10話:剣と宝石*5
「これは……くそ!」
ラオクレスはさっと青ざめて、それからすぐ、店の床で倒れていた人の1人を蹴り飛ばした。
すると、その人は呻いて、床に転がる。……その人の手の中には、黒い石がある。
ということは、この黒いお化け、召喚獣の類なのだろうか。
「まだ残っていやがったか!」
ラオクレスはそう叫ぶと、生ハムを振りかざして、黒いお化けに殴りかかった。知り合いなんだろうか。
……けれど、それだけだ。生ハムは黒いお化けの足元に埋まって、それから……その黒い闇の中に呑み込まれたかのように、消えてしまう。
消えた。生ハム、消えてしまった。
さっきまで、神話のヘラクレスが使っていたこん棒のように頼もしく、店の人達を殴り飛ばしていた生ハムが、あっさりと消えてしまった。生ハムは半ばから溶け落ちたみたいにして消えている。
僕がその光景に衝撃を受けていると……お化けが、動いた。
お化けはその手のような何かを、のそり、と持ち上げると……ゆるり、と、振り下ろす。
すると、その一瞬前までラオクレスが居た場所が……すとん、と、消えてしまった。
消えたんだ。そこにあったはずの天井の残骸も、散らばった商品も、床も。全部すっぽりと消えて、そこにはただ、地面が抉れた穴があるだけになっている。
……なんなんだ、こいつ。
僕が目の前の光景にぞっとしている間にも、ラオクレスはすぐ、次の攻撃に移る。
客の1人が持っていた斧を手に取ると、それで黒いお化けに斬りかかった。
……一瞬、斧が光ったように見えた。けれど、それだけで……黒いお化けには、うっすらと切り傷のようなものができたけれど、それもすぐ、塞がっていってしまう。まるで、柔らかい餅を切った時みたいだ。切っても切っても、すぐくっついてしまう。
「くそ、これでも駄目か……!」
ラオクレスは舌打ちしながら、斧を構えて何か集中し始めた。
けれど、そうこうしている間にお化けがまた、手を伸ばしてくる。その手は今度こそ、ラオクレス目がけて振り下ろされるだろう。
僕は慌てて、そこら辺にあるものをお化けに向かって投げた。
壺の欠片。ナイフの刃みたいなもの。石ころ。よく分からない木彫りの像。……そういうものを投げつけるけれど、お化けはぴくりとも反応しない。そして投げつけたものは皆、お化けの体にぶつかるや否や、お化けの体に取り込まれるようにして消えていってしまう。さっきの生ハムと一緒だ。
それでも僕は物を投げ続けた。他にできることが無い。今すぐ画材を出して壁を作ったりしたって、あのお化けはなんでもかんでも消してしまうらしいからあまり意味は無いだろう。だったら、せめて、お化けの手がラオクレスじゃなくてこっちに向くようにすれば……。
……その時だった。
ぱっ、と光が灯る。
光は、僕の手の中から漏れていた。僕が投げようとして握ったのは……魔法の練習用にフェイに貸してもらった、あの蝋燭もどきによく似たものだったらしい。
ぷぎゅる、と声がする。それはどうやら、黒いおばけから発されたものらしい。
あれ、と思うより先に、お化けは僕から距離をとろうとするように、ずるり、と這いずって……。
「そこだ!」
そこに、ラオクレスの斧が唸った。
今度の斧は、強く光り輝く。ばちり、と何かが爆ぜるような音がして……斧は勢いよく、お化けの体を引き裂いていく。
ぱっ、と血飛沫が飛ぶ。
「……くそ」
お化けは、切りつけられると同時にラオクレスの足を狙ったらしい。ラオクレスの太腿の一部がごっそりと削がれたように無くなっていて、そこから血が溢れる。
もう、ラオクレスは歩けないだろう。攻撃に出ることも難しいはずだ。
更に、ラオクレスが切ったはずのお化けは、またくっついて元通りになってしまっているらしかった。
ぞっとする。
……フェイの怪我を治したことはあるけれど、人が怪我をする瞬間を見たのは、これが初めてだった。
それは思っていたよりずっと酷い光景だった。そんな酷い光景を見ながら、僕は、そうか、人ってこういう風に血が出るのか、なんて、ぼんやり思う。
「おい、お前は逃げろ!」
ラオクレスは傷を庇いながら、そう言った。
彼がそう言うんだから、僕は逃げた方がいいんだろう。もう店は穴だらけだ。ラオクレスが蹴破ったドア。黒いお化けが消してしまった壁の穴。どこからでも逃げられる。
……でも。
僕は、逃げてしまったら、多分、一生後悔するんだと思う。
「……迷惑にはならないようにするから」
お化けは、今度はラオクレスではなく、僕に向かって、手を振り下ろそうとしている。僕はそれを見上げて……手の中に握ったもの、『蝋燭もどき』を、強く握り直した。
僕が蝋燭もどきに意識して魔力を流すと、それは強く光を灯す。
……光が灯ると、黒いお化けはびっくりしたように身を竦ませて、振り上げていた手を引っ込めてしまう。
僕が光を消すと今度はまた体を伸ばして手を伸ばし始めるけれど、また僕が光を点けたら引っ込んでいく。
……うん。
やっぱりこいつ、光が苦手なんだ。
光が苦手だから、ラオクレスの斧が光った時、その攻撃が効いたんだと思う。それから、光が苦手だからこそ、このお化けは光った蝋燭もどきに怯えた。
……なら簡単だ。僕はこの蝋燭もどきからビームを出す方法を、知っている。
あれはきっと、黒いお化けによく効く攻撃になるだろう。
僕は手首についていた封印具を外してポケットにしまった。
すると、蝋燭もどきの光は明らかに強くなる。その光を向けてやると、黒いお化けはますます竦みあがって、縮こまって、大人しくなってしまう。
あとは……我慢、だ。魔力を我慢する。そして……迫ってくるお化けを、我慢する。
僕は蝋燭を握った左手の手首を、右手で抑え込む。
そして、フェイが僕にやったみたいに、魔力をそこで堰き止めた。
「……う」
やっぱりこの感覚は慣れない。うずうずして、むずむずして、どうしようもなく落ち着かない。
けれど、我慢だ。ため込んでため込んで、一気に出さないといけない。僕はひたすら、我慢した。
ぷぎゅる、と怒ったように声を上げて、黒いお化けが体を伸ばす。光は今、我慢の最中だから灯っていない。僕を狙うには絶好のチャンスだろう。
「おい!逃げろ!」
ラオクレスの声が聞こえたけれど、それでも、我慢だ。
我慢して、我慢して、僕の目の前で黒いお化けの手が振り上げられても我慢して、むずむずが体の内側で膨れ上がってもまだ我慢して、むずむずがぞわぞわになってきても我慢して……そして、黒いお化けの手が僕に迫った、その時。
僕は蝋燭もどきから、ビームを発射した。
ぱっ、と、空が見えた。
ビームは黒いお化けの胴体を貫いて、そこに一瞬で大穴を開ける。開いた穴の向こう側に、夕暮れ間近の空が見えた。
……お化けは光線で穴が開いた体を見下ろして、それからまたぷぎゅるぷぎゅると悲鳴を上げ始めた。
お化けの体に開いた穴は、中々塞がる様子が無い。それどころか、じわじわとお化けを溶かすように、穴は広がっていっている!
光だ。光があれば、あのお化けを倒せる!
なんでも呑み込んで消し去ってしまう、あのお化けだって、無敵じゃない!
黒いお化けは、怒ったように体をくねらせて、それから、僕を睨みつけた。
僕はラオクレスを背に、蝋燭もどきを構える。
「食べられるもんならやってみろ!」
僕の言葉が分かったのか、お化けは怒ったように睨んできながら、それでもこちらに攻撃はしてこない。
お化けは少しの間、僕らを睨んで……それから、店の外へと伸び上がって、逃げていこうとする。
しまった、このお化け、町に出したら駄目だろう、と、僕が思ったその時だった。
わっ、と、店の外から歓声が上がる。それから、ぎゃう、という鳴き声。羽音。轟と炎が燃え盛る音。……そして。
上を見上げれば、崩落した天井の向こう、空に羽ばたくレッドドラゴンと、レッドドラゴンに乗ったフェイが居た。
「よお!道に迷ったけど、デカブツが出てきたからな!いい目印になったぜ!」
フェイの軽口が、今は只々、頼もしかった。
「フェイ!このお化け、光が苦手みたいだ!」
「光ぃ?悪いな、光の魔法は俺、これっぽっちも使えねえわ!」
フェイはけらけらと笑って……にやり、と頼もしい笑みを浮かべる。
「けど、光ってつまり、炎の眷属みてえなもんだろ!」
無茶苦茶な言い分と共に、レッドドラゴンが炎を吐く。
炎は強く強く輝いて、夕日より赤く強く、辺りを照らし上げていく。
「どうだ!明るくなっただろ!」
レッドドラゴンが吐いた炎は、確かに効果てきめんだった。黒いお化けは炎によって、熔かされるように萎んでいく。
お化けはたまらず逃げ出そうとした。町の方へ。
……でもそこへ、炎の狼が吠える。炎の鳥が羽ばたく。
フェイの召喚獣によって、黒いお化けは完全に包囲され、結局逃げ出すことができない。
「よし!トドメだ!」
そして最後、レッドドラゴンが炎を吐くよりも先に……僕が準備していたビームが、黒いお化けをすっかり溶かして消してしまった。
「折角カッコよく登場したってのになー、トドメは持ってかれちまったかぁ」
フェイはそう言いながら地上に降りてきて、そこで僕と……大怪我をしているラオクレスとを見つけた。
「うわ……それ、大丈夫かよ」
「止血はしてるけれど……」
包帯はすぐに見つからなかったから、ラオクレスが着ていたシャツを包帯代わりにさせてもらっている。
けれど、太腿の抉れてしまった部分からは、どくどくと血が溢れて止まらない。
「これ……おい、トウゴ。押さえとくのは俺がやる。お前はさっさと描き始めろ」
「うん」
フェイは話が早い。助かる。僕は早速、画材を出してきて、ラオクレスの太腿を描き始めた。
「おい、何、を……」
「ラオクレス、黙って見てな。お前のご主人様はこういう奴だぜ」
僕は早速、画用紙の上に下描きをしていく。
鉛筆でラオクレスの全身のアタリをとって、体の形をとっていって、そこにざっと陰影をつけて、その上からすぐ、着色していく。ラオクレスの肌の色の調合はもう慣れてる。何度も何度も、水彩着色でラオクレスを描いているから。
……色については、あまり実物を見ないようにした。だって、ラオクレスはどんどん血を失っていて、それによって、どんどん血色が悪くなってきていたから。だから、記憶の中にある彼の色を、そのまま使う。
今回、特に意識して描き込むのは、太腿。
太腿の筋肉の張り具合、骨で引っ張られる皮膚、盛り上がった肉の、影の落ち方。
そういうものを意識しながら、ひたすら描いた。
実際のラオクレスの太腿は、包帯というか、もうシャツをそのまま押し当てて止血している状態だ。だから、もう片方の脚を参考にして、ひたすら描いていく。
……頭の中で目の前の脚を左右反転させながら、影の具合や筋肉の構造を推理して、描いていく。これが案外、難しい作業だった。見たまま描けないというのは、すごく難しい。
「おい……まさか治す気か?」
「おう。よく分かったな。そういうことだ。大人しくしてな」
ラオクレスは僕の様子を眺めながら、ちょっと困ったような、戸惑ったような顔をする。
「俺は放っておいていい。奴隷なら別の奴を買え」
「やだ」
よく分からない言葉は断って、僕は筆を動かし続けた。
……結構、雑な描き方になっている。水彩着色の鉛筆デッサン、というよりは、ラフ画みたいになっている。全然描き込みが足りない。こんなに雑な描き方で大丈夫なのか、すごく心配だったけれど……でも、僕はそこに意識して、魔力を注ぎ込んでいった。
少しは魔力の制御も練習したんだ。上手くいくと、いいな。上手くいってほしい。いや、上手くやらなきゃいけない。
馬はこれぐらいでも、上手くいった。だから、ラオクレスでだって、できなきゃおかしいだろう。
……そして、僕はついに、絵を完成させた。
凄く、疲れた。今にも眠ってしまいたいくらい、疲れた。
けれど……まあ、いいや。ラオクレスの傷を治せた。
ラオクレスの傷は、無事に治せた。急いで描いてしまったけれど、とりあえず、血を止めて、ラオクレスの命を繋ぐことはできた。
「調子はどう?変なかんじはない?」
「……多少、足に力が入らない、が……十分だ」
ああ、機能が完全に戻っていないらしい。これは反省点だ。どういうことだろう。やっぱり描き込みが足りなかったからだろうか。
「よーし、お疲れ、トウゴ。もう寝ていいぜ」
フェイが気遣って、僕の背中を優しく叩いてくれる。やめてほしい。それやられると、もっと眠くなってしまうから。
「いや、まだちょっと……」
僕はフェイから離れて……店の残骸の中を、歩く。
店はもう、すっかり荒れ果ててほとんど瓦礫のようになっていたけれど……でも、気になるじゃないか。
剣。
……きっとどこかに、埋もれているはずだから。
探しているものを伝えて、フェイにも一緒に探してもらった。それから、ラオクレスにはちゃんと聞いた。『あの剣を探してもいいか』と。
……そうしたら、ラオクレスも一緒に探し始めてくれた。だから皆で一緒に瓦礫の中を探し始める。
それは案外すぐに見つかった。ショーウィンドウのあたりは外に近かったからか、剣は案外分かりやすいところに埋もれていてくれたのだ。
僕はその剣を拾い上げて、ラオクレスの所に持っていく。
「この剣は、あなたの剣なんだろうか」
そして聞いてみると……ラオクレスは渋い顔で頷いた。
「そうだ」
この剣について、僕は情報の断片を手に入れてしまっている。
『この剣は、人を殺した奴らの剣だ』と。
……でも、そこらへんはどうでもいいんだ。僕が聞かなきゃいけないのは、そこじゃない。
「これ、欲しい?」
ラオクレスはしばらく、悩んでいるようにも見えた。
けれどしばらくしてから……彼は、その剣を手に取って、笑った。
「ああ。ありがたく、頂く」
ラオクレスが笑った。
ほんのちょっとだけ目が細められて、ついでに口の片側が少し上がっただけだったけれど。でも確かに、笑っていた。……ほんの少し顔のパーツが動いただけで随分印象が変わるんだな、なんて、僕は思っていた。
僕がびっくりしていると、ラオクレスはまたすぐ、いつもの石膏像みたいな表情に戻ってしまった。……いや、石膏像にしては少し、苦い顔、というか。
「……この剣と俺のせいで、お前は酷い目に遭わされたな。剣を、それから何より、俺を。恨んでいい」
そしてそんなことを言うものだから、僕としては不服である。
僕としては、今回のは……僕のやり方がまずかったと思う。うん。ちゃんと確認すべきだった。それだけで回避できた問題だったはずなので、僕としては、剣やラオクレスを恨む気持ちは一切無い。
……けれどこういう時、延々と譲り合っていても仕方がないということも、僕は知っている。
うん。先生に言われたことがある。『押し付け合いや殴り合い譲り合い、そして特に返礼は1往復までにしておけ』と。
これは素麺のお礼にゼリーを贈った先生がインスタントコーヒー詰め合わせを贈られて、とても渋い顔をしながら言った言葉である。ちなみに先生は素麺はあまり好きじゃないし、コーヒーに至っては苦手の域に入る。
「それに、悪い事ばっかりじゃなかった」
だから僕としては、譲り合いじゃない言葉を言いたい。
剣に関してはしょうがなかった。僕は確認しなかったし、ラオクレスは多分、何か清算しきれてないものを抱えたままだ。だからどっちもどっち、ということに、烏滸がましくもさせてもらって……。
僕は、『嬉しかったこと』を、見せる。
「ほら。これ。ラピスラズリ」
僕はこれを、店の瓦礫の中から見つけた。
「それは……?」
「剣を探してる時に見つけた。質屋に転がってたやつ。これで深い青の絵の具ができる」
だから僕は大丈夫ですよ、と。ついでに、あなたはいかがですか、も込めて。
「だから、僕はやっぱり、この店に来てよかったんだと思う」
そう言うと……ラオクレスは気が抜けた、というような顔をしてため息を吐いた。
「……お前は本当に、絵を描くのが好きなんだな」
「うん」
ラオクレスはそう言いながら、僕から受け取った剣を眺めた。
「俺も、剣を取り戻せた。……だから、ここに来てよかったんだろう」
「そっか」
そう言ってくれるなら、嬉しい。
彼にとって、その剣がどういうものなのかは分からないけれど……ものが無くなってしまうよりは、きっと、あった方がいいだろうと思う。
後から手放すことにするとしても、それでも、その選択を自分で選んで行えるということはきっと無駄じゃないと、僕は思っている。
それから……大切なものを自分の意思とは関係無く失う辛さも、それを買い戻す嬉しさも、僕は知っているから。
「……俺の、話になるが」
それからラオクレスはそう前置きしながら、更に話し始める。
「あの黒い化け物も含めて、あの店に居た連中のことは、全員、知っていた」
「……そっか」
「かつて俺がこの剣を使っていた頃に……」
「うん、そっか……」
「……おい」
「うん……」
けれど、僕はだんだん、意識を保つのが難しくなってきた。
だんだん、体の力が抜けていく。目が霞む。あ、これ気絶するやつかな……。
「続きは……また目が覚めた時にした方がいいか」
「うん……」
ラオクレスには申し訳ないけれど、そろそろ意識が途切れそうだ。
あまり迷惑にならない位置で気絶しよう、と思っていたら、レッドドラゴンが姿勢を低くしてくれたので、僕はレッドドラゴンの背中に、寝そべらせてもらった。
ドラゴンの鱗はほかほかしている。ちょっと暑い。
暑いけれど……うん。
おやすみ。




