横須賀海軍カレー
「うーん、懐かしい香り。やっぱこういうカレーもいいね」
「そうだね、なんだかとても落ち着くよ」
海外ドラマのような夫婦喧嘩もとい夫婦漫才の熱が冷めてきたころ、カレーは良い具合に煮詰まってきた。
スパイシーなのにどこか甘い、落ち着く香り。これぞ日本のカレー。紗織も子どものころはよく、この横須賀海軍カレーを食べていた。
紗織がスパイシーな、いわゆる大人のカレーをつくるようになったのは中学2年のとき。横浜ランドマークタワーへ家族で出かけ、69階展望フロアの店で食べたカレーに感動したのがきっかけ。それまでは海軍カレーしかつくれなかった。
現在日本の家庭で親しまれているカレーのルーツは茅ヶ崎から南東へ20キロほど離れた横須賀の海軍によるレシピがルーツとなっている。
横須賀の街ではカレー専門店はもちろん、とんかつ屋など他分野の飲食店でも海軍カレーが味わえる。
「お風呂ありがとうございます」
ピンクのパジャマを着た笑と水色のパジャマを着た幸来が風呂からリビングに出てきた。
「はーい、ご飯までもう少しだから、ちょっと待っててね」
「はーい! むむっ、この匂いはカレーですね!」
笑が動物のようにわざとらしく鼻をクンクンしてから言った。
「ザッツライト! カレーは嫌いじゃない?」
「大好物です! ね、幸来ちゃん」
「えぇ、家族団らんの象徴ですね」
内心、世界の消失、家族との突然の別れに憔悴している笑と幸来だが、紗織たちのもてなしには‘心からの笑顔’をつくった。
「そうだね、良かったよかった。じゃあちょっと、思留紅の相手でもしていてくれる?」
「はい、実は私たちも思留紅ちゃんに訊きたいことがあって」
幸来がしおらしく言った。『ラブリーピース!』の単行本を両手で持ったまま二人の様子を窺っていた聡一は、落ち着いていて澄明な幸来の声に色気を感じてドキッとしたが、そんなことは口にも表情にも出さなかった。
「そうなんだ、どんなこと?」
「こっちの世界でも動画サイトって流行ってるのかなって」
こんどは笑が言った。聡一は特に反応しなかった。
「あぁ、動画サイト、すごく流行ってるよ。もうほんとに大人気。私も見るけど、やっぱそういうのは若い子のほうが詳しいもんね」
「いやいや、思留紅ママも若いですよぉ。シワ一つないし肌ツヤツヤだし、スレンダー美人だし」
「そう? ふふ、ありがとう」
おたまで具の入ったルーをかき回しながら、紗織は満足げに笑んでいる。
「失礼ですが、お二人はおいくつですか?」
幸来が訊ねた。
「私が38で」
「僕が46だよ」
「えー、若い! 二人とも実年齢マイナス8歳でも十分通じそう!」
「ほんと、若さの秘訣はなんなのかしら」
呆気に取られる笑と幸来。
「そうね、人の幸せを願って好きなことをしてるから、かな」
「うん、僕もそうだと思う」
「あと、夜の営み」
さらり、紗織が言った。
「よ、夜の、営み……!」
笑がわざとらしいリアクションを取り、幸来は口を塞いで顔を真っ赤にしている。
「こら紗織、ふたりともまだ16歳なんだから」
「えー、16歳の私をいやらしい眼で見てたのはどこの誰だっけ?」
「そ、そういうことは言っちゃいけないよ」
「16歳? 二人はどこで出逢ったんですか?」
笑の眼はきらきらと輝いている。恋バナ大好きなお年頃。
「学校だよ。先生と生徒。付き合い始めたのは私が卒業してからだけど、24歳の脚フェチ新人教師は美脚の生徒が気になって仕方なかったのが見てて手に取るようにわかった」
「そ、そんな、生徒をそんな眼で見るわけ……」
「あったよね」
聡一は黙り込んだ。
「ということは」
推論を述べようとしている幸来に、聡一は焦燥感を覚えた。
「思留紅パパさんは高校教師なんですね」
その問いに、聡一はホッとした。『ということは』の次に、変態やロリコンというワードが続くと予測していたから。
「そうだよ、近くにある湘南海岸学院で現国担当をしているんだ」
聡一は甘く、しかしそれなりに経験を積んだ声でさらりと答えた。
「そうなんですか。現国担当なんて、知的で素敵ですね」
幸来は微笑んで、聡一を立てた。互いに少しドキドキしている。
「ははは、ありがとう。そう言ってもらえるとうれしいよ」
「いえ、そんな」
こいつら危ないな。
傍から見ている紗織と笑は危機感を抱いた。
「さてと、じゃあちょっと、思留紅ちゃんのお部屋に行ってきます! ほら、行くよ幸来ちゃん」
「あ、うん、はい……」
火照った身体に冷や水を浴びせてきた笑に幸来は少々苛立つも、正気に戻れたと安心もした。聡一に恋情を抱いてはいけない。それはわきまえている。
「いってらっしゃい」
笑は紗織にピシッと敬礼し、幸来の腕を強引に引っ張って2階へ上がった。