我が子の成長
「今夜のカレーはヨーグルトを入れて家庭的な味にしようと思うんだけど、いい?」
1階リビングのソファーに身を委ねて『ラブリーピース』の単行本を読んでいる聡一にの右後ろに寄って、紗織が黒いブランド物の財布を持って提案した。
「うん、賛成だよ。でも、食物アレルギーは大丈夫かい?」
「大丈夫、入浴前に二人とも訊いておいた」
「さすがだね」
「でしょ。それじゃ、おつかいよろしく」
紗織は聡一に千円札2枚を差し出した。
「はい、行ってきます」
受け取った聡一はそれを自らが穿くカーゴパンツの右ポケットに入れた。
「行ってらっしゃい」
聡一は単行本をソファーの前にある長方形の座卓に置き、一度2階の寝室に行き財布を持って出かけた。
普段、逢瀬川家でカレーをつくるときはスパイスを調合するか、固形のルーを使用する場合は辛口もしくは中辛の大人向けにしている。具材は牛肉ブロック、ニンジン、スライスしたショウガ、硬めに蒸したジャガイモ。
しかし今回は日本の一般的な家庭のカレーをつくるため、中辛のファミリー向け固形ルーとハチミツ、ヨーグルトをブレンドして辛さ控えめのホッとする味に仕上げたいと、紗織は考えた。
普段つくらないタイプのカレーということで材料がなく、聡一は茅ヶ崎駅近くのスーパーへ遣い走らされた。
家からスーパーまでは雄三通りを北へゆっくり歩いて15分。以前はその中間地点に食料品なら概ね揃う商店があって便利だったが、現在そこは学習塾となっている。
40分後、聡一が買い出しから戻ると、さっそく紗織は調理に取りかかった。
聡一が買い出し、紗織が調理。夫婦の役割分担。
「あの子たち、さすが世界を救ったヒーローだね。自分たちが生まれ育った世界がなくなっちゃったのに、私たちの前では涙を見せない」
コトコトコトコトコンロの上、キッチンでおたまを片手にカレールーをゆっくりかき回す紗織。聡一はリビングのソファーでラブリーピースの単行本を読みながら、彼女たちの世界を改めて学習している。
「そうだね、世界が無くなるなんて、僕なんかには想像もつかないよ」
「でも、1時間後にいま私たちのいる場所があるとは限らないんだよ。隕石が落ちてくるかもしれないし、津波や竜巻が来るかもしれない。明日は我が身と覚悟もしなきゃ」
「あぁ、だからこの家は災害に強い設計で注文したんじゃないか。せめて家族と家だけでも守れたらという願いを込めて。それでもさすがに世界の滅亡には耐えられないけどね」
「まぁね。でも、とびきりお金かけたよね。ローンあと何年だっけ?」
「いまが築15年だから、あと20年だよ。繰り上げ返済したいなぁ」
「そうね、思留紅には負担かけたくないし」
「いや、逆転の発想で思留紅に稼いでもらうのはどうだろう?」
「ちょっと! 娘に何させる気!? 信じらんない! ほんと信じらんない!」
「な、なんだい!? 君は何を想像したんだい?」
「何って、ナニもクソもないわよ! 娘に身売りさせるなんて!」
「みっ、身売りだって!? 君は本当になんてことを言うんだ。僕が言っているのは、思留紅はどういうわけかマネー用語をよく知っているから、将来はビジネスで成功するんじゃないかって、ふと思っただけだよ」
「仮に思留紅が稼げるようになったとしても、ローンはちゃんと私たちで返すのよ。わかった? わかったわね!?」
「わわわわかってるよぉ、ほんの冗談だよ」
「ならいいけど」
「カネの~切れ目は~縁の~切れ目~」
ちょうど会話が途切れたとき、危うく身売りされるところだった思留紅がオリジナルの鼻唄を口ずさみながら2階の自室からキッチンに下りてきた。
あ、今夜はカレーなんだと、思留紅は夕飯のメニューを察した。
「あら、憧れのラブリーピースちゃんと裸の付き合いはしなくて良かったの?」
と、てっきりラブリーピースとともに入浴中と思っていた紗織が訊ねた。
「うん、きょうはね」
「どうして?」
「だって、二人だけで話したいこととか、いろいろあると思うから」
「へぇ、気が利くじゃない」
「まぁね~」
思留紅は言いながら冷蔵庫を開けると、410ミリリットルペットボトルのサイダーを取り出して一気に飲み干した。
「ぶはー、美味い! シュワっとイッパツ糖分補給」
闘魂をチャージしたところで、思留紅は再び自室に戻っていった。
ラブリーピースが大好きで、アニメの放送終了後はロスに陥った思留紅のことだから、是が非でもいっしょに入浴すると思ったのに。
我が子の成長を垣間見た聡一と紗織は顔を見合わせ、胸がじんわり熱くなった。それはとても刺激的なのに、ほんわかと心地よかった。