16話:広い広い大地へ*3
よくよく話を聞いてみたら、荷物の受け取りじゃなかった。サインって、あのサインだった。有名人とかに頼むやつだ。
……なんで!?
「分かったわ。……はい」
ライラは女性の手帳の表紙に、渡されたペンでサインを入れていた。……あ、これ、見たことある。ライラが自分の絵に入れてるサインだ。要は、『偽物』だって分かるように入れていたっていうサイン。
それを見て、女性はすごく喜んだ。あげられた声は控えめだったけれど、その表情が、彼女の嬉しさをよく表している。うん。分かるよ。顔を見れば、本当に喜んでいるんだって。
「あ、あの、トウゴ・ウエソラさんも、もしよろしければ……」
「ええと……」
僕は、ライラから手帳とペンを黙って渡されて、困る。サインって。サインって。僕はそんなに大した人間じゃないのに。
……けれど、女性はすごく楽しみに待っているみたいだし、ライラは『さっさと書いちゃいなさいよ』みたいな顔をしている。ああああ……。
……結局、『上空桐吾』って、書いた。この世界の文字じゃなくて。漢字で。
篆刻みたいに、4文字を正方形にまとめたかんじにした。最後に四角で囲めば、まあ、少しは恰好がついただろうか。
ええと、高校に入ってから僕は、芸術は書道を選択していた。美術を選択しようとしたら親が渋い顔をしたから、せめて筆を握る書道を選択することにしたんだけれど……それが、今、役に立った気がする。うん。
僕のサインも書いて、女性の手帳に2人分のサインが収まったところで、女性は何度も何度もお礼を言ってくれた。それこそ、こっちが申し訳なくなるくらいに。
……本当に、僕のサインでよかったんだろうか。うう……。
「あの、私、お2人の絵、とても好きなんです」
僕が申し訳なく思っていると、女性はそう、話し始めた。
「コンクールに別々に連作を出した、という時点ですごく斬新ですし、ドラゴンが悪戯した結果、お2人の名札が正しい位置に来てしまった、っていうところにも惹かれます。けれど、連作をバラバラに見ても、ドラゴンの話が無くても、あの絵には元々、惹かれていたんです。……すごく素敵だから」
夢中になって話す女性の言葉を、すごく新鮮な気持ちで聞く。なんだろう、なんだろう……ええと、これ、なんだろう。
「ライラ・ラズワルドさんの絵は、まるで、本物の嵐を切り取ってきたみたいだわ。そこに私も居るような気分になるんです。冷たくて、孤独で……怖いような。そういう不安な気分なのだけれど、それがいっそ清々しいようで」
ライラをちらりと見てみると、ライラはちょっとくすぐったそうな、そういう顔をしていた。うん。そうだよね。そういう顔に、なるよね。
「それからトウゴ・ウエソラさんの絵の方を見ると、何と言うか……救われるんです。ああ、ここにいるぞ、って、いう……違うな、『嵐の中に居る人のことを知ってくれている人が居る』っていう感覚なのかしら。或いは、嵐の中に居る人を私が見つけられたっていう感覚?うーん、難しいのですけれど、何か、助かったような、救われたような、そういう気分になれるんです」
……どきどきする。
緊張、とも違うけれど、足元がぐらぐらするような、そういう気持ちになる。けれどそれは怖さじゃなくて嬉しさで、足元がぐらぐらしているみたいに感じるのは、きっと僕がふわふわ浮かれているからだ!
「それから、ライラさんの絵は構図がやっぱり綺麗なんですよね!下から見上げた木の迫力とか、叩きつけるような雨のばらばら降ってくる様子とかがもう、凄く綺麗で……トウゴさんの絵は、構図がライラさんの絵と対比しているのが素敵なんですけれど、何よりも透き通った色にはっとさせられます。ああ、この人は嵐の森を見て感動できる目の持ち主なんだな、って。……そして絵を見た私も、そういう目になれた気持ちになれるんです」
こんなに嬉しくなってしまっていいんだろうか?この女性はこんなに嬉しそうに話してくれるけれど、いいんだろうか?これ、本当に、いいの?
「初めてお2人の絵を見た日、夕方にこの公園に出て、木々を見上げたんです。そんなことするの、随分久しぶりでした。……木の葉の間から漏れる夕陽がきらきらして綺麗で、ああ、そういえば綺麗なものってこんなに身近にあったんだ、って気付けて……私、あの絵を見てから、世界がちょっとだけ綺麗に見えるようになったんです。特に、雨の日が好きになって!」
「ありがとう」
……気づいたら、僕は、女性の手を握っていた。
ちょっとびっくりした顔で黙ってしまった女性を見て、僕は、自分がやってしまった事に気付く。けれど、手を握りたくなったこの気持ちは、本当のものだ。
「……その、すごく、嬉しいです。そう、思ってもらえて」
なんだかぼそぼそした喋り方になってしまって申し訳ないけれど、しょうがない。僕は思った事を言葉にするのは苦手だし、それを喋るのはもっと苦手なんだから。
……けれど、僕の言葉を聞いた女性は、ちょっとびっくりしてから、くすり、と笑って、ぎゅっと手を握り返してくれた。
「こちらこそ。あんなに素敵な絵を見せて下さって、ありがとうございます!」
「……トウゴの奴、ぼーっとしてるな。まるっきり上の空だ」
「トウゴ・ウワノソラか……」
「ラオクレス。あなたもそういう冗談、言うのね……?」
……皆が何か言っているのだけれど、やっぱり頭に入ってこない。そして何より、このままでいることを許されているようだから、やっぱり、僕はもうちょっとぼーっとさせてもらうことにした。
なんだか……胸がいっぱいで。嬉しくって、どうしようもないんだ。
こんなに嬉しくていいんだろうか、って思ってしまうのだけれど、頭の中でさっきの女性の言葉を繰り返してしまって、また嬉しくなってしまう。
どうしてこんなに嬉しいんだろう、と考え始めるのだけれど、考えている内にまた嬉しくなってきてしまってキリがない!
ああ……僕も僕の事件も鳥も龍も何もかも関係無く、ただ、本当に絵を好きになってもらえるって、こんなに、こんなに嬉しいんだ……!
「……さっきから随分、嬉しそうね!」
けれど、ライラが僕の頬をぎゅっとつまんだから、僕は流石に、我に返るしかなかった。
「ま、分かるけれど。私だって嬉しいわ。ああいう風に言ってもらえるのは」
「……うん」
そうか。ライラだって嬉しいのか。僕よりはぼーっとしていないみたいだけれど、そこは慣れの問題なのかもしれない。
「それで、私、やっぱり思ったわ。私は多くの人に絵を見てもらいたい、って」
「さっきの人、美術館の職員でしょ?つまり、さっきの館長さんとある意味一緒よね。コンクールに出した私達の絵を見て、何か思ってくれた人よ」
ライラはそう言って、僕をちょっとつつく。
「ああいう風に思ってくれる人は、居るわ。同じ美術館に居る館長さんとさっきの人とで、感じ方は違ったの。条件は同じでも、見た人によって、絵について何か思う人も居れば、裏の事件や何かについて思う人も居る。世界には色々な人が居るんだもの。そういうことだと思うわ」
……うん。色々な人が、居る。
僕の両親みたいな人も居れば、先生みたいな人も居る。僕みたいなのも居るし、アージェントさんとか王様とか、そういう人達も居る。逆に、僕みたいなのと仲良くしてくれる、フェイやラオクレスやクロアさん、リアンやアンジェや、ライラ……そういう人達も、居るんだ。
「だから、私は私の絵を多くの人に見てもらいたいの。全員が全員、絵を見ない訳じゃないもの。名前じゃなくて絵を見てくれる人も居るから、私は絵を飾って多くの人に見てもらいたい。多くの人に見てもらえたらその中にさっきの人みたいに絵を好きになってくれる人が居ると思うから」
ライラはそこまで一息に言ってしまってから……ふと、ちょっと拗ねたみたいな、照れたみたいな、そういう顔で僕にちょっぴりじっとりした目を向けた。
「……あなたが『オーリン・ハルク』を見つけてくれたみたいに」
……なんとなく、分かってしまった。
ライラが自分の絵を美術館に飾りたい理由が。
色々な人に見られて、時には自分が思ってほしくないことを思われたり、自分が思っていないことを思われたり、自分からかけ離れたところで使われてしまったり、そういうこともあるのだろうけれど……でも、それ以上に、自分の絵を見て好きだって思ってくれる人が、居るから。
10人の中の1人、いや、100人でも1000人でも、その中にたった1人でも、絵を見つけてくれる人が居るから……だから、多くの人に見てもらえたらいいんだ。
1000人に1人しか居ない人だって、10000人集めたら10人くらい居るかもしれないし。それに、誰にも見られなかったら、その1000人に1人にすら、会えないんだ。
そのたった1人に会うために、僕は……僕の絵を、美術館に飾りたいと、思った。
「……館長さんの話、あんまり、嬉しくなかった。なんだろう、話は分かるし、賛同できなくもない。現代アートとしては好きだし、企画として面白いのも分かる。……けれど、それ以上になんだか申し訳ないし、嬉しくはない、って思った。ライラは?」
「私はさっきも言ったけれど、利害の一致。それだけ。……あんたがそう思ってたのは見てて分かったわ。顔に出てたもの」
出てたか。そっか。うん。今度はもうちょっと気を付けた方がいいかな。
「けれど、美術館のお姉さんのは、その……嬉しかった。すごく」
「そうね。私だってそうよ」
ライラがいっそ自慢げにすら見える表情でそう言うのを聞いて、ちょっと嬉しくなる。そうか。ライラだって同じだ。
「……僕の先生が、言ってた。『評価は居場所を貰うことだ』って。そして、どうせ評価されるなら、人の心の中に居場所をもらいたい、って」
先生に教わった事を言ってみたら、ライラはちょっと感心したような顔をした。
「名前だけで評価されても、心の中に居場所は貰えない。けれど、絵を見て、その絵を評価してもらえたら、好きになってもらえたら……その人の心の中に、僕の絵が居場所を貰えたら……すごく嬉しいって、思う。そういう評価が、欲しいって思ってしまう」
「……そうかもね。私もよ。多分ね」
ライラは、にっこり笑う。僕よりも自信に満ち溢れた笑顔は、なんだか眩しいくらいだ。
「……やっぱり、私、自分が好きなものを好きになってもらえるのが嬉しいのよ。私が好きじゃないものを好かれても、大して嬉しくないんだわ。だから、名前だの裁判だのを好かれたって別に、嬉しくも何ともないの。けれど、絵を好きになってもらえたら……それはすごく嬉しいの!」
……うん。
そうだよね。やっぱり、嬉しいんだ。
誰かの心の中に居場所を貰うのは、嬉しい。
……そして、僕は、そういう評価が、欲しい。例え、1000人の内の999人に名前や事件や裁判ばかり見られたって、もういいさ。1000人の内の1人が、僕の絵を、好きになってくれたら、それだけできっと、嬉しい。
1つの評価を得るために、999の期待外れにぶち当たってしまったって、構わない。そうしてでも、僕は、そういう評価が欲しい。欲しい!
どうやら……僕はいつの間にか、欲張りになってしまったみたいだ。
「なら決まりね。あんたの絵も美術館の所蔵作品になるのよ!」
「え、あ、そ、そっか……」
ライラが勢いよく立ち上がったのを見て、僕はちょっと、尻込みする。
「……ちょっと。何よ。嬉しいんでしょ?飾られたら」
「うん……」
嬉しい。嬉しいよ。さっきの美術館のお姉さんの話もすごく嬉しかったし、ああいう人に見つけてもらえるかもしれないって思ったら、美術館に絵を飾ることが凄く嬉しくなってしまった。
けれど……。
「……嬉しいって思っても、いいんだろうか」
「いいのよ」
……結構悩んでるんだけれど、ライラからは一瞬で答えが返ってきてしまった。ライラは、本当に、あっさりでさっぱりでスッパリだ。
「逆に、何が駄目なのよ」
「……評価を望むこと?」
自分でもよく分からなくなってきて、自信が無くなってくる。けれど、頭の中に声がするのは確かで、僕はその声に『なんて浅ましい』『もっと慎ましやかに生きなさい』『そんなことで評価されてどうするの』って、ずっと叱責されている。
……ライラは、その藍色の瞳で、じっと、僕の目を覗き込んだ。ライラの目に、僕の顔が映っている。
「……あなたが評価されることを許さないのは、誰?」
誰?……ええと。
「誰でもない誰か達。世間、とか?あとは、自分、かな。それから、正義感?罪悪感?と……それから……」
……まあ、分かるんだ。分かるんだけれど、どうにも、難しい。説明するのも、ちょっと、難しい。
胸が苦しくなる。頭が真っ白だ。
ただ……僕は、絵師で、レッドガルド家のお抱えで、それで、でも、鉛筆を握って向かっていた紙の上に書いた文字は確かにそうじゃなくて、雨が降っていて、捨てられて、怒られて、失望させた。
ひゅ、と息が詰まって、目の前にあるものが見えなくなって……駄目だ、と思った、その時。
「トウゴ」
ラオクレスが横から、ぬっと現れた。
そして、その石膏像みたいな精悍な顔の中、真剣な眼差しで、僕を見る。
「ここにはお前が絵を描くのを許さない者は居ない。お前は……『ホーガクブ』と書く必要は無い」
なんだか、びっくりしてしまって、頭の中からすぽん、と、色々なものが吹き飛んでしまった。
「……覚えてたの?」
吹き飛んでしまったものを考えるより先に、そんな言葉が出てきた。
「……自分の主が言っていたことだからな」
ラオクレスはちょっと気まずげにそう言って、深々と、ため息を吐いた。
「『憧れ』だったんだろう。絵師になるのが」
……言われて、思い出す。
「なら、いいだろう。美術館に絵を飾ることは、お前が絵を描くことを多くの人間に認めさせることだ」
色々、思い出す。
……僕、随分遠いところまで来てしまった。レッドガルド家のお抱え絵師になるって決めた時も、自分がとんでもないところへ来てしまったような気がしていたけれど、そこよりも更に遠いところまで来た。そんなかんじがする。
そうか。僕、絵師なんだった。だから、美術館に絵を飾っても、いいのかもしれない。……美術館に絵を飾ってもいいんだって、思えるように、ならなきゃいけない。
……僕は、こういう生き物だ。こういう生き物で、すぐ怖気づいて、すぐ分からなくなって、矛盾してばかりだけれど……失敗しても、望まれていなくても、こういう道を選ぶって決めたのは、僕だから。
だから、もう、僕の両親のことは、関係無いんだ。
僕は、『評価』されたい。
「……美術館に絵を展示するのは、申し訳ない気がする。僕なんかじゃ力不足だっていう風にも思う。それに、絵よりも事件とか裁判とかを見られるのは、嫌だ。それは嬉しくない。それが評価だって言われて褒められても、嬉しくない」
僕は、もう一回確認するために、言葉に出してみる。世界一の石膏像は僕の言葉を聞いてくれるし、ライラだって、ちょっと嬉しそうに僕がそう言うのを聞いている。フェイはちょっと驚いた顔をしているし、クロアさんはにこにこしているし、なんというか……あれ、これ、恥ずかしいな。
恥ずかしいけれど、でも、決めたことは、言わなきゃいけない。恥ずかしいけれど。恥ずかしいし、不安だし、怖いけれど……。
「……それでも、僕の絵を好きだって言ってくれる人が1人でも居るなら、その人に僕の絵が会えるように、絵を、多くの人が見る場所に置いておいてもらいたいって、思ってしまったから」
「僕の絵、美術館に置いてもらうことにする。……館長さんに、伝えてくるね」