコレートをやたらと貰った。女の子ってすごいね。学校中のあちこちでお菓子の包みが飛び交っていて、他のクラスからも、他の学年からも人とお菓子の行き来があって……。とてもエネルギーに満ち溢れていると思う。
こういうの、家に持ち帰ると母親がとてもうるさい。だから今年は家には持ち帰らずに、全部学校かここで消費させてもらう。親には『今年から学校で禁止になったみたいだ』って話す。お返しは僕の昼食代から出して自分でなんとかします。
……それで、今、僕らが飲んでいるホットチョコレート。これも、今日学校で貰ってきたものの1つだ。『温めた牛乳をこれでかき混ぜるとホットチョコレートになるからね』って、棒にチョコレートをつけて固めたようなやつを貰った。2本入っていたから、今、こうやって先生と2人で飲んでる。こういう形状のものは学校で消費できないので、先生の家に持ち込ませてもらった。
「トーゴよ。一応聞くが、僕もお相伴に与っておいて何だが……これ、誰かが君への愛の表明としてプレゼントしてきたやつじゃないだろうな」
「うん。違うよ。最近は友チョコっていうのが流行ってるらしい」
先生が疑わし気な目で、僕の鞄の横の紙袋を覗き見ている。……いや、だから、これ全部そうだってば。学校の女の子達がぽいぽいと僕にくれたり、僕が机の横に掛けておいた鞄の中に放り込んでいったりしたものだから、そういうのじゃないよ。
「……まあな。確かに、チョコレートを貰ったとして、それが恋をすることにはならないな。うむ。そして……君が誰かに対して、きらきらどきどきの夢中になっているところを、あんまり想像できなくはある」
やがて、先生はそう言いつつ、複雑そうな顔でホットチョコレートを飲み干した。それから、棒にくっついて溶け残ったチョコレートを見つめて、おもむろにそれをしゃぶり始めた。まあ、それが正しい食べ方かもしれない。
「それは僕も思うよ。僕、自分のことで手一杯だ。他の人へ意識がいくような余裕がないのかもしれない。いつか、そういう気持ちになることがあるのかもしれないけれど、少なくとも今のところは、無い」
「成程ね。ま、そういうことならしょうがないな。類は友を呼ぶとも言うし」
先生がチョコレートの棒を咥えつつそう言って腕組みするのを眺めて、僕もホットチョコレートを飲み干して真似をしつつもう少し考えてみる。
……きらきらどきどきの夢中、か。そうだなあ、強いて言うなら、夢中、っていうと、僕にとっては……。
「絵、だろうか」
「絵?」
「もっと上手くなりたいし、思った通りに描けるようになりたい。描くことが楽しい。ずっと描いていたい絵さえ描いていられればそれでいい。どう?」
どうでしょうか、という思いで先生を見つめてみると、先生はけらけらと笑う。
「そうか。成程、成程……恋とは別に、人間から人間への情欲に限らんな。うむ。自らを狂気めいて突き動かす欲望があれば、それは皆、恋と呼ばれてしかるべきなのかもしれない。成程ね。狂気の数だけ恋がある」
先生は話しながら段々上の空になってきて、ふん、ふん、と言いつつ、咥えた棒をぴこぴこ動かしつつ、片手でペンをふりふりやって弄びつつ、その内虚空を見つめて唸り始めた。僕も一緒になって虚空を見つめてみる。
「恋って、どんなかんじなんだろうね」
「うむ。一般的にはどんなかんじなんだろうなあ……」
僕と先生は揃って天井を見上げて……それからふと、僕は思った。
「先生は?一般的な視点じゃない、っていうことは、先生の視点は持っているっていうことだよね」
僕がそう聞いてみると、先生は、うぐ、と言葉に詰まりつつ、ちょっと口元を引き攣らせつつ……それから一呼吸して、ちょっと落ち着いたらしいところで……僕に聞き返してきた。
「……聞きたいか?」
「うん」
そして僕は、俄然気になってきている。僕が知らないことを先生は知っている。だから聞きたい。そして、先生がそれをどう感じたかも気になる。
僕は期待を込めて先生を見上げて、先生はものすごく気まずげな、照れたような顔で明後日の方を向く。
「よし。ならば話して聞かせてやろうじゃないか」
そして、開き直ったというか、悟りを開いたというか。先生はそんな表情に切り替えると、話し始める。
「……僕にとって恋とは」
「うん」
何故だかすごくどきどきしながら、僕は先生の言葉を待つ。聞きたいような、恥ずかしいような、そんな気持ちでじっと待っていると……。
先生は、言った。
「恐怖だ」
「とりあえず一般的ではなさそうということは分かった」
「だろ?僕もそう思ったからこそ、君に聞いてみたのさ」
一気に緊張が緩んだ僕らは、元の調子で喋り始める。
「それで、恐怖、っていうのはどういうことだろうか」
「うむ。まあ、そのまんまさ。……恋っていうのは狂気だからな。自分で自分が恐ろしくなる。これが恐怖だ。あと、恋とは相手に……いや、うーん……誤解を恐れずに言うと、恋とは相手をどうこうしたいという欲望だからな。……相手がそれを受け取って、更に返してくれるなんて有り得るのだろうか、と考えるとひたすら恐怖でしかない。虚無を覗き込む気持ちに似ている」
なんだかちょっと哲学的だ。恋の話をする先生はいつにも増して哲学的。それは多分、先生がものすごくこれについて考えたからなんだと思う。
「そして何よりだな。恋をすると男は格好つけになるが」
「そうなの?」
「うむ。格好悪いところを相手に見せたくない、と強く思う。そしてそれは……恐怖だ!格好悪いところを見られたらどうしよう!って思っちまったらそりゃもう恐怖だろ!」
先生は、きゃー、なんて言いながら一頻り騒ぐ。先生なりに恥ずかしさとか照れを解消しているところだろうから放っておく。
……それにしても。
格好つけになっている先生、ちょっと見てみたい。多分、3割ぐらい格好悪くて、5割ぐらい面白くて、それで、2割ぐらい本当に、すごく格好いいんじゃないかな。
「ということで、以上。恐怖3点盛りだ。それが恋だ。もう分からん。僕には何も分からん」
落ち着いたらしい先生は、静かに合掌してそう言った。これでおしまい、ということらしい。なので僕はとりあえず、先生に拍手を送っておいた。
「駄目だ。分からん。僕には分からん」
先生はなんだか情けない顔をしつつ、机の上に倒れ伏した。
「人間、経験したことのないものは想像で補うしかなく、想像で補えないものは割とどうしようもない……実にその通りだ……」
更に、そんなことを言う。……似たような内容、初めて会った時にも聞いたなあ。あの時とは意味合いというか前向きさが大分違うけれど……。
……うん。僕は、ちょっと、初めて先生と会った時のことを思い出す。思いだして……聞いてみた。
「憧れ、って、もしかすると、恋に近い?」
「ん?」
ぴくり、と反応した先生を見る限り、話してみる価値はありそうだ、と思って話してみる。
「すごい人だなあ、とか、こういう人になれたらなあ、とか。あと……救われたなあ、とか。そういうのって、きらきらどきどき、っていうか、視界が開けるみたい、っていうか……」
多分、先生は僕の言葉に何か思うところがあったんだろう。いいアイデアが浮かんだのかも。
先生が何かメモをとり始めたのを見て、ひとまず僕はマグカップを流しに持って行って洗い始める。先生の分も一緒に。
2つのマグカップを洗い終わった頃、先生はボールペンのノックをカチリ、と押してペン先をしまって、ペンを置いて、にこにこといい笑顔を浮かべた。
「いや、助かったぜ、トーゴ。ありがとう。三人寄れば文殊の知恵、と言うが、案外二人でも事態は好転するもんだな」
「それは何より」
先生はなんだかやる気が出てきたのだか、席を立ってうきうきと踊るように歩いていって、ノートパソコンの前に座った。早速カタカタとキーボードが鳴る音がし始めたので、仕事が始まった、ってことだろう。
……そんな先生を見て、僕はふと、思う。
僕は今一つ、恋というものが分からないし、恋をしている人を見たこともない。と思う。
恋をするって、どんなかんじなんだろう。考えても分からないことを考えてもしょうがないんだけれど、つい、考えてしまう。
僕は臆病者で度胸もあんまり無いので、もしかすると先生と同じように『恐怖3点盛り』になるのかもしれないなあ、なんて、思う。
……でも、まあ、その時は僕も、3割ぐらい格好悪くて、5割ぐらい面白くて、それで、2割ぐらい……いや、1割でもいいから、すごく格好いい人に、なりたい。先生みたいに。
……いや、僕にとってはもしかすると、1割の格好良さよりも、5割の面白さの方が難しい課題かもしれないけれど……。
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第十六章:恐怖の病
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今、クロアさんが1人でカチカチ放火王の封印の宝石を探しに行っている。
それは何故かっていうと、彼女が育てられた場所に次の封印があるらしいから、ということなんだけれど……。
……話は遡って、妖精の国から帰ってきた翌日。
骨の騎士団の絵心部隊(骨達の中でも絵が好きな骨が集まって、人間とのコミュニケーションに特化した小部隊を編成したらしい。それが絵心部隊。)が妖精やアンジェと協力して、次の封印の場所を教えてくれた。
……のだけれど、それが、全く分からなかったんだよ。
「こりゃ……なんだ?でっかい蛇?」
「大きな蛇……の下?地下室?」
骨の騎士団絵心部隊が描いてくれた絵は、大きな蛇の絵。そして、その下に部屋があって、そこに封印の宝石がある、というような図だ。
つまり、ほとんどノーヒント。まるで分からない!
「……この辺りに大きな蛇の住処ってあるだろうか」
「俺は知らんな」
「いやー、俺も聞いたことねえなあ……兄貴にも聞いてみるか」
「私は見たことないわ!リアンは?」
「ない。……えーと、王都の下町じゃあねえ、っていうくらいの情報にしかならねえけど」
「そうね。王都じゃないんじゃない?私、一応、王都のあちこちスケッチして回ってるけどさ。こんな蛇、見たことないもの」
僕らは顔を突き合わせて唸っている。ヒントが無いって、本当に難しいなあ。
……というか、今までが大分恵まれていたんだよなあ、と思う。琥珀の池なんて、カーネリアちゃんが居なかったらどうやって探していただろう。
「ま、一応探知機もあることだし、またぶらぶら旅に出て探すっきゃねえかなあ」
フェイが頭を掻きつつそう言ったところで、僕も頷いて……。
「……私、ここの場所に心当たりがある、かも」
そして、そう言いだしたクロアさんの方を、僕ら、一斉に見た。
「本当!?」
「え、ええ……」
本当だとしたら、すごい。なんというか、とんでもない確率だ!
……けれど、どうにも、クロアさんは浮かない顔をしている。
「なら行くか」
「いいえ。私1人で行ってくる」
更に、ラオクレスの申し出を断ると……ため息を1つ吐いて、こう言った。
「だって……密偵を育てている場所に関係者以外が入ったら、大変なことになるもの」
それからクロアさんは、僕達に『その場所』の説明をしてくれた。
「どこに、とは言わないけれど、孤児を適当に拾ってきて、密偵として育てる場所があるのよ。まあ、密偵、とは言っても、私みたいなのも居れば、単なる暗殺者も居るし、商業の方に通じるよう育てられるのも居るわけだけれど……」
クロアさんの説明を聞いても、今一つ、想像がつかない。ええと、要は密偵やその他諸々の養成学校全寮制、みたいなかんじだろうか。
「クロアさんはそこの出、っていうこと?」
「そうね。私は多分、孤児だったのだけれど、その時からそれなりに見目がよかったらしくて。それで拾われて、育てられて、今に至る、っていうかんじかしら」
へー。そっか。『今に至る』までに結構色々あったような気もするけれど、そこはクロアさん自身があんまり話したくないように見えるし、深くは聞かない。
……そういえば、クロアさんのこと、あんまりよく知らない。
出身地は知らない。どこで育ったかもよく分からない。何歳かも知らないし……似合う色は知っていても好きな色は知らないし、案外森っぽいっていうことは知っていても森っぽくないクロアさんの全貌は未だに分かっていない。
僕がクロアさんについて分かるのって、好きな絵と……あと、好きな食べ物ぐらいだな。枝豆。あと、王都のお店のクッキー。それからレモンタルト。
「まあ、そういう訳だから。とりあえず私1人で行ってくるわ。それで適当に話を付けて、封印の宝石だけ貰ってこられればそうするつもり。あっちだって、カチカチ放火王が出てくる宝石なんて手元に置いておきたくないでしょうし」
クロアさんはそう言って、僕らを安心させるようににっこり笑った。
「だから、大丈夫よ。もし何かあっても連絡くらいはするから」
「おい」
クロアさんの言葉に余計に心配になっていると、ラオクレスが咎めるように声を上げてクロアさんの腕を掴む。するとクロアさんはちょっと戸惑ったような顔をして……ため息を吐いた。
「……どのみち、私1人で行った方がね、話がややこしくならないと思うのよ。うっかりトウゴ君なんて連れていったらとんでもないことになるわ」
「とんでもないこと?」
聞き返してみたら、クロアさんは目を眇めて、言う。
「そうねえ。地下に閉じ込めて、一生宝石を出し続けさせる、とか?」
それは嫌だなあ……。
「あとは……こんな美少年なんだもの。折角だし……ものすごいこと教えちゃう、とか」
……ものすごいこと、って、どういうことだろうか。まあ、話を横で聞いているラオクレスが顰め面をしているのを見る限り、あんまりいいことじゃないんだろう。多分。
「なら俺を連れていけ。密偵相手にどの程度立ち回れるかは分からんが、お前の背後を守る程度には役に立つ」
僕がどうするか考えていたら、ラオクレスがそう言っていた。クロアさんの腕を離さないまま、じっとクロアさんを見下ろして、威圧感たっぷりの石膏像ぶりだ。
……けれど。
「あら、駄目よ」
クロアさんは一体どうやったのか、するり、とラオクレスの手から逃れて、さっきまで掴まれていた手の指先で、びし、とラオクレスの額をつついた。
「……あなた、トウゴ君がされそうなことを自分はされない、って思ってるんだろうけれど」
指先でラオクレスの額をぐりぐり、とやりながら、クロアさんは……ものすごく森っぽくない笑顔を浮かべて、言った。
「トウゴ君が美少年なら、あなただってそこそこに美男なんですからね」
……というわけで、クロアさんは1人、旅立っていった。そういう顛末。
「心配だね……」
「……クロアのことだ。上手くやるだろう」
ラオクレスはそう言いながら相も変わらず、夕食のお鍋をかき混ぜている。
……今日の夕食は、野菜と鶏肉、そして森のきのこたっぷりのきのこ鍋だ。〆はお餅を入れてお雑煮にしようと思って、切り餅を描いてさっき出した。具を食べ終わったら餅を入れて煮るんだよ。そうすると出汁がたっぷり絡んだ餅が結構美味しいんだ。前、これをやったらカーネリアちゃんに好評だったので今回もやる。
「せめて、場所は聞いておけばよかったかな……」
「あいつが言わない方がいいと判断した以上、これでいい」
ラオクレスはため息交じりに、相も変わらず鍋をかき混ぜている。
……そこで僕は気づいた。
「あれ、ラオクレス。ここにお餅を置いておいたの、どうしたっけ」
鍋をかき混ぜていたラオクレスの手が止まる。
僕はそっと鍋を覗いてみた。
「……溶けてるね」
「……すまん」
そこには、後から入れるはずだった餅が既に入っていて、ついでに、しっかり煮込まれて、すでに溶けかけていた。
……どうやら、ラオクレスもクロアさんが心配らしい。
「このお鍋、とろんとしていておいしいわ!どうしてかしら、なんだかお餅の味がする気がするのだけれど……これ、どうやって作ったの?」
「知らん」
「うん。ちょっと黙秘させてね……」
餅が溶け込んでしまった鍋は、それはそれで美味しかった。けれど、僕とラオクレスが揃って上の空だったなんて言えないので、製法は内緒っていうことにさせてもらうことにした。




