8
私がストラブールにある公爵邸に到着した時、クロエちゃんが出迎えてくれた。
彼女は私に笑顔を向けるも、すぐにそれが強張る。
私……、そんなに変な顔をしてるの?
あの嫌味なメリルさんまでも、私に何も言わない。いや、そういえば彼女はいつもそうだった。彼女にとって私は、大公殿下をたらしこんだ悪人だった。声をかける気にもならないのだろう。
公爵軍の本隊から離れて三日目。
兵隊さん達の話が私の耳にも届く。
そういえば、公爵邸の庭ではたくさんの人が忙しく動きまわり、大きな荷馬車には満載された荷物がどんと載っていた。モリエロ州へと送る物資の準備をここでもしているんだ。
オレンジ頭のオーギュストさんが、私に近づいて来る。
「エミリ、お役目の途中で帰って来るとは相変わらずだな。いかなる理由があろうとも、お前はお役目を放り出したのだ。反省しながら殿下の御帰還を待つように」
厳しい言葉に、私はオレンジ頭をにらみ返した。
「ほお、それだけ元気なら心配いらんな。クロエどの、この役立たずの世話を頼みましたよ」
「オーギュストさん、そんな言いかたはないと思います」
クロエちゃんが、オレンジ頭と私の間で立つ。そして、その小さな身体のどこにそんな強さがあったのかと思うほどに、オーギュストさんを睨んだ。
オレンジ頭は私を眺めると、鼻を鳴らした。
「護衛のくせして、刺客を殺す覚悟も出来ていなかった者に、かける優しさを私は持っておりません」
オレンジ頭は、荷馬車を操る人に呼ばれて踵を返す。
「お前はまず、自分の甘さこそ敵だと気付くことだ。その甘さは、お前だけでなく殿下を危険に晒す」
彼が振り返りもせずに言った言葉は、私の胸を斬り裂き、ずたずたにした。
そうだ。
私は自分のことばかりだ。
離れていくオーギュストさんの背中を睨むクロエちゃん。その手を私が握った時、彼女は涙を流していた。
「どうして! なんでエミリちゃんを褒めてあげないの!? 殿下をお守りしたじゃない!」
クロエちゃんが声を張り上げた時、メリルさんが彼女の前に立ちはだかる。
「クロエ様、エミリ様。どうぞこちらへ」
自分の役目を完璧にこなした彼女は、私に様をつけて呼ぶと部屋へと案内すべく脇に立つ。それでも、クロエちゃんは動かなかった。
「殿下をお守りしたじゃない!」
クロエちゃんの言葉に、無関心だったオーギュストさんが首だけをこちらに向ける。その目は、先ほどよりも厳しく冷たかった。
「エミリ! お前はお前にとって優しい者ばかりに囲まれて良しとするなら、お役目を辞退しろ。迷惑だ」
弾かれたように走り出したクロエちゃんが、オーギュストさんの頬を平手でぶった。
オレンジ頭は避けようともせずそれを受けると、一転して穏やかな笑みでクロエちゃんを見つめる。
「クロエどの、エミリを頼みましたよ」
彼は唖然とする周囲を無視して、「忙しい」という口癖を繰り返しながら私達から離れていく。
私は、クロエちゃんに近づき、オーギュストさんをぶった白い手を握った。暴力になれていないその小さな手は、赤く充血し熱をもっている。
「ごめんね、ごめんね。ありがとうね」
私がその手をさすると、クロエちゃんがくるりと振り返り、私をぎゅっと抱きしめてくれた。
「エミリちゃん、頑張ったよ。誰が何と言おうと、エミリちゃんはよくやったよ! 私は、エミリちゃんを褒める!」
友達の手が私の髪を撫でてくれる。
私は、友達に半ば無理やり連れられて、彼女の部屋へと入った。廊下を歩いたり、階段を登ったりした記憶があまりない。ぼうっとする私を椅子に座らせ、お茶の用意をしてくれる友達の背中を眺めながら、オーギュストさんの言葉を思い出していた。
私の甘さは、フェリエスを危険に晒す。
ははは、反論できやしねぇ。
そんな私に、一生懸命、クロエちゃんが話しかけてくれる。ストラブールの劇場で、おもしろい演劇をやってるから、一緒に観に行こうと誘ってくれたところで、私はようやく顔をあげた。
「ごめんね。楽しめないと思う。クロエちゃんまで楽しめなくなっちゃうよ」
クロエちゃんは、綺麗に整えられた眉を寄せて、私の手を握った。
沈黙が訪れた室内で、クロエちゃんはひたすら私の手を撫でてくれる。
「ふふふ。頑張って稽古してるね。女の子の手じゃないよ」
「ひどい……」
私は思わず笑ってしまった。
クロエちゃんも笑う。
私は自分の手を見た。
剣を振るせいで、クロエちゃんのようにしっとりと柔らかい手からは程遠い有り様の私の手。
私はこの時、なぜかとても自分の手を愛おしいと感じた。と同時に、この手で人を殺めたのだと痛感する。
深く思考の沼に嵌り込もうとした私を、やさしく引っ張り上げてくれたのは、クロエちゃんの声だった。
「この手が、殿下を助けてくれたんだね」
彼女は、私の顔を覗きこんだ。
「エミリちゃん。私は剣も何もできないから、殿下の役に立つことも出来ないけど、エミリちゃんは偉いね。羨ましいよ。好きな人を守る事のできる強さを持ってるのが」
好きな人を守る……。
「私、大公殿下のような人って女に守られる必要がない人だと勝手に思ってたの。いつも強そうな男の人が周りにいるし、ほら、ハザルさんとか……。でも大公殿下は、エミリちゃんに守って欲しいんだね」
「違うよ……。そういうのも含めて、お役目なんだ」
私もどこまでも素直ではない。クロエちゃんに言われた事は、それはもう嬉しい事なのだけど、それをすぐに否定したくなるほど、人を殺したという事実が重く私にのしかかる。
私は喜んだり、嬉しがったりしてはいけない人間。そう自分に言い聞かせてしまう。
クロエちゃんが立ちあがった。私は手を握られたままだ。自然と彼女に吊られて立ち上がる。
「自分を誇ってよ! 好きな人を守ったんだって、もっと自慢してよ!」
クロエちゃんは、まっすぐ私を見つめる。
「しっかりしなさい! 自分を責めたら、殺した相手が生き返るの!?」
クロエちゃんは、視線を合わせようとしない私の肩を掴んだ。
「大公殿下の命を守った、私の自慢の友達なんだから! エミリちゃんは私の自慢の友達なの!」
私は友達に抱きしめられて、泣いてしまった。
こっちにきて、こんなに私は涙もろかったのだと自覚する。それだけ、いろんな事が起きている訳だけど、今回のはさすがに立ち直れそうになかった。でも、少しだけ、本当に少しだけなんだけど、クロエちゃんのおかげで、気が楽になったと言えます。
-Féliwce & Emiri-
私はひさしぶりに寝台の上に横になります。
いろいろと寝室で一人になって考えていると全く眠れそうにない。寝付きは良いほうだと自負していたけど、さすがに今夜は無理かな。
ドアがノックされ、私が返事をするとオレンジ頭が入って来た。
「ちょっといいか?」
「どうぞ」
私はこんな時でも、彼の為に水を淹れてあげる。侍女生活のなごりだ。
「俺は明日、物資を殿下に届けに行く。だから今しか時間がない。少しいいか?」
オーギュストさんは椅子に座ると、私の差し出した杯を受け取ると同時に、そう言った。
「わざわざ嫌味を言いに来たの?」
私の挑発的な言葉に、オレンジ頭は苦笑を浮かべて水を飲む。お互いに一言も発しないまま、気まずい沈黙の中で向かいあった。それを嫌ったのか、オーギュストさんが咳払いをして、私を正面から見つめる。
「何?」
せかす私に、彼は信じられない事を言った。
「……昼間は悪かった」
意外な言葉に目を見開いた私。
「俺はお前に嫉妬していたのかもしれん」
「嫉妬?」
もしかして同性愛ってやつ?
私の脳内を盗み見したのかどうかわからないが、オレンジ頭は困ったように頭を掻く。
「違う。そういう意味じゃない。殿下を助けたという事に対してだ。とにかく、昼間の事を謝るべきだと思ったからこうして来た。用は済んだ」
彼はそう言って、立ち上がる。
待って!
待て待て待て!
意味が分からない。
思わず私は、彼の腕を掴んでいた。
「なんだ? 仕返しに俺をまた投げるつもりか?」
オーギュストさんは、それも仕方ないという目で私を見た。
「違う……、教えて。どうして嫉妬するの? 意味が分からない」
彼は再び椅子に座ると、私の手を振りほどいた。
「何というか……。俺はハザル達と違ってこの通り地味な仕事をしている」
地味……?
都市計画や財務、開墾事業に物資調達が地味?
あんた、自分の価値を分かってないね。
「オーギュストさんは間違ってる。地味なんかじゃないよ」
「お前にそう言われると、素直に嬉しいな」
意外だ。
このおっさん、照れる顔もするんだ。
「しかし、殿下と危険を分かち合うことはない。ましてや、お前のように殿下の身辺をお守りすることなど不可能だ」
それは仕方ないです。
お役目が違うんですもの。逆に私にオレンジ頭の代わりをしろと言われてもできないのと一緒。向き不向きがあると思います。
「でも俺は殿下のお役に立ちたい。殿下をお助けしたいと心から願っている。にも関わらず、俺にはそれができない。だから、殿下をお助けしたにも関わらず、全くそれを誇らず、逆に落ち込んでいるお前に苛立ちを通り越して怒りを覚えた。俺が望んでも出来ない事をやってのけたお前に嫉妬した。情けない男だ。お前の努力と事情を無視して、俺はお前に嫉妬をぶつけたんだ。悪かったよ」
私はこの時、胸の中に深く沈澱していた負の感情が、彼の言葉に込められた想いによって浄化されていくのを感じた。そして、クロエちゃんの言葉を脳内で再生した時、私は自己嫌悪をしていた自分を恥ずかしいと感じていた。
確かに私は人を殺した。
でも、大切な人を守った。
あの時、私がいなかったら、フェリエスはどうなっていたの?
嫌だ……。
彼のいない世界は嫌だ。
「私……、フェリエスを守った」
唐突に声を発した私に、オレンジ頭が水を吐き出し咽る。
「な……いきなり、どうした? そうだ。お前は殿下をお守りした」
「そうだよ。私は……、私の大切な人を守ったの。私は人を殺して、その人の未来を奪ったけど、フェリエスの未来は守ったの」
「珍しく難しい事を言うが、それは間違いない。正しい認識だ。ただ、殿下を呼び捨てにするな」
オーギュストさんが、目を白黒させて私を見ている。
そうだ。私はフェリエスを守った。そして、彼を守る事で、私の大切なものも守った。
「私が命を奪った人には、勝手な言い分に聞こえるだろうけど、私はこの世界で一番、大切だと思っている人を守れたの」
「分かったから落ち着け。どうした?」
「私、嫌な稽古も我慢してやったの。皆と一緒に遊びたくても、おしゃれして男の子と遊びたいのを我慢して稽古したよ?」
「そうだ。今もハザル相手に頑張ってる。いいから落ち着け」
「そう! 私、頑張って大切な人を守ったの! 私、フェリエスを守る為に頑張ってたの。私……、フェリエスを殺されなくて良かったよぉ!!」
いきなり泣きだした私を、オーギュストさんが途方にくれて見ている。どう対処するべきか思いつかず、かといって放っておくこともできず、彼は茫然と私を眺めたまま椅子に座っていた。
ドアがいきなり開かれ、メリルさんが何事かと飛び込んで来る。
「オーギュスト様! また嫌味を言ったのですか?」
「いや……違うぞ。逆だ」
メリルさんが、泣きじゃくる私を指差す。私は彼の為に否定してあげたかったが、それすら出来ない。溜まったものを吐き出すように、私は泣き続けている。
「だったらどうしてこんなに泣いてるんです!? 大人げない! 見そこないました! 殿下にはしっかりと報告しますから、思いっきり怒られたらいいわ! エミリ、今日だけは味方したげる」
おっぱいお化けに抱きしめられた私は、彼女の大きな胸に顔を押しつぶされながら、気のすむまで泣いたのでした。
そうだ。
私は人を殺した。
それは消える事のない私の罪だ。
でも、私はフェリエスを守った。
あの優しくて素敵で私を駄目にする笑顔を守った。
また、あの笑顔が見られる。
彼がいれば、私は前に進んでいける。
私はメリルさんとオーギュストさんに笑顔を向けた。
「私、前に進めるよ!」
「はいはい……好きなだけ進めばいいわよ。その前に、鼻水を拭きなさい」
オレンジ頭とおっぱいお化けの、優しい笑顔を初めて見ることができた夜だった。
-Féliwce & Emiri-
「良いのか? お前がいれば殿下も喜ぶだろうが……」
オーギュストさんが、珍しく私を気遣ってくれる。
「うん」
私は愛馬にまたがる。鐙に足を通し、手綱を持った時、一度だけ振り返った。
クロエちゃんが手を振っている。
フェリエスに物資を届けるオーギュストさんに同行を申し出たのは、このお屋敷でのんびりするのが辛いからと、早くフェリエスの元へと帰りたいから。
私は、私の依るべき場所を守る。
誰にもフェリエスの未来を奪わせない。
これからも私は人の命を奪うかもしれない。でも、そうしなければ自分の命を奪われる場所に身を置く今の私をまずは認めた。そうでもしなければ、自分を納得させられないからだ。
ここは、日本という国じゃない。
百以上の荷馬車が列を作って、モリエロ州へと進み出す。それを護衛する部隊に加わった私は、先頭を進むオーギュストさんの右斜め後ろについた。
「オーギュストさん。私、何があっても殿下を守るよ。落ち込む事はこれからもあるだろうけど、その時はまた引っ張り上げてね」
「いちいち、人を斬ったぐらいで落ち込むな。役目にならん」
オーギュストさんは、馬を前方に進めながら、顔だけ私に向ける。
「相手は殺すつもりで来てるんだ。話合いなどまず通じない。生け捕りも難しい場合のほうが多い。お前が育った国がどういうところか分からんが、剣を突き付けられても、相手の心配をする馬鹿がいるか?」
……いるかもしれないなぁ。
こればかりは、経験しないと分からない事ですよ。日本てとっても平和なんだから。
「だいたい、善人を問答無用で斬り捨てろと言ってるのではない。山賊討伐しかり、刺客しかりだ」
私は小さく頷く。
ストラブールの市街地から出た私達は、西へと進路を取った。
「でもさぁ、オーギュストさんはそう言うけど、自分を守る言い訳ってのがいるんだよ。私はご立派な人間じゃないけど、殺されても良い人なんていないと思うんだ。だから、それを超える理由が私にはいるって事」
「あるではないか。殿下をお守りする。それで良い」
オレンジ頭が私の隣に並んだ。
澄み渡った空を見上げ、大きく息を吐く。
確かに前に進むと決めたけど、そう簡単に割り切れるもんじゃないんだよ。そんな私の胸中を察してか、オレンジ頭が少しだけ優しい目をする。
「よし。これから俺はきつい事を言う。泣くなよ?」
そんな、何回も泣かされてはたまったものじゃないよ。
「エミリ、殺されても良い人間はいないとお前は言ったが、殺されても文句の言えない人間はいると俺は思うぞ。例えば」
オーギュストさんがしばし考え、口を開いた。
「そうだな、例えばだぞ。お前の目の前で、恋人をくびり殺した男がいる。それは許されると思うか?」
「思いません」
「誰かの命令で、お前の恋人を殺した奴を、お前は許せるか?」
「……命令した奴も含めて許せない」
オーギュストさんは目を細めた。
「許せないなら、どうするのだ?」
そうだ。私はどうするんだろう……。
警察に捕まえてもらって、裁判にかけてもらう? ううん、とっても軽い刑になったら、どうするの? きっと悔しくて悲しくて、絶対に許せないと思うだろう。そう、恋人と同じ目に合わせてやらないと気が済まないと思う。そんな事をしても、恋人が生き返る訳ではないと分かっていながらだ。
「お前の信条とやらは、結局のところ、被害にあったことのない者が言う理想論に過ぎんと俺は思う。確かに理想や思想は大切だ。だが、それだけで世の中は動いているわけでもないし、俺達は生きているわけじゃない」
オレンジ頭が、向かい風に目を細める。
「俺達には感情があるから、全てを善悪で判断できない。例えば、自分の息子が極悪人だったしても、それを罰した者を怨む親はどこにでもいる。だから、誰がどう思うかなど、あくまでも全て主観に過ぎないと俺は思う。お前が悪人を斬り殺してクヨクヨするのもお前の主観だ。しかし、俺達は絶対に無視してはいけない観点がある」
彼は私を見つめた。
「世の目というやつだ。世間といったほうがいいか? 例えどんな正義が自分にあろうとも、世に受け入れられなければ、それは悪い事だ。逆もしかり。そこで考えて見ろ。お前がした事は、悪い事か?」
私は無言を通した。
私の錆びついた脳みそには、少しばかり難しい内容です。
「質問を変える。先ほど言ったような現場に全くの他人が現れた。その人は、右手に剣を持っていて、お前の恋人を助けてくれた。だが、恋人に襲いかかっていた人を殺めた。お前にとって、助けてくれた人は酷い人殺しか? 当事者であるお前は助けてくれた人を非難するか? 周囲の人達は、その人を悪人だと責めるか?」
「……」
恩人です。とっても感謝します。
どうして、自己解決したらこんなに悩んで、助けてもらったら感謝となるのか……。
「お前がした事は、つまり非難も自責も起こり得ないはずだ。しかし、お前は自責する。お前は他者の評価を気にしない風に見せてるだけで、実はとても気にする女だ。理由はともかく、人を殺してあっけらかんとしているのは悪い事だと、お前のいた国ではされているのだろう? だからお前は、それを演じていたに過ぎんのだ。自分でも気付かないうちにな」
よくわかりません。
よくわかりませんが、否定もできません。しかしどうして、この人はこう物事を難しく話すのかな。
「オーギュストさんてさ、友達少ないでしょ」
「俺は友達はいらん。夢が叶えばそれでいい」
夢。
このおっさんにも夢はあるんだ。
毎日、現実的な物事の処理を、それはもう鬼のようなスピードでこなすオーギュストさんが、身近な存在に思えてきました。
「夢ってなんなの?」
「話す必要はない。ともかく、お前がしていることは演技に過ぎん。人を殺してしまった私は酷い女で、悔い改めていますと宣伝しているのだ……無意識にな。これまでお前が育った場所ならそれが必要だろう。そうしなければ自分を守れなかったのだろう。だが、ここはお前の国ではない」
「後半の部分はよく分かるよ」
私はオーギュストさんの視線を受け止めるのが辛くて、顔を前方に向けた。
嘘を隠すためだ。彼の話の前半部分、実は相当に応えるものがありました。なぜなら、オーギュストさんとメリルさんの前で泣いた時、私はこれで楽になれるとも思ってしまったのだから。
話は終わりだと告げるようにオーギュストさんが私の前に出る。
私はしばらく、彼に言われた事を繰り返し考えていました。
-Féliwce & Emiri-
国王から派遣されたモリエロ州総督ローラン・ブランによる無理な課税と徴兵、さらに王軍兵糧確保の為に明日のパンまで奪われた州民達の怒りが、暴動となり、その方向が総督に集中されるまで、時間を必要としなかった。くすぶる火に油を振りかけたのはフェリエスとジェロームであったが、それに風を送って大きくうねらしたのは、ローラン・ブラン本人によるもので、そこに同情の余地はないといえるだろう。
ペジエ市民一万人のうち、半数が参加した総督府包囲は、総督府から放たれた矢に、群衆が投石や松明で応戦する形へと変化した。それは次第に、数で勝る群衆側優勢へと移り変わり、彼らの放った火が、総督府を飲み込もうと暴れ回っている。
その光景は、ペジエの外から様子を窺う公爵軍からも確認できるほどに禍々しく、為政者であるフェリエスの目に自戒の色を湛えさせた。
「殿下、そろそろ突入致しますか?」
脇に控えるアレクシの言葉に、秀麗な顔を微かにしかめた大公が、尖った顎を少し引く。この暴動の引き金を引かせたのが自分であり、収める責任もまた持っていると考えるフェリエスが、後方に振り返った。
ペジエ近郊の丘陵地帯に陣取る公爵軍は、ストラブールから届く追加物資を待っている。ここまで来るのに、道中の村々に物資を配った彼らの手元には、ペジエ市民の胃袋を満足させるだけの食糧は残っていなかった。それでも、炎上する総統府の塔が崩落する有り様を見て、フェリエスは決断を下す。
「突入しろ。ただし、市民には危害を加えぬよう注意するのだ。食糧を俺が運んで来たと触れ回れ」
公爵軍が動き出し、それは整然とペジエへと接近する。ペジエ市を見下ろす丘の上で、風に金色の髪を撫でさせた大公の顔は晴れない。
その原因は、目の前の光景もあるが、多くは黒髪の少女であった。
フェリエスは彼女をストラブールへと帰してから、後悔と自責で心晴れた日がなかった。
これまで、刺客をあそこまで近づけたことの無かった彼が、どうしてあの夜、エミリが刺客を撃ち果たすまで気付くことができなかったのか。眠っていても、不審な空気の揺らぎに反応する癖がついていたはずの自分が、あの夜だけそうは出来なかったのはなぜか。
(俺は気付かぬうちにエミリに甘えていたのではないか。エミリは俺を助けてくれたが、代わりに自分の心を殺したのだ)
(俺は彼女の心を殺したのか?)
苦悩が吐息と共に吐き出され、黒髪の少女に触れたいと思う気持ちを湧き立てる。あの柔らかな頬に触れたい。そして、生意気そうな輝きの中にある、俺の事を無条件に包み込んでくれる優しさに触れたい。
「殿下、斥候でござる」
アリストロの声に我に帰ったフェリエスは、南の方角に放っていた斥候が、彼の元に駆けつけてくる姿を確認した。それが近づくに連れ、馬も斥候も背中に矢を生やしているのに気付く。
「助けよ!」
フェリエスの声に、周囲の兵達が斥候に駆け寄る。傷つきながらも自軍に帰陣した緩みからか、斥候が馬上から滑り落ち、駆け寄った兵士達に受け止められた。馬は主人が無事であるのを確認すると、速度を落としながら倒れ、折れた脚を投げ出して動かなくなる。
駆けつけたフェリエスに、荒い息を吐き起き上がろうとした斥候が血を地面に吐いた。
「どうした?」
大公が自ら彼の身体を支えると、斥候は懸命に口を開く。
「イスベリア軍が国境を超え、侵入。村々を焼きながら北上しておりまする!」
一気に声を振り絞った斥候が、そこで気絶する。
「衛生兵! 衛生兵をここに!」
アリストロの怒声に、周囲の兵士達が弾かれたように動きだした。
「馬はどうだ?」
フェリエスの声に、アリストロが首を左右に振った。
「主人を助ける為に、己を犠牲にしたか。丁重に葬れ」
「は……、しかし、食糧が不足しておりますれば」
「忠臣に礼を欠く行為は許さん。重ねて言う。丁重に葬れ」
大公の反論を許さぬ声に、幕僚は深く一礼した。
その背中を見つめたフェリエスは、確かに自分は変わったと思わざるをえない。これまでの彼であれば、死んだ馬は食糧にしていたであろう。その肉で、数十人の食糧を確保できるのであれば、何ら感傷的になることなく、計算のみでそう判断していた。
(それがどうだ。なんとも乙女のようではないか。俺はどうして変わったのか?)
彼は、その答えをすぐに思いつく。
彼は自分をそうさせている少女を脳裏に描いた。そこに描かれた彼女は笑っていた。
フェリエスがエミリの事を想う時、彼女は笑顔で現れる。
(俺を駄目にしてしまう笑顔だ)
苦笑した彼は、相手の少女も自分の笑みをそう評しているとは知らない。
(俺はあの笑顔を奪ったのだ)
(好きな相手を苦しめてまで、俺は何をするつもりだ? 確かに玉座を奪う思いは未だ強いが、その代償にエミリを失う覚悟が俺にはあるのか? 以前は良かった。守るべきものなど俺には無かったからだ)
(でも今は違う。俺はあのエミリを守りたい。あいつらしさを奪いたくもないし、誰にも奪わせたりしない。ならば、俺はどうするべきか)
衛生兵に斥候を預けた彼は、ペジエの方向に視線を転じた。まだ、混乱は収束の気配を見せていない。そこに、白一色で統一された公爵軍がなだれ込んでいく。
兵士達に指示を与えていたアリストロが、大公の後方に立つ。
憂いと苛立ちを発散させる主君に、幕僚は切れ長の目を細めて遠慮がちに声を発した。
「殿下、いかが致します?」
大公の顔がゆっくりと変化し、振り返った時には鋭利な刃物を想わせる目がそこにはあった。
「ジェロームには傭兵を解散させろと言え。総督は死んだ。もう諸侯と戦う必要がないと傭兵達には伝え、金をケチらず与えよとな」
「は、直ちに」
「ハザルには、騎兵を率いて南部へ急行せよと伝えろ。イスベリア軍の兵站を狙えと伝えよ」
「承知いたしました」
離れていこうとした幕僚が、足を止めた。
フェリエスは、何があったと声には出さず、その隣に立つ。
北東の方向に、公爵旗をかかげた一団が見えた。
「オーギュスト卿が到着されましたな」
「ああ、間に合ったか。すぐにペジエに向かわせろ」
「はい」
フェリエスは再び馬上となり、物資を運んで来た一団を見据える。そこに、白馬にまたがった黒髪の少女を見つけた彼は、考えるより早く、自分の馬を駆けさせていた。感情を殺していた自分を解き放つ。
少女が、大公に気付く。
白いマントを風にはためかせて接近してくる少女は、フェリエスの顔を見て微笑んだ。彼はこみあげる想いを抑制するのをとっくに諦め、熱のこもった目でエミリを迎える。
「フェリエス……、ごめんなさい」
馬を寄せた彼女は、睫毛を揺らして目を伏せると遠慮がちに大公に抱きつく。それを受け止めたフェリエスは、黒髪に頬を寄せて瞼を閉じた。
(俺はエミリにひどい事を言った。お前の嫌がる事をやめるつもりはないとまで言ったのだ。それでも、お前は俺と一緒にいてくれているな。俺はそれに甘えていたのだ。エミリの優しさと想いを利用した)
(許してくれ、エミリ)
胸の中で謝罪したフェリエス。
悔悛を漂わせた彼の青い瞳が、黒髪の少女の笑顔に揺れた。
(どこまでも身勝手な俺を、お前はまた許そうというのか)
エミリに対する愛情を、いまさらのように再確認したフェリエスは、自分の馬に彼女を引き寄せると、膝の上に細い身体を乗せた。と同時に、彼は少女の髪を撫でながら一筋の涙をこぼした。母が殺されて以来、流す事はないと誓った感情の滴が、自分の頬を伝ってエミリの髪に落ちたのを見て、大公は唇を震わせた。
伝えたい言葉が口から出ない。
胸の奥が震えて痛かった。
(でも、今だからこそ、俺は言える)
フェリエスは、柄にもなく恥じらいながら言葉に愛情を込めた。
「エミリ、許してくれ」
大公の胸に頬を寄せていたエミリがフェリエスを見上げる。彼女の耳に、可愛らしい花が揺れていた。それはまるで、持ち主の感情が乗り移ったように、優しく輝いていた。
「いいの。私はフェリエスがいるから前に進めるの。それに、いろいろ考えたけど、私は私を責める必要なんてないって思う」
エミリの瞳は強く輝き、そこに驚いたフェリエスを鮮明に映しだしていた。
金色の髪に触れようと手を伸ばした少女。
彼女の手をフェリエスは握ると、強く抱きしめ瞼を閉じた。
数日の別れが、まるで長い期間そうであったかのように二人の影は重なり合い、離れる事はなかった。