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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ルネサンスこぼれ話・実は凄かったイザベラさん

作者: LED

 神は言われた。

「麗しくも貞淑なる、悲劇の王女イザベラよ。

 これより後、愛する夫に殉じたそなたの名を帯びし女性(にょしょう)、誰であれ芸術の才に溢れ、眉目秀麗とならん。

 加えて雅で、優しく、賢く、高潔であり、栄誉に満ちたその名は数多くの名詩人によって称えられるであろう!」


             ――「狂えるオルランド」第二十九歌、二十九行より

「……イザベラって名前がつくだけで美女になれるなんて。楽でいいわね中世って」


 演劇部員の女子高生・司藤(しどう)アイは深々と嘆息した。

 図書館から借りた分厚い二冊の本が、机の上にある。

 彼女にとっても深い関わりのあった、中世騎士ロマンス古典「狂えるオルランド」である。


 とある事情により、この古典を題材とした演劇を行う事になったため、役作りの参考資料として目を通す事にした、のだが……

 本来の原典は、彼女がかつて「体験」した世界とは展開が随分異なっていた。


 アイが女騎士ブラダマンテと「なっていた」時には、一度も出会う事のなかった人物。ガリシア王女イザベラ。

 今読んだ箇所は、イザベラが首を刎ねられて死亡するシーンに書かれた一節。この前後、過剰なまでにイザベラの美貌に対する礼賛が綴られていたりする。


 妙に気になったアイは、元大学教授の下田(しもだ)三郎(さぶろう)に連絡を取る事にした。


『それはズバリ、作者アリオストによるリップ・サービスの一環だな』


 下田教授はバッサリと一刀両断した。さすが西洋史学を専門として教鞭を振るっていただけの事はある。ミもフタも夢も希望もない見解だ。


 イタリア・ルネサンス期の詩人ルドヴィコ・アリオストの代表作にして一大ベストセラー「狂えるオルランド」。

 その執筆にあたり、最大の援助をしていたのは当時のイタリア名門貴族エステ家であった。

 そしてエステ家には……ずばり「イザベラ」という名の令嬢が存在する。イザベラ・デステ(ダ・エステ)。北イタリアはマントヴァなる地の領主に嫁ぎ、当時のルネサンス文芸を大いに庇護・振興させた事で知られる。


『イザベラ・デステは当時の芸術家たちの重要なパトロンだった。

 そりゃ当時の彼らにしてみれば、比類なき素晴らしい女性という事になるだろうさ』

「ああ、それで……これでもかってぐらい作中で褒め称えられているのね」


『とはいえな。彼女はそう讃えられるだけの実績を残した人物でもあるんだぞ』

「……そうなの?」


『そうだとも。かの三大美女として有名なクレオパトラの真の魅力が、美貌ではなく知性と教養にあったようにな!』


 実際イザベラ・デステは幼い頃から教養に明るい少女であり、数多くの画家・著述家・音楽家・学者たちと親交があったという。

 イザベラの夫は軍人でもあり、もっぱら外征に出かけている事が多かったが――


『夫不在の中、お世辞にも豊かとは言えなかったマントヴァを、イザベラは()く治め、切り盛りした。

 その一方、妹ベアトリーチェは金持ちのミラノ公に嫁ぎ、これでもかと贅沢な暮らしを姉に自慢しまくっていたが』

「嫌味ったらしいわね妹ォ!?」


『確かにイザベラの領地は金が無かった。かのレオナルド・ダ・ヴィンチに肖像画を中々描いて貰えなかった、という逸話もある。

 妹ベアトリーチェはカラーイラストだったのに、姉イザベラのほうは色塗りして貰えず未完成のまま終わった』

「……えぇえ……」


 だがイザベラはくじけなかった。「お金がなくても私には、芸術を理解する心がある……!」と。

 幼少時より培った高い教養と感性を駆使し、シンプルだがセンスのあるファッションを確立した。

 イザベラのデザインしたドレスはイタリアで一世を風靡し、フランス王妃ですら真似する程であったという。


『と、ここまで聞けば芸術に明るいだけの、(みやび)なお嬢様っぽく思うだろ?

 ところがどっこい、彼女は政治面でも波乱万丈の生涯だった』

「う、うーん……あんまりドロドロした話は聞きたくないんだけど……」


『当時のイタリアは、群雄割拠の戦国時代でな。イザベラも当然巻き込まれ、イタリア一の梟雄チェーザレ・ボルジアと外交面で丁々発止のやり取りを繰り広げている。

 お家乗っ取りを目論んでいるとしか思えない政略結婚の誘いを、やんわり丁重に断ったりとかな』

「イザベラさんの胃に穴が空いちゃうそうね……そ、そうだ。夫は?

 お家の一大事に、妻だけに内政任せてる夫は何してたのよ? 仮にも軍人なんでしょ?」


『……一方イザベラの夫は、チェーザレの妹と不倫していた』

「ふっざけんな夫ォ!? 何考えて生きてるのよっ!?」


 よりによって敵方の女性と不純異性交遊である。それまでの夫婦仲は良好だっただけに、イザベラはショックだったろう。

 それでも彼女はマントヴァの地を守る為、懸命に動き回った。夫はその間、戦に敗れヴェネツィアに幽閉されるなど、いいとこ無しである。


『そんなチェーザレも重病の末に戦死。イザベラの夫も梅毒にかかって死んだ。

 しかし戦乱は終わらない。十数年後の1527年、今のドイツに当たる神聖ローマ帝国の軍勢による、ローマ包囲からの大虐殺事件が起こった』

「ローマを名乗る帝国がローマに攻め入るなんて……冗談みたいな悪夢ね……」


 折しもルネサンス期はルターによる宗教改革が重なり、新教徒(プロテスタント)旧教徒(カトリック)はいがみ合っていた。

 様々な要因が重なり、陥落したローマでは筆舌に尽くしがたい地獄絵図が現出した。


『ローマの惨状を知ったイザベラは、ローマにある自身の邸宅を解放し避難所とした。

 そこに押し寄せた難民を手厚く保護し、殺されぬよう最大限の便宜を図ったそうだ。

 イザベラの領地マントヴァは神聖ローマ寄りの立場だったから、陥落の際に邸宅も略奪を免れたのが幸いした』

「…………」


 戦争終結の後も、晩年のイザベラは生涯、マントヴァの文化振興に力を尽くした。

 女学校を創設し、自身の邸宅を一般開放し、せっせと収集した品を展示する美術館としたという。


『……とまあ、こんな具合だな。これらの功績を讃えられ、イザベラ・デステはルネサンス一の教養と美貌を持つ女性として名を残す事となったのだ』

「……そう、なんだ……凄いわね。でも確かに、これだったらアリオストさんをはじめとする芸術家たちが、一心不乱に賞賛してるのも……分かる気がするわ」


『ま、素晴らしい女性である事に異論ないが……彼女にも女性らしい、茶目っ気のある逸話が存在する』

「……へ?」


 下田の言葉と共に、アイの携帯に年若い貴婦人の肖像画と(おぼ)しき画像ファイルが送られてきた。


『現存する彼女のカラー肖像画は、ティッツァーノという画家に描かせたものだ。若いだろう? 16歳の頃のものだそうだ』

「ふーん。16歳の頃に描かれたんだったら、別に不思議でもないんじゃない?」


『実は描かれた時期なんだが、イザベラは60歳近い。故にティッツァーノも最初は年相応の絵を描いていた』

「……えっ、それって……もしかして……」


『イザベラはそれが気に入らず、16歳の肖像画にしなければ彼を牢屋に入れると脅した。

 そんな訳で若い肖像画に描き直された訳だ! いやぁ、16世紀ルネサンスの時代から16歳教が存在していたとはな! たまげたなぁ』

「……えぇえ……」


 この逸話を、見栄っ張りと見るか女性らしい可愛げと見るか。人それぞれだろうけれど。

 アイは何となく、この人間臭いエピソードに――イザベラ・デステに、親しみを感じたのであった。


**********


 類稀なる芸術の才を持ち、ルネサンス文芸の振興に生涯を捧げた女傑、イザベラ・デステ。

 彼女の書斎の入り口には、彼女の人生訓とも呼べる次のようなラテン語が刻まれていたという。


――Nec(ネク) spe(スぺ―) nec(ネク) metu(メトゥー)(夢もなく、恐れもなく)




(fin.)

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― 新着の感想 ―
[一言] こちらをきっかけにイザベラさんを通し、生活、時代の空気が感じ取れてとても面白く思いました。 美しさとは見目かたちだけではなく、立ち振る舞いや行動の全てだったりするのでしょうね。 つっこめキャ…
[気になる点]  肖像画のくだりを読んで、おちゃめなイザベラさんにクスッとくるとともに、けっこう壮絶な人生であったのにこんなに可愛くあれるなんてすごいなぁと思いました。  きっと、物語の中で良い役を…
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