1話:牢屋の中でも餅は美味い
……黙っている。母親が何か言っているのだけれど、それにずっと僕は、黙っている。
理由を聞かれている。『どうして点数が悪かったの?』『どうしてこの問題が解けなかったの?』と。
勉強時間が足りなかったから。
……こう言ってもきっと満足はしてくれない。その次に始まるのは『どうして勉強時間が足りなかったの?』だ。
暗記していたはずなのに思い出せなかった。
……これも駄目だ。『どうして思い出せなかったの?』になるだけだ。
緊張してた。手が震えて頭が真っ白になって、途中で駄目になった。
……一番駄目な奴だ。『また失敗する気なの?』って言われる。また心配させる。
分かってる。多分、僕の両親は、不安なんだ。心配なんだ。だからきっと、今もこんなにたくさん、質問してる。
安心させなきゃいけない。安心させなきゃ。
だから理由をつけなきゃいけない。何か。こう言ったら納得してくれて、安心してくれる理由が欲しい。
……けれどやっぱり僕は、言い訳をするのも、嘘を吐くのも、どうにも苦手だった。
結局、質問には何も答えられなかった。母親は質問を全部言ったら少し落ち着いたみたいで、ため息を吐きながら、『勉強しなさい』と言った。だから僕は、図書館に向かう。
図書館の自習スペースには、あんまり人が居なかった。
少し寂しい印象のスペースを眺めてから、僕はできるだけ端っこの席に座って参考書とノートを開く。
……けれど、鉛筆が動かない。頭はもっと動いてない。
勉強しなきゃいけないな、と思うのに、まるで頭が動かない。
参考書のページを開くけれど、文字が頭に入ってこない。オレンジ色の文字の上に赤いシートを乗せたり外したりしながら、でも、文字を読めてない。
……そんな時だった。
「やあ、久しぶり」
僕の前に、痩せて背の高い男の人が立っていた。
「あ」
「トーゴ少年。僕のこと、覚えてるかい?」
「勿論」
僕は慌てて、立ち上がる。目の前に来たその人を見て、勝手に気持ちが明るくなってくる。何が解決したわけでもないのに、これから何かが解決するような、そんな気分になってしまう。
「ええと……『先生』?」
ちょっと躊躇ったけれど、そう、呼んでみる。……すると、男の人はきょとん、として、それからくつくつ笑った。
「そうだ。そうだったな。僕は『先生』だった。うん」
『先生』は、僕のことを懐かしそうに見て、それから、僕の隣に置いてあった、僕の鞄を見る。
「おお。そうか。君、中学生になったんだな!」
「はい」
僕が持ってるのはランドセルじゃない。もう、小学生じゃないから。
「よしよし。立派だぜ、トーゴ少年!心なしか顔つきもちょっと大人っぽくなったじゃあないか。ま、とりあえず、御入学おめでとう!」
そう言われて、なんだか不思議なかんじがする。けれど、珍しい言葉だけれど、嬉しい。
……そんな折、ふと、視線が刺さる。司書さんや、スペースの別の利用者の人の。
「……時に、僕は思い出したが、ここ、図書館だったな?話すには不向きだ」
そうだった。ちょっと僕ら、うるさかった。
「いや、すまないね。見知った顔があったもんだから、つい、声を掛けてしまった。君は勉強中だったのかな?邪魔したね」
「いいえ、あの」
先生はにこやかにそう言って、さっと離れていってしまう。僕は咄嗟に引き留めようとして、けれど特に引き留める理由も無かったし、何も言えない。
……けれど。
「……それとも、サボっちゃうか?」
くるり、と振り向いた先生は、にやにやした顔で、そう言った。
まるで、僕が何を考えてるのか、分かるみたいに。
理由なんて何も、言えなくても。
……だから僕は、思わず言ってしまう。
「……さぼっちゃう」
「よし、いい返事だ、トーゴ少年!では早速、怒られる前にずらかろうじゃないか!」
先生はそう言って、早足に自習スペースから出て行く。僕は慌てて荷物をまとめて追いかける。
「こういう時にこそ『すたこらさっさ』という表現が使われるべきだなあ」
「すたこらさっさ……」
何やらご機嫌な先生の後を追いかけながら、僕は図書館を出た。
……ええと、すたこらさっさ。すたこらさっさ。
そうして僕らは、カフェに来た。
……前にも来た所だ。ええと、確か、『コーヒーがクソ不味い店。何故カフェを名乗っているのかは甚だ謎』。
そこに入って、カランカラン、とドアベルの音を響かせて、先生はがらんとした店内を突き進んで……カウンター席に座った。
「よし。マスター、いつもの」
そして格好良くそう言う。すごい。物語のワンシーンみたいだ。
「いつものって、宇貫先生ね。あんたいつも違うの頼むでしょうが」
けれど、物語みたいには決まらない。あ、でも、これはこれで……。
「うん。それもそうだ。変に格好つけるんじゃなかった。ええと……よし。じゃあ僕はミルクティーとアップルパイにしよう。トーゴ少年。君は?」
先生に聞かれて、僕は慌てる。ええと、こういうところで注文なんてしたことがない。
「ええと、あの、同じ奴で……」
なのでそういう注文になってしまうのだけれど、それは笑顔で受理された。よかった。
僕らが注文してから、カウンターの向こうでカフェのマスターが動き始めて、そして、ミルクティーのいい香りが漂い始める。すごいな。ミルクティーって、こんなにいい香りがするものだったっけ。
……そんなことを考えていたら、ふと、黙りっぱなしだったことに気付いた。
先生はちょっと僕を見ているけれど、あの、これ、すごく気まずいんじゃないかな。僕が先生を引き留めてしまったようなものなのに、何も喋ることが無い、っていうのは……。
「あ、あの、ミルクティー、好きなんですか?」
それで僕は、そんなことを聞く。
「ん?まあ、好きか嫌いかで言ったら好きだな。何か気になったかい?」
「ええと……その、注文してたから」
……なんて理由だ。もっと上手く話ができればいいのに。
「ふむ。まあ、ぶっちゃけてしまうとね、トーゴ。特に理由は無い!」
けれど先生は僕の下手な会話なんて気にしないらしくて、満面の笑みで答えてくれる。
「……いや、本当に無いな。この店はコーヒーさえ頼まなければOKな店だ。それ以外は全てすこぶる美味い。コーヒーに割り振られるべき美味さが全て他のメニューに行っているからそれは間違いないんだが」
「宇貫先生!聞こえてますよ!」
ちょっと真面目そうな顔をして何か言ったと思ったらこれだ。マスターも苦笑いしながら先生の言葉に咎めるふりをする。先生はそれにけらけらと笑って……それから、僕の目をじっと見つめて、言った。
「まあ、そういうことで、僕に僕の注文の話をさせても多分、あんまり面白くないぜ」
今のでも十分面白かったけれど……。
「ってことで、君の話を聞かせてくれるかい、トーゴ」
……そうか。やっぱり先生は、なんとなく、僕の気持ちが分かるみたいだ。
聞いてしまうのは少し躊躇われるけれど……でも。
「……あの」
「うん」
「ど、どうやったら、上手く言い訳って、できますか」
……僕は、正直に、聞いてみた。
「……マスター。僕は言い訳が上手そうな顔をしているかな?」
「してますねえ」
「そうか。ありがとう。だろうと思ったぜコンチクショー」
先生の言葉を聞いていて、僕はちょっと、焦った。これ、聞いたら失礼な奴だったんじゃないかな、と。
……ただ、先生は特段、不愉快に思った訳でもなかったんだろう。それが分かるような笑顔で答えてくれる。
「言い訳ってのも、シチュエーションによる。僕は今まで生まれてこの方大量の言い訳を重ねてきた、いわば言い訳のプロフェッショナルな訳だが、どういうシチュエーションで使うのかを知らないことには何とも……」
とんでもないことを言われた。そうか。言い訳のプロフェッショナルか。先生が言うとなんだか格好いい気がする。
「ええと、学力テストの結果が悪かったことについて」
「ええー……うわあ、すまんなトーゴ少年。それ、僕も苦手な奴だ」
……言い訳のプロフェッショナルにも、苦手な言い訳があるらしい。そっか。じゃあ逆に、得意な言い訳って何だろうか……。
「言い訳?言い訳だろ?うーん……風邪気味でした、とかか?あっ、身内に不幸があって気もそぞろでした、とか」
「いや、ええと、その、身内にする言い訳なので……」
なので色々と駄目です。それは。
「そうか。成程なあ。……ってことは、しっかり嘘を塗り固めておかないと見破られるな。ええと」
「あの、嘘っていうか、その、上手い言い訳……理由づけ、っていうか……」
考え始めてしまった先生を止めつつ、そう言う。上手く伝わってるだろうか。
「理由?そんなもん、正直、理由っつったって『出ないと思ってたところが出ました』とか、『覚えたと思ってたら覚えてませんでした』とか、『焦ったら時間切れになりました』とか、その程度しか無くないか?」
「うん」
「だよなあ……あ、だから考えてるのか。参ったな」
うん……。申し訳ない。先生を困らせてしまっている。
申し訳ないのだけれど、でも、一度尋ねてしまったことを引っ込めるのも申し訳ないから、黙って待っている。
「それで……理由が欲しいのは、君かい?それとも、君の身内の方?」
そこで、先生にちょっと不思議なことを言われたので、首を傾げる。
「……ええと、身内の方、の方で」
「そうか」
僕が答えると、先生はちょっと、ほんのちょっとだけ、悲しそうな顔をした。
「そうか。君の……ご両親、かな?君のテストの結果が悪かったことに理由が欲しい、っていうのは」
僕は黙って頷いた。すると先生もちょっと頷いて……ため息を吐いた。
「まあ……理由がないのは不安なんだろうな」
どうして分かるの、って、聞きそうになった。けれどその前に、先生の手が伸びてくる。びっくりして、体を竦ませて、でも、ぽふ、と、頭の上に手が乗る。……あれっ。
「君は良い奴だな。トーゴ。君は、両親を安心させたいんだろ?」
「……僕が不安がらせてるから」
「そうかぁ。やっぱり君、良い奴だなあ」
どこがだろう、と思うのだけれど、先生は構わず、僕の頭をふわふわ撫でる。
「まあ、人間は得てして、理由を求めてしまう生き物だからな。ある程度はしょうがない。しょうがないんだが……」
「……そう、なの?」
何か考えている先生に、つい、聞いてしまう。あ、駄目だったかな。考えてるの、邪魔してしまっただろうか。
「ああ、そうだぜ、トーゴ君。そう。人間ってのは、理由が欲しくて欲しくてたまらない生き物なのさ!」
けれど先生は僕を怒るでもなく、にやりと笑って、言った。
「……面白い話をしよう。さて、トーゴ。ちょっと考えてごらん」
「AさんとBさんはちょっと顔を知っている程度の仲だ。ある日、Aさんが道端でセールスマンに絡まれていた。Bさんはそこに通りがかって、咄嗟にAさんを助けた。……さて。この時、どちらがどちらを好きになる?」
……え、えーと、急に変な問題が出てきてしまったな。うーん。
「……助けてもらったから、Aさんが、Bさんを、好きに、なる?」
考えて答えたら、先生はにやにや笑って、手で×の形を作った。
「残念。答えは、BさんがAさんを好きになる、だ。……いや、勿論、AさんがBさんを好きになるのかもしれんし、分からんが。まあ、そういうこともある、程度に考えてもらって……あ、そういうことにするとこれ、何の意味も無いな?そもそも、AさんとBさんの容姿にもよるのでは……」
先生は出題方法に問題があったことに気付いたらしくて考え始めてしまった。うーん、この人、こういうところ、あるよね。
「あの、解説をお願いします」
とりあえず、悩む先生は置いておいて、解説を聞きたい。気になる。
「ああ、うん。そうだな。ええとだな……まず前提として、『BさんはAさんを好きになる理由がない』っていうのがある」
うん。それは分かる。Aさんは助けてもらったんだから、理由がある。Bさんは……助けたから、理由が、無い……あれ?
「そうだな。気づいたような顔をしているが。多分正解だ」
先生は僕の頭の中なんて見えっこないのに、そう言って満足気に笑う。
「そう。Bさんは、Aさんを『好きだった』理由がある分には納得がいくんだよ」
「理由がある。だから助けた。そういうことなら、話は分かるだろ?」
うん。分かる。
「そういうことさ。人間ってのは、ありとあらゆる場面、ありとあらゆる事象について、理由を求めてしまうのさ。だからBさんは、Aさんを助けてしまった自分自身に理由をつけようとして……『そうかなるほど!自分はAさんのことが好きだったんだ!』と勘違いする、らしい。で、惚れてしまうんだと」
……すごい。
そうか。理由を聞くと、納得してしまう。……あっ、僕も、理由を求めてしまった。そうか。解説が欲しいのも、理由が欲しいから……?
「……ただな。その理論で行くと僕はモテモテなんだが。現実は非情である」
先生が、ふっ、と笑ってそう言う。……本当かなあ。先生、格好いいから、人気がありそうな気がするのだけれど。それとも、言い訳のプロフェッショナルは女性に人気が無いんだろうか……。僕には大人気なのだけれど。
「ええと……それから、あとは、あれだな。公正世界仮説」
先生は『現実は非情である』の顔から一転して、ころっと元の顔に戻って、話を続けた。
「この世とは気まぐれと理不尽の渦中に人間があっぷあっぷしてるようなもんだが、人間は『因果応報』を信じたがる。だからこそ人間は、良い結果には良い行いがあったと信じたがるし、悪い結果には悪い行いがあったと信じたい。悪い事があった人は悪い人だ、と、思いたいんだよ」
……それは。
「だから、別に、テストの結果が悪いのは、君が悪い子だから、って訳じゃあないんだぜ、トーゴ」
そう、言われてしまうと……なんだか、その、すごく、あの、なんだろう。
これ、なんだろう。困ってる、訳じゃない、と思うんだけれど、何も言葉が出てこない。
「強いて言うなら、運の悪い子、かもな。うん。まあ、気にするな。悪い事があったら良い事もあるって……まあ、これも公正世界仮説に近しい気がするが……」
先生はちょっと悩んでから、それから、そっと、僕に教えてくれた。
「理由があると安心する。それは当然のことだ。だから時々は、理由が無いところにも理由を作ってやった方がいいのかもしれない。だが、それだけじゃあないぜ」
先生の言葉は、僕に言っているみたいだったし、先生自身に言ってるみたいでもある。不思議なかんじだ。
「理由が無くったっていい。人を好きになるのに理由なんて必要ない。気まぐれでミルクティーを頼んだっていい。そういうもんだ。理由が無いことを怖がっちゃいけない。……或いは、『本当の』理由が何なのか、ちゃんと自分の中で確認しておいた方がいいな。うん」
そう言って、先生はまたちょっと考えて……ちょっと情けない顔で、言った。
「……ってことで、君のご両親には『理由は特に無いけれど勉強は頑張る』っていう具合のことを言っておけばいいんじゃないかな。いや、駄目か……?」
……ええと、多分、それだと僕の両親は納得してくれないんだろうなあ、とは、思う。思うけれど、なんだかいけそうな気がしてしまうのはなんでかな。
「まあ、理由を聞いても更に理由を求めるタイプの人間には、別の餌を与えて気を逸らす方がいいと思うぜ。もっと心配なことをぶつけてやるとか。『ところで僕、風邪を引きました』でもいいし、『選択科目で悩んでる』……あ、これは中学校だと無いか。いやまあ、とにかくそういう……。どうだ、参考になったかい?」
「うん。すごく」
流石、言い訳のプロフェッショナルだ。そっか。別の餌を与えて気を逸らす。上手くできるかは分からないけれど、やってみよう。丁度、三者面談のお知らせのプリントが来るらしいし……。
僕が考えていたら、僕らの前に、カップとお皿が置かれる。ほわほわ湯気を立てるミルクティーと、ちょっと武骨なかんじのするアップルパイだ。
「さて、丁度、いいかんじにミルクティーとアップルパイが来たぜ、トーゴ。アップルパイにはバニラアイスがついてる。つまりどういうことだと思う?」
……どういうことか、僕が考えるより先に、先生は笑って言った。
「食べないと溶ける、ってことさ!さあ、食っちまえ食っちまえ!よし、食うぞ!」
うん。
よし、食うぞ!
食べた。飲んだ。美味しかった。
……なんだか落ち着いてしまった。でも、ふわふわしてる、というか……ええと、気分が明るくなった?そんなかんじだ。
「さて。じゃあ、そろそろ出るか。君の両親に言い訳するには、君、ノートに勉強の痕跡が増えてないことには何んともし難いだろうし……」
あ、そうだった。今から戻って図書館で勉強すれば……うん。いけると思う。
僕が『参考書のどこらへんを勉強するか』の計画を頭の中で組み立てていたら、ありがとうございました、と、カフェのマスターの声がする。……あっ。
「あの、お金」
僕の分、払ってない!
「ん?ああ、支払いは終わったぜ、トーゴ」
「お金、自分で出せます」
僕は慌てて、鞄から財布を出す。先生に出させる訳にはいかないよ。僕、今はお金、持ってる。お小遣い。だから、代金は支払える。
……けれど。
「そうか。まあ奢られてくれ。君の中学入学祝いってことで」
先生はそう言って、また、僕に手を伸ばす。またちょっとびっくりしたのだけれど、先生の手は僕の頭の上でぽんぽん軽く弾むだけだった。
「そうだな。ま、もし気になるって言うんなら、時々、僕の話し相手になってくれないかな」
それから、先生はふと、そんなことを言う。
……咄嗟に、意味が分からない。ええと、どういう、意味だろう?
「君、今後も図書館、使うかい?」
「はい」
「そうか。ならまた会うこともあるだろう。そういう時……忙しくない時、たまに、でいい。ちょっと僕と話してくれると嬉しいね」
先生はそんなことを言う。それは、嬉しいけれど、嬉しいけれど……。
「それはなんで……あっ」
「ははは。いやあ、早速、君、理由を求めてるな!?面白いなあ!ま、僕も君も人間だからな!しょうがない、しょうがない!」
話していた内容が学習できていない、っていうか、うう……。なんだかちょっと恥ずかしい。けれど先生は楽しそうに笑うから、まあいいか、という気持ちになってしまう。
「そうだな。理由を聞いてくれたところアレだが、これについては理由は無い、と言ってしまっても、いいな。或いは、僕が君をどうやら気に入ってしまったようだから、ってんでもいい。だが、それだと探求心溢れるトーゴ少年の気持ちは収まらんようだから……ふむ」
先生はちょっと笑いながら考えて……それから、顔の前に指を一本立てて、にんまり笑って、言う。
「君と話すと仕事が捗る。だからだ。……ってことで、どうかな。勿論、1回2回で構わないし、気が乗った時だけでいい。次が2年後3年後でも一向に構わんさ。どうだい?」
カフェから図書館へ向かう道を歩きながら、なんだか、体が軽いような、不思議な気持ちを味わっていた。
……できてしまった。理由が。
僕が、図書館に行っていい理由ができてしまった。それから、先生とお話ししていい理由も、できてしまった。
それがなんだか、嬉しくて……自由なかんじだ。変だけれど、そういうかんじ。嬉しい。楽しい。気持ちが軽い。
どうして、先生と話すのがこんなに楽しいのかな。先生と話すと気持ちが軽くなってしまうのは、なんでだろう。
……うん。
きっと、理由は無い。そういうことにしておこう。
次に会えるの、いつだろう。1か月後かな。2か月か……もっとかも。
早いといいな。すごく、楽しみだな。
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第九章:そこに理由は無い
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……目が覚めたら、冷たい床の上に居た。
体が痛い。頭がぼんやりする。
……ぼんやりする目であたりを見回してみたら、どうやらここは、牢屋のようだった。フェイと一緒に攫われて閉じ込められた時にもこういう牢屋だったな、と思い出す。
けれど、フェイは居ない。……僕以外、誰も、居ない。
ええと、僕、どうしたんだっけ。確か、灰色の手に、掴まれて、握られて、それで……。
「……攫われてしまった気がする」
うん。多分、僕、攫われてしまった……。
状況確認。ええと、まず、手足は縛られてない。それはよかった。でも、呼んでも、鳳凰も管狐も、来てくれない。宝石は手元にあるのだけれど……。
……まさか、鳳凰と管狐、どこかで酷い目に遭わされて、ないよね。
ぞっとする。怖くなる。すごく心配だ。
けれど……大丈夫だ。まだ、最悪の事態じゃない。画材は持ってる。大丈夫だ。大丈夫。
僕はブーツの中から携帯用の水彩用具を取り出して、早速、描き始める。
まずは……。
……うん。
「ええと、鍵を出せばいいのかな、これ」
ええと、牢屋を出るために何を描いたらいいのかが、分からないぞ。
鍵は多分、描いても駄目だと思う。この牢屋の鍵なんて知らないし、合わない鍵を出してもしょうがない。
なら新たに管狐とかを描くしかないかな、と思ったのだけれど、それをやるなら最初にスケッチブックを描かなきゃいけない。小さい紙じゃああんまり色々は描けないから。
だからとりあえず、スケッチブックを出して、それから管狐を描こう。2匹目の。それで、管狐に牢屋の外に出てもらって、状況確認をもう少し。あわよくば鍵をとってきてもらって脱出。よし。
管狐を描いて出したら2匹目になってしまうけれど、しょうがない。いいよ。2匹同時に僕のシャツの袖とかに潜り込まれてもいいよ。とりあえず今はこの牢屋を脱出しないといけない、気がする。
管狐はいつも見てるから、さらさら描ける。僕は管狐を描き上げて、着彩も終わらせて、それで……。
……あれ。
出ない。
ちょっと焦りながら、加筆していく。手を抜きすぎたかな、と思いながら。まさか、とも、思いながら。
……けれど、出てこない。管狐が、生まれない。
じわじわ怖くなりながら、僕は、餅を描いてみる。それから、濃すぎる麦茶。
……これは、出てきた。食べたら普通に餅で麦茶だった。うん。美味しい。
ええと、つまり、餅と麦茶は出せるけれど、管狐は、出せない……?
水彩用具が古くなっていてそのせいでうまく魔法にならないのかな、とか、色々考えて、次は絵の具を描いて出した。
……けれど、魔法画用の絵の具を描いて出してみて、その絵の具がとんでもない方へ飛んでいってしまって、また唖然とする。
全然操作できない。これ、魔力の少ない魔石の絵の具を使った時の感覚だ。
と、いうことは……もしかして、僕、封印具を着けているのと同じような状態に、なっている、んだろうか。
この世界に来てすぐぐらいに出せたものしか、描いても出せない。多分、魔力不足と同じようなかんじなんだ。
まずい。まずいぞ。こんなことになるなんて思ってなかった。
気持ちは焦るけれど、打開策は何も見つからない。せめて、管狐と鳳凰が戻ってきてくれれば……あ、もしかして、管狐と鳳凰も、宝石の中にいるけれど魔力不足で出てこられない!?
……うわ、どうしよう、どうしよう。
何か無いか、って焦ってポケットとかを探ってみるけれど、妖精のキャンディとちびた鉛筆、あと、この間の不思議なお客さんから貰った星空の欠片みたいなあれ、そして森の小石と消しゴム代わりにしようとしてたパンの白いところが出てきただけだった。
そして。
「……う」
かつ、かつ、と、こちらに向かってる足音が、聞こえてくる。




