10話:魔王との戦い*4
……塗装。
うん。塗装。
……そっか。うん。これ、塗装だ。描画っていうか、塗装。うん。塗装。すごく塗装。
塗装、塗装、と口の中で繰り返してみると、すごくしっくりきてしまった。うん。僕ら、塗装していました。
「だから楽しくないのよね。きっと。あんたが楽しいのって、あくまでも絵を描くことであって……色を塗るのって、絵を描くための手段の1つでしかないじゃない?」
「うん」
「なのに、今は、とりあえずのっぺり色だけ塗ってて……手段が目的になっちゃってる。だから、楽しくないのよ」
成程。確かに……。
僕、絵を描いていなかった、のか。そっか。僕、塗装してた。絵じゃない。絵じゃないから、楽しくなかった。そっか……。
「やっぱりさ。魔王に色を塗るって、無理があると思うのよね」
ライラは次々に頭の中の考えを言葉にしているみたいで、視線をふわふわ宙に彷徨わせて、指先でくるくる空気をかき混ぜながら、どんどん言葉を発してくる。
「広いキャンバスって、楽しいけれど、でもこれはいくらなんでも広すぎでしょ?大体、魔王に直接絵を描いたって、それ、どんだけ大きいのができちゃうのよ。その絵を見るのに必要な視野ってどれぐらい?」
成程。出来上がった後のことを考えると、ものすごく、理に適っていなかった、気がする……。魔王に絵を描いても、それ、ものすごく大きく描かないと地上からは見られなかったんだよな。うーん、ほとんど考え無しに『青空の色に塗って、白い雲を描いておけばいいだろうか』くらいに考えていたのだけれど、塗る面積も、雲を描く面積も、とんでもなく広大なことになってしまう……。
「それに……あんたさ。本当に、青空、描きたい?」
……更に、ライラにそんなことを言われてしまうと、すごく、返答に詰まる。返答に詰まるのは……そこに答えが無いからだ。
「あんたさ、どんな絵を描きたいの?」
「魔王を消してしまえるような……」
「それは目的であって、絵のテーマじゃないんじゃない?」
……うん。咄嗟に出した答えも、ライラにあっさり破り捨てられてしまった。うん。その通りです。
「もしかするとさ、ねえ、トウゴ」
「うん」
ライラの視線が宙じゃなくて僕に向けられて、空気をかき混ぜていた指がびしり、と僕に向けられる。
「あんたがやってることが塗装であって『絵』じゃないから、魔法が発動しないんじゃない?」
その夜、ものすごく、考えた。
……というか、考えが頭の中をぐるぐるしていて、全く眠れないので考えることになってしまっている。
絵のテーマ。描きたいもの。魔王に着彩。青空。昼間。夜の国。魔王。広大な面積。吸水性の魔王の肌。下地材。空。エアブラシ。魔王。塗装。魔王。塗装……。
……色々と頭の中をぐるぐる回る単語はあるのだけれど、それらが上手く繋がらない。考えにならない、というか、なんというか。
ベッドに入っていても寝付けそうにないので、諦めてベッドから抜け出して、窓を開ける。
ふわり、と夜風が入ってきて、少し寒い。けれど、ちょっと寒いくらいの方がいいかな。眠い頭をぐるぐる回り続ける言葉をどうにかするには、眠気を覚まして考えをまとめるしかないんだろうし……。
「あれ?トウゴ?どうしたのよ」
……けれどその時、横から声が掛けられてびっくりする。
見てみたら、隣の部屋の窓から、ライラが顔を出していた。
ライラは僕がまだ起きていると分かると、すぐに僕の部屋へ遊びに来た。
「どうしたのよ、こんな時間に。まさか、絵、描いてた?」
「いや、違うけれど……なんだか眠れなくて」
「へー。珍しいわね」
そんなに珍しいだろうか。僕が絵以外で夜、眠らないでいるのって。
……うん。珍しいね。自分でもそう思ってしまうんだからもう、しょうがないというか、なんというか……。
「ライラは?眠れなかったの?」
「私?私はね……うん、そうね。眠れなかった、のかも」
そんなようなことを言いながら、ライラは僕のベッドの縁にぽすん、と腰を下ろした。僕はその近くの椅子を引っ張ってきて、そこに座る。
ついでに、ライラが来たんだから、と思って、お茶を描いて出した。出先だし、カップとかを出してしまうとレネ達が困ってしまうだろうから、紙コップに暖かい麦茶、っていうことで。
僕らはしばらく、お互いに麦茶を飲んでいた。飲み終わったらお代わりを描く。飲み終わった途端にお代わりが生まれて、ライラが驚いていた。ちょっと面白い。
「……はあ。なんていうかね。正直、上手くいく気って、あんまりしてなかったのよね」
そして、ライラはそう言う。
「それはあんまりだ……」
「あんたもそうじゃなかった?私だけ?」
あんまりなことを言うなあ、と思うけれど……うん、でも、確かに、そう、かもしれない。
「上手くいく気がしなかった、っていうか、うーん……これでいいのかな、とは、思ってた。やっぱり楽しくない、というか……」
「まあ、そうよね。絵を描くことよりも、魔王を空にすることの方が目的になってるんだもの。あんたは楽しくないでしょうよ」
うん……。なんというか、その通りです。
今回のことについては……その、未確定な事項が多い、というか。単に塗る面積が足りないんじゃないかとか、塗り方が悪いんじゃないかとか、色々と考えられることは幾らでもあって……でも、それ以前に、なんとなく、もっと根本的なところで駄目な気がする、というか。
……うん。そんな気がしている。だから、僕は眠れないし、多分、ライラもそれで眠れない。
「難しいなあ、って思ってさ」
ライラは唐突に、そう喋り出した。
「絵を描くことって、絵を描くこと自体が目的になること、あんまり無いじゃない」
「うん?」
ちょっとよく分からなくて聞き返してみたら、ライラは難しい顔をしながら答えてくれた。
「私さ、王都の公共浴場の壁画、やったことあるの」
「すごい!」
王都の公衆浴場……っていうのは要は、銭湯みたいなものだろうか?そこの壁画か。見てみたい!
「……まあ、あんたがそういう顔してくれるのは嬉しいんだけどさ。話、戻すわね。ええと、つまり、そこの壁画をやるときって、要は……絵を描くことが目的、っていうか、壁を飾ることが目的、っていうか……うーん、難しいな、これ。どう説明したらいいのかしら」
ライラが悩み始める。僕もなんとなく、ライラの言いたいことは分かるような気がするのだけれど、それを僕も巧く言葉にできない、というか……。
「要は、絵描きなら、売るために描くことだってできるわけじゃない。私はずっとそうだったわけだしさ。『絵を描くことを目的に絵を描く』って、結構貴重なことだと思うのよね」
「うん」
「それで……今回も、まあ、そうじゃない。あんたがさっき言ってたことだけど、『魔王を消すために描いている』わけであって、絵を描くことは目的じゃないのよね。それって、私が公衆浴場の壁画をやった時よりも更にずっと、絵を描くことから目的が遠ざかってるっていうか」
「うん」
そうだ。僕は魔王を消すために……ええと、塗装、をしている。そして、それがちょっと、つまらないんだ。きっと。
「私、話しながら考える性質だからさ。結構支離滅裂っていうか、話があっちこっち行くのは勘弁してほしいんだけど……」
ライラの前置きを聞きながら頷く。大丈夫。そういうのは先生で慣れてる。
「あんたにとって、芸術って何?」
……けれど、いきなりそれが来るとは思ってなかった!
「魂」
いきなりの質問だったけれど、これはすぐに答えられた。
「描かなきゃ生きていけないから。描くことは、僕を構成している一番大事なものだから」
すぐに答えたことが、ライラにとっては意外だったのかもしれない。ちょっと驚いたような顔をしながら、ライラは紙コップを両手で持って、中の麦茶をちょっと飲んだ。
「……そっか。言われるとしっくりくるわね。確かにあんたにとって、芸術って、そういうもの、なのかな……ええと、うーん」
ライラは麦茶を飲みながらまた考えて……そして、確認するように、聞いてくる。
「つまりあんたにとって、絵を描くっていうのは……あんた1人でも割と、完結しちゃうことなのね?」
……そう言われると、返答に詰まる。
僕にとって、絵を描くっていうことは、自分1人でも完結してしまうこと、なんだろうか。
それだけじゃないような気もするし、その通りじゃないかなって思う気持ちもある。なんだか自分の中で自分がよく分からない。
多分、僕、初めて、絵を描くっていうことがどういうことなのか、分からなくなっている。
「私はね……あー、難しいなあ。でも、私にとって、芸術、って、多分、それ自体が1つの手段であって……うーん、声、なのかな」
ライラはさっきの前置き通り、『話しながら考える』らしくて、視線がふわふわ宙を彷徨っている。多分、ライラが見ているあたりにライラの考えがふわふわ浮いているんだろう。
「……まあ、褒められたもんじゃないのかもしれないけどさ。でも、私にとっては、声。芸術は、声なの。『ライラ・ラズワルドはここに居る』っていう」
「うん」
それはなんとなく、思う。
ライラにとって、『絵を描くこと』は、手段でもあって……目的でもあった、んだと思う。
名前の無い画家だったライラは、その絵につく名札じゃなくて、絵自体が彼女の表現だった。だから、『ライラ・ラズワルドはここに居る』。うん。分かる。
「それから……最近はちょっと、違うことも言ってるのかもね。『こんなに美しいものがありましたよ』とか。そういうの」
そしてライラは、ちょっと笑ってそう続けた。
「あんたの絵って、どちらかというとそういう声よね。『綺麗なものがありましたよ!』っていうかんじの絵だもの。あとは『描くの楽しい!』かな」
はい。その通りです。描くの楽しいです。
それと……うん。『綺麗なものがありましたよ』も、ちょっと、そうかもしれない。
「……ま、そう考えるとさ。芸術って、1つのメッセージみたいなものよね」
ライラはそう言って、また麦茶を飲んだ。そろそろコップが空になる気がしたから、彼女の分と僕の分、合わせてお代わりを出す。ライラはお礼を言ってからまた麦茶を飲み始めた。……お代わりを出しておいて何だけれど、そんなに飲んでお腹たぷたぷにならない?
「別に、全ての芸術にメッセージがある必要はないと思うわ。何も考えてないものだって、別に存在しちゃいけないって訳じゃないし、それが劣るって訳でもないと思う。けれど、逆に、何もメッセージを込めなかったものを見た人が、勝手にメッセージを読み取ることだって、あるのよね。多分。まあ、描く側からしたら迷惑な話なんだけどさ、それ」
ライラはそう言って顔を顰めた。多分、そういう経験があるんだと思う。……特に彼女は、彼女が描いたものを他の人の名前で発表するしかなかったから、そういうの、多かったんだろうな。
そこでライラの話は一区切りした、らしい。ただ、ライラは相変わらず考え続けていて、僕のベッドの上に座ったままで、お茶のカップを両手で包んだままだ。そして僕は相変わらず、眠くないままだから、丁度いい。
「……だから、っていうのも変かもしれないけどさ。あんたが伝えたいものとか、あんたが思ったものとか、感じたものとか……『描きたいもの』がはっきりしてた方が、あんたの魔法って上手くいくような気がするのよね」
ライラはそう言いながら、窓の外、空を見上げる。
空に見えるそれは、魔王のお腹だ。ふにふにしていて、ちょっとざらざらしていて、ものすごく吸水性がいいかんじの手触り。画材にはすこぶる不向き。
「私は魔法は使えないけれど、やっぱり、目的っていうか、なんで描きたいのか、とか、何を描きたいのか、とかがはっきりしてた時の方が、いい絵、描けるもん。上手い下手じゃなくて、自分で気に入る気に入らないっていうかさ。技術が追い付かない時は歯がゆいし、悔しいし、けれど……やっぱり、気に入るの。描いてて楽しいの。そういうやつは」
「うん」
それは、分かる。すごく分かる。
『描きたい』がはっきりしているものの方が上手くいくことが多い。誰かに頼まれたからじゃなくて、自分で描きたいと思ったものの方が上手く描けることが多いし、どうして描きたいのか、何を描きたいのかはっきりしているものの方が上手くいく。それは、すごくよく分かるよ。
「……あんたは、何描きたい?ただ、のっぺりと青空なんて描きたいわけ?違うでしょ?」
ライラの問いかけに、考える。
僕が描きたいものって、何だろうか。
僕が描きたいものは……少なくとも、のっぺりの青空、じゃ、ない、と思う。
というか、僕は描きたいのであって、塗装したいわけではないから、やっぱりあれは違う。
となると、じゃあ、雲が浮かんでいる空が描きたいのか、と言われると……今度はそれもなんだか違う。
曇り空も、雨降りの空も、虹がかかる空も、夜空も……なんとなく全部、しっくりこない。多分、それらを描きたいわけじゃないんだ。僕は。
「……地上?」
「んっ?え?地上なの?」
試しに口に出してみたら、ちょっと、しっくりきた、というか。
ええと……いや、でも、青空になった夜の国は、見てみたい。あと、個人的には色を塗られて縮んでしまう魔王も、気になる。
それから、何より……光を食べられてしまうことがなくなって、平和になって、のびのびと温かく暮らせるようになる、レネやタルクさんや竜王様が、見たい。
……そういう光景を、描きたい。
「あ、そうか」
「やっぱり地上?ねえ、魔王に地上描くつもりなの?おーい」
やっと分かった。
僕が描きたいものは、単なる空じゃなかった。
空はあくまでも手段だ。僕が描きたいのは、その先。ずっと先。そして、それら全部をひっくるめたものだ。
僕が、描きたいものは……。
「……未来」
「夜の国の、滅びからすごく遠い、そういう未来が……夜の国の夜明けが、描きたい」
僕が描きたいものは、この国の未来の姿であって、こうあればいいっていう、そういう、理想の未来なんだ。
ライラはぽかん、としていた。
じっと僕の顔を見て、目を瞬かせて……それから、ちょっと僕は心配になる。
「……漠然とし過ぎているだろうか」
ライラを見つめ返しながらそう聞いてみたら、ライラははっとして、それからちょっと考えて、妙な顔をして……答えてくれた。
「ええと、いいんじゃないの。未来。未来、ね。うん……でっかく出た方が格好付くわよ」
「そっか。それならいいんだけれど……未来の絵、描いて上手くいくだろうか」
描きたいものがはっきりしたのはいいんだけれど、それをどう画面に表現するかは全然決まっていない。魔王に描きこむとしたら何を描けばいいんだろうか。うーん。
「まあ……塗装よりはうまくいくんじゃない?分かんないけど」
「うん。僕もそう思う」
でも、多分、これで一歩前進だ。塗装よりはいい。塗装よりは。
「……まあ、うん。でっかい絵になりそうね。いや、物理的にもそうだけど、その、モチーフの規模?概念の大きさ?ええと、そういうのが」
うん。それもそう思う。けれど……描きたいものがはっきりしたら、俄然、描きたくなってきた。だから多分、大丈夫だと思う。
僕が『なんとかなる気がしてきた!』っていう顔をしていたからか、ライラは苦笑いしながら、言った。
「ま、いいんじゃない?でっかい絵だってさ。やっぱり男はそれくらいじゃなきゃあ」
そっか。それはよかった。……ん?あれ?
「僕は男じゃないんじゃなかったっけ?」
「そうね。まあふわふわ坊やだけど?」
迷いもせずに返されてしまった。このやろ。
「……でも、いいじゃない。トウゴはちょっとふわふわしてるくらいの方がいいわ。いつもさっきみたいな顔されてたらなんか調子狂いそうだし……」
……僕、変な顔してたんだろうか?うーん……ちょっと恥ずかしい。
「あ、いいじゃない。その顔してなさいよ。その顔」
「ど、どの顔だよ」
「その『ちょっと恥ずかしい』って顔よ。よーし、もういいや。もうすぐ夜明けだし、このまま徹夜するわ。ってことで描かせて。いいでしょ?」
「なら僕もライラを描くけどいい?」
「あらいいわよ。じゃ、お互いにお互いをスケッチってことで」
……そして。
「……何故徹夜した」
「ライラが徹夜しようって言ったから」
「それに乗ったのはあんたでしょ。別にあんたは寝ててもよかったのよ。寝顔だってスケッチできるんだからさ」
翌朝。僕らはラオクレスの前でお互いに言い訳をしていた。
うん……あの、すみませんでした。
「まあ……仕方ないが」
ラオクレスは僕らを見て、深々とため息を吐いて……僕らの前に置いてあったそれぞれのスケッチブックを見て、ちょっとだけ、笑った。
「何か吹っ切れたらしいからな」
僕らが描いたものは、お互いの笑顔だった。
すごく楽しそうな……要は、絵を描いている時の、顔だ。
……うん。やっぱり、絵を描くのは楽しい。それを思い出せたから、徹夜の甲斐はあった、と、思うよ。