1話
名前は最も原始的な呪いだ。
***
水無瀬は消毒液と煙草の匂いがする男だ。顔立ちは垢抜けないが落ち着いた声を葵一は気に入っている。
「高辻君、怪我は治ったかな」
梅雨空の僅かな合間を縫った五月晴れの午後一時。今日は授業が午前中に終わり、校庭ではスポーツを楽しむ学生の快活な声が満ちていたが、木造校舎の一室の保健室は薄暗かった。窓は固く閉ざされ、カーテンがしんと引かれている。
「痛みはありません。痣もだいぶ薄くなりました」
高辻葵一は貴族の子息が多く通う官立懐風高等学校の一年生だ。子供っぽさの残る柔らかな体つきにそこそこの上背と、薔薇のように人目を引く、はっとするほどの美少年。あちこちに跳ねる蜂蜜色の髪が身嗜みに頓着していないことを窺わせるが、美貌はちっとも見劣りしない。
しかし、眼鏡の奥の涼やかな深緑の目は暗い。痣のせいではない。数日前に階段から落ちた怪我よりも、頭痛やら目眩やらの不快感が強かった。
体調不良の原因は分かっている。校医である水無瀬に治せないことも。
(晴れだと余計に視界が霞むな……)
「高辻君?」
上の空の様子を気遣う声音で水無瀬は葵一の頬を撫でた。
僅かな嫌悪感に目を瞑り、葵一は水無瀬に身を任せる。葵一が好ましく思う人間に望むことは少ない。側にいて、話を聞くだけで満足する。しかし相手はそれ以上を望む場合があることも、子供ながらに理解しているつもりだ。
頬を撫でていた長い指が首へ、鎖骨へと滑り、シャツの釦に触れる。
「怪我の様子を見せてくれるかな」
「もう痛くないです」
「痛くないから治ったとはいかない。高辻君は優秀な子だけど、素人判断は危険だよ」
聞いておきながら承諾は取らず水無瀬は釦を一つ二つと外していく。シャツを脱ぎ露わになった滑らかな膚は、二の腕に薄く浮かぶ青痣を除けば作り物めいている。
「うん、大丈夫みたいだね」
形ばかりの触診をした水無瀬の手が脇腹に移る。さわさわと撫でられる感触に葵一は気をとられ、気付いたときには水無瀬の顔がすぐ目の前にあった。
「せんせ……んっ」
不意の生温い口付けに反射的に後退る。座っているのは背もたれのない丸椅子だ。転げ落ちるかもしれないと一拍遅れて思ったが、大きな手に腰を掬われる。
「高辻君もそろそろ大人だから分かるよね?」
暗い鉛色の瞳が、獲物を見定めるようにぎらりと輝く。
「君を抱きたい。駄目かな」
駄目かと聞かれても。
水無瀬の中で答えは決まっている。断ったってするつもりだ。だから窓を閉めカーテンを引き戸に施錠した。葵一は冷めた思いで現状を分析する。
初めてというのは、もっとロマンチックで頭が幸せでふわふわするようなものだと思っていたのに。現実はこんなものか。
薄い湿った布に全身を包まれているような不快感のまま、可否も通らない状態で組み敷かれ好きにされるのか。
初めてのキスも、ロマンチックとは程遠い自棄っぱちだったけど。初めての交接もこんなものか。
「こういうことをするのが大人なんですか」
感情の籠もらない冷淡な声にも水無瀬は臆しない。水無瀬が望んでいるものは心ではなく、若くて手垢の付いていない身体だから。浮世離れした少年の顔を自分の手で歪ませたい。それだけだ。
「君も大人にしてあげる」
勝利を確信した囁きの後、水無瀬は再び葵一の唇を塞いだ。唇を舐め、ぬるりと進入した舌が葵一の舌と絡む。
ベルトの外れる音を聞きながら、こういうことはベッドでしたほうがいいのではと葵一は他人事のように思う。ここ最近慢性的に頭がぼんやりしているせいか、全く集中できない。
(ぼくはこのひとが好き……なんだよな?)
声は好きだが、考えてみればそれだけの気もする。全寮制の学校というあまりに狭い世界の中で、最も「マシ」だと思ったに過ぎないのではないか。
階段から突き落とす同級生のような野蛮さのない大人だったから、手当の最中に膚をまさぐられ肩口を噛まれても抵抗しなかった。それを愛だとすら思った。水無瀬は慈しむ対象として自分を求めている。自分を大切にしてくれる大人は彼しかいない。とんだ勘違いだ。大切に思っているのなら、可否の確認も取らずに淫行に耽ろうとはしない、と思う。体調不良が続いたせいで精神まで疲弊し、葵一の思考は鈍りきっていた。恋を知らない子供には、全てが憶測なのだ。
涎が口端を伝う不快感に水無瀬の肩を押し返そうとした瞬間、かしゃんと乾いた音が湿った室内に響いた。
水無瀬と葵一は同時に音のした方向、窓際を見た。窓の下に白い球が落ちている。水無瀬は小さく舌打ちをし、葵一から名残惜しそうに手を離してカーテンを開けた。
「すみませーん」
あまりに聞きなれた声が、急いでシャツを着直す葵一の耳にも届いた。
松方業平。葵一の幼馴染みにして、認めたくはないが唯一の友人だ。
「野球も結構だが、もう少し校舎から離れてやったらどうだい」
「以後気をつけまぁす」
反省の欠片も感じさせない気の抜けた声の主が、窓から保健室にひょいと顔を出した。
ゆるく波打つプラチナブロンドと大きな明るい碧眼が太陽を受けて輝いている。生来のものである気品ある顔立ちは、西洋童話の王子様のようだ。
「絞られてくるから抜けるね!」
業平は遠巻きに様子を伺う友人らにそう叫ぶと、水無瀬の拾ったボールを投げた。
「しっかり叱られてこいよノーコン!」
ボールを受けた友人の言葉に、他の少年達と一緒に業平も笑った。
「……というわけで用務室に行くので入れてくれますか」
業平は振り返り、爽やかすぎて逆に厭味に取られかねない笑顔で水無瀬に言った。
「玄関から入りなさい」
「裏じゃないですか。面倒臭い」
「土足で入る気か」
先程までの紳士面をした猫撫で声とは違う不機嫌な声で水無瀬は言う。
「上履きくらい貸してくださいよ。客人用とか一個二個ありますよね」
いつまでも戸を開けない水無瀬に焦れたのか、業平は胸ほどの高さの窓をひょいとよじ登り、そこだけがぽっかりと明るい室内に着地した。
「……一番右の棚の下だ」
「ありがとうございまーす」
「靴を脱ぎなさい」
「嫌ですよ。硝子踏んで切ったらどうするんですか。玉の肌に傷が付くばかりか誰かさんの世話になりかねない――と」
業平はここで初めて葵一を見た。
「おや、葵一君じゃないか。偶然だね。今日保健室は休みかと思ったよ。こんなに閉めきってるんだもの。怪我は治ったんじゃないの?」
わざとらしすぎる。
「そうだ、一緒に怒られてくれないかな。というか、用務室ってどこにあるんだい。そして今そこに用務員はいるのかい」
「松方君、高辻君が行く義理はないだろう」
水無瀬が葵一の答えを聞く前に口を挟む。いつもこれだ。
「行く」
「え?」と水無瀬が間の抜けた声を出したのが葵一にはどこか清々しかった。
「案内よろしくね」
「エスコートは得意分野じゃなかったのか」
「こんな野郎ばかりのところで発揮したって虚しいだけだよ。たまにはエスコートしてくださいお嬢さん」
業平は軽口を叩きながら水無瀬を振り向きもせず廊下に出た。
「どこに行くか分からない癖に勝手に行くな」
ふらふらする身体を叱咤し葵一は立ち上がる。そして水無瀬の暗い目を見ないよう立て付けの悪い引き戸を閉め、業平の横に並んだ。
***
夏祚七年六月。
世界の東に位置する島国、大和王国の王都中心部から少し離れた場所に葵一達の通う懐風高等学校はあった。
山奥の全寮制学校で、日常生活において外部の人間、ましてや異性との接触は殆どなく、学生達には「牢獄」「囚人の方がまだ自由」等と嘆かれている。
「ぼくに恩でも売るつもりか」
用務室に向かう道すがら、葵一は怒気を含ませ隣を歩く幼馴染みに言った。
「何の話?」
対する業平は両手を後頭部で組み涼しい顔だ。
「助けたつもりだったんだろ。ぼくが先生に……その、襲われそうだったから」
「俺がノーコンだっただけだって。他人の恋路を邪魔するような野暮はしない」
「さっきボールを返したときは正確にミットに入っていたじゃないか」
「捕る方が上手かったからね」
「下手な嘘を吐くな」
「もー、何怒ってるの? そんなに水無瀬といたいなら付いて来なきゃよかったじゃん」
「用務室がどこにあるかも知らないお前のために来てやったんだろ」
「場所だけ教えてくれてもよかったんだけど」
「……」
「付いてきたのは君もこのまま関係を続けたら駄目だと思っているからでしょ?」
用務室のある別棟に続く渡り廊下をのんびり歩きながら、小さな子供を諭すように業平は言う。
「大体子供に手を出す大人にロクなのはいないんだよ、葵一君」
「十二歳で年増の下女に童貞を奪われた男の言葉は重みが違うな」
「その話はしないでくれるかな……」
いつも余裕綽々の業平だがこの話題になると顔を引きつらせる。笑顔は一応保っているが明らかに無理のある笑みで、葵一は僅かに胸がすく。
「女と見れば誰にでもいい顔をするから勘違いされるんだ」
「だって垣内の異性って絶対数が少ないんだよ? 見つけ次第口説かないでどう色恋に発展させろっていうの」
この世界の人間は、起源の違いから垣内族と垣外族に分けられる。
二つの種族は同じヒトではあるが、垣内族は人口の五パーセントほどの少数種族で、かつて世界を創造した神々の末裔だと云われている。
多数派である垣外族との一番分かりやすい違いは髪と目の色だ。例えば大和国民は気象条件等により殆どが黒髪だが、垣内族はそういった外部的要因に左右されず業平のような金の髪を持つ者もいる。他にも緑だの橙色だの、垣外族では決して見られない髪色の一族も存在する。
黒髪の垣内族もいるため髪色だけで種族の判別は難しいが、目には例外なく種族の差が出る。髪色と同じく気象条件等に縛られないだけでなく、一様に色素の薄い垣外族の目に対し、垣内族は深い色をしている。
そして二つの種族の最大の違いが、垣内族のみが持つ能力だ。
これこそが人数では圧倒的に不利な垣内族が世界中で見ても貴族などの特権階級に多い理由である。
遙か昔天神地祇であった始祖、通称「祖神」の力――呪力と呼ばれる――を微弱ではあるが未だに垣内族は持っている。
「その分男も少ないから競争率が低いだろ」
種族を越えた婚姻は禁忌である。
女の尻を追い掛けることに余念が無い業平でも、垣外族の女はどんなに美人だろうと全く食指が動かされないようだから、そもそも本能が互いを避けるようできているのだと葵一は思っている。
同じヒトの形をしていても、神の末裔と、代々それの恩恵に与るべく祀り讃えてきた無力の人の子ではあまりに違いすぎる。
業平は「まあそうだけどねえ」と呟きどこか遠い目をしている。葵一は正論で諭された当て付けに嫌な思い出を掘り起こしたことを反省し「別に焦らなくたって……お前はモテるし」ともごもごと付け加えた。
「それには充分同意するけど、短い人生の中でより多くのご婦人を幸せにする使命が俺にはあるのだよ」
「なんだその使命感……。ほら、ここが用務室だ。一人で入れよ」
「待っててね」
「最初から待ってるつもりだったが……あ」
しまったと思った時には、業平は王子然とした顔をぎりぎりで崩さない程度のにやけ面をしていた。
「葵一君って意外に素直というか、抜けてるよねえ」
「いいから早く絞られてこい!」
「はいはい。倒れないように気をつけるんだよ」
「……何を言っているんだ」
「ここのところずっと具合悪いよね。水無瀬なんかのとこ行っても治らないよ。酷いようなら一回医者に診てもらったほうがいい」
そう言って業平は用務室に入った。
(目敏いやつだ)
葵一にとって業平は何も言わなくても全てを汲んでくれる存在だった。
年上の同性ばかり好きになることも、体調が優れないことも、父親と折り合いが悪いことも、業平だけが知っている。
人付き合いが苦手で内に内にと籠もり、何かと誤解されることの多い葵一が何とか学生生活を送れているのは業平のお陰だ。それは葵一自身が一番理解しているのだが、スカした態度だとか会話の三回に一回は揶揄が混じるところだとかが気に食わない。
――またふらふらしてきた。
視界に靄がかかったような、薄く湿った布で全身を覆われているような不快感。生まれてから就学するあたりまでずっとこの状態だったのだが、調子の良い状態に身体が慣れすぎたのか久々の体験に体も心も疲弊している。
このままでは日常生活もままならない。
「お祖父さま……」
壁に凭れ、そのままずるずるとしゃがみ込む。
生来の不調を今まで取り払ってくれていた祖父に、会いに行かなければならない。
***
「……ああ良かった。目が覚めたね」
「業平……?」
葵一はいつのまにか寮室のベッドにいた。本を片手に机に行儀悪く座っていた業平が、葵一が目を開けると同時にベッドの横に膝を付く。
「廊下に倒れていたからここまで負ぶってきたんだよ。ああ、窓はちゃんと用務員に言ったから安心して。君が倒れていたお陰で説教もうやむやに済んだ」
「今、何時だ」
「二時くらいだよ」
「三十分少し気を失っていたのか……」
「夜中のね」
葵一が驚いて窓を見ると確かに外は星空だった。橙色の頼りない室内灯のみが照明になっていることに今更気が付く。
「ずっとここにいたのか」
「まさか。ご飯食べたし風呂にも入ったよ。付きっきりで看病してあげた方がよかったかな?」
つまり少し席を外した以外は様子を見ていたということだ。業平は終始軽い調子でものを言うが、なかなかできることではない。
「ありがとう」
「そうそう。葵一君の唯一の友人であるハンサムで優しい業平様にもっと感謝するがいい」
「調子に乗るな」
「厳しいなあ。それで、具合はどうなの?」
「氷みたいだ」
「文学的すぎて分からないんだけど」
業平が呆れ顔で葵一の額をつつく。
「視界とか聴覚とか感覚とか、確固としてあったものが溶けてゆっくりなくなっていく」
横たわったまま葵一は言った。
「水無瀬と遊んでる場合じゃないよそれ。危ないんじゃないの?」
「信頼する人から処方は受けている。机に瓶があるだろ」
「あの船のラベルの?」
机上の手のひら大の小瓶は部屋の灯りを受け、瓶の中の赤く艶のある錠剤を輝かせている。
「それを今まで飲んでいたが最近効かない」
「なにこれ石榴?」
業平は指先で瓶を摘み、中の錠剤を部屋の灯りに透かしたりころころ転がしたりしている。
「祖神の血を凝固させた物……だと言われた」
「何味?」
真面目な顔で質問する業平に、葵一は吹き出しかけた。
「一番先に聞くことがそれか」
「君の家のご先祖様って水神だよね。祖神の血を飲むって治療法は聞いたことないけど、君のご先祖様の血が身体に入ると水難から守ってくれるようになったりするの?」
高辻家の祖神は水神、名を闇淤加美神という。水を操り豊作をもたらす谷川の龍神だ。
「水難から守られても体調は良くならないと思うが」
「ならなんのために飲んでるの? そもそも太古の神様の血って胡散臭いなあ」
「お祖父さまがくださった物だから間違いない」
「葵一君ってお祖父様のこと過信しすぎじゃない? この前も『白米に牛乳と塩を入れると美味い。お祖父さまが言っていたから間違いない』とか言って撃沈してたじゃん」
「下手な口真似をするな」
重い身体を起こし、業平から瓶を引ったくる。
「お祖父さまが送り続けてくださるこれを一日一つ、十年近く飲み続けてきた。あまりお会いすることはできないが、会うたび術を掛け直してくださった。そのお陰で王都でも人並みに生活できた。それなのに次第に効かなくなっていくんだ」
「『王都でも人並みに生活できた』ってことは、領地だと何もしなくても元気なの?」
「うん。お祖父さま曰く不調の原因は祖神そのものらしい。ぼくを愛しているから領地から離したくないそうだ」
闇淤加美神は王都葦原県から北に遥か六百キロ先の豪雪地帯、桧川県に棲んでいる。祖神の力の及ぶ場所で最大の呪力を発揮できる垣内族は、かつては始祖が棲む一帯を領地とし、多数の垣外族を支配していた。
封建制は先王時代に廃止され、中央集権制を布いている県政の現在ではかつての支配地は「領地」ではないが、現在も土地の境界は神々の居住地を元に決められたものなので、便宜的に祖神の棲まう土地を領地と呼ぶ者も多い。実際、かつての領地で垣内族は未だに強力な影響力を持っている。
「ご先祖様が君を離すと拗ねちゃうから領地を離れる程体調が悪くなるの?」
「お祖父さまはそう考えたし、実際に領地だと薬を飲まなくても問題無い。まあ薬の役割は呪術を身体に定着させる媒体で、ぼくの身体が祖神の住処の一部になるようにしてぼくと祖神の繋がりが距離で薄まらないようにするものだから、領地で飲む意味は無いけど」
「呪術って水関係以外にもできるの?」
「たぶんそれなりの媒体と呪力があれば、垣内なら祖神の性質に関わらず誰でもできると思う。お守りを身体に内蔵させる感じだ」
業平は「へえ」と感心したように溜息を吐く。
「何はともあれ愛され過ぎるのも大変だねえ。俺のとこは女神だからもっと縛ってくれてもいいけど。呪術が薄まってるのかな」
首を傾げる業平に合わせ、プラチナブロンドが揺れた。
「だから近々お祖父さまに会いに行きたい。このままだと授業に出られない」
葵一の祖父は高辻の領地にある本邸で隠居生活をしている。
「こんなになっても授業なんて真面目だなあ葵一君。自分で術は掛けられないの?」
「お祖父さまの自己流だから分からない。聞いたらできるかもしれないけど……聞けるかな」
「どういうこと?」
「呪術が弱まったことは今までなかった。最近で掛け直していただいたのは去年だが、その前は三年掛け直さなくても平気だった。第三者の邪魔が入らない以外、呪術が弱まる――消える理由は、術者が進んで効力を消した可能性を除けば一つしかない」
「……」
どんな強力な呪術も、術者が死ねば解けてしまう。
「お祖父さまもお歳だから、仕方のないことだけど」
呪術以外にも聞きたいことは山ほどあるのに。
「今はお祖父様より自分の心配をしなよ。夕飯はいらない? 炊事室からちょろまかせるけど」
業平はごく優しい声で問いかける。
業平はいつも偏屈な幼馴染みに甘かった。
家庭環境に目立ったしがらみも無く快活に育った故の余裕なのかもしれないが、葵一にはそれがとてもありがたかった。言葉にすれば惨めな気がして直接は伝えられないのだが。
「いらない」
「そっか。朝食は持ってこようか?」
「自分で行く」
「分かった。おやすみ、また明日」
朝食を食べたら祖父の元へ旅立つ準備をしよう。
***
葵一の体調は急速に悪くなった。
人が天から糸に引っ張られて立っているとしたら、その糸がぷっつり切れてしまったように動けない。寮棟内の食堂に行くのも一苦労の状態で、これではとても桧川県までの長旅はできない。
直接の訪問を諦めた葵一は電話で祖父に呪術について訊ねることにした。自分では術を掛けられないかもしれないが、それしか今できることがない。
『葵一坊ちゃん、未だ旦那様からご連絡がございませんでしたか?』
祖父を出すように伝えると、若い使用人の憔悴したような声が返ってきた。
『大旦那様は今朝方逝去なさいました』
使用人の言葉が耳鳴りのように脳内に反響する。
「そう……か」
信じたくはないが、これで身体が言うことを聞かない状態が説明できるようになってしまった。
祖父が死んだ。
それは葵一にとって幼子が母親を失うような喪失であり、悲しみだった。
両親の愛情に恵まれたとは言い難い葵一を唯一保護者として慈しんだ身内が、祖父の霜葉だった。
母親の桜子は六歳下の弟を産んですぐに事故死した。常に陰鬱な表情の女で、何を考えているのか分からなかった。
父親の荻には些細な失態で暴力を振るわれた。荻は嫡男である葵一を嫌っていた。憎悪と表現しても過言ではない。
霜葉は度を超して女性関係にだらしなく、王宮からの再三の注意にも耳を傾けず職務を放棄し遊び呆けていたため、先王により爵位剥奪の上王都追放となり四十前で隠居になった。浮き名は男の嗜みという風潮も味方をしなかったことから専ら先王の女を寝取ったとの噂だ。そのせいで荻は二十歳そこそこで爵位と家督を継ぎ、高辻家の名誉回復のため大変な苦労をしたようだ。だから荻は、実の父である霜葉も嫌っている。
しかしそんな生まれる前の話は葵一にとってどうでもよかった。祖父としての霜葉が葵一の全てだ。雪が降る中父親に閉め出された葵一を暖かな部屋に入れてくれたのも、生まれつきの不調を見抜き呪術を施したのも、おやすみと葵一を抱きしめたのも、霜葉だけだ。
荻に愛される葵一の姉や弟には決して見せなかった優しさを与えてくれた。祖父にとって自分は特別なのだと磨り減った心が満たされる思いだった。
(お祖父さまがいなくなったら、誰がぼくを愛してくれるのだろう)
年上の同性ばかり好きになるのは、祖父を、父親の代替を、無意識に求めていたからかもしれない。下心の無い無償の愛で包んでくれる大きくて温かい存在を探している。
(親でもないのに、そんな都合の良い人いないよな)
水無瀬は最終的に身体を求めてきた。あの時業平の邪魔がなければ、自分は純潔を、誇りを失う代わりに水無瀬の愛を手に入れていただろうか。
(どうでもいいな、そんなこと)
迎えの壮年の使用人に抱きかかえられるようになりながら、葵一は葬儀のため、出立を諦めたばかりの桧川に旅立つこととなった。
桧川の本邸に向かうため、葵一は家族と共に貸し切りの一等車に乗り込んだ。
荻は椅子に倒れ込む葵一をだらしがないと殴打したが、それでも機嫌が良いのは明白だった。忌々しい父親がやっと死んだのだ。内心大喜びだろう。
汽車が領地に近付くにつれ呼吸が楽になる。纏わり付いた湿った布が一枚一枚剥がされていくようだ。ぼやけた視界も徐々に焦点が絞られ、耳鳴りと頭痛が和らいでいる。
ゆっくりと良くなっていた体調は、霧が晴れたように突然快復した。高辻の領地に入ったのだ。
安堵すると同時に、祖神に「お前の住める場所はここしかない」と言われているようで複雑な気持ちになる。神の気持ちは推し量れないとは分かっていても、何故こんな不便な身体にしたのか真意を聞いてみたいものだ。
「兄貴、随分顔色良くなったんじゃない? 良かった」
八歳になる弟の真萩が言った。
「うん。ありがとう」
葵一は小声で答える。真萩は父親に愛されている。仲良くしていては荻の癇に障るだろう。
真萩の琥珀色の髪と丸い目、少しふっくらした顔立ちは父親によく似ている。対して色素の薄い髪色、切れ長の目に細面の葵一はあまり荻に似ていない。荻に何故ここまで憎悪されるのか葵一には分からないが、これも嫌われる原因の一つだろうか。
ほぼ一日走り通した汽車は、高辻の祖神が棲む都、桧川県の県都桧川市に到着した。
現王に代替わりしてから七年間、急激な西洋化政策により大和国は激変の最中にある。
それまで名前も付けないほど当たり前に存在していた屋敷や服の構造を「大和風」「和風」などと称しだしたのも今代になってからだ。政治制度から服装から、何事も「大和風」より「西洋風」が合理的であるとして、それまで統一されていなかった学制も西洋の大国ウルクトに倣い五・三・三年制にほぼ統一された。町並みも、老朽化や大火事、先の代替わりの内乱での荒廃などの理由で建て直す場合、西洋風にするよう推奨されている。
三年前の地震で中心部に被害の出た桧川市も遅れを取るまいと土埃の舞う裸の道路に石畳を敷き、木造建築を頑丈な煉瓦造りに変えた。
雪国の鈍重な空のような灰色を基調とした町並みは王都の華やかなそれには遠く及ばないが、落ち着きがあってそれなりに洒落ていると葵一は思っている。
桧川駅で汽車を降りた一行は待たせていた馬車で本邸に向かった。中央部から西に離れた本邸は地震の被害を免れ、古式ゆかしい数寄屋普請を今に残している。
古株の下女に案内され本邸の一室に入る。
広々とした畳敷きの中央にぽつんとある棺桶、それが一年ぶりに会う祖父だった。
葵一達が着座したのを見計らい、重々しく棺桶の蓋が開けられた。
祖父は――霜葉は綺麗だった。冷たい膚に触れなければ、ただ眠っていると思えるほどに。
数日後、葬儀は恙無く進行し、本邸の北に聳える山の麓に霜葉は埋められた。
心の整理と今後の身の振り方に全く目処が立たない絶望感に苛まれながら、葵一は一人墓の前に佇んでいた。
「これからどうすればいいですか」
石の墓標に掛けた声は沈黙で返された。
「お祖父さまがいないと生活できません」
さわさわと草の海が波打つ。
参列者は既に本邸に戻り、葵一の声に答える者はいない。
「気紛れに情をくださらなかったら今も上手く生きられたのかもしれません」
呪術により「普通」の状態に慣れてしまったことすら恨めしくなってきた。
「でも、あなたを愛しています。今までありがとうございました」
別れの言葉を告げ見上げた空は雲一つなく、空の下にいるのは自分一人だけのような気がした。
「もうすぐ梅雨も明けますね」
「ん、ああ、そうですね」
やけに明瞭な言葉が返ってきた。
当然土の下からではない。背後からだ。
振り返ると、喪服の男が立っていた。
***
振り返った先、人二人分ほどの近距離に男はいた。
人が残っていたとは思わず、いわば大きな独り言をいっていた状態に気恥ずかしさを感じる。
「えっと、戻られないのですか」
照れ隠しと疑問によって出た言葉は自分でも驚くほど弱々しかった。
「高辻伯爵の若様ですよね」
男は問いには答えず葵一に二歩三歩と近付いてくる。
どこか生気のない声は、青白い膚と相まって最後に見た祖父のようだった。
童顔だが長身で、薄い唇と据わった目に薄情そうな印象を持った。
前髪の鬱陶しい散切り頭から覗く朝焼けのような薄紫の目に、男が垣外だと葵一の本能が僅かな拒否反応と共に察知する。
「そうですけど」
背後に祖父の墓がなければ近付かれた分後退している。
「近くで見るとますます慈に似ているな」
「は?」
「旧い友人です。初めての友人でしたが、薄情な話今まで思い出したことがありませんでした。それが葬儀で若様を見たら突然彼との思い出が蘇って、余程似ているんだなあと。……すみません、若様には関係無い話ですね」
「本当に関係無いな」とは流石に言わなかったものの、わざわざそんなことを言うために一人になる機会を見計らっていたのかと思うといい気はしない。
水無瀬のことがあったばかりだから余計に近付いてくる大人を警戒してしまう。
「知らない人間に長々と話されても困りますよね。僕は護山龍月と申します。内務省に勤めていて――あ、変な名前だという感想はこれまで千回は聞いたのでご遠慮いただきますと幸いです」
「……葵一です」
龍月の独特なペースに呑まれてしまい反射的に名乗り返していた。
「知っています」
そりゃ喪主の息子の名前くらい知っていてもおかしくないが、その言い方はどうなんだ。
名乗り返すのと同じく自然に片手を出していたが、龍月は握手に応えなかった。拒否したというより、出された右手の意味をくみ取れなかったように見えた。
そのまま何となく一緒に戻った本邸は、先程までのしめやかな雰囲気はどこへやらといったふうに賑やかな声に包まれていた。
荻にとってここからが高辻家名誉回復の正念場だ。長年目の上の瘤だった霜葉の失態の記憶を参列者から消すように、豪勢なもてなしで社交の場を作り上げていた。
「それでは、これで失礼します。故人の思い出話に花を咲かせてくだされば、祖父も喜びます」
見たところ十歳ほどしか年が離れていないから龍月が生まれた直後かそれ以前に霜葉は隠居生活に入っているため、直接の知り合いではないと分かっていたが、葵一は形式的に挨拶を済ませる。
「若様は行かないのですか」
「用が済んだら顔を出させていただきます」
「用、とは」
「あなたには関係の無いことです。――ああ、そうだ。もしよろしければ一緒に来ていただけますか」
「関係無いのに」
「……嫌ならいいです」
「行きます。本当は霜葉様と親交のあった上司が招かれたのですが、渓流釣りに行った父親が溺れ死んだとかで行けなくなってしまいまして。急遽僕が代理で来たのですが参列の皆さんと話が合わせられなかったんです」
慈とかいう友人の話は口から出任せで、年寄りばかりの参列者よりも歳の近い葵一に気安さを感じて寄ってきたのだろうかと思わせるような安堵した顔を龍月は見せた。和らいだ顔をすると余計に幼く見える。
それならそれで、こちらも利用させてもらおう。
襖を取り払い宴会場と化した居間と中庭を挟み一部屋奥にある霜葉の書斎を葵一は開けた。
壁の二方を本棚が埋める八畳間にはダマスク柄の絨毯が敷かれている。調度品は繊細な木彫り細工と紅漆で有名な黎帝国からの輸入品で統一されており、大和建築の粋を集めた家の一室でありながら出入り口の襖が異質に見えた。
よかった。まだ整理されていない。
「あなたはそこで人が来ないか見張っていてください」
葵一は霜葉が呪文を何かしら文書に残している可能性に賭け、書斎を調べようと考えた。
「何か捜し物ですか、若様」
「そうです。それと、ええと、その畏まった言い方はやめてください」
いざ龍月が誰かを見つけたら窓から逃げて彼一人に遺品漁りの責任を擦り付けるつもりだ。
しかしそうなってしまえば龍月も代理を任せた上司の評判も地に落ちることを考えると、自分勝手ながら龍月の礼儀正しい物言いが良心を苛む。
「じゃあ高辻君でいいかな」
龍月の呑気な提案に適当に頷き、霜葉の書棚を漁る。
創作料理の献立、三日で終わった日記、効果不明の呪文の端書き、黎帝国の古文の書き写し……。
手書きの帳面や手帳を掻き集め目を通すが長年の隠居生活だけあって膨大な上、一つの冊子に内容の統一性が無い。
幸い誰も来ないまま三十分ほど経ったが、その分手掛かりも見つからなかった。
「手伝おうか」
敷居を跨いで襖縁に凭れていた龍月が退屈そうに言った。
大事な祖父の遺品を他人に触れさせるのは気が引けるが背に腹は代えられない。葵一は内心で祖父に謝り、龍月に助けを求めた。
「本の間に何か挟まっていないか調べていただけますか」
「本で何か調べたいわけではないのか」
「祖父の手書きの文書を探しています。本自体にも書き込みがあるかもしれませんから、軽く中身も見てくださるとありがたいです」
龍月は「分かった」と頷き、手近な本を引き出す。
「古い黎文学が多いな。高文試験で丸暗記したのを思い出す。内容は思い出せないが」
「祖父は黎の古代史に目がありませんでしたから」
霜葉は仕事には滅法興味が無かったが、学問には強い関心を寄せていた。
特に隣の大国黎帝国に惹き付けられており、葵一に掛けた呪術の発明も黎の垣内族の呪術を自分も応用できないかと熱心に研究していた成果の一つだ。
呪力は生来のものだが、それを効率よく発現させる呪術は研究し編み出さなければならない。
「……慈」
龍月がぽつりと呟いた。
「どうしました」
「これ見てくれ」
龍月は持っていた本を葵一に差し出した。
左の頁に十代半ばの少年の肖像画が描かれている。
蜂蜜色の癖髪、切れ長の深緑の瞳、細面の紅顔の少年。
「……右頁に書かれている日付が五十年以上前ですから、祖父ですね。これは高辻家の、今で言う写真帳でしょうか。祖父の自作ですかね。日記は三日で飽きたのにこういうことはマメですね……あ、でも順序が全く時代順じゃない」
いずれも原画ではないが、他の頁にも同じく一族の肖像画が男女問わず載せられていた。
「本当に似ている……いや、慈は黒髪――垣外だから、君の方が似ているな」
「祖父ですから」
真実を言っているのに、嘘を吐いている気持ちになるのは何故だ。
いや、本当は昔から気付いていたのかもしれない。
葵一はこれまで祖父に愛される喜びを純粋に感じる裏で、姉や弟ではなく自分にのみ優しかった理由をずっと考えていた。
父親が厳しいから嫌われ者同士で同情している。
高辻家の嫡男だから期待を掛けている。
葵一の特殊な体質に興味を持った。
色々考えてきたが、あまりにも自分に似ている肖像画に最も単純な仮説を立てざるを得なかった。
霜葉が父親だから。
女性関係で王都を追われた霜葉なら、息子の妻に手を出すというのもあり得そうな話だ。こう考えると荻の葵一への態度も説明できる。
「どうした」
頭上からかけられた龍月の声で思考の迷路から呼び戻される。
黙り込んだ葵一を不審に思ったのだろう。葵一の顔を覗き込む彼は、墓での薄情そうな印象よりはいささか人間味があるように見える。
「……いいえ、何でもありません」
全てはただの想像に過ぎない。今すべきことは過去を暴くことではなく、未来へ生きるための手段を見つける事だ。
「粗方探し終わりました。ありがとうございます」
用途不明の呪文が書かれた帳面を数冊懐に忍ばせながら葵一は龍月に礼を言う。
この中に探している呪文がなかったら、祖父のように開発してみるしかないだろう。
「霜葉様手書きの何を探しているんだ」
「お守りのようなものです」
「お守り……そうか」
龍月は閃いたように懐を探ると、何の変哲もないどこにでも売っていそうな文字通りの「お守り」を取り出した。
「君がどういう意図で具体的に何を探しているのかは知らないが、お守りが必要ならこれを持っておけ。気休めにはなるだろう」
「いいえ、あの、大丈夫です」
素でやっているのかわざとなのか知らないが、龍月は若干言動がずれているというか、どんな些細なことでも思ったことを言わずにはいられない質のような気がする。
その後何度か断ったが、終いにはスラックスのポケットにねじ込まれてしまい、葵一は諦めてお守りを受け取った。