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3話(完)

 室内に唯一午後の光を運ぶ窓辺に座り込む人影が二つ。

 場所は桧川ひかわ県、高辻たかつじ家本邸その書庫である。

「書斎だけでも蔵書家を名乗れるのに書庫まであるとは思わなかったぞ。そこそこ立派な市の図書館くらいあるんじゃないか。僕の家が何個も入りそうだ」

 本の保存に悪い直射日光を極限まで遮った書庫は霜葉そうようが蔵を改造した物だ。板張りの床に見上げるほどの本棚が整然と並ぶ。その一つ一つに書籍がみっちりと積まれている。

 高辻家の事務的な家政資料は書庫に保管されているため、龍月りゅうげつ葵一きいちは膨大な蔵書から龍月の身元と関係のありそうな書籍を探し出すほか無かった。一先ずそれらしき書籍を手当たり次第に引き出し窓辺に積み上げたものの、あまりの量に終わりが見えない。

「多くが祖父の蔵書です。欲しい古本を全国各地や大陸から取り寄せていたらいつのまにかこの量になったそうです」

「国民の金で王都では女に惚けて隠居先では趣味に没頭か。中々良い人生だな」

「貴族として褒められたものではないですよね」

「まあ霜葉様も批判は散々言われてきたろうし、純粋に個人的人格を評価する君みたいな人間も必要なのかもな。物事を一面的に見ていては後の記録も誤ることに――お、これは使用人名簿か」

 龍月は腰の高さまで積み上げた本から一冊を器用に抜き出した。本邸使用人の出自が書かれたそれを一枚一枚捲っていく。

「母の名前は無いな」

「祖父が名付け親になるのですから、使用人の可能性は薄いかもしれません。友人のような対等な間柄かも」

「何が起これば村からも追い出されている貧乏人と一国の殿様が対等になれるんだ。まさに提灯に釣鐘、住む世界が違う」

「過程より結果から探してみましょう。名字は分かりますか」

「社会の外で暮らしていたからな、名字なんて必要無かった。戸籍上ではあったのかもしれないが知らない。戸籍自体あったかも怪しいな。そもそも霜葉様が名付け親というのも確定事項ではないし」

 龍月は座った姿勢からそのまま後ろに寝転がり、先程まで熱心に積み上げていた本の塔を見上げた。黒の三揃えがぞんざいに床に広がっている。

「ここの本全部読んだって、母のことは一つも書いていないかもしれない」

「服、皺になりますよ」

「君は寝る時も洋装だが肩は凝らないのか」

 天井を見たまま伸びをする龍月に葵一は苦笑する。「大人」としての倫理観は持っているのに行動が時折子供じみている。中身が子供のままの大人を他者が社会性で塗り潰したようにも見えた。そこが危なっかしくもあり可愛らしくもあるのだが。

「慣れると楽です。折角素敵な背広なのに、皺ができたら勿体ないですよ」

「なら君のお姉様は見る目があるな。菊子あきこさんから就職祝いに貰ったんだ、これ」

「姉から? 仲がよろしかったのですね」

「頭が上がらない。彼女がいなかったら伯爵家の書生にもなれなかったし当然官吏になんかなれなかった」

「姉とは壬生みぶ家の書生になる以前から知り合いだったのですか」

「子供の頃、僕の妹と仲が良くてうちの寺によく遊びに来ていた。垣内かきつのお嬢様が供も連れずにたった一人で」

 龍月は懐かしむように言う。

「ああ、昔の姉はかなりお転婆でした。しょっちゅう家を抜け出すと父が嘆いていたような……」

「今もお転婆だぞ。この前の葬式なんか屋根の上の猫を降ろしたいとかで肩車させられた」

「そ、それは何と言いますか、申し訳ありません……」

「何だか不思議な話だな。上司の代わりに葬式に行った先が幼馴染みの家で、しかも故郷の殿様一族で、昔の友人そっくりの若様に会って、不可解にも同じ夢を見て――奇妙な偶然も起こる時は立て続けに起こるものだな」

「偶然ではなく全てぼくと龍月さまが会うための運命だったのかもしれません」

「……昨日の続きか」

 龍月は溜息を吐いた。昨晩以降葵一の扱いが若干投げ遣りになっている。気持ちが通い合うことはなかったが、お互いに本心を打ち明けた気安さがあるのだろう。

「もしかして、大人しい人が好きですか?」

「年上が好きだな」

しげるさんって年上ですか」

「具体的に誰ということではなくて単なる好みの話だ。慈は同じくらいだったと思う」

「あと十五年ばかり早く生まれていればよかったです」

「そしたら君と会わなかったかもしれないぞ。偶然も運命もその日着ていく服の違い程度で変わるのに」

「ロマンチックなことをおっしゃいますね」

「なんだそれは。外来語は苦手なんだ」

「空想的で情熱的ってことです」

「ふーん……」

 すっかりやる気を無くした龍月に代わり積まれた本を物色していると、背後でギギと重い音がした。音に合わせて書庫の戸が開く。

「失礼いたします。お茶お持ちしました」

 書庫の入口にいたのは新入りの下女だった。一礼に合わせて盆上の湯飲みが危なっかしく揺れる。地元の垣外かいと族の少女で、ハの字の眉が葬式の時よりさらに下がっている。

「ん、ありがとうございます」

 龍月は腹の力でひょいと身を起こし言った。

「ここまで案内してくれた方ですね」

「え……! お、覚えていてくださるなんて」

 目に見えて動揺している少女に龍月はのんびりと続ける。

「一時間しか経っていないじゃないですか。さすがに忘れませんよ」

「そ、そうですね、失礼しまし――わっ」

 盆を床に置く手は震えていて、なみなみと注がれたお茶は案の定下女の親指に跳ねた。

「申し訳ありません! すぐ淹れ直します」

「そのままでいいですよ。それより早く冷やしてきてください」

 龍月は下女の手を取りハンカチで手を包むように拭う。

 「あの」とか「その」とか意味をなさない上擦った声を出しながら少女は紅潮した顔で硬直している。

「龍月さま、離してやってください。困っています」

「すみません。お節介なもので」

「――いえっ、ありがとうございましたっ」

 一瞬の沈黙の後我に返った下女は、何度も頭を下げながら逃げるように部屋を出て行った。

「お優しいですね」

 閉ざされた戸を軽く睨み、棘を含まないよう注意深く葵一は言う。龍月にしてみれば下心など全く無い素の親切心なのだろうが、終始あの調子ではややこしい事態を引き起こしかねない。「ややこしい事態」の筆頭たる葵一だからこそ確信できる問題だ。

「他人にはできる限り親切にしたいと思っているが君は違うのか。特に彼女は若いのにちゃんと働いて偉いじゃないか」

「ただの花嫁修業ですよ。貴族の家で働けば箔が付きます」

「それの何に問題がある。そんな態度だから彼女も畏縮するんじゃないか」

「畏縮?」

「随分緊張していたように見えた。帰り際なんて今にも泣きそうだったぞ」

「それはぼくのせいではないです……あなたが……」

「……確かに目が怖いとは言われるがそこまでか」

 龍月が不服そうに唸る。葵一は龍月を初対面時から呑気な人だと感じてはいたが、ここまで鈍感だといっそ可愛らしく思えてくる。まともな発言をする癖に素が抜けている。

「逆ですよ。あなたを好ましいと思っているんです。かっこいいですから」

「自分の顔がいいと思ったことはないが」

「そうですか? 輪郭が整っていますし鼻筋が通っていて切れ長の目も素敵です。第一印象だけでは気付けない顔立ちの良さって、自分だけが美点を分かっているような気になって特別好きになるものですよ」

「妙な持論だな。そして中々の失礼を言われた気がする」

 最初は据わった目と不健康そうな顔色に目が行くが、思わぬ優しさに触れるうち、地味ながらも整った顔立ちに気付く。それに気付く頃にはもう惚れているのだと思う。

「あなたはとても美男ってことです」

「君みたいな美少年に言われてもちょっと嫌味だな」

「ぼくの顔が好きですか?」

 普段は顔を褒められてもうんざりするだけだったが龍月に言われると素直に嬉しい。顔を評価するということは、龍月が少しでも葵一に考え思うことがあるということだからだ。

「客観的に見て綺麗だという話だ」

「……とにかく、目立つ美形なんて大したことないんです。ぼくの友人の松方まつかたなんて、見た目こそ絵画から抜け出た王子様ですけど中身は年中女の尻を追いかけている軽薄な男ですもん」

「松方……外務省の松方伯爵の関係者か」

「伯爵の長男です。お知り合いでしたか」

「数回挨拶した程度だが、伯爵も随分な色男だったからご子息もさぞかしだろうな」

 葵一が反論しかけた時、戸の隙間から先程の下女がおずおずと顔を出した。

「あの、坊っちゃん、松方業平なりひら様からお電話です」

「謗り者門に立つというやつだな」

 龍月は朝焼けの目を僅かに細めた。


「何の用だ」

『開口一番それはなくない?』

 廊下の壁に取り付けられた電話から耳慣れた業平の声がした。

 業平から電話を受けたのは初めてだった。授業期間中はまるで葵一の保護者のように振る舞う業平だが、休暇期間となると役目を終えたとばかりに一切連絡してこなくなる。薄情者と罵りたいところだが友達甲斐がないのはお互い様なのでその件には触れないでおく。

『葵一君大丈夫なの?』

「領地にいるから体調の心配はない」

『それは休み前に聞いたけど、同行相手だよ。ほら、垣外の官僚の龍なんとかって人』

「龍月さま」

『そう、その変な名前の』

「お祖父さまが付けた名前を変とはなんだ!」

『は、お祖父様? ――とにかく、その龍月さんに悪戯されたりしてない?』

 本気で心配しているというよりは呆れたような、からかっているような口振りだ。「垣外は垣内に手を出さない」を信じる以前に前提にしている。

「彼はそんな人じゃない」

『でもさあ、いくら垣外でも君の可愛さに道を踏み外す可能性ってあるかもよ?』

「それはそれで望むところだ」

『君は男だったら誰でもいいわけ?」

「お前はよくない」

『あーはいはい。君には危機感ってものが無いなあ。水無瀬みなせのこと忘れたの?』

「どうしていつもそうぼくに口出しをするんだ」

『君に傷付いてほしくないからだよ』

「自分の所有物が他人に渡るようで不愉快なだけだろ」

『は?』

「ぼくは友人と呼べるのが業平しかいないし今までお前だけを頼っていた。こいつを救えるのは自分だけだとさぞ優越感に浸れたろうな。それが手を離れるのが惜しいんだ」

『葵一君は人の親切をもっと素直に受け取ったほうが良いと思うんだけど?』

 かなり自分勝手な八つ当たりだったが業平は怒らない。その余裕が葵一には腹立たしい。彼の根っからの陽性と人間の出来に、自分はどこか欠けていると毎回のように思い知らされる。

『まあいいや、この話は終わりね。霜葉様追放のことで話があるんだ』

「言われている通り、お前と同じで女性関係にだらしなかったせいだ」

『それがさ、俺の大伯母様が――』

「お祖父さまが手を出したのはお前の大伯母さまなのか!?」

 受話器を握る手に力が籠もる。業平の大伯母は先王の最初期の側室だ。先王の寵愛も厚かったと聞く。

『違う違う、早まらないで。昨日大伯母様に会ったから霜葉様のこと聞いたんだよ。霜葉様も王宮追放から四半世紀以上が経った上に亡くなられたし、そろそろ宮中の秘密もばらしてくれるかなと思って。ただ女性関係が華やかだっただけで追放はされないし、先王陛下の愛人に手を出したって噂になっているでしょ? まあ俺の好奇心なんだけどさ、それが本当なら具体的にお相手が誰なのかとかが気になってね。そしたら、霜葉様は愛する人を守って追放されたって言われてさ』

「愛する人を守って……?」

『あとは知らないの一点張り。知らないって言うからには知っているんだろうね。詳細は分からないけど、言い方からして愛人を寝取ったわけではなさそうじゃない? 葵一君は今霜葉様について調べているんだよね。何かの手掛かりになるといいんだけど』

「……うん。わざわざありがとう。大伯母さまにもよろしく」

『お、素直だ』

「いつでもぼくは素直だが」

『はいはい。大伯母様、君がますます霜葉様に似てきたって言っていたよ。将来は女泣かせの色男だって――ま、実際は男泣かせになりそうだけど』

 つくづく余計な一言さえ挟まなければ完璧な男だと思うのだが、その余計な一言が業平を業平たらしめているのだろう。葵一は幼馴染みに気付かれない程度に苦笑した。


 書庫では龍月が再び床に寝転んでいた。ただ、本当に眠っている点と上着を椅子に掛けている点が先程と異なっていた。

 道中眠らなかった疲れが出たのだろう。上着を脱いだのは皺になるという葵一の忠告を受けてだろうか。その素直さと無防備な寝顔はやはり子供じみていて可愛い。

 起こさないように少し離れた場所で資料を捲る。しかし葵一は、ここで龍月の母の情報は見つからないのではと考えていた。龍月の母が本当に偶然「龍月」と名付けただけで、そもそも霜葉と関係が無かった可能性も充分にあるのだ。つかが桧川に住んでいたという情報だけで具体的な居場所を探る策もないままここまでやってきた。単に目の前で眠る男と一緒にいたかっただけだろうと言われても反論できそうにない。

 そして改めて葵一は、祖父の交友関係について知らないことの多さを思い知る。霜葉が生きていれば、聞いて一瞬で解決する疑問の何と多いことか。

「死人に口なしだなあ」

 それでも墓の下に話しかけてしまったのは何故だろう。葬儀の参列者が帰っても最後まで残っていたのは何故だろう。

(ぼくの人生への彼の登場を待っていたようじゃないか)

 貧困に喘いでいた垣外族の平民と、苦労を知らない垣内族の貴族。二人があの場で出会うには出生の時点から不確定要素が多すぎた。まるで見えない力に操られ出会うように仕向けられているみたいだ。無邪気にそれを運命と呼んでいたが、考えれば考えるほど無気味な気がした。


***


 僕が雪原から掘り起こした木の芽を抱えて帰ると、家の前で慈が戸を叩いていた。


「慈君、今日は龍月と一緒じゃないの?」

 慈はお母さんの問いには答えず隙間からするりと室内に入っていった。慈が家に来ることはすっかり日常になっていたから、僕抜きで家に来ても驚かない。それよりも僕は、慈がお母さんと二人きりだとどんな話をするのかに興味があった。

 敢えて帰宅を知らせず僅かな窓の隙間から中を覗き込む。板間と土間があるだけの家だ。お母さんはそれ以上慈に問い掛けることもなく繕い物をしている。慈は隅に身を縮こまらせるように座り、興味深げにお母さんの手先を見ていた。

 慈はお母さんに人間みたいな顔をする。

 飛ばした竹蜻蛉が湯飲みを倒して怒られれば頬を膨らませて床を拭く。洗濯を手伝って頭を撫でられればはにかんで下を向く。膝上に頭を預けて赤ん坊みたいな顔で眠る。僕はそれがもどかしかった。慈は最近機嫌の良い顔をすることが多いけれど、僕と二人きりの時は相変わらず人形めいた無機質さを見せる。最初は表情豊かな方が「普通」で「良いこと」だと思っていたけれど、あの人形めいた姿こそが慈の本来の姿なのだ。慈は散々大人に弄ばれ、大人が嫌いなのに、大人に依存しないと、良い顔をしないと生きていけないと思い込んでいる。だから母に人間みたいな顔をする慈を不愉快に思う僕は間違っていなかった。

 子供だけで、僕がいるだけで大丈夫なんだって教えてあげたい。あちこちに跳ねた髪も、短い夏の森色の目も、ふっくらした唇も、枝のように細い身体も、大人に愛でられるためにあるんじゃない。例え相手がお母さんであっても、それは変わらない。

「つかさん、俺、欲しいものがあります」

 お母さんの作業を見つめたまま呟いた慈の頬は寒さで赤らんでいる。

「なあに?」

 お母さんも手を止めずに言葉を返す。

「貴女の子供が欲しいです」

 お母さんの手が止まる。僕はどきどきして窓枠に顔を押し付けた。

「龍月が欲しいの?」

「いいえ」

 一瞬にして膨らんだ希望は、これまた一瞬にして破裂した。慈の発言の意図が分からない。それはお母さんも同じのようで、首を捻って慈を見ている。

「つかさんがこれから産む子供……俺の子供が欲しいです」

「……え?」

 立ち上がった慈がお母さんに歩み寄る。お母さんは縫い物を床に置き、僅かに身構えたように見えた。

 本当に、慈が何を言っているのか分からない。

「村の人によく『お前にはいくら出しても面倒にならないから楽だ』と言われました。女の中に精液を出すと子供ができるって、それで知りました。『面倒』って子供ができるという意味ですよね。俺はまだ出てないってねえさまに言われているけど、ねえさまとすること、つかさんともしたいです」

「どうして私がいいの?」

「分からないです。でも、貴女を考えると鼓動が速くなって、ねえさまとすることがしたくなります。今まで自分からしたいなんて思ったことがないのに、貴女だけにそう思います」

「……慈君がしたいことは、二人ですることでしょ」

「はい」

「二人ですることは何でも、二人がしたいって思わないとしたらいけないの。片方だけがしたいと思っている時は、したら駄目」

「……つかさんはしたくない」

「ええ」

「……分かった。帰ります」

 慈はそう言うと驚くほど迷い無く家を出た。僕が隠れる隙もないほどに。

「……龍月」

「き、来てたんだ」

 慈の衝撃の告白にぐらぐらした頭が、粗末な誤魔化しにもならない言葉を口から滑り出させる。手が凍るように冷たいのは、雪原を掘り起こしていたからというだけではない。

「初めて会った時も、窓から見ていた」

 慈の虚ろな目に更に体温が下がる。

「もしかして怒ってる?」

 慈が怒っているところなんて見たことがないけれど、今僕に見せている表情を言い表すならば「怒り」が最も当て嵌まる。

「怒るってなに。大きな声を出したり叩いたりするってことなら、俺は怒ってない」

「そうか、良かった。……そうだよね、怒るはず無いよ。慈は今悲しいんだ」

「悲しい……」

「さっきお母さんに言ったこと、本心じゃないでしょ?」

 冷静さを取り戻すと、慈が哀れに思えてきた。結局大人を好きにならなければいけないと思い込んでいる。それで苦し紛れに大人の中では優しいお母さんを選び、縋った。そんなことしなくていいのに。自分の心に素直になって、僕だけを好きでいれば幸せになれるのに。

「大人のいない世界でも、大人に拒絶されても生きていけるんだよ。僕だってお母さんがいなくてもこうして食糧を集められる。そうだ、二人で暮らそうよ。どこか遠い大人のいない世界で」

 自分の発する言葉は竹藪を切り抜ける刀のようだった。あっさりと、小気味良く、道が開けていく確かな感触。もっと早くそうしていれば良かったんだ。

 僕は自分の良い考えを分かち合うように慈を抱き締めようとしたが、細い身体はさっと腕を通り抜けた。

「慈……?」

 慈に避けられたのは初めてだ。不意に腹を殴られたような衝撃だった。信じられない。

「嫌だ」

 慈は追い打ちのようにはっきりと、そして初めて、拒絶の言葉を発した。

「俺はここにいる」

 慈は背を向け迷いのない足取りで村に降りていく。

「……そっか」

 慈はこの土地が好きなんだ。

 それならここを大人のいない二人だけの世界にすればいい。無くしてしまえばいいんだ。慈を飼う家も、慈を慰み者にする村の男共も、慈を騙すあの女も。

 家と村の狭間の川が僕の心に共鳴するように流れを速める。僕はそれを疑問に思わなかった。僕はそれができて当然だ。

 細い川は次第に底が沸騰したように大きな泡を吐いていく。

 上流から多くの水が呼び込まれ川幅が広がる。

 掛けた橋が弾け飛び、川の音が大きく大きくなっていく。

 この調子だ。僕の感情を体現する川を見下ろしうっとりと微笑む。

 もうすぐ慈を支配する大人はいなくなる。慈が素直に幸せに生きられるようになる。

 溢れた川があの小さな村を呑み込むのは一瞬だろう。この家だって沈むに違いない。


 僕は笑いながら雪山を駆け上った。


***


「高辻君、高辻君」

 身体が揺さぶられ、意識が水底から浮上する。龍月の寝息と呼吸を合わせている内に葵一は眠ってしまっていた。

「あれは事実か」

 焦る龍月の顔がすぐ上にある。言われずとも夢のことだと察知する。

「記憶にない出来事ですか」

「当たり前だ。あれではまるで僕が……垣内みたいだ。ああすまない、これでは起きられないな」

 龍月が身を避ける段になってやっと、彼に覆い被さられていたことに葵一は気付く。

「このままでも良かったのに」

「ふざけている場合じゃない」

 葵一は龍月のやけに冷たい手に掴まれ、軽々と身体を引き起こされた。

「以前も申し上げましたが、垣内でもあそこまでの洪水を引き起こすような力はありません。ましてや呪文も無しに……あの呪力は――神そのものでした」

 夢の中の龍月は、地に降り立ち人間として余りに長く生きている垣内族よりも、水を自在に操る谷川の竜神――闇淤加美神くらおかみのかみに近いと葵一は思った。あれはまさしく人智を超えた力だ。

「どういうことだ。あそこだけ出鱈目の夢なのか」

「今までがご記憶通りに進んでいるのなら、その線は無いかと」

「僕は垣外じゃないというのか」

 白い肌にまざまざと焦燥の浮かぶ龍月に対し葵一は無風の湖のように沈着だった。葵一の中でパズルのピースが揃い、一枚の絵が急速に完成していく。

「お祖父さまは、それだから追放された。……名簿にはありません。県史を探すべきでした」

「おい、何を言っている」

 葵一は立ち上がり郷土史の棚に向かった。龍月はさっぱり分からないという表情で葵一に続く。

「夢は護山ござん家に養子入りする前の冬でしたね。それでしたら禎永ていえい二十七年後半か二十八年始め」

 本棚から『桧川県史 禎永二十七年度』を引き抜き後ろから読んでいく。葵一の目当てとする記述はすぐに見つかった。

「――裏葉うらは村。北西の山間部……今は何もありません。現在の行政区で言うと遠塚とおづか老竹おいたけ村です」

「高辻君」

 龍月の包丁がすとんと物を切るような声に葵一は我に返る。

「一人で話を進めるな。さっぱり分からない」

「……申し訳ありません。これを見てください」

 葵一は気まずさを感じながら、膝を付き県史を床に広げる。龍月が本を挟んで葵一の前に腰を下ろすのを確認し、口を開く。

「禎永二十八年一月三十一日、川の氾濫で沈んだ裏葉村が発見されました。ここに詳しく書いてあります。『三十一日昼、一月の納税が無い裏葉村に県職員二人が向かうも、村は水底に沈んでいた。巨大な鍬で刮いだように村を中心として円形の池ができている。生存者及び遺体は一つも発見されず、百人近い村人は全て水底に沈んだものと判断した。村の端を流れる川の氾濫によるものと思われるが、村近辺を除く川辺は全くいつも通りで、普通の洪水に比べると余りに奇妙であった。土地柄雪が降るばかりで大雨の記録は無い。闇淤加美神の思し召しか。』」

「その沈んだ裏葉村とやらが、僕の故郷の……下にあった村だと言いたいのか」

「はい。そして裏葉村は、あなたが沈めた」

「だから、そんなことできる筈がない。僕は垣外――」

「龍月さまは垣越かきごえのです。つかさんと、お祖父さまの子」

「……僕が高辻君の叔父だと言いたいのか。有り得ない」

「お祖父さまは愛する人を守って追放されました」

「素行不良じゃなかったのか」

「それだけで追放されるとは考えにくいです。だから先王陛下の愛人を寝取ったとかあらぬ噂が立ったんです。でもこれで追放の謎が解けました。お祖父さまはつかさんを妊娠させた。垣越えの子は禁忌です。その咎を受けて追放したけれど、禁忌の子が存在するという真実を周知させるわけにはいかず、素行不良ということにしたのでは。お祖父さまは名付け親ではなく本当の親で、その上――」

 霜葉が葵一の父親なら叔父甥ではなく兄弟だ。

「君は他人事だからそうぺらぺらと話しているんだろうが……」

 龍月は腹立たしげに溜息を吐く。

「夢が事実なら僕は百人殺しの大悪人だ」

「……証拠は夢だけですよ」

「ばれなければいいという話ではなくてだな、良心の問題だ。自分が過去に百人も殺していたと判明した前と後では見える世界も感じることも全部違うだろ」

「夢が事実である以上こう考えるしかありません。それに何人殺していてもあなたの優しさは変わりません。あれはご友人を救いたいと願った結果です。あなたが愛した、ぼくにとても似ている友人を」

「一人を救おうとしてあの結果になって、それでも優しいと言うのか。死んだのが貧しい垣外だから何人死のうが対して変わらないと思っていないか」

「そのようなことは決してありません。垣外も垣内も同じ人間で、同じ命です。それに裏葉の村人は高辻の大切な領民です」

「それなら尚更大事な税金を納めてくれる領民百人を殺した人間が憎くならないのか」

「……ぼくは実感が湧いていないのかもしれないです。正直探偵小説を読むように物語の謎を手掛かりから推理して解いているだけのような感覚で、村人が何人も死んだという事実を現実のものだと今一つ思えていなくて……無神経にずけずけとすみません」

「……いや。僕はだいぶ混乱している」

 龍月は立ち上がり、椅子に掛けた上着に袖を通した。

「裏葉村に行きたい。どのくらい掛かる」

「馬で二時間と、途中から歩きで三時間くらいでしょうか。あの辺りは道が殆ど整備されていません」

「明日行ってみる。僕が何をしたにしろ、母の生存確率が絶望的にしろ、故郷は見付けたんだ。この目で見ておきたい。高辻君はどうする。君は元々身体を治すのが目的だろうから、ここで霜葉様の呪術書を探していてもいいが」

「同行したいです。仮にお祖父さまが掛けてくださった呪文を見付けても症状を和らげるだけで原因は絶てません。それよりも裏葉を調べた方が建設的かと思います。垣越えの子の力を実際に見ておきたいです。甚大な呪力を上手く利用する方法が思い付くかもしれません」

「僕が垣越えの子だと決まったわけではないけどな」

 受け入れられない事実があまりに多いだろうに、龍月は冗談めかして言う。こんな時でも気を遣わせてしまっている。葵一は自分に嫌気が差した。


 山の奥深く、深緑に囲まれた獣道。当たりに人の気配は感じられず、調子の変わらない鳥の声と川のせせらぎだけが壊れた蓄音機のように繰り返し流れている。

「待ってください、歩くの早いです」

 前方をざくざくと進む長身を何とか見失わないよう歩く葵一の服は、枝に何度も引っかけ今にも破れそうな有様だ。

「ああ、すまん。休憩するか」

 立ち止まった龍月が振り返り、だいぶ下で蔓と格闘している葵一に言った。

「平気です」

 靴紐に絡まった蔓を葵一は引き千切る。こんな整備されていない道を歩いたのは初めてだ。

 転びそうになりながら噎せ返るほど濃い緑の匂いを吸い、龍月の隣まで駆け上る。

「坊ちゃんにはきつい道だな」

「あなたは文官なのに、息一つ乱れていませんね」

「山中を行軍する武官並みとは行かないが、文官も体力が無いとやってられないぞ。君もその内王城で働くんだろ、徹夜に耐えうる体力くらいは付けて損はない」

 幾分歩調を落とした龍月の背を葵一は追う。

 水音が次第に大きくなっている以外、景色も代わり映えせず方角が合っているか不安になりそうなものだが、不思議と二人の歩みに迷いは無い。まるで引き寄せられるように一点に向かい進んでいる。


 半時黙々と追っていた背が突然止まった。違和感に葵一が背の先を覗き見る。木々に覆われた獣道が途切れ、開けた土地が広がっていた。

 土地は円形で、中央に底の見えない沼が大きく口を開いている。

「ここが裏葉村か」

 龍月の声は眼前の波一つ立たない水面のようだった。疑問形のようではあるが、葵一にはここが裏葉村だと確信しているように聞こえた。

 平地どころか山すら抉り取った洪水は畑も家も人も、村の痕跡を根刮ぎ持っていった。垣越えの子が人の形をした厄災と言われる所以をまざまざと見せつけられている気分だ。

「何か思い出しますか」

「覚えているもの全てが沈んだんだ、思い出せというのは無理な話だろ」

 龍月は沼の底を見つめている。何も見えないはずなのに、そこに興味深い何かがあるように。

「……垣越えの子は、君の言う通り人よりも神に近いのかもな。君の呪術とやらを見た時も驚いたがその比じゃない」

「垣越えの子を神様と考えるとぼくの体調が良いのも納得がいきます。始祖を同じくする神様が、祖神の依り代になっている」

 立ち止まっている龍月を置いて葵一は沼の周りをゆっくりと歩く。細い川に串刺しにされた沼の北半分は崖に面している。龍月は自分と母親が住んでいた山すら削り取ったのだ。

「あなたはお母さまをとても慕っている」

「ん、ああ」

「でも夢の中のあなたは、むしろ憎んでいるようでした。慈さんを騙したみたいに思っていた」

「そうだな。……あっちが本来の僕で、お母さんを慕う今の僕は、自分をいい人と思いたい心が作った嘘なんだろうか」

「お母さまの話をするあなたに嘘は見えませんでした。龍月さまはとてもお母さまが好きだった――妬きたいほど」

「親に妬いてどうする」

 龍月の呆れた声は水音に混じって葵一の耳に入る。

「親というより――」

 恋人を語るようだった。

 口に出した声が龍月に届く前に、葵一の視界は沈んだ。


***


 足を滑らせた感覚は無かった。視界が降下しているのは、足首を掴まれ沼に引きずり込まれたからとしか言いようがない。

 葵一は自分が突然水面に叩き付けられ尚沈み続ける原因を考えた後、今更のように水面に手を伸ばす。届かない。両手をでたらめに動かし浮上を試みるも全く効果がない。

 左足首は未だに何かに掴まれている。猛禽類の足のような固く鋭い感触の正体を確かめようにも、目の痛みに耐えて開いた視界は三十センチと無い。

 山中のように蔦に絡まったのだろうか。そうだったら下に下にと引きずり込まれるわけがない。水面と意識は次第に遠のくのに足首の感覚だけは生々しい。

 愚かにも酸素を求め開いた口は、大量の水と共に温かい何かをこくりと嚥下した。


***


 僕は愉快な気分で水に抉られた村に降りた。


 けたたましい音で全てを無に帰した水流も、一日を経た現在はだいぶ落ち着いている。村のあった場所には黒々とした沼が鎮座するばかりだ。

 僕は自分の能力にさして驚かなかった。願えば水は味方をしてくれると知っていた気さえした。

 これで慈の敵は皆、黄泉の王の配下になった。この世界は僕と慈だけのものだ。

「慈!」

 ぼんやりと沼を見ている慈を遠くに見付け、僕は朗らかに呼び掛けた。身を切るような早朝の寒さだが、慈は裸足で雪を踏みしめている。

 ゆっくりと顔を上げた慈は似付かわしくない驚愕の表情を浮かべていた。

「龍月、無事だったの。……洪水に流されたはずなのに、泡の中にいるみたいに息ができて、でもそれは俺だけで、みんな死んだと思ってた。それに、雪で洪水って起きるのかな」

「雪のせいじゃないよ。僕が起こしたの!」

 僕は得意満面で胸を張り、首を傾げる慈に嬉々として顛末を話した。

 ただでさえ白い慈の顔は話を続けるに連れますます蒼白になっていく。

「……龍月が、洪水を」

「うん! 邪魔者はこれでいなくなったよ。森で暮らそう。大人のいない二人だけの世界で」

「つかさんは」

「大人はいないよ。お母さんも沈んだ」

「どうして」

 生気のない、奪われるばかりだった小さな身体が、僕の肩を信じられない力で掴み揺すぶった。慈の力強さによろめき沼を背後に二歩後退する。

「慈のためだよ」

「俺はそんなこと頼んでない」

 こんなの慈じゃない。

 人形じゃない。

「確かに頼まれてないけど、これは慈のためなんだよ」

 お母さんのせいで、慈は本当の自分を捨てて、人間になってしまった。

「さ、山に行こう。村が好きならここだっていい。慈の好きな所で」

 大丈夫、慈は一時的に動揺しているだけだ。すぐいつも通りになる。

 落ち着かせようと肩を掴む手に触れた瞬間、慈は弾け飛ぶように僕を突き飛ばした。

「しげ、る」

 視界が慈から空へ、水中へ。


 僕が最後に見た慈の目には、空と同じ色が燃えていた。


***


 荒い息遣いがすぐ側で聞こえる。

 眩しさに耐えながら薄く目を開ける。頭の横に、男が肩で息をしながら座り込んでいた。

「大丈夫か。高辻君。僕も泳ぎは不得手だが。君ほどではないようだ。何とか引っ張り上げられた。もう少し注意して歩きなさい」

 言葉を一言一言区切っているのは呼吸が落ち着いていないからだ。二人とも全身ずぶ濡れだ。

 沼の底と対照的な地上の眩しさに目が慣れてくる。それと同時に男の正体を確信する。

「慈!」

 そして、弾けるように身を起こし男に抱きついた。

「見違えたよ。僕より小さかったのに大きくなったね。クラオカミが本っ当に鬱陶しくてここから動けなかったけど、やっと会えた! 葵一と一緒に僕を迎えに来てくれたんだね」

 すっかり大人になった慈の首に腕を回す。懐かしいひんやりした頬が愛しくて、自分の熱を与えるようにゆっくり頬擦りした。

 やっと、やっと彼に会えた。十七年も暗い沼の底で待ち続けた。

「高辻君、何を言って……頭でもぶつけたか」

 慈の声は震えている。きっと僕の外見が変わってしまったから混乱しているのだろう。

「驚かせてごめんね、慈。でもすぐこの身体の僕にも慣れるから」

「僕は龍月だ」

 意固地な慈に口端が歪むのを抑えられない。

「僕の名前で暮らしているのは知ってるよ。そんなに僕のこと思ってくれていたなんて! それにしてもこの子は本当に慈が大好きみたいだね。僕の入れ物だから当たり前かな。あ、こういうのは入れ物じゃなくて来世って言うんだっけ。変な感じ」

 葵一の前世である僕は、高辻の忌々しい祖神によって長らく沼の底に拘束されていた。クラオカミ――闇淤加美神曰く「垣越えの子の存在を我々は認めない。人間の世界に神が過剰に干渉しないよう、これ以上神を増やさないと決めているからだ」、と。だから長い歴史の中でたびたび生まれた垣越えの子は例外なく幼い内に、世界を調整するため神に選ばれた人間によって殺された。もっとも殺す人間にそんな自覚はなく、「災いを呼び込んだ垣越えの子を正義感に駆られ討った英雄」と人間の歴史書には記されるが。垣越えの「子」という名称は、全てが子供の内に死ぬことを現している。

 そして、僕を殺す「英雄」に選ばれた人間が慈だった。でも人間としての僕は殺せても、魂を消すことはできない。

 魂は普通の人間と同じように、肉体が滅びれば、新たに生まれる肉体を家とする。ただ垣越えの子は普通の人間と違い、垣越えの子からの記憶を全て持って転生する。記憶だけで神としての能力はないから、神々も魂には干渉しないようだ。あいつら流に言えば魂の絶対数を減らす方が過干渉になるらしい。

 縄張りを荒らされた闇淤加美神は腹癒せにフナにでも転生させようと、時に全身を硬質な鱗で全身を覆う龍、時に蜂蜜色の髪を輝かせるいかにも神経質そうな人型の男の姿を取りながら僕を沼に拘束した。しかし目論見は外れ葵一が「先に」生まれてしまった。血縁は来世になりやすい。しかも父親までもが同じなのだ、これ以上ないぴったりの肉体だった。だが闇淤加美神は僕を拘束し続けた。魂のない人間は生きることが叶わないのに、祖神として加護を与えることで生かし続けようとしたのだ。人間には干渉しないと言っておきながら、怒りに任せて僕を拘束する姿は滑稽だったが、彼の力は霜葉の呪術に形を変え、葵一を守り続けた。

 だけど僕も何もせずただ封じられていたわけではない。霜葉亡き後、本来なら氷が溶けるように緩やかに消えていく葵一の身体は、慈に出会った。僕の目論見通り。

「ねえねえ、『僕』ってのも僕の真似? 僕が生きてた頃は『俺』だったよね? 僕が恋しかった? そうだ、昔やったことをしようか? 今度は君に抱かれるのも悪くないかな」

「う……うるさい、喋るな」

 矢継ぎ早の質問に慈は耳を塞ぎ首を振る。

「嫌だよ。十七年分の言いたいことがあるんだから。慈、大好きだよ。君に殺されたのだって全然気にしてないから。霜葉は地位も名誉も捨てて守った愛する我が子を亡くしたのが耐えられなくて、代わりを作った。それが葵一だよ。そういえば母体として適当に選んだ女が息子――僕の異母兄ってことかな――の奥さんだったみたいだね。それにしても僕は動けないから葵一をこっちに連れて来ないといけなかった。大変だったよ。慈が葵一と出会うように仕掛けなくちゃならない」

 葵一だけではこんな辺鄙な土地に自主的に来るよう仕向けるのは難しい。だから慈と出会わせ同じ夢を見せ運命を錯覚させ、「彼を故郷に連れて行ってあげないと」と思わせた。慈が菊子に出会ったのも文官を志したのも全ては葵一――僕と再会させるためだ。

「二人が接触さえすれば、僕の記憶を二人に見せてここを特定してもらえばいい。ふふ、同じ夢を見るなんて素敵でしょ? こういうのロマンチックって言うんだよね? 慈が僕の名前を奪ってくれたお陰で、夢に君の勘違いした記憶が混ざるし、他にも事態は少し、いや、だいぶややこしくなったけど、お陰で霜葉の寿命を僕が葵一に出会える期限にする必要がなくなって、結果的にはむしろ上手くいったよ」

「……龍月」

 慈が十七年ぶりに僕を呼んだ。やっと事態が飲み込めたみたいだ。僕は満面の笑みを浮かべる。

「なあに?」

「……思い出した。お前は変わらないな」

 ゆっくりと慈は僕の身体を引き剥がし立ち上がる。

「うん! 見た目は葵一になっても僕は僕だよ。元から顔はそっくりだしね。あ、髪の色は全然違うか。嫌なら黒くしてもいいよ」

 僕も釣られて立ち上がり、だいぶ上になってしまった慈の朝焼け色の目を見つめた。前の人生で最後に見た色だ。

「お前が何を言っているのか正直二割も理解できないが、僕がお前を名乗ったから、高辻君は霜葉様が亡くなっても生きていたのか」

「うん。でも詳しく説明する必要性は感じないな。その内、葵一の肉体がその場しのぎに作った出来損ないの魂も消えて、完全な僕になれるからね!」

「……それはつまり、高辻君の意思は消滅するということか」

「そうだね。でもこの十四年の人生全部、魂が無いまま空っぽに生きてただけだし消滅するものなんて無いんじゃないかな?」

 慈は何かを言いかけたが、やめたようだった。

「慈も遠慮しないで言いたいこと言っていいんだよ。時間はたっぷりあるから今すぐじゃなくてもいいけどね。これからずっと一緒だよ。本当は森で暮らしたいけど、慈が望むなら人間の世界でもいいよ。僕、表向きは葵一の人生の続きを生きられるよう、頑張ってみるから」

「お前と一緒になるつもりはない」

「……まだ混乱してる?」

「僕は至って冷静だ」

「僕と一緒になれるんだよ。嬉しいでしょ?」

 伸ばした手は、またも弾き返された。

「どうして慈はいつも僕を愛してくれないの? まだお母さんが好きなの? それとも途中で会ったあの女――」

「誰に出会おうと、誰に騙されようと騙されまいと、お前のことは――」

 耳鳴りがする。これ以上音を聞くことを拒否するように。

 代わりに沼に、小川に立つ細波が聞こえる。それは次第に大きくなる。僕はこの感覚を知っている。慈が手に入らないのなら。

「沼の底で暮らそう。今度はずっと、君を離さないから」

 嵐の海のように沼が波立つまで時間は掛からなかった。

「また駄々を捏ねるつもりか」

 目の前で波が荒れ狂っても、慈はその場から半歩たりとも動こうとしない。

「僕には力がある。好きに使って何が悪いの?」

 僕のすぐ背後で轟々と波がうねるのもお構いなしに、慈は僕の胸倉を掴んだ。

「全てお前の思い通りになると思うなよ」

「怒ってる? すっかり人間みたいな顔をして、ちょっと残念だよ。俗世に染まりすぎたね。いいかい慈、人間は神に勝てないよ。この世界は全部神の決め事に従って動いているんだから」

「そんなことは知らない。もうお前はいいから高辻君を出せ」

「これは僕の身体だよ」

 慈の手に力が籠もる。身長差も手伝い僕は爪先立ちの格好になった。

「俺は最初から、龍月なんか大嫌いだった」

 背後の轟音よりなお鮮明に慈の声は響いた。

「つかさんに愛された恩を忘れて、身勝手に俺に付きまとって、全部勝手に決めて、本当に邪魔だった」

「でたらめを言うな!」

「身体から出ろ。これはあの子の――葵一のものだ」

 慈が葵一の名前を口にした瞬間、僕の意識は後頭部を石で殴られたみたいに不安定になった。

 地震の最中の湯飲みに注がれた水みたいに意識が震え、溢れ出す。

「慈は本当に、予定外の行動ばかり――」

 十四年を掛けて身体の一部になった名前が、慈に従い葵一を呼び出す。僕は未だ葵一になれていなかった。


***


 目の前で風船が弾けたように唐突に葵一の意識は浮上した。

 同時に意識が遠のいていた間の出来事も、夢で見ていない部分の「龍月」の記憶も、龍神の形で沼の底に封じられていた十数年の情景も、思い出のように頭の片隅に存在しているのを感じ取る。

「……龍月さま、苦しいです」

「高辻君か」

 葵一がこくりと頷くと龍月は手を離した。開放された気道が湿っぽい空気を目一杯身体に取り込む。

「あなたが慈さんで、ぼくが」

「その話は後だ。逃げるぞ、またここが沈む」

 腕を掴み森に走ろうとした龍月を葵一は制止する。

「間に合いません。もう一分もしないうちに堰が切れて、汽車よりずっと速い水があなたを追い掛けます」

「だからってここで死ぬのを大人しく待てと言うのか。それこそあいつの思う壺じゃないか」

 もちろん死ぬつもりはないし、やるべきことは分かっている。葵一の頭は人生で一番冴えていた。身体に魂が揃ったからだろうか。

「あなたの発言と、あなたじゃない方の龍月の記憶と、ぼくの呪術から考えるに、一つこの局面を切り抜ける方法があります」

「何だ、もう時間はないぞ」

「銭湯で使った呪術を使います」

「は。……ああ、あれは確かに水を割っていたが、本来はああなる物ではないんだろ」

「ここはぼくの領地です。信じてください」

 龍月の両手を自らの手で包み、葵一は祈りを捧げるように目を瞑った。

「……分かった」

 轟々と水が流れている。川の堰が切れたのだろう。もう時間はない。葵一は迷い無く祖父の遺した呪文を口にした。こうなったのは全て祖父のせいだが、状況を打破できる術も祖父だけが遺していった。

「常も仕え奉る闇淤加美神にかしこみ畏みも祈り奉る、此方こなたよりつるにがきを払い給えと申す事を聞こし召せと畏み畏みも申す」

 葵一が殆ど叫ぶように言い切った直後、強い衝撃が身体に叩き付けられる。ただしそれは室内から窓に叩き付ける横殴りの雨の振動を感じるような、他人事めいたものだった。

 葵一の目論見は当たった。水流は葵一と龍月の僅か五寸横でぱっくりと割れ、二人を避けた。

 二人の立つ空間だけが嘘みたいに静かだ。服までも乾いている。

「上手く行った……んだな」

「信じてくださってありがとうございます。それと、ぼくを助けてくれて」

「僕も溺れそうになったけどな」

「それだけではありません。生まれたときからあなたが守ってくれました」

「そんなことをあいつも言っていたが、僕が何をしたんだ」

「神でも人間の運命を完全には支配できないという話です」

 困り顔の龍月は、やはりどこか可愛らしかった。


「結局濡れるんだな」

「すみません、途中で呪術の効力が切れたみたいです。効果が有限の呪文だというのは分かっていましたが、正確な時間が分かりませんでした」

 葵一と龍月は水溜まりをようやく抜け、膝まで濡れた服を纏わり付かせながら山を下りていた。洪水が治まり辺り一面に薄く水が張ったあたりで葵一の呪術が解け、二人を避けていた水に浸入されたのだ。

「あいつは消えたのか」

「龍月のことですか」

「そうなんだが、何かややこしいな。霜葉様には悪いが、僕は今更慈に名を戻すつもりは無いぞ」

「では彼を裏葉と呼びますね。裏葉の意思は消えました。ですが、ぼくの中にあります」

「あいつ……裏葉は高辻君の意識がその内消滅すると言っていたが、それが逆転したのか」

「そうですね。裏葉が魂を半分しか持っていなかったのでぼくの意識は生き延びることができました」

「裏葉の魂は半分だけだったのか」

「ええ。半分は龍月さまが奪いました」

「僕が」

 裏葉村への道行きと同じく先陣を切る龍月の背から、感情は読み取れない。

「あなたは裏葉から名前を奪いました。名前は原初的で短いですがかなり強い呪いです。名付けとはそれを所有し支配する行為であり、その対象物の魂を形作る大きな要素になります。あなたは裏葉から名前を奪い、自分に名付けた。つまり、裏葉は魂の構成要素の半分を失いました。もし裏葉が名を奪われないまま完全な魂でぼくの肉体に入っていれば、彼の言う通り『出来損ないの魂』は完全な魂に負けて消滅していました。つまりぼくはぼくでなくなった」

「今の高辻君は、今までで作った魂と裏葉の魂を混ぜて一つの完全な魂になっているということか」

「そういうことだと思います。ぼくの体調が悪かったのは祖神が拗ねているからではなく、魂が不完全だったからなのでしょう」

「なら君は、ここに来た目的を果たしたわけだな。随分予想外の展開だが」

「あなたは……」

「故郷が分かっただけでも大収穫だ。今更慈としての生母にも興味は無いしな」

「何故龍月と名乗ったのですか」

「その辺の記憶も曖昧だが、きっとつかさんに愛されていたと思い込みたかったんだろうな。もう一つ原因を挙げるとすれば、裏葉を殺したことを認めたくなかったから彼の人生の続きを歩もうとした、といったところかな」

「彼は一人どころじゃなく殺しています」

「一人でも百人でも同じ人殺しだ。僕は今まで褒められた人生じゃないが、それなりに善人として生きていると思っていた。それなのに人生の随分最初の方で許されない過ちを犯していた」

「あなたの煩悶を全て理解することはできません。ですがあなたの行為が間違いとは思いません。裏葉はあまりに危険な人間でした」

「……危険でも死んでいい命なんて無いよ」

「どこまでもお優しいですね」

「そうかな。僕がもう少ししっかりしていれば裏葉もあんな行動をしなかったと思う。彼の孤独に目を向けるべきだった」

「……勝手に決めて勝手に行動する人にそこまで気を遣う必要無いですよ」

「高辻君は手厳しいな」

「葵一と呼んで頂けますか」

「……裏葉の記憶があるんだから、君の名付け親が誰か知っているんだろ」

「はい。いい名前だと思いますよ」

「考えたこともないと言っていなかったか」

「慕う方に名付けられたのなら別です」

「その設定まだ続いていたのか……」

「設定って何ですか。ぼくはあなたが好きです。それに運命の人が名付け親なんですよ。ますます好きになります」

「いいか、あれは不本意だったんだ。君が生まれたとき、菊子さんが嬉々として僕に報告に来て名前の案をいくつか出してきた。僕がそれになんとなく意見したら、文句ばかり言っていないで案を出せと言われた。別に文句を言ったつもりはないのだが……何となく外を見たら庭に葵が咲いていた。それで、菊子さんも花の名前だし、長男だから一を付けて『葵一』とかでいいんじゃないかと言った。その後は知らない。だが君を見るに、採用されてしまったようだ」

「やっぱりぼくたちは結ばれる以外にありませんよね。まさしく運命です」

「元気だなお前は……。そもそもその運命とやらは、僕達が出会うように裏葉に操作されていたものだろう。あまり気味のいいものじゃない。高辻君が――」

「葵一」

「……葵一が僕を好いているのだって、裏葉の思い通りだったってだけだろ」

「違います」

 どうしてこの人は好意を素直に受け取ってくれないのだろう。少し想いを寄せただけで手を出してくる男より何百倍もできた大人だが、せめて自分のこの気持ちだけは本物だと分かって欲しい。

 葵一は口にこそ出さなかったが自我というものへの不安に苛まれていた。自分を何の疑いもなく人間だと思っていたが、それを出来損ないと否定されたのだ。裏葉にとって葵一の十四年の人生を宿す肉体はただの入れ物で、意思など持ちようがないものだった。龍月すらも、本来の魂に合わせて入れ物が好意を錯覚していると思っているのか。

「お守りをもらったのも、一緒に寝たのも、溺れたところを助けてもらったのも、全部『ぼく』です。裏葉じゃない。ぼくはぼくの意思であなたを好きになった。好意を返してとは言いません。でも、ぼくが、葵一があなたを好きなことは否定しないでください」

 龍月は立ち止まり葵一に振り向いた。そして右手を伸ばし、葵一の左手を掴む。そのまま龍月は何事も無かったように無言で歩き出した。

「あ、あの、龍月さま?」

「お前のちんたら歩きに合わせていたら日が暮れる」

 急に乱暴に手を引き出した龍月を見ながら、何かまずいことを言ったかと慌てていると、彼は口早に続けた。

「すまない。僕はお前を裏葉として見ていた部分がある。実際お前があいつに乗っ取られたのを見ていたから余計に現実感があった。だがお前は葵一だ。それを認めなければ、僕も裏葉ということになる。僕は慈の名を捨てて龍月を名乗った。つまり本来の魂を半分捨てて裏葉の魂を半分もらったということだ。だが僕はずっと僕だ。裏葉と同じ考えを持っていない。つかさんを愛していたし、人殺しは悪だと思っている。僕達は似たもの同士だな。裏葉の半分を奪って一人前だ」

「分かっていただけて嬉しいです。龍月さまと一緒にいると体調が良くなるのも、呪力が増幅するのも、あなたが前世の魂を持っていたからなんです」

「そうか。ならば謎は全て解決だな」

「謎は解決しましたが、一つ問題を残しています」

「なんだ」

「ぼく達がお付き合いするにあたって、次の逢い引き場所を決めておかないと」

「いや、だから付き合わないと」

「こんなに情熱的に手を握って、似たもの同士なんておっしゃっているのに?」

「いや、これはお前が遅いから」

 龍月が咄嗟に離そうとした手を葵一はしっかりと握る。

 期待を孕み輝く深緑の目に、龍月は葵一に出会って何度目か分からない苦笑を漏らした。


***


「――と言うわけで、大冒険を経て見事ぼくは龍月さまとのお付き合いの約束を取り付けたのだ」

「最後滅茶苦茶しつこく粘った末の龍月さんの根負けだよね。しかも『大人になったら』って、体よく断られてるよそれ」

 葵一の大演説を聞き終えた業平はのんびりと言った。

 夏休みが終わり、学生達は寮に戻りいつもの学生生活を再開している。葵一の寮室の寝台を我が物顔で占領している業平だが、上機嫌の部屋の主は咎める様子もない。

「龍月さまは子供に手を出さない誠実な方なんだ」

 山を下りながら、本邸で帰り支度をしながら、汽車に揺られながら、龍月を口説き続けた葵一は、ついに「大人になっても飽きていなかったら考える」という言質を龍月から得たのだ。「考える」であって「付き合う」ではないとか、そう言わされた――言った龍月が道端で腐乱死体を三連続見たような顔だったとか、そんなことは葵一にとって些細なことだ。とにかく、龍月との付き合いの約束を取り付けたという結果が重要なのである。

「まあ今度は振られた腹癒せに俺にキスするような事態にならないよう祈るよ」

「その話はするな」

 思い出したくないことを掘り起こされた葵一は上機嫌が一転する。二年前、先輩に振られて自棄になり、お節介にも「あいつは大したことない」とか口出ししてきた業平に何故か勢い余ってキスをしてしまった。うるさい口を塞ぎたかったのかもしれないが、それなら考え得る限り一番の悪手だ。

「分かった分かった。振られたといえば水無瀬だけどさ」

「何だ」

「いや、これ以上気に障る話をするつもりは無いから安心して」

 怒気を含んだ声に半分本気で狼狽えながら業平は続ける。

「あいつ、他の学生にも手を出してたみたいで、そっち経由で今までの淫行がばれて近々辞めさせられるらしいよ。だから言ったでしょ、あいつはロクな人間じゃないって」

「……そうか。ぼく以外にも……」

「あれ、もしかして妬いてたりする?」

「妬く? お前は脳味噌の芯まで花畑なのか。あの保健室で一線を越えなかったぼくの慧眼に感激していただけだ」

「いや、俺が来なかったら一線越えてたからね。記憶を改竄しないで」

 大の字になりながら抗議の声を上げる業平にも葵一はお構いなしだ。

「ともかく、これでぼくは普通の人間としての生活を手に入れたわけだ」

「その点については素直に祝福するよ。おめでとう」

「ああ、ありがとう」

 業平を見下ろしながら、ふふんと葵一は得意げに笑った。


 ようやく、葵一の人生が始まったのだ。

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