夏をあきらめたくない!
ということで朝10時過ぎ、駅ビルで水着を購入してバスでサザンビーチへ。定期便のほか、海水浴シーズンはサザンビーチ行きの臨時便が出ている。
いつも歩いている雄三通りをバスで進む。
「そういえば茅ヶ崎に来て、バスに初めて乗った」
中ドアより後ろの床が高い部分に配置された二人掛けの座席に腰を下ろし、見慣れた窓の外を眺めながら笑が言った。通路側には幸来、反対の左側には紗織と思留紅が座っている。
「へいわ市のバスは前にボンネットがあってレトロな感じだったけど、茅ヶ崎のバスは長方形で外装も内装もピカピカで、未来の乗りものみたいね」
といっても、茅ヶ崎を走る路線バスは現実世界では一般的な低床バス。敢えて秀でた部分を挙げるとすれば、運転席の後ろにニュースやCMなどを流すディスプレイがある点。
「文明の差を感じるね」
茅ヶ崎は首都圏なので文明は先進的だが、最先端をゆく街ではない。東京都心だともう少し進化のスピードが速い。時代の流れの速さが「やっぱり自分たちのいた世界とこの世界は別物なんだ」と、笑と幸来にひしひし実感させる。
海水浴場前バス停で降車すると、街はまだ浜降祭ムードに包まれていた。法被を着た子どもから中高年の男女が集団で駅方向へ歩いている。
3時間ほど前、家族全員で神輿が海に浸かる様子を見に行った。
茅ヶ崎で育った逢瀬川親子にとっては見慣れた光景だが、笑と幸来にとってそれはとても珍しいものだった。
沖にちょこんと構える烏帽子岩は物静かに、東の江ノ島は霧がかり、ゆったり横たわっている。人や波音は騒がしいのに、いつもよりどこか静かな海岸。
曇り空の浜辺に降り立つと、浜降祭とは別の、海に浸かるイベントを開催していた。何かの訓練か、波乗りイベントか。詳細不明だが、このようなイベントはときどきある。どうも景品として茅ヶ崎で捕れたシラスがもらえるらしい。
「よーし、準備万端! 泳ぐぞー!」
数十人いるイベント参加者を横目に、笑は準備体操をして波打つ海へ走り飛び込んだ。
ばしゃーん。曇り空に水しぶきが舞い上がる。
「わあ冷たい!」
はぁ、はぁ、はぁ……。
予想外の水温に笑の心拍数は急上昇。これアカンやつや。身の危険を感じた笑は踵を返し浜へ戻る。
ようやく陸に上がりかけたとき、背後から大きな波が覆いかぶさり、笑はバフッと砂浜に打ち付けられた。
「ムツゴロウみたいね」
浜に打ち上げられ、うつ伏せで口をパクパクさせている笑を見て、九州の有明海などに棲息するムツゴロウにそっくりだと思った幸来が言った。
口には出さなかったが、紗織と思留紅、付近にいた人々もそう思った。
何か反論したい笑だが、口中が砂でじゃりじゃりしているうえ、海水の味もして気持ち悪く、それらを一刻も早く吐き出したい故に、構っている余裕はない。
多量の砂を口に含んだ笑はその場で四つん這いになり、口中で唾液を分泌しては砂を含ませ、だらだら垂れ流している。吐かれた唾液は波にさらわれ、大海へと散ってゆく。
無様な笑を見て、思留紅はよくこう思う。
ラブリーピースも、人間だもんね……。
「冷たかったかぁ、しょうがないね。きょうはあきらめて帰ろうか」
紗織が提案した。
「いやいやいや、せっかく来たんだから、もうちょっと楽しみたいです。夏をあきらめたくない!」
「そう? じゃあ今度はゆっくり入るのよ?」
「紗織さんは入らないんですか?」
黒い水着に白いアウターシャツを羽織る紗織。37歳とは思えぬムダなきプロポーションに、笑と幸来は嫉妬した。
「私は荷物番してなきゃ」
ということで、笑、幸来、思留紅の三人は、波打ち際にそっと近づき、爪先からゆっくり入水した。
「最初はやっぱり冷たいけど、慣れれば大丈夫だ」
「さっきのは急すぎたのよ」
「水着姿のラブリーピースが真夏のきらめく太陽の下で波打ち際に駆けてゆくシーンはけっこう映えると思うんですけど、現実は厳しいですね」
海に浸かっているうちに、空が少しずつ晴れてきた。
最近は日照不足と言われるほど晴れ間がなく、黒ずんだ海に光が差してきらめいてゆくさまは、まるで世界が終わりを迎えたあのときのように幻想的で、笑と幸来は晴れへの歓喜と、あのときの恐怖が交錯した。思留紅もそれを、想像していた。
「あ、シラスが泳いでる」
輪になって水に浸かっている三人の間に、一匹のシラスが泳いでいた。
「魚って、こんな浅瀬にいるものなのね」
「人がいると逃げるんですけど、ここまで小さいと思うように泳げないのかもしれませんね。あ、そこにクラゲさんがいますよ」
「わお危ない」
へいわ市にも海があって、笑と幸来はそこで海水浴をしていた。しかし作中に魚がどの辺りを泳いでいるなどの設定はなく、泳ぎながらシラスを見る機会も、近くにクラゲが漂っていて危険な状態に晒されることもなかった。
さぶん、ぱしゃん、さっぶーん。
大小不規則な波、ときどき脚に絡まる海藻、ころころ変わる空の色。
カモメのイメージが強い海。しかしこのサザンビーチにいる鳥のほとんどはカラス、たまにトビ。カモメもいるらしいが、見当たらない。手の届きそうな高さには、オレンジ色のトンボの群れ。海にトンボがいるなんて。
自分たちの世界とはまるで違う、海の風景。
この世界は、自分たちの常識を覆すことばかりだ。
二人はそう感じていた。とりわけ笑は、この世界のことをもっと知りたい。持ち前の好奇心が、冷たい海水とは裏腹に、ぐつぐつと煮えたぎっていた。
いったん海から上がり、その辺をぶらり。
「そうだ、せっかくだから『C』で写真撮りましょうよ」
思留紅が提案した。
「お、いいねいいね、そういえばCで写真撮ったことなかったね」
紗織が賛成。
「Cって、あれですか?」
海から上がり、水着姿のままサイクリングロードを歩いていると、『C』の形をしたモニュメントが視界に入った。
茅ヶ崎サザンC。
当時7歳の男の子が発案した、茅ヶ崎を象徴するモニュメント。人が乗って『C』を『O』にすると、運命の人と結ばれるとかなんとか。
Cをバックに写真を撮ろうと思ったが、先客がいた。
「ちょ、わ、私、そういうのは……」
「いいじゃん、姉妹なんだから」
スマホを片手に、水着姿の女性が二人。両者とも肩甲骨の下まで伸びた黒い髪で、やや落ち着いた雰囲気を放っている。
「ほ、ほら、待っている人がいるじゃない」
「あ、すみません、お先にどうぞ」
四人の存在に気づき、姉妹はその場を譲った。




