貧乳時代
翌朝9時、紗織に動画撮影の許可を得た思留紅は家族用のハンディーカムを持ち出し、笑、幸来とともに家を出て、すぐそこの海へ向かって閑静な住宅地を歩いている。数メートルで高砂通りに出た。左折してすぐ、国道134号線に突き当たる。
「潮の香りがする」
「ほんと、きのうは気付かなかったわ」
南風が吹くゴールデンウィークに突入した茅ヶ崎。洗濯物を外に干すと潮でベタベタになるので、部屋干しもしくは乾燥機を使ったほうが良い。逢瀬川家では乾燥機を使用している。
「きのうは大変でしたもんね」
むしろ世界が消失した翌日に、精神崩壊せず普通に会話しているラブリーピースを、やっぱり世界を救ったヒロインはすごいなと、思留紅は感じていた。けれど二人に世界が消えたというワードを聞かせて思い出させたくないので黙っている。
「うん、まだ気持ちは落ち着かないけど、思留紅ちゃんたちに迎え入れてもらえたから、なんとか心を保っていられるんだ」
「本当に、ありがとうね、思留紅ちゃん。お父さんとお母さんも」
「い、いえいえ、そんな! 私もまさかあのラブリーピースと家族になれるなんて、本当に夢みたいで! うちに来てくれてありがとうございます!」
「いえいえ、本当にこちらこそ」
「うんうん! 感謝感謝!」
「えへへへへー、うれしくてよだれが出ちゃいそう」
潮風を浴びつつ高砂通りの終着点に当たる東西方向の横断歩道を渡り、国道134号線を跨ぐ歩道橋に入った。橋の天辺に差し掛かると、松林の向こうには大海原が広がっている。
「海だぁ! こっちの世界でも海はおっきーい! 私の胸も海くらい大きくなればいいのに」
「海くらい大きくって、それじゃ、ぼおおおおおおん!! きゅ、ぽ、って、すごくアンバランスになっちゃうじゃない」
「いいよね幸来ちゃんは。そんな冗談言える余裕があって」
笑は幸来の胸に視線を落とした。
「私だってそんなに大きいほうじゃないわよ」
「うん、でも普通くらいの大きさだよね。私なんか、私なんか! 中2のときから変わらないんだよ! もうちょっと大きくなるかなって思ってたのに!」
喋りながら歩いていると、松林の間の道を抜けてサイクリングロードに出た。それを横切り竹柵の合間を抜けて砂浜に降り立った。
見渡すと東に江ノ島、南に烏帽子岩と伊豆大島、南西に真鶴、伊豆半島、そして西にあの有名な富士山という絶景だ。
「あぁ、二人とも、贅沢ですね」
黙っていた思留紅が、口を開いた。ヤンデレ彼女が彼氏の浮気を問い詰めるような、陰鬱な口調。目が死んでいる。
「え、ど、どうしたの、思留紅ちゃん」
突如湧き出た思留紅の闇に、戸惑いつつ問う笑と、何事かと引き攣る幸来。
「私なんか、ほぼまな板ですよ、まな板」
「いや、だってそれは、思留紅ちゃんはまだ小学生だし」
まだまだこの先成長するよ!
笑は励まそうとしたが……。
「お母さん」
言われて、笑と幸来はハッとした。
思留紅ママ、スレンダーだ。
「わかりました? そうなんです、私は一生ぺったんこなんです。お母さんはBカップなので、私もせいぜいBカップです」
「い、いやいや、お母さんより大きくなる可能性はあるよ! でも、あの体型はすごいよ! きのう聞いたけど、お母さんいま37歳でしょ!? 27歳でも通じる若さだよ!」
「はい、確かにお母さんは37歳にしては若々しいと思います。それは娘としても誇らしいことです。だけど、いま私がしているのは胸の大きさの話です」
病み闇病み闇病み闇……。
ずるずると奈落へ堕ちてゆく思留紅。現役時代はこういう人を救うのがラブリーピースの役目だった。
「きょうはあったかいね! ちょっと早いけど泳いじゃいたい気分だよ! 幸来ちゃんもそう思わない?」
倒す敵はいない。というより今回は自分が奈落へ堕としてしまった罪悪感を覚え、三文芝居を始めた笑。
「そ、そうね、海水浴もいいかもしれないわね」
「そうですね、ちょっと深海魚でも獲ってこようかな、素潜りで」
砂が乾いて白いふわふわのエリアから、湿って黒く固い波打ち際に歩み寄る思留紅。ざぶんざぶんと打ち寄せる波は太陽光を反射して、きらきらきらめいている。
そこに憧れのラブリーピースに追い詰められたドロ黒いオーラを放つ少女がひとり。
一歩、また一歩と、牛歩で大海原へ踏み出す思留紅。
「だめ! 早まっちゃだめ!」
笑と幸来は二人がかりで思留紅の脇を押さえ、砂が乾いたエリアまで引きずり戻した。思留紅は二人を振り払おうと死んだ目のまま無言で抵抗したが、ラブリーピースとして正義の暴力を繰り返してきたJK×2の力には敵わなかった。一人だけだったら腹を肘討ちして逃げ出したかもしれない。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
脇を押さえられたまま息を荒げる思留紅。
そろそろいいかなと、笑と幸来は思留紅を解放。すると思留紅はバサッと砂地に尻餅をついた。
「いい? 思留紅ちゃん。お姉さんがいいことを教えてあげる」
息を荒げる思留紅に視線の高さを合わせるため、幸来はしゃがんだ。
偉そうに説教垂れてんじゃねぇぞババァ。
思留紅の目は、確かにそう訴えていた。
「貧乳はね、ステータスなの」
「ステー、タス……」
「そう、ステータス。長所なのよ」
「長、所」
「えー、そんなこと言ったって男の子はやっぱりおっきいほうが好きじゃん」
「お黙りなさい笑!」
「はひっ!」
「いい? ずっと昔はふくよかな女性がモテていたけれど、時代とともにそれが変化したの。昭和から平成中期にかけては、胸はボンと大きいけれど、お腹まわりがきゅっとくびれてる人がモテるようになったわ。ところが平成も後期に入ると、徐々に胸の小さい女性を好む男性が増えてきた。そしてその平成も、きょうを含めて残り3日。水曜日からは令和時代が幕を開けるわ」
「令、和。平成生まれの私がオバサン扱いされる、令和……」
「えぇ、まぁ、将来的には。それはともかく、新しい時代を迎えるの。いわば貧乳の時代。令和は貧乳が主役の時代になるのよ!」
「うわー」
それなりに人通りのある砂浜で貧乳時代の幕開けを高らかに宣言した幸来に、笑は心底引いた。
「でも、女子としては男子に好まれるとかそういう問題じゃなくて、やっぱり胸があったほうが」
「思留紅ちゃん、その考えは平成時代に置いて行くのよ。これからは……」
「これからは?」
「これからは! 自由の時代よ! 女性だからある程度は胸があったほうが、なんてことは関係ないの! もちろん貧乳優勢の時代であっても胸があるのも悪いことじゃないわ! あっても無くてもあなたはあなた! 無い胸でもピンと張って生きて行けばいいのよ! そしたら思留紅ちゃんはきっと、いえ、間違いなく素敵なレディーになれるわ!」
「ほ、ほんとですか?」
ここでようやく、思留紅の目に生気が戻った。
「ほんとよ! 私を誰だと思ってるの? ラブリーピースよ!」
「ラブリーピース……。そうだ、ラブリーピース!」
「そうよ! ラブリーピースよ!」
「ラブリーピース! うわあごめんなさい、お説教されながら『うるせぇなマジどっか行けよでかちちクソババァ』とか思ってて本当にごめんなさい!」
「ふふふ、いいのよ、心が乱れるときは誰にでもあるもの。口に出さなかっただけでも十分偉いわ」
よしよし。幸来は思留紅の頭をやさしく撫でた。
「えへへへへー」
思留紅はすっかりごきげんになって、幸来に頬ずりしながらデレデレしている。
うわー、幸来ちゃんマジ恥ずかしい、思留紅ちゃん怖い。仲間だと思われたくないわ~。
ドン引きした笑は二人と距離を取り、砂浜に落ちている平べったい石を拾い、シケた面して海に投げた。3回跳ねた。