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2話

 僕は村外れの森にお母さんと住んでいる。


 盗んだ穀物で小さな畑を作ってみたものの、元々の土地が駄目なのか育て方が悪いのか殆ど見込みはなかった。

 代わりに周囲の僅かな木の実や動植物を採取し、廃屋を寝床に今まで食い繋いできたが、その生活も限界が来ている。

 胃はぐうと鳴る元気を疾うに無くし、腹の痛みと吐き気が酷い。

 僕は村に下りることにした。

 大きな家を取り囲む小さな家々と、さらにそれを取り囲む畑。見下ろす村はいつもと変わらない景色だが、畑には僅かな実りが見える。

 森と村の境に横たわる小川の大人が乗れば折れそうな橋を渡り、慎重に辺りを見回しながら畑に入る。村の畑も家の前のそれと変わらず貧相だが、二人が飢えを凌ぐには充分だ。

 背と同じ高さに実る拳大の穀物をもぎ懐に忍ばせる。

 羽虫の音以外聞こえるものは無い。

(すぐに冬が来るからもっと入れておこう)

 欲を出し袖口からも詰め込もうと手を伸ばした瞬間、前方から「誰かいるぞ!」、怒声が耳をつんざいた。

 転げるように穀物の林を抜け森に駆けたが、唯一の橋の前には既に別の村民がいる。

「森の餓鬼だ! だから殺しておけと言っただろう!」

 すかさず自分より背の高い畑に飛び込み、悲鳴を上げる胃を叩きながら突っ走る。盗った物が腹から一つ二つと零れ落ちていく。

 「今回は逃すな」「害獣を駆除しろ」、方々へ叫ぶ穀物畑の天辺で無気味に実る大人の頭を躱し、鼠のように駆け回る。

 民家の裏手に回るころには盗んだ物はすっかり無くなっていた。

 歓迎されないことは明白な上、盗みに入ろうにも畑より危険性が高いため家屋に近付くのは初めてだった。

 遠回りになるが家々の裏をぐるりと周り帰るのが得策だろう。見つかってしまえば逃げ切れたとしても住居が知られてしまう。鎌で殺されるのも時間の問題だ。

 村を見下ろす時最初に目に入る大きな屋敷の裏を歩いていると、屋敷から物音がした。見ると竹垣にほど近い離れの丸窓が微かに開いている。

 人影が見えた。

 一刻も早くここから去るべきだと分かっているのに、本能は物音の方へと引き寄せられる。

 赤い着物を羽織っただけの女が、子供――しげるの上に跨がっていた。

 後ろ姿の女が慈の上で腰を前後に擦り動かすたび、肉の擦れる音と、悲鳴に似た慈の小さな声が聞こえる。

 それがどういった行為なのか分からないほど呑気な暮らしではない。見てはいけないもの見ているのに、目が離せない。

 畳に広がる赤い裾の中の慈の脚が、女に合わせて震えていたのを今でもはっきりと覚えている。

 子供が女に抱かれている。おぞましい光景に呆然と立ち尽くすしかなかった。

 慈が女に抱き締められ、上半身を起こされる。抱き合う格好になった女の肩口から慈の頭が見えた。

 頬が汗で光っていることが不思議なくらい慈は生き物としての気配が薄く、女の玩具として蹂躙されるだけの人形のようだった。

 白い目隠し――慈の身体を隠す唯一のものだった――を見た瞬間不思議と、気付かれた、目が合った、と思った。

 どくん、と下半身に熱が集まり心臓が飛び出るくらいばくばくする。

 数瞬「見つめ合った」後、慈は何事も無かったように再び背を畳に預けた。

 次第に女は腰の動きを速め、今度は慈を押し潰すように圧迫していく。

 慈の悲鳴とも喘ぎとも付かない声が次第に大きくなる。女も何事か言っているようだったが、慈の声しか耳に入れたいと思わなかった。

 慈は息を詰めた悲鳴を上げ、くたりと身体の力を抜いた。僕と慈の荒い息が重なる。


 僕は女が羨ましいと思った。


 女がねっとりと身体を浮かすのを見て、僕は半ば腰を抜かしたように尻餅を付く。

 下半身はますます熱を帯び力が入らずしばらく立ち上がれそうになかった。

「森の子でしょ」

 荒い息を整えている途中、突然天から降ってきた声に心臓が跳ね上がる。

 恐る恐る顔を上げた先には目隠しを外した慈が、白い着物を纏い丸窓から僕を見下ろしていた。

 目隠しをしていなくても硝子玉の瞳は何も映していない。

「なに、してたの」

 渇いた喉から無意識に出た言葉は先程の行為を問うものだった。

「ねえさまの遊び相手」

 酷く平坦な声で答え、慈は猫のように窓を降りる。そして突然僕の裾を捲り、露わになった性器をぬるりと掴んだ。

「な、なに……っ」

 後退ろうにも力が入らない。

「ねえさまがすること、するね」

 僕に跨がり慣れた手つきで性器を尻に押し挿れる慈を、座り込んだまま見ていることしかできなかった。

「っ、あ!」

 行為を覗き見た興奮を上回る感覚にたちまち頭が真っ白になる。

 慈は僕の性器を全て呑み込むと身体全体を擦りつけるように上下した。性器がぬたぬたと扱かれる強すぎる感覚に何もできず、馬鹿みたいに高い声が出る。

 僕は暫くされるがままになっていたが次第に腰を振り、自ら快楽を求め出していた。慈の折れそうな身体を何度も突き上げる。

 空腹も帰ることも忘れ細く小さな身体を抱きしめ合いながら、本能のままに未知の快楽を貪った。

 突き上げるたびに慈から漏れる嬌声を至近距離で耳朶に押し付けられた瞬間、脳天を突き抜ける快感が身体を支配する。

 性器を痙攣させ情けない声を上げながら、僕は初めての絶頂を向かえた。

 慈がしな垂れかかる。

 絶頂の余韻に酔う僕の頭に囁かれた言葉は、悲痛と達観が入り交じっていた。

「……早く帰ったほうがいいよ。ここは地獄だから」


 これが僕と慈の出会いだった。


***


 王都へ向かう夜汽車の寝台で葵一きいちははっと目を覚ました。

 それと同時に下半身の不快感に気付き溜息を吐く。

 手探りで眼鏡を掛け向かいで眠る真萩まはぎを起こさないようそっとコンパートメント席の扉を開けた。

 簡素な洗面台で白い液体が付着した下着を穿き替え、蛇口を捻り丹念に洗う。

 匂いも感触も感じるような嫌に現実味のある夢だった。

 未だ精通も向かえていない子供達の淫猥な夢を見たことすらおぞましいのに、あまつさえそれで夢精した自分に葵一は激しい嫌悪感を抱く。

 下着を絞り鞄に仕舞おうとまで考えたところで、忌々しい記憶までも持ち帰ってしまうような気がして、手近な屑篭に押し捨てた。

 部屋に戻る途中、僅かな灯りの廊下で葵一は違和感にはたと足を止める。

 桧川ひかわを発ち相当な時間が経ったのに体調が悪くなっていない。正確に言えば頭痛や耳鳴りは続いているが、祖父が死んだと聞かされた時とは比べものにならないほど軽い。

 これのお陰だろうか。

 数日前龍月りゅうげつに押し付けられたお守りを胸ポケットから取り出す。小さな青い巾着は「御守」の刺繍以外、神社も祭神の名も書かれていない出所不明のものではあるが、鞄の奥深くに押し込んでおくのも罰当たりな気がして肌身離さず身に付けていた。

 初めは龍月を不審者を見るように警戒していたが、今思えば知らない子供に長時間付き合ってくれた上に心配してお守りをくれるようなただの親切な人だった。今度会えたらしっかりと礼をしたい。再び会える保証はどこにもないけれど。

(……そういえば夢で見た子供、彼に似ていたな)

 あんな形で夢に見たことに罪悪感を覚える。それだけ彼を意識していたということだろうか。自身に問い掛けるように唇をお守りに押し当てる。白檀の仄かな香りに葵一は目を細めた。


***


 葵一は何事も気になることは調べなければ気が済まない質だった。

 目下の疑問は三つ。一つ目は媒体を祖神おやがみの住処の一部にする呪文、二つ目は本当におぎが実父なのかということ、三つ目は龍月にもらったお守りの出所。

 一つ目は難航していた。帰宅早々祖父が遺した呪文の端書きを片っ端から試してみたが、空気中の水分を遠くに飛ばす呪文(蒸し暑さが軽減した)、血流を良くする呪文(身体が温かくなった)、水を霧状に出す呪文(たぶん花の水遣りに役立つ)等々、生活が少し快適になる便利な呪文が目白押しといった感じで目当ての呪文はついに見つからなかった。祖父は隠居生活をなかなか楽しんでいたらしい。

 二つ目の疑問は真実を知る母親が亡くなっているため、すぐに解決するのは難しそうだった。

 だから三つ目の疑問を解決するべく葵一は大和やまと国最大の情報と知恵が結集する王立図書館に行くことにした。

 王宮隣接のこの図書館は貴族と官吏にのみ閲覧が許可されており、官吏の来歴をまとめた冊子も置いてある。それで龍月の住所を調べ聞きに行こうと考えたのだ。お守りの出所が判明すれば、未だに確かに残る鈍痛を一掃する手掛かりが見つかるかもしれない。

 冊子は人気ひとけのない一角、掃除もされていなそうな埃っぽい棚にみっしりと並んでいた。

龍月が今年で二十五歳と仮定し二十歳の大学卒業年度に高等文官試験に受かったとすると、夏祚かぞ三年度の入省になる。葵一は背表紙に『夏祚三年度高等文官入省者記録』と書かれた冊子を油でべとついた感触に顔を顰めながら抜き取った。

 三年度に彼の名前はない。次の年度次の年度と調べた結果、五年度に彼の名前を発見した。


 護山ござん龍月 禎永ていえい十九年一月七日生 満二十四歳

 種族 垣外かいと

 身分 平民

 住所 葦原あしはら霞寺かすみでら南新丁みなみしんちょう二七三番地


 霞寺市は葦原県都の南に隣接する。馬車を使えば一時間で到着する距離だ。

 葵一は紙切れに住所を書き写し役目を終えた冊子を戻そうとしたが、ふと手を止める。

 この冊子には官吏の家族構成や出身地等の来歴が事細かに記されている。葵一は、あのどこか変わった人物がどのような経緯を辿ってきたのか興味をそそられた。

 葵一とは関わりのないことだし私的な領域を暴くようで後ろめたい気もしたが、こうして堂々と閲覧できる物なのだから構わない、と言い訳がましく開き直る。


 禎永二十八年 内仙寺だいせんじ住持職、護山穏秋おんしゅうに養子入

 夏祚元年 壬生みぶ伯爵家に師事す

 夏祚五年 内務省入省


 その他は極貧と言って差し支えない養家の財産状況と家族構成の記述のみで、他の合格者に比べ余りに簡素だった。学歴と十歳以前の記録が全く無いことが原因だろう。

 国は反体制派の流入を防ぐために受験者の子細を調べ尽くすと聞いたが、その手腕を以てしても龍月の出自は突き止められなかったということか。或いは正体不明の人物を王宮勤めとして受け入れる国の度量の広さを褒めるべきか。

(もう一つ疑問が増えてしまったな……。それに、壬生伯爵家に師事か)

 壬生家は葵一の姉、菊子あきこの嫁ぎ先である。龍月は姉について何も言わなかったが、壬生家に住み込みで教えを請うていたのだとすれば面識はあるはずだ。

 王宮内に未来の強力な味方を作るため、官吏を目指す将来有望だが裕福ではない若者を住まわせ勉学を教えたり費用を出して学校に通わせたりする貴族は多い。

 龍月が葵一に優しかったのは恩家と縁のある人間だったからだろうか。

 そう考えると気持ちがしゅんとする。彼の好意は自分に向けられたものではなかった。

(――いや、何故そんなことで落ち込まなきゃいけないんだ)

 葵一は正体不明のもやもやを吹き飛ばすように頭を振る。日に日に龍月の印象が美化されている気がする。

 また龍月に会えると思うと顔が綻んだが、自分の症状が良くなる可能性があるからだと結論付けた。

 人間は異種族に恋するようにはできていないのだから。


 葵一はその足で辻馬車に乗った。

 容赦なく西日の照り返す道が石畳から土に変わり、揺れに吐き気を催してきたころ、馬車は目的地に到着した。

 南新丁は海へと続く幾つもの下り坂に沿い家がみっしりと並ぶ住宅街だった。どれも正面に門や庭は無く建物が平坦で、家々が一つの壁としてどこまでも続いているように見えた。

 輝く海を見下ろせる最も景色の良い最上部には墓地が広がっているのが見える。

 龍月の家は坂の中程にあった。周りの家と変わらず、道路に飛び出しそうな庇の下に大きな窓と引き戸が付いている。

 深呼吸をし戸を叩こうとした瞬間、慢性的な鈍痛が波のように引いた。

「高辻君か」

 同時に二週間ぶりの声がまたしても後ろから掛けられる。

 突然の訪問にも関わらず龍月の声は平坦とも取れるごく穏やかなものだった。

「お、お久しぶりです」

 最初の邂逅と同じ弱々しい声が出る。我ながら情けないと思いながらも葵一は振り返った。龍月に会う緊張はある程度予測していたが突然痛みが引いたことに頭が付いていかない。

「何か用か」

 三筋縞の単衣の着物を纏った龍月は、何故家が分かったのかと不審がる様子もなく淡々と鍵を開けた。

「お聞きしたいことが、ありまして」

「西日がきついし取り敢えず家に入りなさい。不味い茶しか出せないが屋根があるだけましだ」

「……はい、お邪魔します」

 龍月に導かれ、葵一は薄暗い家に足を踏み入れた。


***


 玄関から廊下が真っ直ぐに伸びている。廊下の左側は壁、右側は手前から開き戸と障子が一つずつ、廊下の突き当たりには引き戸というごく質素な造りの家だ。

 障子の先は奥に襖で隔てられた部屋が一つある六畳間だ。開き戸の先は台所で、六畳間とも段差を挟んで繋がっていた。

「座って待っていてくれ」

 龍月は奥の部屋から引きずり出した平たい座布団を畳に投げ置き台所に降りた。

「それで、用件は」

 間もなく湯飲みを唯一の家具である卓袱台に並べた龍月が問う。

「お守りをくださいましたよね。あれはどこの物ですか」

「内仙寺という寺だが、それがどうした」

「ご実家のものなのですか」

「……よく僕の実家を知っているな」

「えっと、あの、これは……姉に聞きました!」

 わざわざ王立図書館に赴いて調べたと知られては引かれてしまう。葵一が咄嗟に姉の名を口にすると龍月はすんなり納得した。

「菊子さんからか。お守り気に入ったのなら一つ二銭で用意できるぞ。色もたくさんある」

 嬉しそうな龍月に、やはりこの人はのんびりしていると苦笑しそうになる。

 しかしお守りが寺のものとなると問題は解決できない。寺は外国の神と関連する宗教施設だ。闇淤加美神くらおかみのかみに作用を及ぼせるとは思えない。

「それだけ聞きにわざわざここまで来たのか」

「お守りは悩みを解決する手段になるかと思って聞きに来たのですが、何故かあなたに会ったら解決してしまって……」

「その悩みは霜葉そうよう様の書斎で探していたものと関係があるのか」

 書斎では龍月を利用しようとしか考えていなかった葵一だが、彼の穏やかな態度にすっかり毒気を抜かれている。葵一は滑り出すように、やたらと濃い緑茶で喉を潤しながら業平にしか明かしていない秘密を告げていた。


「つまり高辻君は霜葉様の術によって生かされていたが、彼が亡くなり領地外で通常の生活が送れなくなった。ところがそのお守りを持っていたら症状が軽減した上、僕に会ったら快復した――ということか」

 龍月は台所から持ってきた菓子を盆に積み上げながら聞き終えた話を簡潔に纏めた。

「はい。治ったのは素直に喜ばしいですが原因が分からないですし、あなたから離れるとまた悪くなる可能性もあります」

 苦い緑茶にはありがたい淡い色の砂糖菓子を舌で溶かしながら葵一は続ける。

「あなた自身になにか特別な力があるのかもしれません」

「見ての通り、僕は垣外だぞ」

「……出身は桧川ではありませんか」

 葵一の問いに龍月は渋い顔をした。

「出身地については入省前に耳にたこができて失聴するほど聞かれたが不明としか言えない。僕は十歳で内仙寺に養子に入ったんだが、それ以前に住んでいた家が具体的にどこにあるのか分からない。僕は君と違って貧乏で、一生同じ土地で暮らすと思っていた。そういう人間には地名は相対的なものだ。他の土地と関係することが無ければ自分の住んでいる地名を覚える必要は無い。この世界に名前が無いのと同じだ」

 龍月は言いながら葵一がやっとのことで飲み干した湯飲みに無情にも茶を注ぐ。

「あなたが桧川の方ならこの現象を説明出来るかもしれません」

 葵一は負けじと追加の砂糖菓子を口に放り込み緑茶を啜る。

「ほう」

 龍月は興味深げに身を乗り出した。

「神は土地に住む人間を加護します。闇淤加美神の加護が特に篤いのなら、あなた自身がぼくの祖神の住処の一部――依り代の可能性があります。だとすれば近くにいて症状が良くなるのも納得できます」

「待ってくれ。君たち垣内かきつはどうなのか知らないが、僕は神を見たこともなければ神の力を実感したこともない。それなのに依り代だ住処だと言われても呑み込めない。僕にも信心というものは多少あるが、特にこの科学の時代だ、目に見えないものは信じ難いな。正直君の不調の原因も理解はできるが納得できない」

 業平はすんなり納得してくれたが龍月の意見が多数派だろう。

 垣外族が垣内族を神と崇めていたのは前時代の話。今では「少し毛色の違う人間」くらいに思われているのだろう。垣内族が支配者側に多いのも過去の栄光に縋った「祖先の七光り」だからであって、始祖から受け継いだ呪術を超える技術が現れるのも時間の問題だ。

 別に葵一は垣外族を支配しようとは思っていないが、こうして少しずつ神々の存在が信じられなくなり信仰が薄らいでいくのは寂しい気がした。垣内族の子孫が生き残り手厚い信仰が保証されている神はともかく、絶滅した一族の祖神は垣外族を含めた周りの信仰によってしか存在し続けることができない。祀られない神ほど哀れで無力なものはない。

「……すみません、いきなりこんなこと言われても困りますよね」

「今は何とも言えないが、他に原因があるかもしれないぞ。一つの考えに凝り固まることもない。それこそ医者が治せる病気かもしれない」

 龍月は親切だが種族の違いによる徹底的な断絶を感じる。

 垣内族にとって神の存在は自明の理で、直接見ることはなくとも領地に行けば風に、土に、草木に、常に温かな存在を感じられる。

「しまった」

 台所の窓の外を見た龍月が不意に呟く。

「どうしました」

「すっかり暗くなっている。泊まっていくか」

「えっ」

 予想外の言葉に葵一は素っ頓狂な声を上げる。確かに外は暗いが、辻馬車はまだ走っている時間帯だ。

「この時間にいかにも金を持っていそうな垣内の坊ちゃんの一人歩きは危ないぞ」

 一目で上等と分かる葵一の洋装を見る龍月は心配そうだ。

 本気で心配している。葬式の時は水無瀬みなせが脳裏を過ぎり警戒していたが、考えるまでもなく龍月は男であり垣外だ。同性、そして何より他種族に欲情するはずがない。自意識過剰というものだろう。

「ご迷惑でなければ、お願いします」

 龍月と離れてまた耳鳴りに苦しむのも嫌だ。葵一は提案に甘えることにした。


***


「垣内族の言う呪術とはどんなものなんだ」

 脱衣所を抜けると広い洗い場で老人から子供までが賑やかに身体を流している。木の床は歩くたびにキイキイと音が鳴り腐敗を心配したくなる。奥の大きな木の囲いは湯で満たされ、はしゃいで泳ぐ子供が父親と思しき男に怒られている。その囲いで縮こまる葵一に龍月はいつもの呑気さで尋ねた。

 公衆浴場――銭湯は葵一にとって初めての体験だった。大勢で風呂に入るのは学生寮で慣れていたが、見ず知らずの他人となると訳が違う。

「祖神の力をお借りして現世に何かしらの作用を及ぼすといった感じで――わっ」

 叱られたことに凝りもせず父親が頭を洗っている隙にと泳ぎ出した子供の跳ねさせた水が、勢い良く葵一の目に入った。

「こら、大人しくしてろって言ったろうが!」

 すかさず父親の怒声が浴室に響く。

「ごめんな兄ちゃん……お、もしかして垣内か? ここらでは見ねえが、垣内に美形が多いってのは本当なんだな」

 しばらく葵一の顔をじっと見つめていた男だが、はっと我に返り息子に風呂桶を投げた。

「ほら、お前も謝れ!」

「いっで! ……ごめん兄ちゃん」

 風呂桶の直撃を受けた子供が頭を摩りながら言う。

「いいえ、大丈夫です」

 父親に言ったものか子供に言ったものか一瞬迷った末、あまり怒られては可哀想だと父親向けに気にしていない旨を伝えた。

 やはり風呂は遠慮しておいた方が良かった気がする。葵一の生活圏内には垣内族が多くいたが、一歩外に出れば良かれ悪かれ奇異の目で見られてしまう。

 隣の龍月の様子を伺うと、彼はこちらの騒動には目もくれずに腕を組み何かを考えていた。

 一見すると華奢で色白のいかにも文弱な文官然としている龍月だが、細身ながら意外にしっかりした身体付きをしているな、と葵一はぼんやり思う。

「それはここですることも可能なのか」

「え?」

 龍月の唐突な問い掛けに葵一は首を捻る。

「呪術だ。見てみたい」

「……ああ、その話ですか。良いですよ」

 これ以上異種族として目立つ行為はするべきではないと葵一は分かっていたが、妙に期待を籠めた眼差しの前に反射的に承諾してしまった。それに今日日の垣内族の呪力では目立ちたくても目立てない。

「祖父が遺した湿気除けの呪文をやってみますね」

「随分地味なんだな」

「時代が下るにつれて呪力も弱まっていますから。領地外だと殊更です」

「そうか。……その呪文、風呂場ではより効果が実感できそうだ」

 龍月はどこか励ますように言った。

「ではやりますね」

 軽く咳払いし、呪文を口にする。

「常も仕え奉る闇淤加美神にかしこみ畏みも祈り奉る」

 風呂場の喧噪が葵一から遠のいていく。

此方こなたよりつるにがきを払い給えと申す事を聞こし召せと畏み畏みも申す」

 呪文を終えた瞬間、海から波が引くような轟音と共に葵一を中心に湯が割れた。

「……え?」

 全く予想外の展開に頭が付いていかない。葵一の想定では自分と龍月周りの湿気が一時飛ぶくらいの、言われた通りの地味な変化が起こるだけだった。

 割れた湯は洗い場へ溢れ、風呂桶がカコンカコンと音を立てながら流れていく。

 入浴客が呆然とする中、波は大きく揺れながらも次第に落ち着き、やがて湯船は平行を取り戻した。だいぶ浅くなっていたが。

「垣内の兄ちゃんすげー!」

 最初に言葉を発したのは、やんちゃなあの子供だった。


「大人気だったな」

 呪術により頭から湯を被った龍月だが、愉快そうに帰り道を歩いている。

「呪術は無闇に使うものではないのに……」

 対して隣を歩く葵一は後悔の海に沈んでいる。乞われたからといって何も考えずに使ったばかりに子供達に囲まれ「もう一回やって」の声続きだった。それを押しのけなんとか風呂を上がった後も番台に(主に龍月が)何度も頭を下げるはめになってしまった。

「使えるなら使った方が良いだろう。世のため人のため、役に立つかもしれない」

「役に立つということはそれだけ悪用できるということです。成人した垣内は『許可無く術を使わない』と国に誓約しなければならないですし」

「それは知らなかった。国で能力を管理しているのか」

 龍月はつまらなそうに言った。

「治安維持のためにもそれが一番なのかと思います。と言っても現代は技術の発展も著しいですし、作られた兵器の方が余程危険だと思いますが」

「もったいない気もするな。せっかくの才能なのに。……使いどころは一考の余地があるが」

「ああなるとは思わなかったんです。……あなたに会ってから予測不能の出来事が多すぎます」

「『霜葉様が亡くなってから』じゃないか」

「そうとも言えますけど」

 葵一は龍月との出会いに運命めいたものを感じ始めていたが、龍月はそうでもないようだった。

 微かな落胆と共に歩調が落ちるが、龍月は構わず先を歩いている。


 帰宅し龍月の作った(貴族の坊ちゃんに怪我させたら責任が負えない、と頑なに葵一に手伝わせようとしなかった)一汁三菜を食べ終える頃にはすっかり夜が深まっていた。緑茶と違い濃すぎない絶妙の味付けにご飯二杯を平らげると、龍月は「見掛けによらず大食いだな。いいぞ、子供はいっぱい食うんだ」と三杯目をよそってくれた。

 卓袱台を壁際に寄せて敷かれた煎餅布団が葵一の寝床になった。奥の部屋で龍月が横になる気配を感じながら、葵一は親に庇護される幼子のような安らかな気持ちで眠りに就いた。


***


 僕は慈と友達になった。


 慈は別の村に母親と住んでいたが半年前にはぐれ、彷徨っていたところを屋敷に拾われたそうだ。始めは若旦那の世話をしていたが、すぐに飽きられたとかで末娘の「ねえさま」の世話係になった。

 「ねえさま」はいつも部屋に籠もっている変わった人で村人も顔を見たことがないらしい。

 常に表情を崩さず何を考えているか分からない慈だが、聞けばこうしてしっかりと答えてくれる。

「慈、気持ちよかった?」

「龍月、俺と会うといつもこうだね」

 それに、慈は僕の頼みを断らない。

 慈と初めて出会ってから僕が村に降りる回数は覿面に増えた。あの鮮烈な「行為」が忘れられなかったのだ。だからこうしてほとんど会うたびに森に連れ込み、慈と逢瀬を重ねている。

 継ぎ接ぎだらけの着物では寒い時期になっていたが、慈の厚い羽織りを敷いた地面で二人抱き合っていると暑すぎる気さえした。熱に浮かれている僕に対して慈は頼まれたから仕方なく付き合っているといったふうで、余りに淡泊だ。

「慈、僕のこと、嫌い?」

「どうして」

「あんまり楽しそうじゃないから」

 慈とより身体を密着させながら問い掛けるが、お互い着衣のままなので肌が触れる面積は少ない。

「楽しいとか分からないけど、龍月はちゃんと聞いてから抱く」

「え?」

「若様や村の人達は俺に何も言わないでいきなりしたから、身体が痛いし、した後気持ち悪い。龍月は聞くから、好き」

 慈は「ねえさま」の世話係になる前は村の男達の慰み者だった。今も相手が「ねえさま」に変わっただけで身体を嬲られ穢され続けている。

 土地の者でもなく頼る人もない子供が生き延びるためには、そうして身体を売るか僕のように盗みを繰り返して生きるしかなかった。

「僕も慈のこと好きだよ。大好き」

 世界からの爪弾き同士、龍月は慈を好きになっていた。

「……そう」

 慈の硝子玉の目は変わらず何も映さない。


 ある日僕は慈を家に呼んだ。

 雨風が防げる程度の廃屋に慈を招き入れる。当然誰にも家の場所を教えたことはない。慈は特別だ。

 お母さんは慈を歓迎した。「龍月に友達が出来るなんて」って、泣きそうになっていた。

 お母さんはいつものお昼ご飯を三等分した。慈は「俺はお屋敷でご飯がもらえる」と断ったけど僕とお母さんで勧めたら一緒に食べてくれた。ただでさえ少ないご飯がもっと少なくなっても僕は幸せだった。

 慈はご飯を食べている時も、草笛を作っている時も、いつになく機嫌が良さそうだった。僅かに頬に赤みが差し顔も綻んでいる。

 連れてきて良かったとその時の僕は心から思った。

「また来てもいい」

 今まで願望を言うことのなかった慈の帰り際の言葉は飛び上がるほど嬉しかった。

「もちろん! いつでも来てね!」

「うん。あのね、『楽しい』ってこういう時に言うんだって思った。またね龍月、つかさん」

 僕の頭上を見上げそう言った慈は、人形ではなく人間に見えた。

「気をつけて帰りなさい」

 お母さんが柔らかい声で言う。慈が不器用に微笑んだ。


 僕はそれが酷く不愉快だった。


***


 葵一は目を覚ました。もっと眠っていたいのに無理矢理起こされたような気分だ。

 またあの夢。貧しい二人の子供が互いを補うように求め、生きている夢。

 夜汽車のような失態こそ犯していないものの、隣室で眠る男と瓜二つの子供が出る夢は後ろめたい。

 あの夢のように、夢中に龍月に抱かれることを意識の奥底で望んでいるのだろうか。穏やかだがどこか掴み所のない龍月に、自分は好意を抱いているのだろうか。寝直そうと慣れない布団で寝返りを打ったが、却って目が冴えてしまった。

 これ以上夢のことを考えて一人で気まずい思いはしたくない。葵一は頭上の鞄からもそもそと帳面を取り出す。何冊かの冊子の感触から適当に引っ張り出したそれは、持ち帰った霜葉の遺品で最も古いものだった。呪文以外の記述は霜葉の個人的なことだからと敢えて読まないようにしていたが、後ろめたい気持ちから逃げるように昇り始めた朝日を頼りに手帳を開く。

 

 禎永十九年一月七日


 適当に開いた頁には龍月の誕生日が霜葉の固い筆跡で記されていた。霜葉が王都を追放され一ヶ月が過ぎた頃だ。そのまま日付の下の文字に目を移す。


 男児 健康

 今夜が新月で在ることに因み、月が消えるのは龍が食べるからであると云う神話がれい北部にあることを教えると、大層気に入る。

 龍月と名付ける。


 葵一は鳥肌が立つような衝撃を覚えた。

 黎の神話など極一部の文学好きしか知らないことだ。龍月は貧乏だったと言っていたから、親がそれを知っているとは思えない。もしかすると「教える」の相手は龍月の親であり、霜葉は名付け親だったのではないか。そうであれば龍月が桧川出身の可能性がぐんと高まる。

 しかしここで疑問が生じる。貧乏人の子供にわざわざ貴族の元伯爵が名前を授けることなどあるのだろうか。

 名前とは一生付き纏う記号であり性質であり呪いだ。一生呼ばれ続けることで人の性質は名前の形になり、名前の箱に収まる。よって占術や呪術などは、名前のみでその人を特定し、引き寄せることが可能になる。名前とは人を形作る大きな要素なのだ。

 一生を左右する名前を大人物に付けてもらうためには、それなりの謝礼か深い縁が必要だ。謝礼は用意できないだろう。かと言って生涯故郷から出ることのない人間と霜葉ではそもそも出会う機会が――首を傾げかけた葵一は、背後の襖が開く音にはっと身を起こす。

「早起きだな」

 あくびをしながら現れた龍月が鬱陶しい前髪を掻き上げながら台所に降りていく。

「起こしましたか」

「いいや。昔の夢で目が覚めた」

「夢……」

 葵一からは龍月の背中しか見えず、何を思っているかは分からない。顔が見えていても何を考えているか分かる自信はないが。

「ついこの前も見たんだ。君にそっくりな友人がいたと言っただろう。彼、慈の夢を見る」

「あなたは森でお母さまと暮らしていた」

 葵一の呟きに夕食の残りを小鍋に流し込んでいた龍月が敏感に振り向く。初めて見る動揺の表情だった。

「高辻君、どうして」

「ぼくも夢を見ました。あなたが村で慈さんと出会って、その……」

 二人の行為を生々しく思い出し口を濁す。信じ難いことだが本当に龍月の幼少期を夢で見たと仮定して、あの行為は実際にあったことなのか、はたまた夢特有の突飛な発想の産物なのか。

「それも垣内の力なのか」

 龍月はどこか皮肉めいた物言いをした。

「他人の頭を好奇心で覗き見られるとは、愉快なものだな」

「そんなことぼく達には出来ません!」

 葵一は思わず語気を荒げる。漠然と「垣内族は超能力が操れる」と思っている垣外族は意外に多い。高辻家の祖神の性質を考えれば記憶を覗くなどできるはずがないのだが、呪術は祖神の性質に左右されるという大前提を分かっていない垣外族には通じないだろう。

「……昨日銭湯で見せた『地味な』ことが、ぼくのできる呪術の全てです」

「それじゃ僕と君がたまたま同じ夢を見たということか。いや、夢じゃないなあれは。僕の幼少期の記憶、事実そのままだ」

「ぼくも不思議だと思っています。説明できません」

「……悪かった。慈の夢を見始めたのも君に会ってからだし何か関係があるのかと」

 龍月は葵一に背を向け小鍋を火に掛ける。

「僕は慈が大好きだった。あの関係は正しくなかったかもしれないが、物事の正しさを決める世界は僕達を追い出していた」

 卵を割り入れ鍋をかき混ぜている龍月は静かに言った。

「しばらく『正しい世界』の仲間入りをしていた気になって忘れていたが、君に会って、自分が元いた場所を、慈を思い出さなければいけないと思ってあんな夢を見たのかもしれないな」

「慈さんは今どうしているか分からないのですか」

「それが分かれば僕の故郷も分かるだろうな。確か慈と出会った年の冬には僕は家を出て、それから養父に会うまで――春になるまで一人だった」

「お母さまとも別れたのですか」

「状況から見ればそうなる」

 龍月は小鍋の中身をよそいながら引っかかる物言いをした。

「養父は禎永二十八年四月二十日に内仙寺の前を一人でふらふら歩いていた僕を保護したと言った」

「何故家を出たのですか」

「理由も目的も分からない。一人でいたのは三ヶ月程で、馬車に忍び込んだり知り合った人間に付いていったりして王都の寺に辿り着いたことは覚えているが、肝心の最初の一歩が思い出せない。布団畳んでから食えよ」

 ほくほくと湯気を立てる二つの粥が卓袱台に置かれる。

「……僕はお母さんといられるだけで幸せだったのに、何故その幸福を捨てたんだろう」

 「お母さん」と呼ぶ龍月は、夢の中のように酷く幼く見えた。しかしその表情は葵一の行動を目にして一瞬で崩れ去る。

「おい、敷き布団を四つ折りにする奴があるか。貸しなさい。君に任せた僕が馬鹿だった」

「すみません、知らなくて」

「だろうな。……まあとにかく僕の故郷は分からないし、君と夢で過去の思い出を共有している理由も分からない。分からないことだらけだ」

 布団を手早く仕舞った龍月がどこか投げ遣りに言った。

「分からないといえば、龍月さまはご自分の名前の由来をご存じですか」

「りゅうげつさま……」

 龍月はまるで空を飛ぶ豚を見るような目で葵一を見た。

「えっと……?」

「すまない、想定外の呼び方だったから。そう言えば高辻君に名前を呼ばれるのは初めてだな」

「嫌ですか」

「嫌と言うより様を付けられた経験が無かったから驚いた。自分の名前も好きじゃないし」

 龍月は困ったように匙でのろのろと粥を掻き回している。

「お嫌ではないなら龍月さまとお呼びしますね。龍月さま、これを見てください。祖父の手帳です」

「意外に強引だな君……。それはこの前持ち帰ったものか」

 葵一は頷き、件の頁を開く。

「禎永十九年一月七日――男児、龍月と――」

 読み上げる龍月の表情が次第に驚愕へと変わっていく。

「つい先程見つけたばかりでぼくも驚いているのですが、あなたのご両親とぼくの祖父に何らかの縁があるのではと考えています」

「同名の別人じゃないか」

 そう言いながらも龍月の視線は手帳の上を何度も往復している。

「失礼ですが、あなたのご両親がこういった名前を付けるとは考えにくいです。黎北部の神話は一般に流布していませんし、ぼくもこの話は初めて知りました」

「神話由来でなくとも、それこそたまたま何も考えずに龍月と付けた可能性だってある」

「ですが生年月日も同じですよ。この男児はあなたである可能性が高いと思います」

「前から思っていたが君は僕に詳しすぎないか。何故誕生日を知っている。そもそも何故ここに住んでいると分かった」

「そ、れは……姉に」

 思わぬ流れ弾に動揺を誤魔化すため粥を啜る。興奮のあまり話しすぎてしまった。

「家はともかく、君に言うのもなんだが菊子さんは他人の誕生日を逐一覚えているような律儀な人じゃないぞ。先ずもって彼女に僕の誕生日を尋ねる理由が分からない」

「この記述を見つけたから、もしかしてと思って姉に誕生日を聞いて……」

「つい先程見つけたばかりだと『つい先程』言っていたように思うが」

「う……」

「こそこそ僕を嗅ぎ回って何が目的だ」

 低い声に耐えられず葵一は素直に白状する。

「昨日言った通りです。お守りの出所を知りたくて、その為にはあなたに会う必要があって、それで高文試験合格者名簿で住所を調べました。その時生年月日も目に入りました」

「なんだ、別に隠すことないじゃないか。最初からそう言え」

「引きませんか?」

「どこに」

「あなたの個人的なことを勝手に調べて連絡もせず家に来ました」

「君の身体に関わる大事なことだ。気にしていない」

「龍月さま……」

 優しさに感動して葵一は龍月を見つめたが、彼はすっと視線を反らした。

「……話を元に戻そう。君は霜葉様と僕の親に関係があると考えたようだが、僕の母はずっと山にいた。霜葉様に会う機会があるとは思えない」

「お父さまは」

「母が時折話していたが実際に見たことはない」

「どのようなことをお話しされていましたか」

「とにかく顔のいい男だった、くらいしか」

「そうですか……」

「話は逸れるが霜葉様は何故爵位剥奪の上に王都を追われたんだ。『霜葉様は陛下と仲が良い』という噂を昔聞いた覚えがあるのだが」

「素行不良です。決定打は先王の愛人を――陛下?」

「どうした」

「『陛下』ということはその噂は先王陛下の時代に聞いたことになりますよね。祖父と先王陛下の個人的繋がりはあまり一般には知られていないという認識だったのですが、どこでその噂を聞きましたか」

 龍月が入省したのは現王政権になってからだ。王宮内で噂を聞いたわけではないだろう。

「……母だ」

 龍月が自身も意外なことのように言った。

「そうだ思い出したぞ。『私達の領主様は陛下と友人で領地に戻る前はいつも一緒にいた』と言っていた」

「それではやはりあなたは桧川の」

「それに一般に知れ渡っていない霜葉様の交友関係を母が知っているのだから、君の言う通り何か関係があったのかもしれない」

「ぼく、本邸にもう一度行きます。祖父の遺品が整理される前に交友関係を調べれば、あなたのお母さまの情報が見つかるかもしれません」

「盛り上がっているところ悪いが桧川まで丸一日掛かることを忘れていないか。僕の為にそこまでする必要はない」

「あなただけの為に行くわけではありません。あなたのお母さまのことが分かればあなたの出自も分かります。そうすればあなたの側にいると体調が良くなる理由が分かるかもしれません。龍月さまは、ご自身のことなのに気にならないのですか?」

 それに、祖父の遺品に実の父親を特定する手掛かりがあるかもしれない。

「……お母さんに会えるのかな」

「慈さんにだって会えますよ」

「……そうだな。君に付いていっていいか」

「はい! もちろんです」

 葵一は顔が綻ぶのを抑えられなかった。

 昨晩から与えられ続けている龍月の優しさに葵一ははっきりと好意を抱くようになっていた。

「しかし霜葉様が名付け親だとしたら君と僕の縁も偶然ではないのかもしれないな。僕の名前も高尚な響きを持つ気がしてきた。高辻君は自分の名前が好きか」

「え? えっと、好きとか嫌いとか、考えたことないです」

「それが一番だ。名前が君に馴染んでいるということだろう」

 龍月はどこか安心した様子だった。

「何故急に?」

「ん、いや、嫌いじゃないならいいんだ。気にしないでくれ。ほら、早く食わないと冷めるぞ。おかわりもあるから遠慮はするな」

「はい……」

 追求しても無駄だと悟り、葵一は大人しく粥に口を付けた。


***


「眠れませんか」

 向かいの寝台に腰掛ける龍月に、葵一は横たわったまま言った。

 廊下の灯りと満天の星空で深夜の汽車は意外に明るい。桧川に共に行く約束をして一週間後の今日、二人は北へ向かう道中にあった。

 二人きりのコンパートメント席の閉塞感が心地好い。向かいで夜空を見上げる龍月の存在があるからだろう。

「君と一緒に寝たらまたあの夢を見てしまうかもしれない」

「すみません。ああいう個人的なことは見られたくありませんよね」

 ここ一週間葵一と龍月は夢を見続けている。どうやら同時に同じ夢を見るようで、片方が起きている間は夢を見ることはない。二人が寝ていれば必ず夢を見るわけではないのだが、見る間隔は次第に狭くなっている。村の季節は急速に冬を迎え、慈は頻繁に龍月の家に遊びに行くようになっていた。

「君に見られることはあまり気にしていない。こんな過去が知られては王宮を追い出されるだろうが、証拠が夢しかない以上君が言い触らしたところで信じてはもらえないだろう。いや、高辻君が言い触らしそうだとは思っていない。つまり、君が夢を見ることに罪悪感を覚える必要は無いということだ。僕は忘れていた過去を思い出してしまうことが怖いんだ。このまま夢の中で時間が進めば、いずれ村を出た原因も分かる」

 龍月はどこか子供じみた表情で窓に頬を預けた。

「どうしてお母さんを捨てて一人になったのか分かってしまうのが怖い。捨てたのではなくて、一緒に連れて行けなかったのだとしたら」

 龍月の生母つかは既にこの世にいないということになる。

 龍月がつかを心から愛していることが言葉の端々から伝わってくる。夢の中の龍月は慈にどっぷりといった感じだが、やはり血の繋がった母親が一番恋しいのだろう。そんな母親を喪ったとすれば、事実を認められなかった幼い龍月が記憶に蓋をして忘れてしまうということもあり得るだろうか。

「龍月さまはお母さまが本当にお好きなんですね」

 龍月は幼子のようにごく素直に「うん」と言った。

「お母さんは優しくて、曇り空のような美しい人だった。村の外に暮らしていたのは何か事情があったからだろうし、とても大変な生活なのに、いつも僕を一番に考えてくれた」

 思い出に耽る輪郭はあどけなさすら感じるのに、その言葉は母親というより恋人を賛美しているようだった。

「こんな機会でもなければ一生故郷を探そうなんて思わなかった。まず場所の検討も付かなかっただろう」

「ぼくは夏期休暇なので良いですけど、お仕事を休むのも大変だったでしょう」

「子供が大人に気を遣う必要は無い」

「……ぼくは子供ですか」

 龍月のある種徹底した子供扱いは葵一に大きな安心感を与えていたが、暖簾に腕押しじみたもどかしさも感じてしまう。

「高等学校の一年生だから十四か十五だろう。子供と言って全く差し支えない年齢だと思うが」

「あなたが好きです」

「……文脈がおかしい」

 龍月は頬を窓から離し、怪訝な顔で葵一を見下ろした。色素の薄い肌は月明かりでいっそう白く見える。

「あなたの優しさを好きになりました」

「僕は垣外だぞ」

 断りの言葉が「男だから」ではなかったことで、久し振りに龍月が異種族であることを思い出す。

 本能的に垣内族と垣外族は惹かれ合わないようにできている。犬と猫の間に子供ができないように、異種族間には子供ができないからだ。

 しかし何事にも例外があるように、歴史上に異種族間に産まれた人間がいなかったわけではない。その証拠のように世界中の伝承やお伽噺に彼らは登場する。話の枝葉末節は異なるがどれも「疫病や飢饉といった災厄を引き起こす幼い子供『垣越かきごえの』を英雄的人物が討つ」という筋だ。「垣越えの子」は垣内族と垣外族の間の子供を指す。

 垣越えの子は片親の垣内族より遥かに強い呪力を持ち、力を奮い民衆を恐怖に追い込む。厄災を擬人化したような存在だと伝えられているのだ。

 垣越えの子は危険な存在だ。だから人間は異種族間で子孫を成そうとは考えない。

 つまり。

「それは勿論存じていますが、ぼくもあなたも男です。異種族間で恋愛をしないのは垣越えの子を作らないためですよね? ぼく達は頑張っても子供が出来ないので大丈夫ですよ」

 俄然元気の出てきた葵一はぱっと身を起こし、龍月の隣に座った。

「いや、そういう問題ではないだろう……」

 対する龍月は僅かでも葵一から離れようと窓際に身体を寄せる。出会った時は自分が距離を取りたがっていたことを思い出し、逆転した立場に葵一は微笑む。

「ではどういう問題ですか。あなたは慈さんがお好きだったようですし、男が駄目なのではないでしょう?」

 一番断られやすい可能性は幸運にも除去されている。同性愛は大和国どころか世界的にも差別に晒されているが、龍月はそういった多数派に流されていない。

「君が子供だからだ。子供に手を出さないのは大人として最低限の義務だ」

「十四で二十も上の男に嫁ぐ女の子もいますよ」

「その男が屑というだけの話だ。肯定材料にはならない。夢で見ただろ。慈は大人達から酷い目に遭わされていた。……僕も村を出てから養父に会うまで慈と同じことをして生きていた。子供にそんなことをさせる社会も、それを利用する大人も悪だ。僕の人生は褒められたものじゃないが悪人にはなっていないつもりだ。子供を大切にしたい。だから君の要求には応えられない」

「随分と誠実な方ですね」

「厭味は逆効果だぞ」

 つくづく人生というものは上手く行かないと葵一は思った。水無瀬が龍月のような思慮深い大人で、龍月が水無瀬のように行動力のある人だったら良かったのに。

(いや、そんな人だったら惚れたりしないな)

「それに君は慈に似ている。尚の事子供らしく幸せになってほしい」

 龍月は葵一にとって眩しいほど真っ直ぐに正論を語る。下心無く慈しんでくれる父親のような存在を葵一はずっと求めていたはずなのに、いざ現れた理想の男性に片恋で苦しんでいてはどうしようもない。

「高辻君は人を好きになるといつもこう積極的なのか」

「今まではこちらから告白する前に相手に迫られていました」

 葵一は今までの経験から自分の中性的な容姿に自信があった。この顔で好意のある素振りをすれば、業平のような筋金入りの軟派で無い限り断られることはまず無いと甘く考えていた。それなのに龍月はくらりともしない。

「でもぼくが何かを決める前に勝手に決められて、それで冷めるんですよね。この前の先生なんか特にそうでした」

 龍月は「先生」と忌々しげに呟いた。

「そら、君が子供であることに目を瞑って手出しをする大人にろくなのはいないじゃないか」

「でしたら大人になったら付き合ってくれますか」

「申し訳ないがまだ断る理由はある」

 拗ねた懇願もあっさり切り捨てられた。

「何重にも断る理由がありますね」

「社会的要素で諦めてほしかったが仕方ない、個人的要素を言う。僕には生涯愛すると決めた人がいる」

「……それは想定外でした。えっと、独身ですよね? 恋人がいるようにも、見えなかったので」

 恋の告白に浮かれていた葵一の頭が冷水を被ったみたいに冷えていく。これでは完全に失恋だ。

「どういう意味だそれは。貶してるのか。……まあ今は恋人じゃない。彼女は別の男と結婚した」

「他人と結婚するような人が好きなんですか」

「結婚させられた」

 龍月は腕を組み、足をぞんざいに投げ出した。

「僕よりずっと地位も権力もある男で、従わざるを得なかった。まあ君より少しばかり長く生きているぶん色々あったんだが、今でも彼女を愛している。高辻君と違って未練がましいんだよ僕は」

「……ぼく、諦めませんから。振り向かせてみせます」

「僕は君が時間を費やすほど価値のある人間じゃない。やめておけ」

「価値があるかはぼくが決めます。それに思い出を追うよりも、今目の前にいる人間を好きになったほうが幸せになれると思います」

「何が幸せかこそ僕が決めることだ。子供の癖に分かったような口を利くな。今夜のことは忘れてやるから寝直しなさい」

 龍月に背を押され葵一は渋々対面の寝台に腰を下ろす。

「勝手に忘れようとしないでください。それと、ぼくはさっきまで寝ていたので今度はあなたが寝ていいですよ。夢を見ないように起きていますから」

「子供が大人に気を使うな」

「そうやって何度も自分が大人だって言うと逆に子供っぽいですよ。顔も子供っぽいですし」

「君も中々言うな」

 龍月は僅かに口角を上げたが、葵一の提案を呑んではくれなかった。

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