15話:緋色の竜*2
その日もレッドガルドさんは遊びに来た。
……そしてその日は、記念すべき日になった。
「悪ぃ!なんか拭くもん貸してくれ!」
「はい」
玄関先で彼にタオルを渡すと、彼はお礼を言って体を拭き始めた。
……そう。
「いやあ、ひっでえ雨だな!急に降ってきた」
今日は、異世界に来て初めての雨の日だ。
そういえば、この世界に来て初めての雨の日だな。今までずっと晴れてたから、雨がすごく新鮮に感じる。
……野宿してる頃、一回も雨が降らなかったのは本当によかったなあ。
「おもしれえなあ。馬も屋根、つけてもらったのか」
「うん。降ってきたから慌てて描いた」
雨が降ると馬達が濡れて可哀相だから、馬が雨宿りできるように、水浴び場の横に屋根をさっと作っておいた。
……ちなみに、水浴び場として、泉の横に小屋を作ったんだけれど、それはレッドガルドさんがちょくちょく遊びに来るようになったからだ。うん、彼は唐突に来るので、下手するとその、見えるから。……うん。それはちょっとやっぱり恥ずかしいので。
「馬も幸せもんだな。雨宿りさせてもらって、居心地のいい場所ができて」
そういえばこの辺りはすっかり、天馬と一角獣の遊び場になっている。気づいたら割ととんでもない数が来るようになっていた。牧場が経営できそう。
そして、そんなとんでもない数の馬が来るものだから、雨宿り用の場所も広めに作ることになった。うん。大きなものを実体化させるとやっぱりすごく疲れる。
でも、僕も成長した、ということなんだろうか。以前の僕だったら、この大きさの屋根を描いたら気絶していたかもしれないけれど、今は平気だし。
……つくづく、今まで雨が降らなくてよかった。
「そういえばこの辺りって、あまり雨は降らないの?」
そういえば1か月以上雨が降ってなかったんだよな、と思いながら、ちょっと聞いてみた。
すると。
「ん?いや、そういう訳でもないと思うがなあ……あ、でもこの前降ったのはもう半月ちょっと前、くらいになるか?うん、確かに最近は少なかったかもな」
……レッドガルドさんからは、そんな答えが返ってきた。
あれ?半月ちょっと前、というと……僕が鳥に会った頃?それとももう少し前?まあ、どちらにせよ野宿していた頃だけれど、確か、その頃には雨は無かった、と、思うんだけれど。
もしかして森にだけ雨が降っていなかった?いや、まさかね……。
「あー、トウゴ。悪いんだが、今日は泊まってっていいか?雨、止みそうにねえし……」
「うん。どうぞ」
そしてレッドガルドさんは泊まっていくことにしたらしい。別に構わない。
……ほら、『絵に描いたものを実体化する』だけじゃなくて、『絵に描いたものを実体に反映させる』の方を使うと、客室の建て増しも簡単だから。一部屋つくってしまった。これでレッドガルドさんはゆっくりしていき放題。僕は人物デッサンし放題。万歳。
「あーあ、くそ、早く止まねえかなあ……」
レッドガルドさんは頭を掻きつつ、窓の外を見てため息を吐いている。
「雨、嫌いなの?」
「ん?まあ……そうだな、あんまり好きじゃねえなあ……。特に出先だと」
うん。出先での雨はちょっと嫌かもしれない。それは分かる。
「お前は?雨、好きなのか?」
「うん」
僕は雨が好きだ。絵の具が乾きにくかったり、洗濯ものが乾かなかったりもするけれど。でも、窓の外でしとしと降っている雨をぼんやり眺めるのは、好きだ。
あと、雨の日は静かでいい。周りの音も全部消えてしまって、全部雨音になる。この辺りは森の中だから元々静かだけれど、それでもやっぱり、雨の日は雰囲気が違う。白っぽく煙って、遠くの木々が薄い緑色、そして灰色に見える。ああ、この森の様子も描きたいな。……描いても変に実体化しないように、適当に手を抜いて描こうかな。
僕は軒先で森の絵を描き始めた。レッドガルドさんは家の中でゆっくりしている。
……そういえば、彼のことはよく知らない。
彼自身は彼のことを話すのにあまり躊躇が無いようなんだけれど、僕も僕であまり僕のことを話さないので、僕だけ聞くのもなんだか対等じゃない気がするし、必要最低限のことしか、お互いに知らない、と思う。
けれど、どうやらレッドガルドさんが最近、家の方で大変そうだ、っていうのはまあ、分かる。
密猟者達の後片付けが大変なんだって、言ってた。
彼の家がここらへん一帯の領主をやっている、って聞いたけれど、つまりそれって、彼は貴族だっていうことなんだろう。
そしてそのせいで、色々大変らしい。人付き合い、社交の類は彼が次男だからっていう理由で結構免除されているらしいんだけれど、次男だからっていう理由で、領地内の悪さを取り締まりに走ったりとか、そういうことはさせられているらしいし。うん、よく分からないけれど。
……まあ、つまり、レッドガルドさんがここへ遊びに来る時っていうのは大体、休みたい時なんだと思う。
ここは静かだし、いいところだと思うよ。馬達も居るし。
ただ……1つだけ気になるのは、レッドガルドさんがどうやってここまで来ているのか、っていうことなんだよな。
彼に、ここから彼の家までどれくらいかかるのか、って聞いてみたんだけれど、『道が分からずに歩いたら半日ちょいかかるかもな。でも、場所が分かってて、それなりに飛ばして進めば1時間くらいだぜ』というすごいお答えを頂いてしまった。何をどう飛ばしたら半日の道を1時間にできるんだろうか。
……もう1つ気になることがある。
それは、レッドガルドさんが僕を密猟者達から助けてくれた時、どうやって助けてくれたのか、っていうことなんだ。
僕はすぐに気絶してしまったから分からないけれど……追いついてきていた密猟者達は、何人くらい居たんだろうか。あの時、ロープで縛った全員がロープを抜けて追いかけてきていたのなら、10人以上が居たはずだ。
それを、レッドガルドさん1人で対処した?……でも彼は、特に武器らしい物を持っているわけでもないし。
うーん……まあいいや。考えるだけ無駄かな。どうしても気になるようなら、今度また、聞いてみよう。
考えるのをやめて、また森の絵に集中し始めた。
雨の日の森はやっぱり綺麗だ。でも、雨の表現って難しいな。
……前、油絵で、雨の森の奴を見たことがある。森があって、川があって、そこに雨が降り注いで白く煙って、それでいて、霧じゃなくてちゃんと雨の絵。
できれば僕も、ああいう奴を描いてみたいな。この世界に来てから水彩だけでやってきているけれど、そろそろ油絵具も出してみようかな。油絵具も描けば出てくる、とは思う。うん、記憶が薄いから、ちょっと頑張って思い出さないといけないだろうけれど……。
雨の日の森は少し寒い。僕が雑に描いて出したシャツとズボンだけだと、少し肌寒いみたいだ。
シャツの下で鳥肌が立つ。うん、やっぱり寒い。僕は元々第一ボタンまで全部閉めたいタイプだから、これ以上は暖かくならない。
何か羽織るものも用意しておいた方がいいかなあ、と思いながら、とりあえず今はブランケットで凌ごうかな、と思う。今は折角雨が降っているんだから、雨の森を描きたい。羽織るものなんて描いてる暇はない。
……さて、じゃあブランケットを持ってこようかな、と立ち上がった、その時だった。
馬達が、嘶いた。
何かに怯えるみたいに。
遠くへ目を凝らす。すると確かに、雨の中……近づいてくるものが、見える。
しとしとと降り注ぐ雨に濡れながら、確実にこっちへやってきているそれは……フード付きのマントを着た人が数名。
そして……水でできた、巨大な蛇、だった。
最初に思ったのは、綺麗だな、ということ。
人はよく分からないけれど、水でできた大蛇、というのはとても綺麗だ。透き通った体の向こうに森の緑が透けて見える。雨に打たれて体の表面に波紋が浮かぶ。そして動くたびに揺れる体と、その中で歪む風景。
……異世界って本当に不思議な生き物が居るんだなあ、と思わされる。いや、あれが生き物なのかは分からないけれど。
とにかく、僕はその一団を見て……危機感のようなものをうっすらと感じながら、それでもじっと、彼らを見ていた。
その時だった。
人の1人が何かを喋って、それを聞いたらしい水の大蛇が、その尻尾を振り上げて……。
……馬達が雨宿りしている屋根へ、尻尾を振り下ろした。
凄まじい音。木の板で葺いた屋根が割れて砕ける。梁が折れて、柱も倒れた。
……そして、その下で雨宿りしていた馬達は、嘶きながらあちこちへ逃げて……最終的には、僕の方へ来た。
天馬達が翼を広げて、家の前に立ちはだかる。一角獣はさらにその前で姿勢を低くして、角を構える攻撃の姿勢だ。
僕も流石に絵の道具を置いて、家の前に降りた。
「ふむ。中々妙なガキが居るな。見たところ男のようだが、これほどユニコーンを手懐けるとは。……魔獣使いか?」
僕らへ近づいてきたフードの人は、そう言ってにやりと笑う。……嫌な笑顔だ。元の世界で何度も見たことがある。すごく、厭な顔だ。
「……何か、うちの馬にご用ですか」
馬に囲まれたままじゃあ恰好が付かないな、と思いながら、それでも僕はそう言ってみた。『用があっても無くてもさっさと帰ってくれ』という意思は隠さずに。
「馬、か。ふふ、ペガサスやユニコーンを馬呼ばわりとは、中々面白い。……だが、そうだな。『今は』ペガサスにもユニコーンにも用は無い。無論、頂けるものがあるなら頂きたいが……」
……『頂く』という言葉を聞いて、僕は察した。
こいつらは、密猟者の仲間だ。
「我々の目的は、レッドガルドの次男だ。……ここに居るな?さあ、出してもらおうか」
「……居ませんよ」
「ははは。見え透いた嘘を吐かれても困る。ここに奴が来ていることは分かっているのだ」
うん、まあ、だろうね。
「居たけれどもう帰りました。雨がもっと酷くなる前に、って。忙しいみたいですよ。彼」
「……そうか」
流石に『居ません』だけで貫き通すのは難しい気がしたので、少し脚色した。でも、これなら別におかしくないんじゃないかな。多分。
レッドガルドさんの性格からして、僕の家に泊まることに躊躇が無いのはまあ、そうなんだけれど……どうやら目の前の相手はレッドガルドさんのことを知っているらしいし、なら、彼が忙しいことも知っているはずだし。
……と、思ったら。
僕の体に、何かが巻き付いていた。
なんだ、と思うより先に、体が締め付けられた。僕を締め付けているのは、いつの間にか僕の足元へ現れていた、水の大蛇の尻尾だ。
天馬が慌ててばさばさ翼をはためかせたり、一角獣が水の大蛇を突いたりするけれど、水でできた体はどんな攻撃も受け付けないらしい。僕ももがいてみたけれど、するり、と手が水の中に入り込んでしまうばかりで、ちっとも抵抗できやしない。なのに、僕を締め付ける力は強まる一方だった。
「う」
声と一緒に、息が漏れた。肺を肋骨ごと圧迫されて、体から空気が抜けていく。
みし、と、骨が軋んだ。苦しい。頭に血が上るような感覚。頭が熱い。でも触れられているところが冷えて寒い。
……このまま絞め殺されるのか、と思った瞬間、僕を締め付ける力が弱まった。
急に肺に空気が入ってきて、咳き込む。へんなとこに水が入った。
「可哀相にな。どうやらお前はレッドガルドに信用されていないらしい。奴が手の内を明かしていたなら、そんな嘘は吐かなかっただろうに」
「……え?」
フードの人はそう言って、それから水の大蛇に何かを指示した。
途端、僕の体は高く持ち上げられてしまう。天馬達がばたばた飛んできては僕を助けようとしてくれるけれど、不思議な大蛇の尻尾は相変わらず、僕を掴んだままだった。
「信用されていない相手を気遣ってやる必要はないだろう?さあ、言え。奴はどこに居る?」
僕は言われた言葉の意味を反芻して困惑しながら、でも、ここでレッドガルドさんの居場所を言うべきじゃないことは分かったから、ただ黙っていた。
「……ふむ。なら今度は内側から責めるか」
すると、僕を締め上げている蛇の尻尾がするり、と口元まで伸びてきた。
……あ、これ、まずいやつなんじゃないだろうか。
僕の嫌な予感は的中して、水でできた蛇の尻尾は僕の口の中へ入り込もうとする。いや、これ駄目なやつだ。溺死する。溺死するやつ。
でもどうしようもないから、なんとか蛇の尻尾から逃れるべく首を振って足掻いていたのだけれど……。
「おい!てめえら何してる!」
……ああ、うん。来ちゃったらしい。
「そいつを離しな。俺が目的なんだろ?ああ?」
レッドガルドさんが、家から出てきてしまっていた。
レッドガルドさんが出てきた途端、蛇の尻尾は僕の口を狙わなくなった。気が逸れた、らしい。
助かったけれど、助かったと喜ぶ気にはなれない。どう考えても、これ、まずい状況だ。
「ようやくお出ましか」
「おう。うるせえ声が聞こえたもんでな。目ェ覚めちまったじゃねえか。どうしてくれんだ」
レッドガルドさんは玄関から出てきて、真っ直ぐ僕らの方へ歩いてくる。これ、来ない方がいいんじゃないのかな……。
「ふむ。どうやらこのガキに思い入れでもあるらしいな?」
「……ああ。恩人だ」
……うん、僕のせいだな。これは。レッドガルドさんは出てこない方がよかったんだと思うんだけれど、でも、僕が捕まっちゃったので出てこざるを得なかった。本当に申し訳ない。
「そうか。なら今ここで、このガキを絞め殺してみたら面白いかな?」
「おい!」
一瞬、僕を締め付ける力が強くなったけれど、レッドガルドさんの怒声が上がった瞬間、また締め付けは弱まった。
「……やめとけ。そいつに手ェ出してみろ。俺も怒るが、ペガサスもユニコーンも……この森の精霊だって、黙っちゃいねえぞ。多分な」
「はっ。精霊、か。もう少し上手い文句を言ってほしかったものだな。だが……ペガサスやユニコーンが黙っていない、というのは確かなようだ。ならば、無用な争いはこちらとしてもしたくないな」
フードの人はそう言って嫌な笑顔を浮かべて……言った。
「大人しく装備を捨てろ。まあ元々この雨の中で戦えるとも思えんが」
レッドガルドさんは彼らをぎろり、と睨みつけた。その目は熾火みたいに明るく、鋭い。
……そして彼は、腕輪と耳飾り、クロスタイに飾られていた宝石を外して、泉の中へ放り投げた。
ぽちゃん、と音がして、泉はその水底に真っ赤な宝石を4粒ほど、沈めることになる。
「……ほう。中々潔いことだな」
「へっ。そいつぁどうも」
レッドガルドさんはそう吐き捨てるように言うと、その場の草の上にどっかりと座り込んだ。
「おら。連れていきたきゃ連れていけ。ただしそっちのガキは離していけよ?」
「話が早くて助かるよ。無能君」
フードの人が合図すると、他のフードの人達がやってきて、レッドガルドさんに縄をかけていく。……そして。
「おい!そいつは離せっつっただろうが!」
僕にも、縄が掛けられ始めた。
「ふっ。このガキに手を出すとペガサスやユニコーンが黙っていない、のだったな?……つまりこのガキは、いい餌になるということではないか。当然、そんな貴重な餌を我々が見逃す訳がないだろう?」
僕もレッドガルドさんも縛り上げられた後、水の大蛇が僕とレッドガルドさんを咥えた。
「安心しろ。殺しはしない。……ここでは、な」
「てめぇ……!」
そして僕らは、水の大蛇に呑み込まれて……意識を失った。